手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マジシャンの想いで

マジシャンの想いで

 

 昨日(4月12日)、マジシャンの安田悠二さんが亡くなりました。半年ほど前から癌で入院しているとは伺っていました。私とは20代の頃からお付き合いで、国内でも海外でも、会うと酒を飲みながら、深夜まで話をした仲間でした。然し、恥ずかしながら、彼の年齢も、彼のプライベートな情報も知ることがありませんでした。マジックでつながり、マジックで終わった仲間でした。

 今こうして思い出してみると、彼は私より4,5歳年下だったように思います。初めて会った時から、礼儀正しい人で、義理堅く上下関係を守る人でした。そのことはそのまま彼の厳しい人生の中で学んだ生き方だったのでしょう。

 

 彼は在日朝鮮人であることを隠しませんでしたので、あえて申し上げますが、ご両親が在日朝鮮人で、悠二さんは日本で生まれています。本名は、安聖悠(アン・ソンウー)と聞いています。一時期この名前で舞台にも立っていました。子供の頃は東大阪に住んでいて、屑鉄拾いなどして相当に大変な生活をしていたようです。そのころの苦労はいろいろ聞いていますがここでは書きません。

 それゆえかどうか体も鍛えていて、喧嘩は強そうでした。私の向うっ気の強さなどはまったくのはったりで、どこで駆け引きをしようかと、始めから妥協が見えますが、彼はいざとなれば命を捨てて戦う男だなと思わせる秘めた闘志が見えました。つまり喧嘩をしてはいけない相手なのです。

 私がイリュージョンを始めたころ、彼もイリュージョンをやりだして、独自のアイディアで作品を作り、かなり評判を得ていました。何分彼は、大阪で活動をされていたので、仕事で出会うことはありませんでした。

 イリュージョンと言うと既製品を使う人の多い中で、彼はマジックを独自に読み込んでゆく姿勢が立派で、私とは波長が合い、度々会ってはいろいろな話をしました。私が大阪でショウをすると、よく私の舞台を見に来ました。会えば喫茶店で話をしました。

 1991年FISM横浜で彼はコンテストに出て、イリュージョン部門で入賞しました。その時私はFISMのゲスト出演でした。横浜で一緒に一杯やって世間話をしました。

 ある時は名古屋のUGMの山本さんの家に泊まり込んで、夜明かしで話をしたこともありました。彼はマジック界の裏情報をたくさん仕入れていて、飛び切り面白い話をたくさん持っていました。私もいろいろ情報を持っていましたので、一緒に飲むと裏話合戦になりました。

 

 いつのころからか知りませんが、韓国の東釜山(ひがしぷさん)大学にマジック学科が出来て、彼はそこの講師に収まりました。このころの韓国はまだまだマジックのレベルが低く、日本の協力が必要でした。

 当時の韓国では、テレビなどで五月雨式に入ってくる情報が頼りで、若い韓国のマジシャンはマジックを体系的に理解することが出来ませんでした。無論、戦前の日本統治時代からマジシャンはいましたし、戦後もキャバレー時代があって、それなりに活躍していたマジシャンもいたのですが、1990年代以降に起こった韓国のマジックブームは、過去の歴史を切り離して、コンベンションに出場するマジシャンを、若い人が追いかけるようになり、そこから新たなスターが生まれて行きました。リ・ウンギョルなどがその先頭に立っていました。FISMで入賞し、在日朝鮮系で朝鮮語を話す安田さんは、韓国国内のマジックの講師として、最も求められる指導家だったのでしょう。

 あるとき彼は、私の書いた「手妻のはなし(新潮社刊)」を、大学に何冊か購入させて、それをテキストとして講義に使っていると言いました。

 「でもこれは日本のマジックの歴史書であって、韓国のものとは違うでしょう」。と言うと、「講義は、アジアのマジックと言うくくりで話しています。日本の歴史を語るのではなく、アジアのマジックの発展過程をここから調べて話しているのです。何分、マジックの本で、年月日がはっきり書かれているものが少ないのです。実際こうした本はほかにないので、とても大学の授業には役に立っています」。

 思わぬところで私の本が役に立ったのは喜ばしいことですし、彼が私の本を読んでいてくれたことはうれしく思いました。

 その後、いろいろないきさつから韓国がFISMを誘致することになり、彼がその代表者に選ばれます。内部では一つにまとめるために随分苦労があったようです。彼としては、FISM釜山大会に北朝鮮を入れたいと考えていたようですが、内部の対立でそれがかなわず、彼は途中で役員を降りる結果になります。

 彼の人生や、これまでの実績を思えば、FISMに北朝鮮を入れたい気持ちはよくわかります。彼とすれば絶対に引けないところだったのでしょう。然し、国情の違いはいかんともしがたかったようです。

 ここで彼が自我の主張を抑え、釜山のスポンサーと妥協をしていたら、彼は「韓国のマジック界の父」としてその名を残したでしょう。然し、彼の想いは韓国だけでなく、朝鮮半島全体の融和にあったのだと思います。彼は名よりも血を重んじたのです。彼の行動を見るとこの結果はいかにも彼らしく、同時に同情を禁じえません。

 それでもFISM釜山は成功し、韓国のマジック界は大きく発展しました。然し、これ以降彼は少し韓国国内の地位が下がったように思えました。東釜山大学のマジック学科も廃止され、その立場は一層小さくなったように思います。

 元々、日本国内での彼の立ち位置は常に微妙なものだったと思います。朝鮮籍を語ることで、舞台の本数も、活動も狭められていたでしょう。傍から見ても彼の生き方は苦労が見えましたが、それもこれも、今、彼がこうして幕を閉じて思うことは、彼の人生は必然だったのです。

 北朝鮮の国籍を隠さずにマジック活動をしてきたことも、FISMで入賞したことも、そして、日韓の懸け橋となって韓国のマジック界の発展に寄与したことも、FISMを釜山に誘致したことも、すべて、安田悠二さんがいなければ誰もなしえなかったことです。このことのために自分が生まれて来たんだと言うことを、当人も自分の過去を振り返ってかみしめていたことと思います。

 折々に会って話をするだけの至って浅いご縁ではありましたが、その人生は一本筋が通っていて立派だったと思います。どなたかが追悼文を書けばもっと詳細に文章を書くでしょうが、このまま彼の名前が消えてしまうことはもったいないと思うので、私の知る範囲で書きました。合掌。