手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

FISMブラッセル2

 トリックスが私の交通費、宿泊費を持ってくれたおかげでベルギーまで行けたのですから、せっせと道具を売らなければいけません。実際、私は連日和服を着て、売り場に立ちましたので、よく目立ちます。地元のテレビ局などは必ず私を映しています。お陰で私はベルギーのニュースに何度も出ていたそうです。

 この会の会長さんは、クリングソーと言う体の大きなマジシャンです。この人から「君が来てくれたおかげで、国際色豊かになった、ありがとう」。と感謝されました。トリックスの商品もほぼ完売の状況です。

 

 私は販売の合間を縫ってコンテストを見ました。ステージだけでも100組以上のコンテスタントです。ソ連(当時はロシアをそう呼んでいました)の、中央アジアから来た、日本人みたいな顔をしたスクロブと言う夫婦のマジシャンは、指先から灯りの点くマジックを、詩的に見事に演じていました、今では当たり前になったトリックですが、その時は初めて見る現象で、一回一回の現象に観客が歓声を上げていました。

 オランダのゲルコッパーは、徹底したスライハンドで、カードを出し、カードを片手で交互に客席に投げ、その後キャンドルのプロダクションをし、ラストはたくさんの火の灯った蝋燭が並ぶキャンドルスタンドを出しました。ベーシックな技を集成した芸で、彼が出ただけで客席がわきましたので、今回の本命なのでしょう。後で通路であったので話を聞くと、私と同じ年でした。

 

 一通り見てみると、巧い人もいましたが、下手な人は下手でした。当然です、しかし私は、この大会に来る前は、FISMのコンテスタントと言うものはどれも優れたマジシャンばかりが出ると聞いていましたので、正直、見ているうちに安堵感が生まれました。しかも、疑問も生まれてきました。

 ヨーロッパの大会であるだけに、燕尾服がずらりと並びます。ステッキを持って、テーブルにシルクハットを置いて、カード、四つ玉、ゾンビと言う、お決まりの手順が続きます。年を取ったマジシャンなら、それもいいでしょうが、私と同年代の人はこの演技を打破しようとは考えないのでしょうか。

 特に下馬評でささやかれていたオーストリアのマジッククリスチャンの演技は初めから終いまでカードで、うまい人ではありましたが、見ていて退屈にすら感じました。

 彼は異常にプライドが高く、ロビーで話しかけても、鼻をツンと高くして、不愛想な話し方をします。それが周囲でも不評であるらしく、彼の周りに仲間がいません。その後どこかのFISM に出演した際には、カード手順を、三方を衝立で囲って演技をしていました。わざわざ自宅から衝立を持参してスライハンドを演じるマジシャンと言うのは、情けなく思いました。いかに日ごろ、横から見られて野次られるような、劣悪な舞台に出ている証拠です。私は、尊敬よりも同情を感じてしまいました。

 それに比して、真田豊実(さなだとよさね)さんの演技は鮮烈でした。私はこの時初めて真田さんを見ました。体の小さい人で、舞台ではまるで子供のように見えます。初めは観客も期待せず見ていましたが、カードのサークルファンからはがぜん反応が変わりました。お終いの連続フアン出しは嵐のような拍手が起こりました。

 この大会は、今になって思えば、FISMの大きな転換期でした。これ以降、どんどん日本やアメリカ勢が現れ、それまでのヨーロッパ中心のマジックが変わって行ったのです。私は連日客席にいて、ヨーロッパの優れたマジシャンがいたら、仲良くなって、勉強したいと考えていましたが、どうも、ヨーロッパ勢には限界が見えます。むしろこの先は日米が主流となってマジック界を動かして行くのではないかと予感しました。

 

 実際、FISMの審査員はすったもんだの騒ぎになりました。本来なら、ゲルコッパーがチャンピオン。マジッククリスチャンがスライハンドの部門優勝で、めでたく手打ちをして終わるところですが、中央アジアと、日本がいて、審査が難航しました。それまで、ヨーロッパ以外の参加者が来ても、優勝を狙うような人は現れなかったのです。しかも今回の観客の反応は、明らかにアジアに有利です。

 結果、優勝者は二人出すことにしました。ゲルコッパーと中央アジアのスクロブの2組が同率チャンピオンです。マジッククリスチャンは部門優勝。真田さんは、特別賞でした。真田さんの特別賞は、日本が正式にFISMに会員登録していないため、受賞に値しなかったと言う理屈をつけています。会員登録してなければ賞に値しないなら、初めからコンテストには出られないはずです。それをコンテストに参加させておいて、登録云々いうのは明らかに差別です。

 ゲルコッパーを指導したオランダの先生や、ヨーロッパの体面を保つため、アジアの2組が犠牲になったのです。全くヨーロッパ役員のごり押しです。しかし、観客は良く知っています。ゲルコッパーとスクロブが並んだ時には、スクロブに大きな拍手が来ましたし、クリスチャンが受賞した時にはブーイングの嵐でした。わざわざクリングソー会長が出て来て、弁明していました。真田さんの特別賞は大拍手でした。

 私は、FISMに参加するまで、ここで認められることの意義を大きく感じていました。しかし目の当たりに組織のしがらみを見せられると、FISMに疑問を感じてしまいました「自分の行く道はここではない」、と強く思ったのです。

 

 大会終了の翌日、パリに向かいました。パリで二泊して翌々日帰ります。その日の午後、赤沼社長と新城さんと三人で、シャンゼリゼ通りにあるパキスタンエアラインに出かけ、明後日のチケットを取りに行きました。ところが明後日は飛行機は飛ばないと言います。でも、予約表は明後日の日付になっています。苦情を言うと相手は横を向いて応対もしません。社長と新城さんはシャンゼリゼ通りの植え込みの柵に腰を下ろしてうつむいています。悩んで答えの出る話ではありません。私は30分シャンゼリゼ通りを散歩して戻って来ると、二人はまだしゃがみ込んでいます。そこで「私に交渉をさせてください」。と言って事務所に入りました。社長と新城さんは窓の外から見ています。

 事務の女性に予約表を見せ、「あなたの会社が明後日の飛行機の日程を決めたのに、勝手に取り消すとは何事か」。と怒りました。相手は横を向いています。そこで、テーブルの鉛筆立から鉛筆を5本取り、両手でパキパキと、真っ二つに折ってテーブルに投げ、「チケットを出すのか、金を返すのか、答えは二つだ、どうする」。と、下手な英語で、低い声で凄んで見せました。彼女は明らかに恐怖の顔を見せ、すぐにルフトハンザのチケットを書いて渡してくれました。

 私は「きついことを言ってごめん。でも、約束は約束だ」。と言ってにっこり笑って外に出ました。赤沼さんにドイツ航空のチケットを渡すと「君ね、手荒なことはいけないよ」。と言います。しかし「社長と専務が植え込みに30分座っていたって、チケットは手に入らなかったでしょう。むしろ感謝してくださいよ」。

 着いた晩は、FISMで知り合ったピエロの演技をするマジシャンの家に行きました。パリのマジシャンが何人かいて、簡単な食事とワインをご馳走になりました。私はお礼に手妻を演じましたが、見るものすべて初めてだったそうで、とても好評でした。

 翌日は、イブと言うマジシャンがホテルに来てくれて、ポンピドー広場の大道芸に連れて行ってくれました。マジシャンもいましたが、あまりうまくはありませんでした。

 イブと別れて夕方にモンマルトル寺院に行きました。その坂の下にはたくさんナイトクラブが並んでいます。マジックショウをしている店はないかと探していると、これからマジックショウがあるよ。と呼ばれました。早速中に入ると、ベトナム人のような色の浅黒い、小柄な女性が脇について、いきなりシャンパンを開けました「シャンパンはまずいな」。と思い、彼女に、「これからマジックショウが始まるのか」。と尋ねると「マジックショウなんてない」。と言います。これは嵌められたな。と思い「帰る」。と言うと請求書が8万円来ました。日本の勤め人の給料が5、6万円くらいの時です。財布には3万円しかありません。シャンパンはまだ口もつけていません。

 仕方なく正直に、1万円を出し「これしかないから勘弁してくれ」。と謝ると、マネージャーと思しき男がフランス語で怒ります。私はそのまま外に出ようとすると、大きな男が二人、ドアをふさぎました。万事休すです。そうならイチかバチか、最後の手段です。私はゆっくり腰を落とし、両足を蟹股(がにまた)にして広げ、両手をウルトラマンのように縦横に構え、目いっぱい大きな声で「デャー」、と叫びました。すると、大男は「おい気をつけろ、あいつは空手を使うぞ」、たぶんフランス語でそう言ったのだと思います。二人は咄嗟にパッと飛びのきました。

 私は、足は蟹股で、手はウルトラマンのカッコのまま、ドアをくぐって、ゆっくりモンマルトルの道を歩いてゆきました。「後ろを見てはいけない。走ってはいけない」。そう自分に言い聞かせて蟹股で歩きました。私は空手も柔道もしたことはないのです。もし大男が逆襲してきたなら、私なんぞはひとたまりもありません。私は一見押し出しのいい体形に見えますが、からっきし弱いのです。しかしここは堂々と歩きました。そして十字路の角を左に曲がったとたん一目散に走って逃げました。

 地下鉄に乗って、なぜか笑いがこみ上げてきました「あぁ、なんて面白い人生なんだろう。結局パリではろくなマジックに出会わなかったけれども、面白いパリ旅行だったな」。と呑気に高笑いしました。