手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

島田晴夫師逝去

島田晴夫氏逝去

 

 昨晩(5月1日)マジックマイスターの公演を終え、 武蔵野芸能劇場から車に乗り込んで帰ろうとしたときに、携帯が鳴りました。電話はNHKのアナウンサー、古谷敏郎さんからでした。「藤山さん、誠に残念なお知らせです。島田晴夫先生が亡くなりました」。私は一瞬絶句しました。

 「一時小康を保って、トイレまでも自分で歩いて行けるようになったのですが、その時、島田先生いわくは、『肝臓の中に癌がたくさんこびりついていて取り除くことは出来ない。腎臓までもが侵されているから、よくなることはないだろう。こどものころ母親に負ぶわれて東京の空襲を逃げ回ったときと、今の状況を考えると、確率でどっちが助かるだろうか。』。と言っていました」。

 私は、「亡くなったのはいつですか」。古谷さん「四時間前だそうです。ロサンゼルスの時間で4月30日の夜11時30分です」。さすが古谷さんはNHKのアナウンサーです。情報の正確さと私の質問にはあらかじめ正確な時間場所、状況を聞いていました。私は、NHKのニュースを全く個人で聴いてしまったことになります。

 島田師の奥さんであるキーリーさんによると、静かに苦しむことなく亡くなったそうです。

 弟子の運転する車の中で、明日は本当は、マジックマイスターのショウの感想を書かなければならないと考えていましたが、急遽特別番組を組んで、島田晴夫師の追悼文を書こうと決めました。

 

 なぜ私が島田師を追悼しなければならないか、というと、私は度々島田師のことを文章にしているためです。奇術雑誌「ザ・マジック」東京堂出版。61号、62号。これは対談形式で、島田師の半生を伺っています。

 その後、昭和の奇術師たちと言う副題で、「タネも仕掛けもございません」(角川選書)。から4人の奇術師の人生を書きました。4人とは、初代引田天功、アダチ龍光、伊藤一葉、島田晴夫の4人です。

 前述の対談の際に集めた資料で、記事に載せきれなかった内容を盛り込み、恐らく師の半生記を書いたものの中では、最も詳しい記録なのではないかと思います。

 残念ながらこの本はもう廃刊です。詳細は古書を探して読んでいただくとして、簡単に師の略歴を伝えると、

 昭和15(1940)年12月19日、東京両国生まれ。父親の仕事で新潟新発田に移り、両親の離婚でまた東京に戻る。昭和30年。渋谷の東横デバートでマジックの販売を見て、サムチップを買い求め、以来マジックの虜になる。

 マジックメーカーのテンヨーの社員となり、当時新富町にあったテンヨーに住み込みで働くようになる。ここでオーナーの松旭斎天洋を知り、以後支援を受ける。同時に、デパートのマジック用具販売をしていた当時学生だった引田天功を知り、天功がプロを目指していることを知って影響を受ける。

 昭和32年三越劇場の天洋大会で、八つ玉を披露し、話題となり、デビューのきっかけを掴む。然し、この成功は先輩の天功の嫉妬を生み、それまでなにくれと親切にしてくれた天功から以後嫌がらせを受けることになる。

 昭和35年石田天海師がアメリカから帰国をし、島田師の八ツ玉を見て感心し、指導を受けるチャンスを得る。幸運ではあったが、習ううちに徐々に天海師との考え方の違いを感じ天海師から離れて行く。

 昭和36年、映画「ヨーロッパの夜」の中でチャニングポロックが鳩出しを演じ、世界の話題となる。天功、島田ともに鳩出しの手順つくりに熱中し、それぞれ鳩出しの演技を完成させて、ナイトクラブなどで活躍するようになる。

 天海師の話を聞くうちにアメリカに憧れるようになり、折からオーストラリアでの公演があって、オーストラリアで活動するようになる。ディアナと言う女性と知り合い恋仲となり、結婚。その後メキシコ、ヨーロッパと活動を広げるが、仕事に恵まれず、苦しい生活をする。

 ヨーロッパの町で、和傘を見つけ。これを使ってマジックをしてみようと考える。メキシコに戻って、テレビで着物を着て和傘を出すと好評で、その情報がロサンゼルスのマジックキャッスルのビルラーセンにまで聞こえ、アメリカに呼ばれる。以後ビルラーセンとその妻のアイリーンの支援を受け、アメリカに定住できるようになる。

 引退したチャニングポロックに会い、ポロックは島田師のマネージメントを引き受ける。ポロックの後継は島田と騒がれるようになる。

 ジョニーカースンショウなどに出演、アメリカでも名前を知られるようになる。ラスベガスで5年間の出演などを果たし、その名を不動のものとする。

 その後妻ディアナと離婚。ディアナの肩を持つキャッスルのアイリーンの支援も絶えて、一時苦境に陥るが、現在の妻、キーリーさんと結婚。キーリーさんの献身的な支援に支えられその後は幸せに暮らしてきた。

 

 10年ほど前に癌を患い東大病院に入院。一時は危ないと言われていたものが奇蹟的に復活。その後、スライハンドマジックが退潮のなか、世界に残された数少ない名人として、主にアジアの中で英雄的な扱いを受けるようになり、マジック大会ではカリスママジシャンとして君臨した。師にとっては幸運な人生と言える。

 2022年4月30日ロサンゼルスにて死去。享年81。

 

 自身のやりたい芸能を続けて来て世界に認められ、生きて来れたのですから幸せな人生です。師の一生を見ると山あり谷あり、簡単な人生でなかったことはよくわかります。然し常に周囲に師を支える人たちがいて、苦労するたびに師の人生は大きくなって行きました。明日は、師のマジックについて細かくお話ししましょう。

 

 師の冥福を祈ります。合掌。

続く