手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大樹よ大樹たれ

 今日と明日は夜6時に、藤山大樹のリサイタル公演があります。場所は座高円寺、この劇場は私の家から徒歩3分のところにあり、かなり凝った作りをしていて、とてもきれいな劇場です。私はこの劇場の設立以来しばしば利用しています。11月29日のビッグセッションもこの劇場です。

 私は、今日、明日ともに劇場に行き、なるべく何も言わずに座っていて、何か困ったことがあれば手伝ってあげようと考えています。

 

 大樹は小林大朗(ひろあき)と言い、今から11年前に、まだ高校生だったころから私のステージの手伝いをしていました。家は杉並で、私の家からもそう遠くはありません。舞台のことは何でも好きだったらしく、手伝いを頼むと、自転車に乗って、にこにこしながら事務所に来ました。その頃は高校生ですから、私のスタッフからは「小林少年」と呼ばれていました。実際、このころの小林君は全く少年そのものでした。

 小林少年はその後、法政大学に行き、合間に私のステージを手伝っていました。少年としては早くからプロとして生きて行きたいと言う気持ちがあったらしく、大学に入ると同時に日本舞踊を習い始めました。しかし私は手妻は教えません。アシストの仕事ばかりです。仕事の帰りなどは、私が運転をして小林少年を乗せて帰ります。少年はまだ免許を持っていないのです。少年は車の助手席に座って、しきりに様々なことを私に質問します。その様子から少年がプロになりたいんだと言うことはよくわかりました。実際、一般家庭に育った少年が、どうやってプロマジシャンとして生きていったらいいか、なんていうことは全く考えも及ばないことだと思います。そこで、

 「もしプロになりたいんだったら、きっちり大学を卒業した上で、私の事務所に来なさい、そうしたら弟子にしてあげるよ」と約束をしました。このとき、正直なところ、私はプロの道を確約したわけではなく、ただ、どうしてもなりたいなら面倒見ようと言うくらいの意味で言った言葉なのです。

 ところが、それから2年して、少年がまじめな顔をして、「あの、実は来年大学を卒業します。弟子入りしてもよろしいでしょうか」。と聞いてきたのです。「えっ、弟子入りするの、君、中退はだめだよ」「ええ、卒業です」私は少年だと思っていた小林君が、大学を卒業する年になっていたことを知りませんでした。少年はいつまでも少年だと思っていました。

 

 とにかく、卒業の翌日から私の事務所に詰めかけて、連日の弟子修行が始まりました。電話の応対から、手紙の書き方。仕事先の打ち合わせ。何から何まで指導します。勿論マジックも手妻も教えます。弟子としての少年は別段手のかからない若者でした。なんでもすぐに覚えますし、遅刻もしません。素直な性格ですから仕事先からもかわいがられます。時に私が雷を落とすこともありましたが、少年はじっと耐えています。

 初めの内は、マジックと、手妻の両方を教えていましたが、やがて少年は手妻の面白さに気づき、「僕は手妻一本でやってゆきたい」と言い出します。私はそれには少々危惧を感じていて、「でもなぁ、世の中は浮気だからね、今は何となく伝統芸をもてはやしてくれる風潮があるけども、私の子供の頃なんかは手妻に対する扱いはひどいもんだったんだ。だから、人の気持ちがいつ180度変わるとも限らないから、両方できるようにしておいたほうがいいよ」とアドバイスをしましたが、当人はもう手妻にまっしぐらです。そうこうするうちに3年半の修行が過ぎました。

 出世披露をしなければなりません。名前を「藤山大樹」と名付けました。寄らば大樹の陰と言います。人に頼られるような、大きな雨傘となって、たくさんの人を助けてあげられるような人になってほしいと思い名付けました。富士の山にそびえる大きな木、間違いのない名前だと思います。

 披露の舞台は日本橋劇場。邦楽のオーケストラを並べ、七変化を演じ、更に舞踊の「雨の五郎」を生演奏で踊りました。口上を言う時には、前田知洋さんに駆けつけてもらい舞台上でエールを送ってもらいました。後見人として、田代茂さんにも出てもらいみんなで三本締めをしました。何とも賑やかな披露でした。

 

 披露の後もしばらくは私の仕事を手伝っていたのですが、徐々に名前が知られるようになり、昨年にはアメリカのテレビに出演して、七変化の映像が1000万回超えの再生数で拡散して、人気に火が付きました。幸い今のところは大忙しです。めでたしめでたし。そして今日が、文化庁芸術祭参加公演のリサイタルです。ずっと運気が昇ってきていますので、巧くすれば芸術祭賞受賞の可能性もあります。少年大樹ももう32歳です。私が一回目の芸術祭賞を受賞した時も32歳でした。32歳で公演をし、私は12月1日生まれですから、受賞の知らせが来た時に33歳になったのです。

奇しき縁で大樹も同じ結果になるやもしれません。そうなることを願っています。どうぞ皆様も大樹をご支援ください。