手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

サルバノの風

 今は東西冷戦などと言う言葉は死語になってしまいましたが、

私が生きてきた昭和30年代以降の社会情勢はまさに冷戦時代でした。ヨーロッパの三分の二は西側陣営として、アメリカが守り、残る三分の一はソ連(今のロシア)が軍事制圧し、ポーランドチェコスロバキアルーマニアハンガリー、と言ったロシアに隣接するヨーロッパ諸国はみな社会主義国になって、西ヨーロッパとの交際を断っていたのです。西と東の接点になるドイツは、西ドイツ、東ドイツと国が分断し、さらにベルリン市は市の中で西と東に分かれて、厚い壁を作って対立していました。

 こんな状態でも、西ヨーロッパは順調な発展を遂げて、今日あるような先進国になってゆくのですが、気の毒なのはロシアに抑え込まれた東ヨーロッパです。所得は上がらず、交流できる国は東ヨーロッパとロシアに限られ、自由に西側に旅行することもできませんでした。この状況下で、当時の東側のマジシャンがどうやって生きてきたのかが私の興味でした。

 

 1993年にSAMの国内大会に、サルバノ師を招き、冷戦中のポーランドでのマジック活動がどんなものだったのかを色々尋ねました。当然のごとく、師のマジック史は第二次大戦終了後から始まり、ほんのわずかな自由陣営の時代(ソ連ポーランドを占領する以前の10年近くはポーランドも西側と同じ生活をしていた時代があったのです)を経て、その後、長い冷戦時代があり、更に、冷戦が終結し、(1989年)国が解放されて、西側との交流ができるようになり今日(1993年)に至ります。

 サルバノ師のマジックの話は、戦後のほんの一時期の自由な時代に、中学生の頃に友達に誘われて、マジックショウを見に行くところから始まります。既にある程度マジックを知っていたサルバノ少年は、マジック仲間の友人と、ネモのショウを見に行きます。ネモとは当時ポーランドで有名だったマジシャンで、サルバノはこの時初めてネモのショウを見て、心を奪われます。ネモはハンカチをこぶしの中に入れて卵になるマジックをしたそうです。サルバノ少年はその種を知っていたため、「あれは卵の中にハンカチが入っているんだ」と言ったのです。すると、ネモはその卵を割って、中から黄身を出したのです。これを見て、今までの自分のマジックがいかに素人だったかを知ります。以来、師は神のごとくネモを尊敬します。実に単純な子供です。

 60を過ぎた師が、一旦ネモの話をするときには、まるで子供の頃に帰った表情になって、純真な面持ちでネモの思い出を語るのです。私は実力あるマジシャンがこういう表情で尊敬する師匠を語る姿が好きです。そこに嘘偽りがないからです。

 

 その後になって、マジック大会などがあると、師とネモは同じ舞台に立つようになります。師はこのことをとても名誉に感じていたようです。若きサルバノは、楽屋でタバコをくゆらせて、カードを片手で動かしているネモの姿を克明に語ります。また何気に話してくれた言葉をしっかり覚えています。この時代がちょうど冷戦時代の始まりで、

マジシャンにとっては苦難な時代になってゆきます。

 ポーランドにもナイトクラブなどの歓楽街はあったのですが、なんせ国全体が所得が上がらない状況では豊かに遊ぶ人も限られています。仕事は少なかったようです。町の小さなイベントや、軍の慰問などの仕事をして、かろうじてプロ活動を続けていたようです。

 ネモと言う人がどれほどのマジシャンであったのか、私のところには資料がありません。唯一、ネモのポスターのレプリカをもっています。大きなポスターを作るくらいですから、相当有名なマジシャンだっただろうと思います。しかしその技量はと言うと、必ずしも名人と言うわけではなかったようです。師に言わせると、「カードのパスをするときに、カードがシャキッと音がするため、その音をごまかすため、ネモは口で、シッと言って奥歯から息を吸った」そうです。それが、「必ずパスの時にシッというものだから、逆に、シッと言った時がパスなのだなと分かった」。何とも頼りないマジシャンです。

 しかし、ほとんどの名人が語る思い出のマジシャンはこんなものです。必ずしも名人が名人を育てるわけではないのです。

 

 師は、その後一座を持ち、イリュージョンからスライハンドから、トークマジックまで何でもこなしたようです。仕事場は東欧内のイベントです。その間に、政府からも認められ、海外のコンベンションなどに出演するチャンスをもらえるようになります。折からFISMのコンテストにチャレンジし、入賞して、その名を知られるようになります。それと呼応して、一座を解散し、スライハンドに専念するようになります。

 師のアクトは、カードマニュピレーション、ダンシングステッキ、あい間にビールの入ったグラスが幾つも出ると言うもので、そのスタイルは徹底した西側の伝統的なアクトで、フレッドカプス亡き後、こうした古風な技ものを残しているマジシャンが、ドイツ、フランスなどでも見られなくなったところへ、サルバノが出てきたものですから、世界のマジック愛好家は、新たなる支柱として、サルバノを尊敬することになります。

 

 東京に招聘して以降、私は、何度か師と会う機会がありました。海外のコンベンションに出演した折、師は、出演を引き受けた後にサービスでレクチュアーをしたり、クロースアップを見せると言う仕事はしませんでした。無論レクチュアーも頼まれればしますが、その時は必ずプラスアルファーのギャラを要求します。ギャラの値引きは決して受け入れません。「ギャラが足らないのならレクチュアーをして稼げばいいじゃないか」。と言うコンベンションの誘いは顔を鬼にして怒りました。「自分はショウを見せることで生きているんだ。物は売らない。」はっきりしています。

 こうした点は私とよく似ています。その結果、コンベンションで、出演する日以外は用事がありません。そのため、昼から私と一緒に酒を飲んで日がな長い話をします。日本食の店などへお誘いするととても喜びました。

 この酒を飲みながらの話が絶品に面白かったのです。ここで師から聞いた話はとても参考になりました。手順の作り方、演技のまとめ方など、一件フレッドカプスと似通ったことをしますが、元となる考え方がずいぶん違います。しかし同時に、なかなか狡猾なオヤジではありました。

 ポーランドは戦時中ドイツ軍に占領されていたのですが、そのドイツ人に対して、師はあまり悪く言いません。むしろユダヤ人に対する差別はかなり露骨でした。利己主義で、金に細かく、愛国心がないなど、根本的にユダヤ人が嫌いなようです。もっともこのことは師だけではなく、欧州全体に共通する考えです。ユダヤ人差別はドイツの専売特許ではありません。師の人生の背景にユダヤ人とどんなかかわりがあったかはわかりませんが、長く話を聞いていると一筋縄ではいかない爺さんだと言うことがわかります。師は時として話が紅潮すると、「自分は人類愛のためにマジックをしている」。と言うようなことを言います。その時に私が「ユダヤ人に対しても愛情を感じますか」と言うと「それは別だ」と言います。師にとって人類とユダヤ人は別物なようです。この矛盾がまた師の演ずるマジックの内容と相まって、魅力を作っているのだろうと勝手に推測しました。

 

 2000年のFISMリスボンのゲストにサルバノは出演しています。最終日ののガラショウの場所が、野外で、海に近く、海風が吹いて、シルクなどは飛んで行ってしまいます。そのため、ここではできないと言って、何組かのマジシャンが出演を見合わせました。その時サルバノ師は、いつも通りに演技をして、強風が吹く中でダンシングケーンをみじんも崩れることなく振って見せました。この時、私はサルバノと言う人の本当の実力を知りました。昨日今日の芸人ではないのです。どんな苦しい状況でも、やりこなして、家族のためにギャラを持ち帰らなければならない芸人だったのです。浜辺でステッキを振るサルバノ師を見て、私は知らず知らずにほろりと涙を流してしまいました。プロとして生きる身の悲しさ、苦しさが伝わった瞬間です。演技を終えた後一緒に酒盛りをしたことは勿論です。

 この時すでに師の体は癌に蝕まれ、その後何年もしないうちに亡くなりました。忘れられないマジシャンの一人です。