手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

初音ミケ 4

初音ミケ 4

 

 このところ初音ミケが見当たりません。私が関西の指導などで留守をしている日もあったので留守中に尋ねて来たのかも知れませんが、少なくともこの7日間見ていません。以前ちょろちょろ顔を出していた、ロスケもロイクーも、初音ミケがいないとなると、まったく顔を見せなくなりました。

 初音ミケの留守を、オヤミケが守っています。毎日屋根の上で日向ぼっこをしています。オヤミケはどうやらこの場所を自分の住処(すみか)と決めたようです。オヤミケの一日のスケジュールは単純なもので、午前中いっぱいは裏のアパートの屋根の上で昼寝をしています。昼過ぎてから、町内をパトロールします。夕方以降は、裏のアパートの住人が用意してくれた、小さな段ボール箱の中で寝ています。

 パトロールはどこまで行くのかはわかりませんが、私の家の前には必ず来て、ドアの換気窓が開いているときには必ず中を覗きます。

 その時、オヤミケは義理堅く、「にゃー」、と鳴いて挨拶をします。「何だ、ミケか」、毛はだいぶ抜けています。色艶もあまりよくはありません。「餌は毎日食べているの?」。「はい、それは大丈夫です。良くしてもらっています。ただ年を取ると、動き回ることも億劫で」。「そうみたいだねぇ、いつも屋根の上にいて、じっとしているものね。ところで娘の初音ミケは最近見ないけどどうしたの」。オヤミケは何も言いません。「最近は、初音ミケを追いかけてきたロイクーも、ロスケも全く見なくなったね」。

 「ロイクーは東公園の近くの野良猫です。あたしの遠い親戚です。まだ二歳ですょ。最近色気づいて、娘のミケに寄ってきています。あたしはあいつは調子ばかりよくて嫌いです。ロスケは中野の住宅街の相当いい家で飼われています。あの家は放し飼いはしませんし、ここまでは遠いから滅多には来れません。この間は逃亡してきたのでしょう。ロスケの住処は私が世話になっていたお婆さんの家の近所です」。「へぇ、お前は中野で暮らしていたのかぁ」。

 「えぇ、親切なお婆さんがいたんですよ。別に飼われていたわけではなかったんですけどね、毎日餌をもらって、時々あったかいお湯で行水もしてもらいました。濡れた体を温めるために、こたつの中にも入れてくれました」。「いい身分だね」。オヤミケは少し上を向いて、「えぇ、お婆さんはとてもいい人でした。大きな家に一人で住んでいましたが、先月亡くなりました」。「そうだったのかぁ。お婆さんが死んだらお前も生きて行くのに困るね」。オヤミケは下を向いて、「えぇ、お婆さんもそう言っていました。『あたしがいなくなったらどうやって生きて行く?』って聞かれましたよ。でもねぇ、そう言われても猫が、『はい、それじゃぁこの先は技術を身に付けて生きて行きます』なんて言えませよねぇ。猫ですから、あたしは裏のアパートに暮らしている美佐子姉さんのところに戻ったんです。元々あたしはこの美佐子姉さんのところで生まれ育ったんですから」。

 オヤミケは饒舌になり話が止まらない。「美佐子姉さんは、昔、山形から出て来て、ずっと今も事務をしています。毎朝、煮干しや、キャットフードを濡れ縁にある皿の上に置いといてくれます。そして美佐子姐さんは会社に行き、夜遅く帰って来ます。姉さんの帰宅時間さえ間違えずに毎晩、顔を出していれば、姉さんは毎日餌を用意してくれますし、ブラッシングもしてくれます。ただねぇ、ここは数年前に娘に譲った住処です。一度譲ったところに戻って来たため、結局、娘のミケを追い出すことになりました。ミケは仕方なく高円寺の北口の住宅街の方で住処を探しています」。

 「猫の生活も大変なんだねぇ。そうだったのかぁ、で、住処は見つかったの?」。「それが難しいんですよ。せっかく親切な人が見つかって、餌にありつけたと思ったら、近所の人が通報して、捕獲員を呼ばれて、すんでのところで捕まる所だったんですよ。ミケはうまく逃げおおせたんですが、もう近所には戻れません。仕方なくもう少し奥の方の家を探しています」。

 「そうか、それで最近見なかったんだなぁ」。オヤミケは一通り喋ると。軽く会釈をして、やおらパトロールに向かいました。その翌日、今度は初音ミケがやって来ました。

 「昨日、お前の母親とお前の話をしていたんだよ。なかなか住処が見つからないようだね」。「上手く行かないことばかり。困ったわ。ねぇ、あたしをこの家で飼ってくれない」。「そんなの無理に決まってるだろう。お前たち親子が二階の玄関でおしっこをするものだから、すっかり女房が怒ってしまって、猫は目の敵だぞ」。「だからさぁ、飼ってくれなくてもいいから、段ボール箱の寝床と、毎日の餌だけはちょうだいよ」。

 「何調子のいいことを言っているんだ、それが無理なんだよ。お前たちは嫌われているんだぞ。飼ってもらえるわけはないだろう」。「そうなんだ。上手く行かないな」。と、ミケは不満そうに去っていきました。そのあと、裏のアパートの屋根に上がって、親子で日向ぼっこを始めました。そこへ、細身の黒猫が表を素早く通り過ぎました。「あ、ロイクーだ」。ずっと初音ミケをつけ狙っていたようです。

 

 一階のアトリエの奥に小さな書斎があります。そこの窓から裏のアパートの様子がよく見えます。天気のいい日は、私は窓を少し開けて、風を入れながら、書き物をします。昨日の朝、屋根の上にはミケ親子が転がっていました。「このまま親子で暮らすのかな」。と思っていると、今朝はオヤミケがいなくなりました。

 この日は朝から初音ミケだけが屋根の上にいます。午後になって、ロイクーがやって来ました。素早い動きです。ロイクーはアパートの下、私の書斎の前に座っています。そこから奇妙な声でミケに愛を語ります。甘い声で、語尾を伸ばしてラブソングを歌います。

 ミケは全く相手にしません。ロイクーは諦めず、裏の塀を登り、塀からアパートの庇に上がり、庇から屋根に上がって来ます。そして注意深くミケに近づいてます。するとミケは背中の毛を総立ちにしてロイクーに敵意を見せます。ロイクーは若いためか少しひるみます。それでも少しづつ進んできます。甘いラブソングは続きます。

 「あぁ、これが盛りと言うやつか」、猫の盛りをまじまじと見ることになりました。でも、ミケはロイクーが嫌いなようです。どうなるのかと注視していたら、いきなりオヤミケが飛び出してきて、ロイクーに飛び掛かり、猫パンチを数発食らわせました。ロイクーがびっくりして、屋根から落ち、私の書斎の壁にぶつかって地面に激突しました。ものすごい音でした。

 ロイクーは素早く逃げてどこかに行ってしまいました。屋根の上では何事もなかったかのように親子が寝そべっています。私が一部始終を見ていたことを、オヤミケが気付くと、オヤミケは恥ずかしそうな顔をして「ニャー」と言いました。

続く

 

第19回マジックマイスター

第19回マジックマイスター

 

 去る5月1日、武蔵の芸能劇場で第19回マジックマイスターが催されました。客席は8割の入り、以下はその内容と感想。

 午前10時から出演者が集まり、先ずはリハーサル。間に昼食をはさんで、14時30分にリハーサル終了。

 16時には開場をして、お客様入場。そして16時30分からショウ開始。司会者は前半が早稲田康平さん。後半が前田将太。

一本目はちゃぶるさん。セクシーと言うタイトルで、体に香水を吹き付けながら、ボールや花を出すナルシスト手順。お終いに大きな花束を出して、更に自分をアピールして終わり。いい手順です。間にスローアクトを加えたり、後半に別のアクトを足したりして、8分くらいの手順にしたなら、もっともっとあちこちに売り込めるのですが・・。

 二本目は小林拓馬さん。手馴れたカードマニュピレーションです。見ていて安定感があります。演技全体にマジック愛が感じられます。いい演技です。特に後半の畳み込みが以前よりも効果を上げています。もう少し別の素材とコラボして、手順に変化を付加したらいいマジシャンになるでしょう。

 三本目は高橋正樹さん。お喋りを交えてのお札の手順。アマチュアイズム健在です。これはこれで完成された芸能だと思います。

 四本目は富士のクローバーズマジッククラブから、近藤路子さん。シルクの出現から、大きくなるハンカチ、そこから花が出現。連鎖シルク、20世紀シルク。お終いは大きな赤いブーケが二つ出現。巧くまとまっていますし、安定して演じています。巧いマジシャンです。

 五本目は同じく富士のクローバーズから、磯部利光さん。高齢ながら、ステッキのプロダクション、四つ玉、ピラミッドと、スライハンドを手掛けます。とても巧く演じています。服装にも気を使っていてお洒落です。

 六本目はやはり富士から、スマイル藤山さん。演目は今では珍しくなったメリケンハット。きっちりとしたやり方で演じる人が殆ど見なくなりましたが、こうして丁寧にやるととても不思議な演技です。サッチモのディズニーソングでいろいろなものを出すのがいいセンスです。

 七本目は堀内大助さん。横浜国大を卒業して、一時プロマジシャンになったのですが、今は会社勤めをしています。初めが5本ロープを喋りで演じましたが、この喋りがとても上手です。やはりプロ活動をしていた時の技が生きています。後半は峯村氏直伝のカラーボールのプロダクション。随所に珍しい手順が出て来ます。技法も難しく、マニアは大喜びです。できればもう少し演技に花があれば、後半盛り上がるのですが。ちゃぷるさんの芝居っ気が加味されればいいマジシャンになります。

 八本目は小松真也さん。京都の同志社大学を卒業して、今は東京で勤めています。コインのプロダクションから後半はお札のプロダクション。技のうまさは毎回感心します。ミスもなく、不思議な技を見せてくれます。もう少し時間的なボリュームが出て来たなら、あちこち仕事を紹介できるのですが・・・。

 9本目は諭吉さん。初音ミクのお宅マジック。毎回客席をひっくり返すほど受けますが、今回は少し抑え気味で、おとなしい演技になりました。遠慮しないでばかばかしくやってくれたらいいのに。また、もう少しいろいろなマジックを見せてくれたら、ファンもたくさん付くと思います。小松さん同様、4分程度では短かすぎます。6月からのアゴラカフェの出演が楽しみです。

 ここで15分間の休憩。

 後半一本目は前田将太。ブーツを履いて、着物袴姿。明治の文明開化を思わせる服装です。シルクや、羽を扱いつつ和傘が出現。時間が2分半くらい。短すぎます。内容も中途半端。もう少し何とかしなければいけません。

 二本目はローマさん。群馬から、高校三年生。演目は陰陽水火(おんみょうすいか)の術。真田紐の焼き継ぎです。シルクの出現、真田紐の焼き継ぎは上手く演じていましたが、後半の紐抜けが絡まってしまい抜けません。このまま途中でやめてしまうかと思いきや、紐をほどき始め、次の絹帯のプロダクションにうまく繋げました。そして和傘の出現で上手に見得を切り、お終い。いい度胸です。最悪の状態から舞台を投げないところが素質があります。

 三本目は私のアシスタントをしている穂積みゆきさん。袖卵。当人は袖卵の演技が気に入っているようです。とても手慣れています。着物もきれいに着付けていて、型も完成されています。もっと欲を出したらいいマジシャンになれます。

 四本目は名古屋から小川慶子さん。昔風の口上を交えての若狭通いは珍しく、演じ手が少なくなっています。しっかりとした口上口調で上手く演じています。お終いは半紙から滝を撒いて、そこから晒しの舞。晒はきっちりと踊られて美しくまとまっています。

 五本目は藤山郁代さん。19年間毎年出演してくださいました。初めに傘出しがあって、それから双つ引き出し。おなじみの手順を綺麗に演じています。

 六本目は早稲田康平さん。プロマジシャン。カードマニュピレーションからゾンビボール。ナイトクラブ時代の、スライハンドの王道演技です。巧いマジシャンなのですが、何でも軽く卒なくこなすため、何気に見てしまいます。もっと個性を出して、インパクトを作って拘(こだわ)った演技をすると、やがて名人になるでしょう。

 七本目は私。サムタイと蝶。もうどれくらいこの演技をしたことでしょう。この芸で50年以上も生きて来れたのですから幸せです。

 そしてフィナーレ。19時05分終了。二時間半の長丁場でした。でもお客様が喜んで帰って行って下さったので幸いでした。

 

 今月21日は、最後の玉ひで公演です。いざ終わるとなると感慨ひとしおです。そして6月からは日本橋のマンダリンホテル二階のアゴラカフェでマジックショウが始まります。私は第一回の公演で、6月5日、12時からショウを致します。全く今までと違う雰囲気の会場ですので、どうぞお越し下さい。

 

 9月30日は座高円寺でリサイタル公演を致します。前田将太の出世披露を致します。口上があり、前田の新作手妻の手順お披露目と日本舞踊の披露があります。ぜひこちらもまたお越しください。

 続く

 

島田師のマジック 3

島田師のマジック 3

 

 師は、その後、知名度が上がると、仕事の規模が大きくなって行き、世間の要望に応えるために、ドラゴンイリュージョンを製作します。ドラゴンとは、傘出しの後、背後から大きな竜が現れ、般若の面をかぶった島田師が刀を抜いて竜と格闘し、竜を倒したとみるや、竜は島田師になり、面をかぶった島田師はディアナさんだったと言う、入れ替わりマジック。

 エキゾチックで大きな装置です。師はこの作品を気に入っていたようで、その後もたびたび演じていました。私は、このドラゴンイリュージョンを、昭和53(1978)年、日本テレビ開局25周年記念世界マジック大会で生を見ています。

 いろいろな意味でこの時が師のピークだったように思います。この時、コンテストの審査員に初代引田天功さんが出ていました。然し、ロビーでの一般客、或いは海外マジシャンからの人気は100%島田師に集中し、島田師の周囲には多くのファンが集まり、逆に天功さんは日本を代表するマジシャンでありながら、ソファーに一人座っていて、まったくローカルマジシャンのような扱いでした。

 長らく、国内では天功さんの人気の下で、日の目を見なかった師が、ようやく天功さんを超えた瞬間でした。この光景は象徴的でした。実際このころの天功さんは人気凋落が激しく、体力的にも、心筋梗塞を患い、かつての強気な姿は見えませんでした。天功さんは翌年1979年に45歳で亡くなります。

 ドラゴンは師にとって象徴的な作品となります。ドラゴンがもし優れたイリュージョンであったなら、その後の師の人生は、ちょうどランスバートンが鳩出しで人気を得たのち、イリュージョンを始めて成功して行ったように、イリュージョニストとしての地位を確立したでしょう。

 実際、その後、師はラスベガスでの5年間もの単独出演などを果たし、大きく活動して行きますが、単独公演では、当初、鳩出し、傘、ドラゴン、と師のマジックの全てを見せたのですが、途中からドラゴンは中止となり、内容はレビューショウに変わり、マジックは鳩と傘の二作のみとなってしまいます。この頃から色々な面で師の活動にブレーキがかかります。

 私はドラゴンを初めて見たときに、「島田さんはイリュージョンの人ではないなぁ」。と感じました。鳩や傘の手順ではきわめて精緻な作り込みをした人が、ドラゴンは大雑把であり、肝心のマジック部分に不思議さが感じられなかったのです。それでも当時の師には勢いがありましたから、マジックファンは熱狂していましたが、これでイリュージョンの道に進むのは難しいのではないか、と思いました。

 

 実際、人気の絶頂期を迎えた80年代に至って、師は迷走の時期に入ります。アメリカで様々な問題が出て来ます。ディアナとの離婚があり。キャッスルのビルラーセン夫妻との仲たがいが生じ、多くのアメリカのマジック関係者ともうまく行かなくなり、一時期は四面楚歌の状況に陥ります。

 無論、舞台活動はずっと続いていたのですが、その後、徐々に、師は、イリュージョンを諦めるようになり、鳩出しと傘に専念するようになります。更に師は、傘出しにも疑問を感じ始めたようです。

 この時期、頻繁に日本に訪れるようになり。私は、一度お会いしたことがありました。かつて、マジックキャッスルでお会いした時は、まるで帝王のような態度で、若手を見下して、天功さんが乗り移ったかのような印象を受けたのですが、この時期になると、有楽町の焼鳥屋の居酒屋で、人恋しさからか、ひたすら話し相手を求め、私のような者にまで、心の内を少しずつ吐露するようになりました。

 

 この頃、師は何を考えていたのかと推測すると、拡大して行く発想をやめて、全てを捨て去って、マジックの原点に戻ろうとしていたのではないかと思います。傘出しは、元々、海外で自分を売り出すための手段でした。からの手から大きな傘が出て来るのは素晴らしい発想だったのですが、手順として見せるとなると、たくさんの傘を隠しておかなければならず、演技に無理がかかります。そうなるとどうしてもスライハンドとしての完成度が落ちることになります。

 師が、大きな傘をダイレクトに出す手順を発表すると、世界中の若手マジシャンが、同様に大きな素材を、ただひたすら取り出すマジックをするようになります。ある意味、島田師の影響でスライハンドが崩れて行ったのです。すべて師の影響だとは言えませんが、それまでの地味なスライハンドが、大きな素材を出し、花火や、ドカンと言う効果音を使って、過剰にインパクトを追いかけることが流行し、それがためにスライハンドの寿命を縮めて行く結果になりました。

 これ以後、師は、傘をあまりやらなくなり、鳩出しに専念するようになります。そうした中、師の演技が変わったと言う話を頻繁に聞くようになります。どう変わったのかと聞いても、はっきりとした答えが聞けません。手順は変わっていないと言います。私に取っては大変に興味です。そこで、

 平成6(1994)年、SAMジャパンのマジックコンベンション九州大会に師を招き、演技を拝見しました。その演技は、ほとんど昔見た手順と変わりはありませんでした。然し、若いころと違い、奇抜さやインパクトを追いかけることをしなくなり、今まで、自身のしてきたことを述懐し、まるで、一つ一つの演技を自分自身で楽しんでいるかのような演技になっていました。雰囲気全体は一層彫が深くなり、テンポはゆっくりになり、マジックをしつつもマジック的な要素は消え去っていました。

 拍手を取るための、師独特の、あくの強い表情は消え失せ、何から何まで自然に流れて行きます。カードの連続出しは、晩秋の落ち葉のようで、物の哀れを感じました。

 気付くと九州の観客はみんな涙を流して見ています。司会のマーカテンドーさんまでもが涙で顔がくしゃくしゃでした。驚きました、鳩とカードを出す、ただそれだけのマジックにみんな涙を流しているのです。私は「あぁ、島田さんは一格上の人になったんだなぁ」。と思いました。

 師はこのころ、頻繁に芸術家になりたい。と言っていました。全てを捨て去って、師はようやく自分自身が成りたいものになったのです。それは45歳で亡くなった引田天功には生涯到達できなかった世界です。喜びも悲しみも、欲も名誉もすべて捨て去った先に残った師の根源の芸術だったのです。

島田師のマジック終わり。

 

1997年に、NHKラジオ深夜便に収録された、島田師の半生を語ったインタビューを張り付けておきます。

 

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島田師のマジック 2

島田師のマジック 2

 

 1960年代の半ば、師はなんとかアメリカで活動したいと思い、メキシコまで出かけて、メキシコで活動を続け、アメリカ入国を狙っていました。然し、メキシコではいい仕事場が見つかりません。やむなく一度ヨーロッパに渡り、芸能事務所に売り込みに行きます。

 師の鳩出しは素晴らしいものでしたが、鳩出し全盛の時代に、ブロマイド写真を持ってロンドンや、パリの芸能事務所に売り込みに行っても、鳩が映っている写真を見ただけで、どこも買ってはくれませんでした。「鳩出しマジシャンはたくさんいるんだ。君は日本人?だったら何か日本的なマジックはやらないの」。

 そう言われてもいきなり和妻は出来ません。然し、「何か日本のマジック」、と言われたことが頭から離れません。ヨーロッパの町を歩いているときに、土産物屋で売っていた和傘を何本か買いました。これで何とかならないかという、一縷(いちる)の思いでした。この傘がのちに大成功の基になります。然し、今現実の舞台チャンスは手に入らず、旅の途中で要らぬ荷物を増やす結果にしかなりませんでした。そして、全く収穫のないまま、メキシコに戻ります。

 メキシコでは偶然にも、テレビのレギュラー番組がもらえ、毎週数分マジックをすることになりました。あれこれ見せているうちに自分のレパートリーは徐々になくなってしまいます。やむなく、以前に買った和傘をあれこれいじってみます。傘にゴムを付けて、自動に開くアイディアを思いつきます。

 傘が自動で開けば、傘の柄を持たなくても、轆轤(ろくろ=傘の軸)を握って空中で手を緩めれば、ぱっと傘が開くことを発見しました。「これならスライハンドで傘を出せるかも知れない」。すぐに日本から着物を取り寄せて、初めは三本の傘とシルク、ミリオンフラワーなどを組み合わせて3分の手順を作ります。

 それを、物は試しとテレビにかけると、ものすごい反響がありました。そこで和傘の第二弾を考えます。今度は鳩出しのオープニングに使っているトーチを持って出て来て、トーチが傘になると言うアイディアを考えました。そしてスライハンドで空中から次々に傘を出し、火の付いた骨の扇子を出したり、ひょっとこのお面の口からシルクが出て来たり、とにかく3分の手順を作ります。これも大成功です。更に、日本からあらゆる和の道具を仕入れます。如意独楽も取り入れて見たりしたそうです。

 このメキシコのテレビ番組はワイドショウで、昼の間、数時間続く番組でした。たまたまこの番組にアメリカからスライディーニが来て出演しました。スライディーニは師の和傘の手順を見て、「これは面白い、アメリカに持って行けばきっと受けるよ。ミルトラーセンが若いマジシャンを探しているから話してみるよ」。と言ってくれました。実際スライディーニはすぐにミルトに連絡を取り、この年、1071年。ロサンゼルスの劇場で開催されるイッツマジックに出演が決まります。

 これから師は、いくつか作った和傘の手順を一つにまとめ、お終いの三段傘までの大きな流れを作り上げます。

 

 基本的に師の手順は、鳩出しがベースになっています。時間的な進行は鳩出しそのものです。鳩の出る部分がそっくり和傘になっただけと言ってもいいでしょう。ベア出し(ダイレクトに鳩が出て来る技法)を傘に置き換えて、空中をつまむとパッと傘が咲きます。

 前半は次々と傘が出て、途中、扇子の色変わりから、火を扱った扇子のアクトがあり、そこから一転してひょっとこのお面で踊りを踊って、ミリオンフラワー。口からシルクを出し、シルクからまた傘を出す、そこから大きな傘が出て、それが三段傘につながって終わり。静の鳩出しに対して、動の和傘。洋に対して和。一見つながりがないように見えますが、形式は同じです。ついに師は、独自の世界を作り上げました。

 まったく手妻を演じたことのないマジシャンが良くここまで和の手順を作り上げたと感心します。しかも、この手順には、全く古典の手妻の要素がありません。傘の出し方も、形の取り方も、全く島田師のオリジナルです。後に手妻を知る人たちが、手妻の型を引き合いに出して、「体の動きが出来ていない、型が出来ていない、踊りが出来ていない」。などと批判するのは見当違いです。

 これは飽くまで師のオリジナルマジックです。師自身も、傘出しを、ジャパニーズスタイルマジックと称して、和妻、手妻とは言っていないのです。この傘手順がアメリカで大喝采で受け入れられたことは言うまでもありません。

 

 私は師の傘出しを1974年に、日劇の春の踊りのゲストショウで見ています。空中を掴むとパッと大きな傘が出て来るのが鮮烈で、これまでの手妻とは全く違います。まるで、四つ玉やシガレットを見慣れていた愛好家が、いきなり鳩出しを見たときに受けた様な強烈な印象と重なりました。

 その時私は大学生で、午前中のショウを見て、客席の入れ替えの時にはトイレに籠って、二回目のショウが始まると客席に戻って見ていました。結局一日中、日劇にいて、三回ショウを見続けました。

 ショウのメインは金井克子さんでしたが、一日三回ショウを見た後には、金井克子さんの「他人の二人」はそらで歌えるようになっていました。その話を昨年金井克子さんに、パーティーでお会いしたときに、お話しましたら大笑いされました。

 師のアクトの素晴らしさは、傘をスライハンドで出したことです。そして、テンポよく、ほとんど間を取ることなく、次々と傘で手順をまとめて行ったことです。空中から出した傘は傘が出たと言うよりも、暗闇の空に花火が咲いたかのように見えました。あの花火が瞬時に開いた印象は強烈でした。

 そもそもスライハンドの芸と言うものは握り拳よりも大きなものは出てこない芸なのです。それが、広げると80センチもある和傘がダイレクトに出て来るのですから、世界中のスライハンド愛好家の、概念を根底から覆してしまいました。たちまち師はマジック界のスターになって行きます。師は、鳩出しと傘出しの二作品を持つに至って、これ以降、テレビ、劇場と忙しく活動することになります。

 但し、師の心の中では、傘出しに関して疑念が生じるようになります。それは傘出しが持つマジックの限界であり、同時にスライハンドに対しての限界でもあったのです。

続く 

(1997年、NHKラジオ深夜便で、4日間にわたって放送された、島田晴夫師の半生を語った録音を張り付けておきます。無許可で出しましたので、すぐに消される可能性があります。興味の方はお早めにお聞きください。ラジオですから、声のみで映像はありません。5月5日のAM9時ごろに貼り付けます)。 

島田師のマジック 1

島田師のマジック 1

 

 昨晩(5月2日)、NHKのアナウンサー、古谷敏郎さんが私と二人で島田師の追悼会をしようと言うことになり、高円寺まで来ていただき、イタリアンレストランでワインを飲みながら思い出話を語りました。いずれにしても、私は島田師の事をまとめてブログにしようと考えていた時でしたので、文章をまとめるためにも、古谷さんとの話は有効でした。以下、昨晩の話のまとめとして、師のマジックがなぜ世界で評価されたのか。また晩年アジアで、なぜレジェンドとして別格の扱いを受けたのか。その二点をお話ししましょう。

 

 強烈なインパク

ポロックが鳩出しを始めたのは1950年代半ば頃。その後1965年に、映画のヨーロッパの夜に出演するに及んで、ポロックの名声は一気に上がり、鳩出しが一躍脚光を浴びたのですが、模倣者が世界中に現れ、鳩の数を競ったりするような粗悪なマジシャンがたくさん出て来て、鳩出しは徐々に飽きられ、やがてポロックは徐々に仕事場を失い、1970年に44歳で引退します。

 この時、鳩出しは欧米ではもう模倣されつくした状況になっていたのです。島田師が仕事を求めてヨーロッパの芸能事務所を訪ねまわっていた1968年頃がちょうどこの時期で、どこの国でも鳩出しマジシャンが山のようにいる中で、東洋の見知らぬマジシャンが鳩出しを売り込みに来ても、欧州では出演の場はなかったのです。

 師が初めてアメリカに入国し、イッツマジックに出演するのは、1971年。その時は傘出しの手順でした。イッツマジックで成功を収めた島田師はラーセン一家の支援によってアメリカに移住することが出来ました。

 この頃のマジックキャッスルには、大きな舞台がなく、毎晩のショウはほとんどがクロースアップでした。当然傘出しを披露することは不可能でした。師はビルラーセンに、「実は鳩出しの手順がある」。と言い、キャッスルの狭い舞台で演じると、またまたロサンゼルスで話題になります。ここからアメリカでは、一度消えかかっていた鳩出しが再び人気を吹き返し、鳩出しマジシャンが増えて行きます。

 鳩出しと言う芸はこうして、10年15年に一度優れたマジシャンが出現するたびに復活し、その都度話題を提供して行くことになります。

 さて師の演技は、芸能界を引退したポロックが見に来て、驚嘆し、その後師を支援するようになります。結果として考えたなら、ポロックの引退後に師はポロックと知り合ったのです。もしポロックが現役のマジシャンだったら師の演技を見て、師の支援を申し出たかどうか疑問です。この数年前、仕事を求めて世界をさまよっていた時間は無駄ではなかったことになります。ではポロックは、師の何を評価したのか。

 実はこの点を私は1980年にビルラーセンさんのお宅でポロックさんに会った際に、話を聞いています。私の質問に対して、ポロックさんは私が日本人であることを考慮して、丁寧で、優しい英語を選びながら、ゆっくり話をしてくれました。

 要約すると、1,技法が個性的で、オリジナリティにあふれている点。2、基本的なテクニックが完成している点。3、表情、スタイルが芸能人として優れている点。の三つを上げました。

 特に1、のオリジナリティに関して言うなら、師の鳩出しは、ポロックさんとはかなり違った技法が使われています。しかも一つ一つのマジックのインパクトが強く、師を見たあとで、ポロックさんの演技を見ると、ポロックさんの演技が随分とスタンダードで古風な演技に見えてしまいます。それだけ師の鳩出しは革新的だったのです。出だしのトーチケーンがステッキに変わり、鳩がいきなりステッキに停まる所。手袋を取って放り投げると鳩に変わり、鳩が空中で逆戻りして来るなど、どれもかなりインパクトが強く、今までにない技法が続きます。

 その後のファンしたカードの後ろから鳩が現れるところなど、次々にオリジナルが続きます。ミリオンカードも両手から出て来ます。左手は天海パームが使われています。(この辺りは、天海師を否定しつつも影響を受けていることが伺えます)。

 ポロックさん曰くは、師が、これまでの鳩出しの模倣マジシャンとはレベルが違うマジシャンだと言っていました。

 さらには、師のスタイルです。師が舞台に現れた瞬間。寂寥感を湛えて、木枯らしの吹く中を、一人逆風に耐えて、歩いて行くような、侍の孤高な姿を見るような、何とも言えない個性が感じられます。

 ポロックがほとんど表情を加えないで淡々と演技をするのは、自身が全能の神であると言うスタイルであり、自身が触れるものすべてに魔法が生まれる。という全知全能のアポロ的な演技です。

 対する師の演技は、笑顔をほとんど見せず、少し寂しげでありながら、人間的で、ひたすら孤独に耐えているように見えます。それがサムライ映画の主人公のようで、アメリカ人にはたまらない魅力なようです。

 こんな表情で見せる鳩出しなど今までになく、十分個性的な世界を作り出しています。こうした点が、ポロックは師の鳩出しに自分と違った世界を見出し、支援したくなったようです。

 実際、鳩出しの系譜は、ポロックから島田、ランスバートン、と受け継がれて行きますが、それは流れとしてみたならそうなのですが、個々に関しては別段技法や秘伝などの継承などがなされたわけではありません。

 私は、島田師の逝去を思うにつけ、直接の継承のないままの鳩出しの系譜を語るのは寂しい思いがします。たとえ数人でも、誰か信じられる後輩を見つけ出して、しっかりとした継承をしてもいいのではないかと思います。世界中のマジック界では実際の継承も行われている人もいるようですが、鳩出しはそうはなっていないように思います。そうした中で鳩出しマジシャンが徐々に消えて行く現状を見ると、これでいいのかと考えてしまいます。この事は明日。傘出しの演技を書いた上で、更にまとめとして書かせていただきます。

続く

 

 

島田晴夫師逝去

島田晴夫氏逝去

 

 昨晩(5月1日)マジックマイスターの公演を終え、 武蔵野芸能劇場から車に乗り込んで帰ろうとしたときに、携帯が鳴りました。電話はNHKのアナウンサー、古谷敏郎さんからでした。「藤山さん、誠に残念なお知らせです。島田晴夫先生が亡くなりました」。私は一瞬絶句しました。

 「一時小康を保って、トイレまでも自分で歩いて行けるようになったのですが、その時、島田先生いわくは、『肝臓の中に癌がたくさんこびりついていて取り除くことは出来ない。腎臓までもが侵されているから、よくなることはないだろう。こどものころ母親に負ぶわれて東京の空襲を逃げ回ったときと、今の状況を考えると、確率でどっちが助かるだろうか。』。と言っていました」。

 私は、「亡くなったのはいつですか」。古谷さん「四時間前だそうです。ロサンゼルスの時間で4月30日の夜11時30分です」。さすが古谷さんはNHKのアナウンサーです。情報の正確さと私の質問にはあらかじめ正確な時間場所、状況を聞いていました。私は、NHKのニュースを全く個人で聴いてしまったことになります。

 島田師の奥さんであるキーリーさんによると、静かに苦しむことなく亡くなったそうです。

 弟子の運転する車の中で、明日は本当は、マジックマイスターのショウの感想を書かなければならないと考えていましたが、急遽特別番組を組んで、島田晴夫師の追悼文を書こうと決めました。

 

 なぜ私が島田師を追悼しなければならないか、というと、私は度々島田師のことを文章にしているためです。奇術雑誌「ザ・マジック」東京堂出版。61号、62号。これは対談形式で、島田師の半生を伺っています。

 その後、昭和の奇術師たちと言う副題で、「タネも仕掛けもございません」(角川選書)。から4人の奇術師の人生を書きました。4人とは、初代引田天功、アダチ龍光、伊藤一葉、島田晴夫の4人です。

 前述の対談の際に集めた資料で、記事に載せきれなかった内容を盛り込み、恐らく師の半生記を書いたものの中では、最も詳しい記録なのではないかと思います。

 残念ながらこの本はもう廃刊です。詳細は古書を探して読んでいただくとして、簡単に師の略歴を伝えると、

 昭和15(1940)年12月19日、東京両国生まれ。父親の仕事で新潟新発田に移り、両親の離婚でまた東京に戻る。昭和30年。渋谷の東横デバートでマジックの販売を見て、サムチップを買い求め、以来マジックの虜になる。

 マジックメーカーのテンヨーの社員となり、当時新富町にあったテンヨーに住み込みで働くようになる。ここでオーナーの松旭斎天洋を知り、以後支援を受ける。同時に、デパートのマジック用具販売をしていた当時学生だった引田天功を知り、天功がプロを目指していることを知って影響を受ける。

 昭和32年三越劇場の天洋大会で、八つ玉を披露し、話題となり、デビューのきっかけを掴む。然し、この成功は先輩の天功の嫉妬を生み、それまでなにくれと親切にしてくれた天功から以後嫌がらせを受けることになる。

 昭和35年石田天海師がアメリカから帰国をし、島田師の八ツ玉を見て感心し、指導を受けるチャンスを得る。幸運ではあったが、習ううちに徐々に天海師との考え方の違いを感じ天海師から離れて行く。

 昭和36年、映画「ヨーロッパの夜」の中でチャニングポロックが鳩出しを演じ、世界の話題となる。天功、島田ともに鳩出しの手順つくりに熱中し、それぞれ鳩出しの演技を完成させて、ナイトクラブなどで活躍するようになる。

 天海師の話を聞くうちにアメリカに憧れるようになり、折からオーストラリアでの公演があって、オーストラリアで活動するようになる。ディアナと言う女性と知り合い恋仲となり、結婚。その後メキシコ、ヨーロッパと活動を広げるが、仕事に恵まれず、苦しい生活をする。

 ヨーロッパの町で、和傘を見つけ。これを使ってマジックをしてみようと考える。メキシコに戻って、テレビで着物を着て和傘を出すと好評で、その情報がロサンゼルスのマジックキャッスルのビルラーセンにまで聞こえ、アメリカに呼ばれる。以後ビルラーセンとその妻のアイリーンの支援を受け、アメリカに定住できるようになる。

 引退したチャニングポロックに会い、ポロックは島田師のマネージメントを引き受ける。ポロックの後継は島田と騒がれるようになる。

 ジョニーカースンショウなどに出演、アメリカでも名前を知られるようになる。ラスベガスで5年間の出演などを果たし、その名を不動のものとする。

 その後妻ディアナと離婚。ディアナの肩を持つキャッスルのアイリーンの支援も絶えて、一時苦境に陥るが、現在の妻、キーリーさんと結婚。キーリーさんの献身的な支援に支えられその後は幸せに暮らしてきた。

 

 10年ほど前に癌を患い東大病院に入院。一時は危ないと言われていたものが奇蹟的に復活。その後、スライハンドマジックが退潮のなか、世界に残された数少ない名人として、主にアジアの中で英雄的な扱いを受けるようになり、マジック大会ではカリスママジシャンとして君臨した。師にとっては幸運な人生と言える。

 2022年4月30日ロサンゼルスにて死去。享年81。

 

 自身のやりたい芸能を続けて来て世界に認められ、生きて来れたのですから幸せな人生です。師の一生を見ると山あり谷あり、簡単な人生でなかったことはよくわかります。然し常に周囲に師を支える人たちがいて、苦労するたびに師の人生は大きくなって行きました。明日は、師のマジックについて細かくお話ししましょう。

 

 師の冥福を祈ります。合掌。

続く