手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ビスマルク

ビスマルク

 

 一昨日(12日)、なぜロシアは他国を侵略するのかについて、お話ししました。地政学ヒトラーが、その侵略を正当化する手段として利用したために、第二次世界大戦以降、さすがに大国のエゴを肯定する考え方はまずいと、影響力を弱めています。

 然し、その考え方は、欧州各国で未だに残っており、特にロシアの、ウクライナ侵攻を見ると、ロシアは地政学の信奉者であり、彼らからすれば、ウクライナ侵攻は自衛の戦いなのです。

 ロシアからすればウクライナが独立国であるか否かは関係なく、自国にとって必要な、広大な農場。製鉄業、機械工業、黒海に続く天然の良港。等を所有している限りウクライナはロシアのものでなければならず、半植民地のまま抑え込まなければならないのです。これが200年ずっと続いてきたウクライナへの圧政なのです。

 ウクライナがロシアの植民地化を望まないとしても、ロシアはウクライナの独立を考えたこともありません。ウクライナの都合など関係なく、自分にとって必要なものは力で奪ってでも自分のものにするのです。

 ウクライナを失うことは、例えて言えば、日本の関東地方がそっくり独立されるようなものです。生産力が高く、気候が良く、平野が多く、港に恵まれた土地が自国から失われることはロシアにとっては最大の不幸なのです。

 今、世界各国は、ウクライナに侵攻したロシアを非難していますが、もし、ロシアが一週間でウクライナを制圧して、ウクライナ全土がロシアとなっていたら、それを非難して、戦車やミサイルを飛ばして、ウクライナを助ける国が一国でもあるでしょうか。恐らく取られてしまったらそれでお終いでしょう。かつて、ウクライナクリミア半島を攻められた時と同じです。結局、欧州の人の考え方の中には、いまだに、大国が小国を取ってもそれは致し方ない。という地政学的な考えが根強く残っているのです。

 

 明治6(1873)年、日本は岩倉使節団と言う、日本の政治の中枢をなす人材を欧州に送り、視察旅行をしました。大久保利通伊藤博文らが同行しています。一年に及ぶ視察でしたが、日本政府はよく一年も政府の要人を海外派遣したと思います。実は、この視察旅行が、この先の日本の針路を決定づける結果になります。

 彼らの目的は、江戸幕府が各国と結んだ不平等条約を改正して、対等な関係に持って行きたいとするもので、彼らは意気揚々と欧州各国に乗り込みます。然し、イギリスでは、憲法すら持たない日本とまともな契約は結べないとにべもなく断られます。確かに憲法がなければ、日本人の都合のいいように口頭で法律が曲げられてしまいますから、信用できる国とは言えません。そこで、大久保や伊藤は憲法を作る事の重要性を知ります。そしてプロシア(現在のドイツ)に行き、プロシアの政治体制を学びます。プロシアはつい数年前までは300もの諸侯が集まった封建国家の集団だったため、徳川幕府とよく似ています。しかも、皇帝がいて、皇帝の元に憲法が成り立つ、欽定憲法を持っていました。このスタイルこそ天皇を持つ日本のあり方そのものではないかと考え、使節団は熱心にプロシアの法律を学びます。

 プロシアは明治3(1871)年に、普仏戦争で、フランス軍を破り、大勝利をして、その勢いで300諸侯を廃して、ドイツ帝国を建国します。つまり、明治元(1868)年の明治維新を起こした日本とほぼ同じ時期に国家の成立を果たしたことになります。普仏戦争と、ドイツ帝国の建国を果たしたのは、プロシアの宰相、ビスマルクです。彼は当時ドイツの英雄でした。

 日本の若き政治家がプロシアに親近感を寄せたことは充分頷けます。ところが、実際プロシアに行くと、プロシアの政治は混沌としていました。ウィルヘルム皇帝と会うと、「議会を持つのはいいけども、議会にあまり権限を与えてはいけない」。と言い、「議会は問題解決をひたすら遅らせるだけのものだ」。と露骨に議会を批判しました。

 また、宰相のビスマルクに会おうとしても、ビスマルクは、たばこの専売制を議会に否定され四苦八苦しています。たばこの専売権が通れば大きな収入が生まれ、軍備の拡張は易々と出来るのです。然し議会はそれ認めません。議会に嫌気がさしたビスマルクは自宅に籠って議会に出て来なくなります。世界に冠たるビスマルクが引き籠っているのです。

 こんな状況を見て、日本の視察団は、憲法を作って、それによって、不平等条約を無くそうと考えていたものが、憲法が絶対のものではなく、法はむしろ自分たちの行動を縛り付ける行為となり、欧州は憲法があっても、必ずしも、理屈の通り整然と事が決まって行くわけでないことを垣間見て、唖然とします。

 しかも、一行は、ビスマルクの公邸に招待され、少人数でビスマルクプロシアの現状を聞かされます。この時、なぜビスマルクが、日本と言う、聞いたこともないアジアの小国の視察団を前に心の告白をしたのかは謎です。然し、この時の言葉がその後に日本を決定づけます。大変に興味深い話ですので詳しく書きます。

 「世界の国々は、表面は、親しく、礼節を以て交わってはいるが、それは表面だけのこと、その実、常に相手の強弱優劣を推し量り、隙があれば侵略を考えている。

 プロシアは私の幼いころは、300に及ぶ小国で成り立っていた。小国であるがゆえに、大国に侵略され、ナポレオン戦争のときには、フランスから一億ドル(現代の5兆円)もの賠償金を課せられ、悲惨な状態だった。

 公法(国際公法)などと言うものは、強国の都合の良いときには公法を盾に正当化して来るが、自国が不利になれば、たちまち武力を持って解決しようとする。つまり公法とは強国の都合のためにあるもので、小国を守るためのものではない。

 小国が如何に真面目に公法を守って、ルールにのっとって外交をしても、大国は小国を認めない。大国は白を黒と言いくるめ、相手国を凌辱する。つまり小国には公法は役に立たない。小国が自国の権利を主張したいのなら、自力で強い軍隊を持ち、戦う以外にない」。

 当時飛ぶ鳥落とす勢いの宰相ビスマルクの言葉から、法律は何の役にも立たない。強いものが結局勝ちだ、と言う話を聞いて、日本の政治家たちは、しばし呆然とします。いくら不平等条約が公法に違反していると、理論的な反論をしても、大国はそんなことは百も承知なのです。弱いからそんな不平等な条約を結ばされているのです。かつてのプロシアがそうだったように、悔しければ強くなれ。と言ったのです。

 冷静になってビスマルクの言葉を読んでみて下さい。この言葉は今のプーチンさんが言っている言葉ではありませんか?。つまり欧州の政治家はビスマルク以来180年、何も変わってはいないのです。弱いから取られる。弱いから虐げられる。そう言われた時に小国はどうしますか、未来永劫半植民地に甘んじますか?。少なくとも明治の日本はその道をたどらなかったのです。遣欧使節団以後、明治政府は富国強兵に突き進んだのです。

続く

松濤でお食事

松濤でお食事

 

 昨晩は、田代茂さんのお誘いで、フランス料理のフルコースを頂きました。私が田代さんのジャパンカップなどの催しに協力していることもあってか、毎年田代さんからお食事のお誘いがあります。

 多くは、高円寺の寿司屋や天ぷら屋で食事をするのですが、時々、とんでもなく豪勢なレストランに連れて行っていただくこともあります。

 昨晩は、渋谷区松濤にある「シェ 松尾 松濤(しょうとう)」に伺いました。18時に田代さんと、病院の助手で、カンボジア出身のマン君が私の自宅に見えて、タクシーで渋谷に、路地に入ると松濤の住宅街。言わずと知れた高級なお屋敷街です。着いたお屋敷は、門柱のそびえる、木造西洋館でした。一部レンガを使い、蔦が壁に茂っています。建物は相当に時代がかっています。

 表にはお店の人が傘をさして待っていました。小雨が降っています。玄関に入ると、造りはロサンゼルスのマジックキャッスルに何となく似ています。キャッスルが確か、明治末年か、大正時代の建物と聞いています。このお屋敷は大正13年の建築だそうです。

  大正13年にこれだけの家に住んでいた人となると、おのずと誰が住んでいた家かはわかるはずです。それにしてもお金持ちのお屋敷と言うことがひと目でわかるような建物です。我々は二階に案内されました。

 レストランのオーナー松尾さんは、この家を気に入り、改装をしてフランスレストランにしたようです。二階は、広い個室で、我々3人掛けのための部屋です。シャンデリアが下がっていて、開放的な窓から中庭が良く見えます。全く渋谷の街中とは思えないほどゆったりしています。

 

 さてこれだけのお店なら、いいワインを飲みたいところですが、昨晩に夜更かしをして、少し鼻水が出ます。風邪と言うほどではないのですが、ここでアルコールを飲んでしまうと風邪になってしまうと考え、この晩はアルコールを遠慮しました。

 

 と言うわけでノンアルコールビールで乾杯しました。初めの料理は、大きな白い皿に、白アスパラガスが三つ。モリーユ茸と言う小さなキノコが乗っていて、黄ワインを6年熟成させたものとソースを合わせたもの。小さなアスパラガスでしたが、モリーユ茸は噛み応えがあり、初めての触感でした。黄ワインを熟成させたソースは初めての味で、ごあいさつ代わりに食べるオードブルとしては随分凝ったもの。

 パンは、リュスティックとクルミパン。どちらもいい味でしたが、パンもさることながら、バターがいい味です。塩気が薄く、パンに塗って食べると、かすかな香りが立ちます。

 フランスから直輸入しているそうで、ボルディエと言うバターだそうです。バターの香りが淡く、さっぱりした味を求める人には最適かと思います。それが洗顔石鹸のサイズで小皿に乗っています。このバターを残すのは勿体なく、ついつい余計にパンを食べてしまいます。

 

 次の皿は、オシェトラキャビアと黒アワビコンソメジュレ寄せ。ベルギー産のキャビアと、青森産の黒アワビをコンソメの煮凝りにしたもの。黒アワビは細かく粒になっています。それでも触感はしっかりしていて、かなりコリコリしています。煮凝りの上にはびっしりキャビアが乗っています。いずれも珍味を味わうもので、酒飲みならたまらない前菜です。

 

 私の座っているところから向かいの壁を見ると、天皇陛下が皇太子時代にこの店に来たときの写真と、雅子様がお父様の小和田さんと来た写真が飾られています。してみると私の座っている席は天皇陛下がお座りになった席です。光栄です。

 窓辺を見ると庇にはびっしり蔦の葉が下がっています。庭の木々も新緑で、しかも小雨が降っていますので、葉が艶々しています。今の季節は日本で一番気候のいい時期です。

 

 次は、ブルターニュ産のオマールエビのマリニエール。ソーテルヌワイン風味。オマールエビは焼いてあって、焦げの風味を感じます。それをソースで食べるのですが、フランス料理はかなり複雑に味を重ねますので、なかなか一度で味の深層を探ることは不可能です。プリプリのオマールエビと、ホワイトソースの取り合わせがうまかったことと、付け合わせのフランスのヌイユと言うヌードルにソースを絡ませて食べるととてもいい味でした。

 

 さてこの後の二皿が今晩のメインです。一つは宇和島産の甘鯛の松笠焼。そこへカリフローレと言うカリフラワーの若い芽のようなものと、タンポポの茎が脇に添えられています。ソースはこぶミカンの葉と、瀬戸内レモンソース。

 甘鯛のうろこをバーナーで焙ってカリカリにしたものを、脂の乗った鯛と合わせて食べます。そこにコブミカンとレモンで少し締まったソースを併せます。宇和島産のタイに対して、瀬戸内のレモンと言う取り合わせがいいセンスなのでしょう。

 鯛の下には焼き茄子がほぐされて敷いてあり、これも焼いた香りが漂って来て重層な味わいです。

 

 ここで口直し、ライチーのシャーベット。あっさりしてほのかな甘みが嬉しくなります。

 

 そのあとは、仙台牛フィレ肉のポワレ。メインディッシュだけあって肉は柔らかく、コクがあり、脂も乗っていて素晴らしい肉質です。ポワレとはソテーと似ていますが、肉や魚から出た脂をスプーンですくいながら身にかけて、コクを出したものがポワレです。この晩の仙台牛も小振りながら濃厚な味わいでした。

 

 この後チーズ数種、更が有田焼の板皿だったのが洒落ています。こんな使い方は遊び心があって素晴らしいと思います。それに、コーヒーにムースのケーキ、小さな菓子が出ました。何から何までこりに凝った食事でした。

 さてここまでの対応をしていただいて、誠に恐縮です。人生の中でこれほどまでの食事はそう何度もはありませんでした。昨日まで生きて来て幸せでした。出来ることならこの食事をいいワインと併せて頂きたかったのですが、体調を思えば致し方ありません。

 帰りもタクシーを用意していただいて、至れり尽くせりの一晩でした。田代さんに心から感謝します。つくづく田代さんはいい人だと思います。

続く

なぜ他国を侵略する

なぜ他国を侵略する

 

 今回のように、ロシアがウクライナを侵略して、それを全く罪と感じることなく正当化して語るのはなぜか。と言うと、ヨーロッパの国家は基本的な考え方として、「地政学」を肯定しているからです。いや、さすがに今は表立っては肯定しませんが、根の深いところでは依然として地政学を支持しているのです。

 日本では地政学と言う学問はおよそ不人気ですが、かつては大きな影響を受けました。地政学は1900年ごろ、スゥエーデンの学者が唱え始め、これをイギリスや、フランス、ドイツの学者が支持して、たちまち世界中で研究されるようになりました。

 地政学と言うのは、地理学と政治、或いは文化、経済などを交えて多面から国の政策を語って行くもので、当時植民地主義が華やかなりし頃には、まさに植民地を学問的に肯定する考え方として、大国が飛びついて来たのです。

 仮に、小国、A国があったとして、その国は経済や文化が発達して、人口も多いのですが、国土が狭く、国民を自国で養うには農地が足りません。そんな国が、軍艦を作ったり、軍隊を整備して、人の少ない、発展の遅れた地域(例えば当時のアジア、アフリカ)に領土を持って、その土地を原住民に耕作させ、出来た作物を自国に持ち込めば、国は一層繫栄し、未開な土地の原住民も働き口が見つかって収入を得て、世界全体から見たなら生産が向上して繁栄する。

 地政学と言うのはA国のように、発展した国が、人口が増えるのは自然なことであり、国民を生かしてゆくためには、海外に植民地を求めることが当然な成り行きだ。とする考えで、真に大国の行動を肯定するための学問と言われても仕方のない考えだったのです。然し帝国主義時代はこれが支持されて、イギリス、フランスはしきりに軍艦を作り、アジア、アフリカに植民地を作ります。

 同じ地政学の学者でも、20世紀初頭のドイツの学者は、少し違った考え方をします。それはかつて、モンゴル人や、フン族が中世の時代に、ヨーロッパを騎馬で侵略してきた例を語り、「なぜ、フン族がわざわざヨーロッパまで侵略して来たのかと言うと、そこに豊かな大地があって、ほぼ手付かずの場所があったからだ」。という考え方を言い出すのです。

 この手つかずの大地を「ハートランド」と言い、今は草原でも、土地が良く、麦や大豆を植えれば、いくらでも育つ土地です。ドイツは平地は多いですが、冬場は寒く、冷害が頻繁に起こります。それでもジャガイモのような地下に生る植物はいいのですが、麦や、豆のような地表に茎を伸ばし葉を出す作物は、せっかく育てても寒冷な気候では葉も茎も枯れてしまいます。ヨーロッパの農民は、遥か昔から冷害に悩まされていたのです。

 一年中作物の生りが良く、気候のいい土地、それがハートランドです。ドイツの学者は、そうした土地は、科学技術の発達した、経済力、軍事力のある国が支配して、自国民に作物を分け与えるべき土地なのだ。と言うのです。随分と自分勝手な理論です。

 ところで一年中暖かくて、土が肥えていて、物の生りが良い。そんな土地は本当にあるのでしょうか。あります。それがウクライナなのです。

 ウクライナの地図を見て下さい。黒海の北面に扇状に広がった大きな土地です。ここはロシアやヨーロッパから流れてくる大河が集まる所で、ヨーロッパの肥沃な土が堆積してできた土地です。黒土層と言い、何十メートル掘っても土が黒く、世界でもまれなほど土が肥えていて、麦でも何でも驚くほど育ちが良いのです。国はほとんど平野で、今でも見渡す限り農地になっています。気候は日本よりは少し寒いですが、ロシアから見たなら憧れの温かさです。

 古くはモンゴル人やフン族が狙った土地ですが、その後ロシア人に支配されます。ここでロシア人はウクライナ人に苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を極めた圧政を敷きます。そもそもロシアは広大な領地を有していますが、実は、農地に適した土地と言うのは多くはないのです。北は北極ですし、中央部はシベリアの寒気で作物の生りは悪く、とても農地には適さないのです。何世紀にもわたってロシアが生きて来れたのはウクライナがあったからなのです。

 ウクライナとロシアの二国を比べると、まるで天国と地獄の様な国です。ウクライナは西側に黒土層があって豊かな農地を持ち、東側にはドネツ炭田と言う、これも、何百年掘っても掘りつくせないほどの良質な炭鉱があります。19世紀ごろから、この炭田を目当てに鉄鋼業が発展し、東側は重工業や鉄鋼業が発展しています。

 ウクライナと言う国は、もしロシアの支配下にいなければ、十分一国で生きて行ける国で、世界の中でも最も豊かな国になれる国だったのです。然し、ウクライナの不幸は、北にロシア人がいたことです。ロシア人は強い軍事力でウクライナを支配し、ウクライナの生産したものはことごとくロシアに持って行って、そこで再分配されたのです。

 ところで、そうしたロシアの様子をドイツが黙って見ているわけはありません。ドイツに比べたなら、経済も未熟、文化も劣るロシア人がなぜウクライナを支配する資格があるのか、この事こそ地政学上大きな過ちだ。とドイツ人は考えたのです。つまりロシアがウクライナにして許されるなら、そっくりドイツがしてもいいはずだと、ドイツは考えていたのです。

 この考えは第一次大戦のころからずっとドイツ人が持ち続けていた考えです。彼らがなぜ数千キロも離れたロシアに攻め入って侵略しようと考えたのかと言うなら、ロシアの南部を攻め取れば、自国の生活は安定し、有り余った作物を海外に売れば、大きな戦争をしても十分見合うだけの収入が手に入ると考えたからです。

 ヒトラーがロシアに侵攻したときに、世界中から「ヒトラーは気が違ったのではないか」。と言われましたが、実は、ヒトラーは当時の政治家としては実にまっとうな人で、自国の人口増加を解決するために、地政学に忠実にハートランドを目指した結果なのです。ヒトラーは「スラブ人(ロシア人)よりも有能なアーリア人(ドイツ人)こそ、広い国土を持つにふさわしい」。と宣言しています。

 ちなみに、ドイツの地政学者は、「最終的にハートランドを制するものが世界を制することになる」。と、預言めいたことを言っています。独ソ戦とは、どちらが世界の覇者となるかを見極める戦いだったのです。同様に今回のロシアのウクライナ侵攻は、ロシアが頑なに地政学を信じているから、無理な戦いを繰り返しているのです。

 ナチスドイツは滅びましたが、ロシアがそっくりその影響を受けて、地政学を信じているなら、ロシアがウクライナを手放せない理由がよくわかると思います。

続く

どうすりゃ勝てる

 ごめんなさい、朝からパソコンの具合が悪く、ブログが書けませんでした。もう17時30分になりますが、200人くらいの仲間が覗きに来ています。お待たせしました。今日のブログをお届けします。

 

どうすりゃ勝てる

 

 ウクライナ軍は健闘している。ロシア軍は押され続けている。こう聞くとウクライナ侵攻は、一方的なロシアの負け。と考えがちですが、そうでしょうか。

 そもそも、この侵攻に対して、ウクライナはどうしたら勝てるのでしょうか。いや、どうしたら、勝ったことになるのでしょうか。戦車を何十台破壊しても、ロシアが次々に新規の戦車を投入すれば、ロシアの負けにはなりません。ロシアの兵士も、1万人死のうが2万人死のうが、次々新規に兵士を投入すれば負けたことにはなりません。

 ロシアが言う、東側のロシア人の多い地域(ルガンスク、ドネツクなど)と、南のクリミア半島がロシア領だするなら、そこまでロシア兵を追い込めば、ウクライナは今回の戦争に勝ったことになるのでしょうか。仮に、その地域までロシア兵を追い込んだとして、そのまま放置しておけば、またロシア兵はウクライナ領に攻め込んでこないでしょうか。

 そうであるなら、本来のウクライナ領を取り戻すために、東側も、クリミア半島ウクライナ軍が攻め込んで、すべて占領したらいい。と威勢のいいことを言えば、確かにロシア軍全てをウクライナ領から追い出して、勝利したことになります。これなら9年前のクリミア半島占領のリベンジまでも果たして万々歳になります。

 でも、それをウクライナが実践するとなると、ロシアは全く面目が丸つぶれになり、徹底的にウクライナと戦う結果になるでしょう。そうなるとほぼ全面戦争になります。一年、乃至は二年、苛烈な戦争が続く可能性があります。さて国土をぼろぼろにされたウクライナと、世界から経済封鎖されているロシアとが、この先二年戦う余力があるでしょうか。

 

 ロシアにすれば、既に占領している、クリミア半島、ルガンスク、ドネツク、の他に、マリウポリ、ハリコフくらいを手に入れたのなら、和解にも応じる可能性はあるでしょう。然し、ウクライナは全く応じる気配はありません。彼らが目指しているのはロシア兵をすべてウクライナ領から追い出すことです。ロシアの思惑と、ウクライナの思惑を考えると、全く接点が見いだせません。

 

 ウクライナ侵攻当初から、この戦いは、かつての1939年のソ連によるフィンランド侵攻の二の舞だと言う軍事研究家がいます。1939年、独ソ不可侵条約を結んで、ドイツは、ポーランドを侵攻、それに呼応するかのように、ソ連も東側からポーランドを侵攻、結果ポーランドはドイツとソ連に攻め込まれ、二分割されて、地図から消滅してしまいました。

 濡れ手で粟の大成功を収めたソ連は、独ソ不可侵条約の威力を過信して、次にバルト三国を侵攻し、更には、フィンランド侵攻を始めます。大兵力で攻め込んだソ連は、たちまちフィンランドが降伏するものと考えていたようですが、フィンランドは徹底抗戦をします。

 フィンランド軍は、必ずしも優れた兵器を持っていたわけではありませんが、国土を守るため、国民皆兵制度を敷き、徹底的にソ連と戦います。フィンランド軍は自国の土地を生かし、ゲリラ戦法に出て、ソ連兵を狙撃して撃退します。

 結果としてフィンランド軍はソ連に大勝利します。そしてこの戦いは、翌年の1941年にも再度ソ連に攻め込まれ、フィンランドは多くの犠牲を出しつつも、ソ連軍を撃退し勝利します。

 80年前のフィンランドの置かれた状況と、この度のウクライナの状況が良く似ています。そして戦い方もまた酷似しています。つまりソ連(ロシア)は、80年経って全く同じことを繰り返し、同じ戦法で敗れているのです。このロシアの失態を見て、フィンランドとスゥエーデンがNATOの加盟を申し込んできたと言うのは、全く納得の行くことです。あまりのロシアのお粗末ぶりに、もうロシアを気にする理由はないと言うことなのでしょう。

 プーチンさんは、80年前のスターリンとまったく同じ失敗を繰り返しているのです。二人に共通している考え方は隣国を軽く考えていることと、自国を過信していることです。

 特にスターリンの失敗は、1930年代の計画経済の失敗から、多くの軍人、役人を粛正して、銃殺したことです。なぜそんなことをしたのかは知りませんが、自分自身の政治の失敗を部下にかぶせたのです。その結果有能な軍人、役人の多くを殺害しました。その挙句、フィンランド侵攻をした時に、ロシア国内の粛清をし過ぎて、実際に現場で指揮のできる下士官があまりに足らな過ぎたのです。結果として戦場は大混乱になりました。

 この辺り、今回のウクライナ侵攻とよく似ています。次々と高級将校が戦場で命を落としている現状は、80年前のスターリンの粛清の影響に似ています。プーチンさんの締め付けがきつすぎて、周囲に有能な軍人、役人がいなくなったのではないかと思います。

 もう見たところ、プーチンさんは、国内も海外からも四面楚歌の状況です。このまま行けばロシア国内でクーデターが起きる可能性もあります。年内いっぱいまでプーチンさんの寿命が持つかどうか。案外ウクライナ侵攻の幕引きはプーチンさんの失脚で終演になるのかも知れません。

続く

 

初音ミケ 5

初音ミケ 5

 

 屋根からロイクーが転落した翌日、午前中のパトロールにオヤミケがやって来ました。「昨日は随分派手な立ち回りだったね」。

 「いやだ、恥ずかしいですよ。あいつはずっと娘のミケを狙っていたんですよ。でもねぇ、ミケとロイクーは親戚同士ですから、くっついちゃいけないんです」。

 「そこが知りたいんだけどさ。ロイクーとミケはどれくらい近い親戚なの?」。

 「ロイクーは私のひ孫なんですよ。猫は毎年子供を産みますし、子供は二年目には大人になって、また子供を産みますから、孫やひ孫は5年もすればすぐにできてしまいます」。

 「だけど、お前は自分の孫やひ孫だってどうしてわかるの?」。「それはわかりますよ。匂いでわかります。あたしの子や孫はあたしと同じ匂いがしますから」。「そうなんだ。でも、それならロイクーだって、自分と初音ミケが同じ匂いだって知ってるんだろうに」。

 オヤミケは、アトリエのドアの前できっちりお座りをして、訥々と話しをします。

 「そこがあいつは間抜けなんですよ。オス猫の中には、そこのところの見境が付かないものがいるんですよ。特に盛りの時期なんかは誰でも彼でも繋がろうとするんです」。「野良猫でも血のつながりを気にするんだね。で、どれくらい離れていたらいいんだい」。「あたしの血が一割以下になったら他人と同じです」。「へぇ、そうなんだ。つまり、子供が五割だから、孫が二割五分。ひ孫が一割二分五厘。やしゃ孫が六分七厘か、夜叉孫になって初めて身内ではなくなるんだ」。

 「そうなんですよ。やしゃ孫になるともう、私の匂いはしなくなります。ロイクーはひ孫ですから、まだあたしの身内です。でもねぇ、最近は野良猫が減って、だんだん子作りがしにくくなっていますから、結構身内同士で子供を作るんですよ」。

 「それで昨日の大騒ぎがあったわけだ。でも、ロイクーは、屋根から真っ逆さまに落ちて、相当体を地面にぶつけたみたいだよ」。

 「だから間抜けなんですよ。猫ともあろうものが、何があったって屋根から落ちそうになったなら、受け身をして体を交わせばいいじゃないですか。壁に激突して、地面に落ちるなんてあまりに無様ですよ。あんな質(たち)の悪い野良猫にうちの娘はやれませんよ」。

 「同じ野良猫でもいろいろあるんだねぇ。でもねぇ、お前がそうして初音ミケにくっついて回っていたら、ミケの彼氏何かいつまでたってもできないんじゃないか」。「いえ、実はもうミケには彼氏がいるんですよ」。「ロスケかい?」。「いえいえ、ロスケは全然外に出られませんからダメですよ。実は高円寺北に猫好きな奥さんがいましてね。その奥さんが黒と白のオスのニケ猫を飼っているんです。これがなかなか近所で評判の猫で。毛並みもいいし、飼われている猫ですから性格も素直でね。高円寺猫同士会では評判の猫なんですよ」。

 「高円寺に猫同士会って言うのがあるんだ、知らなかったなぁ」。「あります。あたしはその会の理事です」。「偉いんだねぇ」。「いえ、ほんのご近所猫の集まりですが」。オヤミケは少し照れて見せた。

 「その高円寺北のニケ猫には興味あるなぁ。初音ミケとどういう関係なのかな」。

 「娘に言って、一度連れてくるように言いますよ。いい猫ですよ。娘ももういい歳ですから、いつまでも野良猫をしていても苦労が絶えませんから、ここらで養い親を探して、夫婦仲良く暮らしていけたらいいと思うんです」。

 「随分先々まで心配してやっているんだねぇ。そのニケ猫とミケはいい仲なの?」。「とてもいいですよ。猫の名前はオクゲと言います」。「オクゲ、代わった名前だね、どんな字を書くの」。「字は知りません、あたしは猫ですから。でもとてもいい猫です。週に二回ほど外に出してもらえます。家に帰って来た時には奥さんが、すぐにオクゲを風呂に入れて体を丁寧に洗っています。だから蚤なんか一匹も付いていないし、いつも奇麗です」。

 「いい家の猫なんだねぇ」。「娘に話しておきますよ」。

 それから数日して、初音ミケがやってきた。「どうも久しぶりです」。「オヤミケから聞いているよ。いい彼氏が出来たそうだね。ロイクーじゃなくてよかったね」。

 「ロイク-何てどうしようもないよ。あいつはあれからいつも東公園にいて、水飲み場の脇で体さすっているよ。何でも屋根から落ちたときに右肩を壊したらしく、満足に歩けないそうよ。餌も取れないから痩せちゃって」。

 「そうなんだ。でも、最近、オクゲとか言う彼氏が出来たんだろ」。ミケはぱっと喜びの表情を見せて、「そう、いい猫よ。高円寺界隈では一番の猫」。「一度会わせてほしいね」。「えへへ、実は、今日連れてきているの」。「えぇ、どこに」。「あの自転車置き場のところでずっとこっちを見てるの。恥ずかしいんだって」。

 ドアを開けて、向いの自転車置き場を見ると、黒白の猫が座ってこっちを見ています。全体に黒掛かっていて、背中に大きな白い紋があります。確かに見た目に高級感を感じます。

 「ね、きれいな猫でしょう?」。初音ミケが気に入るのもわかるような気がします。黒毛に艶がありますし、顔立ちもいい顔をしています。体が総体黒くて、背中と足先だけが白です。足先は、うまい具合に四本の足先が白くなっていますから、まるで足袋を履いたように見えます。

 「足先が白いのが奇麗だね」。「でしょう。それと、目の上に小さな白い斑点があるの、これが昔の御公家さんみたいで、育ちの良さを表しているの」。

 言われてみれば、小さな白い点が目の上にあって、昔の公家がしていたような書き眉毛のようになっています。

 「なるほど、それで名前がオクゲなのかぁ」。「ようやくわかったようね」。「うまく行くといいね」。「有難う。私はもっとここに住んでいたいけど、オヤミケのことを思うとどちらかが出て行かなけらばならないから、こうするしかないの」。

 「で、いつから向うの家に住むの」。「今日これから、オクゲが帰るときに、一緒に家に行ってみる。上手く家の中に入れてもらえたらそのまま住もうと思っているんだけど」。「勝負だね。うまく行くといいね」。「有難う。向うに住んでも時々来るからね」。初音ミケはオクゲと楽しそうに走り去って行きました。

続く

富士から小田原へ

富士から小田原へ

 

 一昨日(7日)は朝から富士の指導でした。そしてその翌日(8日)に、小田原奇術クラブの発表会があり、そこに、富士クローバーズの会員さんの、加藤弘さんと、近藤路子さんが出演するため、富士はみんなで応援に行くことになっていました。

 私は、小田原の奇術クラブの会員さんとは昔から何人かお付き合いがありながら、今まで小田原の発表会に伺ったことがなく、富士の指導と、会員の応援がてら、富士の帰りがけと言うこともあり、富士で一泊した上で、小田原行きを決めました。

 さらに小田原奇術クラブののゲストとして、名古屋のみずほさんと言う、和妻をする女性マジシャンが出演すると聞き、拝見したことのない和妻ですから、ぜひ見たいと言うことで今回の日程になりました。

 

 私が富士に泊まるとなったときに、富士では夜に食事会を催してくださいました。有志十数人が集まり、富士川沿いにある会場に集合。この店のオーナーが木彫のコレクターで、たくさんの珍品に囲まれた会場で、久々和気あいあいと食事を致しました。

 私は、クローバーをご指導する20年ほど前からSAMの富士支部でご指導をしていまして、その時の仲間も久々集まり、賑やかな宴会になりました。

 ホテルに戻ると、舞台のこと、秋の大阪のマジックセッションのこと、日本橋アゴラカフェのことなどでメールがたくさん来ていました。事務仕事をかたずけていると深夜1時を過ぎました。「少し寝よう」と、就寝。然し、翌朝5時30分に目が覚めます。そこでコーヒーを沸かし、少し本を読み、朝食後、デスクワーク。

 毎月東京に習いに来る望月由紀子さんと一緒に10時13分の新幹線で小田原へ、他の富士の会員さんは、自動車に乗り合いで出かけたようです。由紀子さんは私が小田原でまごつかないよう付き合ってくれたのです。

 11時小田原着。駅が新しくなって、以前の小田原のイメージとは全く変わってしまっていました。駅前の蕎麦屋に入ります。早めの食事を済ませて、ぶらぶら駅前を散歩しました。その後、12時45分、市役所に隣接する生涯学習センターに入ります。会場は500人くらい入る大きな会場でした。

 さて座っていると昔、各地のコンベンションなどでお会いした人がたくさんいらしていて、随分なつかしい思い出が甦(よみがえ)って来ました。私はめったにアマチュアさんの発表会には行きませんが、たまに拝見することは、人と会って昔話をしたりして、忘れていたことが思い出され、これはこれで大切だと思いました。

 

 13時30分ショウ開始。一本目が富士の加藤弘さん。傘出しと和蒸籠の演技。昨日は加藤さんの演技を何度も拝見して、小さな手直しをしました。その甲斐あってか、よい出来でした。

 二本目は、92歳と言う石井清次さんは、今は珍しいシルクキャビー。飯田忠明さんは大きなダイスのカラーチェンジ。石塚芳子さんはフラワーリング。熊倉より子さんはパラソルプロダクションに衣装チェンジ付き。倉持勝さんは如意独楽。ここで一部の休憩。

 二部の初めは会長の古谷敏幸さん、鳩出しなど手慣れていて、安定しています。松下峰子さんは、洋装の半纏姿で和蒸籠。山口喜美子さんはアクリルの小箱の中にミリオンフラワーの入ったものをたくさん出し(このマジックはよく見ます)、お終いは無双引き出し。武田亮さんは三本ロープとリングとロープ。地味な手順ながら長くマジックを続けていることが良くわかる演技でした。

 11本目は富士の近藤路子さん。シルクのアラカルト。東京のマジックマイスターでも演じた演技。安定した好演技でした。12本目は原善治さん、ヒンズーバスケット。マジックがお好きなことが良く伝わってくる演技でした。

 皆さんが実に楽しそうにマジックをしているのが好感が持てました。ただ、若い人がいないことが寂しく思います。小中学生にマジックの面白さを広めて、後継者を作らなければいけないと思います。

 ここまで済んで4時でした。お終いは、ゲストのみずほさん。以前からうわさは聞いていたのですが、拝見するのは初めてでした。名古屋にお住まいで、セミプロ活動をされていると伺いました。どんな内容か興味がありました。休憩時間に楽屋に伺うと、昔アヒル出しでおなじみだった鈴木元さんがいらっしゃいました。懐かしい先輩です。みずほさんはゲンさんのご指導で手順を作ったようです。

 その演技は、阿波踊りの鳥追いの被り物でミリオンフラワー、そこから被り物を取って、四つ玉の玉の扱いがあり、シルクの演技が幾つか入ります。但しどれも西洋マジックです。和妻の演技やハンドリングはありません。和の演技を期待していましたが、この演技は、創作和風マジックなのでしょう。

 背景に使っていた屏風を畳んで広げると、景色が変わります。裏に回って、屏風を突き破って出て来ると、花魁姿に変わっています。シルク演技から大幕が出て。大幕の真ん中から顔を出してポーズ。大幕から顔を出すところは、確かにアヒルのゲンさんの指導が生きています。衣装変わりから大幕まで、大がかりな演技で楽しく拝見しました。

 終演4時20分。ここで私はフィナーレを拝見する時間もなく、急ぎ新幹線に乗って東京に戻らなければなりません。

 タクシーで小田原駅に、望月由紀子さんはお終いまで付き合ってくれました。5時10分の新幹線に乗り、5時50分東京。今日は母の日です。途中でカーネーションを買いました。6時40分に帰宅。実は、8時から個人指導があります。わずかな時間に、娘と女房がうなぎを買って待っていてくれました。母の日の祝いです。うなぎは女房の大好物です。じっくり味わう間もなく、慌てて食事を済ませて、指導。

 結局、一昨日の午前10時から、用事がずっとつながって、今夜の11時になってようやく自分の時間が取れました。さて、小田原の発表会のことを書こうかな。と思って、パソコンを広げました。昨日書いた初音ミケが400人近い反応が出ています。「こんな内容を皆さんは好むのか」。少し嬉しくなりました。

 さて今日のブログを書き始めたところで、少し疲れが出ました。「今日は寝よう」。書きかけのまま寝室に上がりました。「どうせ朝5時には目が覚めるからまた書けばいい」。深夜12時。たちまち熟睡でした。用事が多く少々疲れましたが、楽しい2日間でした。

続く