手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

負けるが勝ちは無知

負けるが勝ちは無知

 

 今回のロシアによるウクライナ侵攻が、如何に無謀で、非人道的であるかは、ウクライナ侵攻の影で人権侵害が繰り返されたことが白日にさらされ、まるで人類の歴史の発展が、そっくり数百年前に逆戻りしたようになってしまいました。

 21世紀は、世の中の大多数の人が民主主義を理解し、互いを尊重し合う社会になっていると信じていたものが、実は、人はほとんど進歩していなかったことが暴露されたのです。そして、自国が如何に「戦争をしない」「相手を侵略しない」。と宣言をしても、相手国が、隣国に無理解で、一方的に侵略し、他国民を奴隷にすることを何とも思わない国である限り、平和も自由も保障されないことを知りました。

 テレビのコメンテーターの中には、「敗北を認めたらいい」。「戦争はしませんと宣言したらいい」。と、理解不能なことを言う人がいますが、仮に日本がロシアに攻め込まれて来たとして、降伏をしたなら、国名が日本からロシアに変わっただけで、日本人は今まで通り生活が保障されるでしょうか。そうであるなら、敗北を認めることも悪いことではないかも知れません。然し、国を失うと言うことは、国名が変わるだけではないのです。

 ロシア人は伝統的に占領国民の強制移動を求めて来ます。負けた国民は、地域ごとそっくりシベリア移住を要求されます。今回のウクライナ人の中でも降伏した人たちが、サハリン移住をさせられています。ロシア人は、豊かな土地を手に入れたいがために、ウクライナ人をサハリンに強制移住させて、ウクライナの肥沃な土地をロシア人に渡してしまうのです。第二次世界大戦のときに、ポーランドを占領したソ連はそれと同じことをポーランド人にしました。

 日本も同様でした。太平洋戦争で日本が負けたときに、ソ連は、日本兵を捕獲して、何万人もの日本兵をシベリアに連れて行き、強制労働をさせました。多くの日本人は寒さと食糧不足で亡くなり、生き残った人でも日本に帰国できたのはそれから6年も経ってからでした。

 日本が戦争に負けたことで、日本人が奴隷になる理由はないのです。明らかに人権侵害で国際法違反です。然し、当時、敗戦国の日本の主張を聞く国はなく、ロシアの無法はまかり通ったのです。

 今回のウクライナでも非人道的な行為は繰り返されています。降伏したウクライナ兵士をロシアは、ロシア兵として使っています。ウクライナ兵は、ウクライナ軍に銃を向けることを強制されます。逆らえば後方からロシア軍に狙撃されます。自国の平和のために立ち上がったウクライナ人に自国民を撃てと命じることはあまりに酷です。つまり、降伏すれば自由は保守され、平和に暮らせるわけではないのです。更なる過酷な生活を強要されるのです。

 それでも「降伏したほうがいい」。と言えますか、「戦争はよそう」、と言えば、ロシア人は優しくいたわってくれますか。世の中は話してわからない人はたくさんいるのです。

 

 ロシア人に民主主義が根付いていないのではないか、という疑念は、実はかなり以前から言われていたことです。実は、ロシアは1917年までは帝政を敷いていた国です。無論、その時期まで帝政、王制を敷いていた国はたくさんありました。問題は、帝政を敷いていて、しかも、農奴と言う奴隷を国内に抱えていたことです。

 自国民を奴隷として使うことが公に成り立っていたのです。奴隷には人格などありません、民主主義などないのです。ただただ主人のために労働を提供するだけの家畜だったのです。実際ロシアと言う国には、長い間低い農業生産だけで生きて行ったために、貨幣経済が発展せず、皇帝や貴族の圧政によって国が維持されていました。

 それが19世紀になって、にわかにヨーロッパで民主主義の波が起こり、共産主義が台頭し、よくわからないまま労働者革命に巻き込まれ、たちまちのうちに社会主義国になってしまいました。ところがロシアは言ってみれば、日本の律令制度のような時代からいきなり労働者の国になったのです。

 商工業の発達が未熟だったのです。商業や貨幣制度が発展しなければ、法律も、民主主義も育ちません。社会のルールが成り立たないのです。ロシアは民主主義が育たないまま社会主義が始まってしまったのです。

 マルクスは、共産主義国は、民主主義が発展し、労働者がある程度資本の蓄積が出来た国が共産国となるはずだ。と言っていたのです。そうなら、世界で初めて労働者の国になるのはイギリスのはずです。少なくとも、ロシアで社会主義が生まれるとは誰も予想していなかったのです。

 ロシアの悲劇はここから始まります。民主主義を尊重する意識の薄い国家が社会主義を標榜すればどんなことになるのか。それが20世紀のロシア(ソビエト)の不幸な歴史に繋がるのです。

 前述の、1945年の敗戦時に日本兵を強制労働をさせた行為も、ロシア人にしてみれば、民主主義などと言うものは理解の他です。彼らの中には1917年まで農奴だった人が大勢いたのです。それが25年経っただけで民主主義が根付くことなどあり得ないのです。彼らの頭の中は依然として農奴であり帝政が根付いていたのです。そうした人たちに「強制労働はいけない」。と言ったところで、相手は理解できないのです。理不尽な仕打ちを受けた人は、他人にも理不尽な行為をするのです。

 帝政が滅びたときにロシア人は二億人いたのです。それが今では一億四千万人です。六千万人はどこに行ってしまったのか。三千万人はドイツとの戦争で死亡しました。それならあと三千万人は?。実は、それが政治の失敗によって粛清されたのです。

 スターリンは計画経済の失敗を下級役人の責任に擦り付け、うまく行かなくなると役人を銃殺したり、シベリアに送りました。それに反発する警察官や、軍隊も同様に銃殺し、粛清しました。

 国民すべてを平等にしようと言うスローガンは素晴らしい考えですが、そのために、村や町で、商才に長けて、金儲けのうまい人はすぐにつかまり財産を没収され、シベリアに送られました。みんなを平等にするためには金持ちがいてはいけないのです。このため、国全体が密告社会になり、人々は恐れおののき、誰も目立った行動はしなくなりました。

 社会は能力ある人がアイディアを提供することで世の中が良くなるのに、何かを言えば粛清され財産を没収されるのでは、誰もものを言わなくなくなります。

 スターリンは、計画経済の失敗を隠すために、ウクライナ穀物を強制的に収奪しました。1930年代、豊作を繰り返していたウクライナは、穀物を取り上げられて、800万人もの餓死者を出したのです。ウクライナ人はこのことを忘れていません。

 こうしてロシアは闇に閉ざされた日々を送るようになったのです。これは平等社会ではなく悪平等です。社会主義は、言ってみれば悪平等を作り出す制度です。それが証拠に社会主義国は今もみんな低所得です。中国のみ、気を吐いていますが、それは途中から自由主義を認めた結果です。

 今、ウクライナは不幸にもそうした国と戦っているのです。ロシアに敗北して幸福などありえないのです。降伏すれば農奴になるのです。そのことを骨身に染みて知っているウクライナ人にどうして降伏しろと言えますか。

続く

山ときのラーメン

山ときのラ-メン

 

 昨日、昼に女房が留守をしたため、何か食べなければと思い、久々山ときのラーメンを食べて見ました。山ときは私の家と路地を挟んだ向かいのビルにありますから、食べようと思えば毎日でも食べられます。然し、なかなか食べに行くことはありません。

 まず昼は女房が昼飯を作ってくれます。その場合の多くがうどんやラーメンです。比較的麺類を食べることが多いため、たまにどこかで昼を食べなければならないときは、ラーメン、うどんは外して他のものを食べるように心がけています。

 また、うちに来る学生さんなどに時どき山ときのラーメンをご馳走することもありますが、その時でも私には昼飯がありますので。やはり山ときは食べません。でも時々食べたくなります。そこで、昨日は頂きました。

 山ときはつけ麵も人気なのですが、私はつけ麺には興味がありません。頼むときはいつもラーメンです。鶏ガラで出汁を取り、醤油味で、腰のある縮れた麺のラーメン。これが最高です。何でもないラーメンですが、これが文句なく旨いのです。

 

 私が子供のころは、東京のラーメンは、鶏がらスープで、醤油味、濁りのないスープが主流でした。豚骨と言うものはなかったのです。札幌ラーメンすら東京にはありませんでした。東京の人が札幌ラーメンを食べるようになったのは、昭和45年以降だと思います。面は縮れ麺と決まっていました。上に乗っているものは、支那竹と言われていたメンマ、淵の赤いチャーシュー、なると、ほうれん草が少し、海苔一枚、刻みのネギ、これが全てでした。チャーシューなどは、申し訳程度の乗っているだけでほとんどなるとと同サイズ、とても小さかったのを覚えています。それでも、子供に取ってはラーメンを食べるのは楽しみでした。

 その後、札幌ラーメンが出現し、九州ラーメンが出現し、徐々に東京の醤油味は押されて行きます。でも私が食べたいものは昔ながらの東京ラーメンでした。

 最後まで東京スタイルを維持していて、うまいと思えたラーメンは、銀座の東芝ビルの地下にあった「直久」と、荻窪の「春木屋」でした。直久は今はなく、春木屋のみまだ営業しています。

 むしろ東京の味は、米沢や、喜多方の方に行くとその面影が残っています。麺は縮れていて、醤油味がしっかりと守られています。然し、東京ラーメンを食べるために山形に行かなければならないと言うのはおかしな話です。だんだん押されて行く東京ラーメンを残念に思っていたところが、四年前、なんと私の家の向かいに東京ラーメンが来たのです。それが「山とき」でした。

 しかもここのラーメンはクオリティが高く、私の要望を十分満足させるものでした。先ずスープは、醤油味ですが、醤油っ辛さがさほどになく、出汁がしっかり効いています。味が濃いことはその通りなのですが、飲んだ後に塩気がさほどに残りません。私が子供の頃に飲んでいたスープはもっと醤油の味だけの塩辛いスープでしたが、充分進化して旨さを感じさせます。それでいて東京の味を壊していません。

 なにより麺が素晴らしい出来です。毎日店で麺を打っています。腰がしっかりしていて、弾力があります。つけ麵のように麺を冷まして出すと、一層腰の強さが強調されるでしょう。ここのつけ麺を支持する人の気持ちはよくわかります。

 どんなに味に鈍感な人でも、ここの麺の弾力の強さはすぐにわかるでしょう。噛むときゅっと歯ごたえがしっかり伝わります。その縮れ麺に醤油味が絡んで、濃い出汁が合わさって口中玩味され、強い個性が生まれます。私の子供の頃はここまでしっかりとした味わいのラーメンはなかったように思います。間違いなく山ときの味の方が進化しています。

 チャーシューは煮豚です。味はそう強い味付けをしていません。肉は、煮ている時点で脂肪をかなり落としていて、肉の縁にある脂肪をかじってみても、脂臭さがありません。それは豚の角煮のように、脂の形が残ってはいていてもしつこさがなく、「まぁ、このくらいの脂なら体にもそう悪くはないかな」。などと中年オヤジを納得させる脂濃さに収まっています。

 メンマ、海苔など東京の定番が乗っていて、全部食べ終わると私の胃袋にはちょうどいい具合です。「あぁ、たまに食べると旨いなぁ」。と思います。連日、常に店の前に10人くらいお客様が並んでいます。特に今は夜営業をしていませんので、必然的に昼に集中します。よく昼だけで仕事が成り立つものだと思いますが、上手く行っているようです。

 

 芸能でも、飲食でも、一度しっかりお客様の好みを覚えてしまえば、そうそうお客様が減ることはありません。この人でなければ、という独自の世界を身に付ければ、黙っていてもお客様はやって来ます。周囲のライバルを気にすることなく、淡々と仕事をしているだけでお客様が出来ます。

 一遍にお客様が、ワッと押し掛けることはないにしても、常にその日に打った麺が、打った分だけ売れて行けば、仕事は成り立ちます。芸能も飲食も、無理をせず、欲をかかず、自分を信じて下さるお客様に誠実に応えていれば、生きて行くことに不安はありません。

 一月前に、底冷えのする寒さが連日続いたときに、「こんな寒いときに行列に並んでくれるお客様にもっと気を使ったほうがいいよ。百円ショップで安いカイロを買って来て、並んでいるお客様に配ったらどう」。と言うと、店長は素直にカイロを買って来て、店員の女の子が外で並んでいるお客様にカイロを配っていました。素直な人なのです。でも、お客様はそうした親切を忘れないでしょう。

 人との絆がお客様との関係をより強固にします。きっと、もっともっとファンになると思います。この店が長くずっとこの場所で続いて行ってくれるといいと、一人の客として願っています。

続く

 

ウクライナ健闘

ウクライナ健闘

 

 ロシアの侵攻が始まって二か月が過ぎましたが、ウクライナは大国ロシアを相手に大健闘しています。当初は半月、一か月もすれば首都キエフを占領され、組織的な戦闘は終わり、その後は、地下組織の戦いが延々と続くのかと思われました。

 ところが、戦争の展開は意外や意外、初め二十万人と言われて、その規模の大きさにウクライナ軍も恐れ、おののいていたロシア軍が、実は、見かけは立派でも、単なる脅しに過ぎず、戦車や、装甲車を連ね、まるで軍事パレードの如く街道筋に並んでいただけだったのです。それを、片っ端からりゅう弾砲で打ちまくると、次々に炎上し、ロシア兵は猛反撃をするでもなく、さっさと逃げたり、投降してしまいます。

 多くは、軍事訓練も満足に済んでいない、初年兵で、なぜウクライナに行くのかも知らされておらず、いきなり戦場に連れていかれて、そこでウクライナ兵に狙撃され、バタバタと仲間が撃たれるものですから、慌てて降伏してしまったわけです。

 まさかまさかの展開です。世界最強と思われていたロシア軍が、最前線に戦争経験もない初年兵を並べて、数で脅して、ウクライナを占領しようとしていたのです。8年前にクリミア半島を占領された時のロシア軍とは大きく変わってきています。

 クリミア半島のような局地戦なら、精鋭部隊を派遣して、軍艦とミサイル攻撃で短期間に攻め込めば、あっという間に占領できたわけです。ところが、ウクライナ全土を制圧しようとすると、戦い方は根本的に変わります。ウクライナの国土は日本の1.5倍の大きさです。フランス全土よりも大きいいのです。そんな国に、仮に二十万人の軍隊を派遣すると言っても、その数は決して満足なものではありません。

 なぜなら、仮に、日本を侵略しようとして、二十万人の兵を派遣したとして、南の鹿児島、熊本、博多、四国の高知、高松、大阪、日本海の、福井、新潟、東北の、仙台、青森、北海道の函館、室蘭、釧路など、各都市に一万人の兵を派遣しても二十万では全く足りません。

 日本の自衛隊と、国民が一緒になってりゅう弾砲で迎え撃ったなら、各地に散らばっている一万の敵兵は物の数ではありません。当初のロシアは威嚇するだけでウクライナは簡単に降伏すると信じていたのですが、実はそんな数で落とせる小国ではなかったのです。

 

 然し、然しです。いくら二十万人では足りないと言っても、装備をしたロシア軍に無防備なウクライナ義勇兵では戦いにならないのではないか、と思います。何が今回の侵攻の明暗を分けたのでしょう。

 私は、今回のロシアの戦い方を見ていると、かつての日清戦争の戦いに似ているのではないかと思います。対ロシア戦の足場を築きたいとする当時の日本軍と、歴史的に朝鮮の領有を主張する清(中国)とが、明治27(1894)年、朝鮮半島で、戦争を開始します。

 日本は明治維新後、日清戦争によって初めて国対国の戦いをします。清は衰えてきたとはいえ、国力は日本の五倍以上はあります。軍の数でも圧倒的な大軍を持っています。当初日本はそうやすやすと清に勝てるとは思っていなかったのです。

 清国軍は、大仰に派手に飾り立てた軍隊だったのですが、実際戦ってみると、銃で撃ちあうとすぐに、相手はほとんど戦うことなく、どんどん後退してしまいます。清国軍は、城を守っているときでも、日本軍が突撃をかけると、慌てて、城を捨てて裏口から逃げて行ってしまいます。

 日本軍にすれば、「清の兵とはこんなものか」。と、気が抜ける思いだったそうです。結局、大戦中激戦と呼べるものはほとんどなく、日本軍の一方的な戦いに終始し、清との戦いは半年で終結します。

 よくよく調べてみると、清の兵と言うのは、華北あたりの農民が、銭で雇われて、ほとんど訓練もしないままやって来た者たちで、近代の軍事訓練を受けていませんでした。

 清が周辺の小国を相手にするなら、威嚇することで勝利できたかもしれませんが、イギリス、フランス、ロシア、日本のような、近代装備を備えた軍隊には叶うはずはないのです。

 どうも、ロシアは、かつての清国軍のように見えます。戦争の仕方の古さと言い、そこに連れて来られてきたロシア軍兵士の厭世気分と言い。既に戦いをする以前からロシアに勝ち目はないように見えます。

 一人プーチンさんだけがいら立って、大騒ぎしていますが、ロシア国民はなんのために戦わなければならないのか、目的が見えないまま大砲の前に身をさらすことの惨めさを感じているのでしょう。

 それに対して、ウクライナは国を守るため、家族を守るため戦意高揚しています。それをNATO軍とアメリカが陰で武器を供与して支えます。今、影で支えていると言いましたが、もう実は堂々と武器供与して、武器の使い方まで訓練して教えています。

 中には今回の戦いに、義勇兵と言う名で、アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍が参加していて、戦い方を直接前線で指導しています。そして、戦況は、逐一アメリカや、フランスやイギリスが衛星写真まで送って、ロシアの動きをウクライナに伝えています。つまり、ウクライナ対ロシアではなく、アメリカ、NATO軍対ロシアの戦いになっています。

 これではロシアに勝ち目はないでしょう。当初、NATO軍の協力は極めて消極的なものでした。それがここまで積極姿勢に変わったのは、キエフ近郊の都市で市民の虐殺が目撃されてからです。腕を縛られたままの市民が頭を撃ち貫かれたり、自転車に乗っている市民が銃で撃たれたりした死体を見たときに、世界中の人々が、ロシアに対する姿勢が変わったのです。

 最後まで戦争に関与することをためらっていたドイツが、憲法を変えてまでも積極的に支援する姿勢に変わったのです。方や日本では、武器供与が憲法で認められていないと言う理由で、ウクライナへの支援は、医薬品や日用品に限られていますが、実は、世界的なレベルで考えるなら、ドイツの憲法改正の方が正しい判断です。

 日本が頑なに自国のみでしか通用しない憲法を守っているだけでは世界の信頼は得られません。ウクライナ政府は、世界31か国に感謝のメッセージを送りましたが、そこに日本の名前はありませんでした。

 なぜないのか、答えは簡単です。ウクライナが今欲しいのは銃であり、ミサイルであり、戦車です。目の前でロシアと戦っている人たちに、トイレットペーパーや、飲料水を送ってくる国など信用しないのです。無論、日用品は役には立ちます。善意で送ってくれていることは分かります。然し、今、目の前でロシア兵と戦っている人たちに一番しなければいけないことは銃や弾を送ることなのです。まだ千羽鶴が届かなかっただけましではありますが。

続く

大阪の帰路

大阪の帰路

 

 昨日大阪から戻りました。三か所も指導をすると、道具の量が相当に多くて、スーツケースプラス、バッグ一つで、両手に荷物を持つことになります。あまりに重いときには半分宅急便で戻します。然し、道具は、宅急便で輸送すると、どうも調子が悪くなります。木製のものなどはなるべく自分で持って行かなければ心配です。

 それでなくても今私が使っている道具は少しずつ経年劣化が始まって、使うたびに調子が悪くなっています。手提げの引き出しなどはどうも問題が出て来ました。やはり安易に人に任せてはいけないのでしょう。と、言うわけで、少し体に負担はかかりますが、終わった道具を自分で持ち帰るようにしています。

 

 両手に荷物を持っていると、もうこれ以上何も荷物は増やしたくはないのですが、家族に頼まれるとついつい土産を買います。ある時は、551の豚まんだったり、マダムシンコバウムクーヘンだったり、でもさすがに昨日は荷物が重かったので何も買いませんでした。

 但し、私が新幹線の車中で食べる晩飯は必ず何か買うようにはしています。昨日は、鯖寿司を買いました。飲み物はトリスのハイボールです。本当はサッポロの黒ラベルのビールが好きなのですが、ビールは糖尿によくないと言われていますので、ハイボールにしています。それでもどうしても飲みたいときがあります。その時はビールを買います。いけないと知りつつ飲むビールは格別です。

 大概指導を終え、18時くらいの新幹線に乗ります。シートに座って休むまもなく、アルコールが飲みたくなり、鯖寿司をつまみたくなります。鯖寿司は、安いものは800円くらいから、高いものは1300円くらいまでありますが、値段は正直で、100円違うと鯖の身の厚さがはっきり違います。飯の上にぷっくり太った鯖が乗っていて、その実が脂でキラキラ輝いているような鯖はやはり1300円くらい出さないと手に入りません。

 私はまず東京にいて鯖の押しずしを食べることがありません。私が鯖寿司を食べる時と言うのは、福井からの帰りか、大阪の帰りです。滅多に食べない寿司ですので、ここは値段をケチらずに高いものを買います。

 福井の鯖寿司は別格にうまいと思います。ここの帰りは必ず鯖寿司です。大阪のそれは、いいものを手に入れれば福井並みですが、外れると後悔します。身の厚い、うまみの詰まった鯖が、薄いこぶにくるまって、しっかりした味の付いたものを一口頬張ると、「あぁ、関西に来てよかった」。と、関西の文化を体で知ります。

 

 時に太巻き寿しを買うこともあります。巻き寿司も、東京で食べることはありません。子供のころ、母親が遠足や、運動会の時に作ってくれた思い出があります。おいしいとは思いましたが、その後あまり食べる機会もありませんでした。

 ところが、大阪に通うようになって、特大の太巻きを見つけました。八十島太巻きと書いてあります。直径12センチくらいあります。まるでバウムクーヘンほどもあります。中のおかずは卵焼き、かんぴょう、穴子、シイタケ、臀部(でんぶ=ピンクで鯛の身を細く削った甘いもの)など、たくさん詰まっていて、しかも横からはみ出しています。この手のものは子供向けにべた甘いものが多いのですが、八十島太巻きは甘味は押さえてあります。

 食欲をそそられて買いました。初めてこれを食べたときには巻きずしの考えがはっきり変わりました。しっかり中身の素材が自己主張をしていて、食べていて楽しいのです。これはいい。と思って、大阪の帰りは良く太巻きを買うようになりました。

 但し、新幹線に乗ってすぐには食べません。新大阪を出ると、15分ほどで京都に着きます。京都では少なからず人が乗ります。通路を大勢の人が移動するため、埃が立ちます。

そのため、鯖にしろ、太巻きにしろ、すぐには開けません。まず初めはハイボールの缶を開け、少しずつ飲み始めます。何しろ、3時間弱で小さな缶一本しか飲めません。時間配分を考えて飲まないとすぐに無くなってしまいます。

 単行本を開いて、本を読みながら、ちびりちびりとハイボールを楽しみます。そして京都を過ぎたところで鯖寿司なり、太巻きなり、551を開けます。

 但し、551の豚まんは注意しなければなりません。開けた途端、ニンニクの香りが周囲に伝わります。嫌いな人には嫌な顔をされますので、周囲に人がいないのを見計らって食べなければいけません。たまに大阪からずっと混雑したままで、ついぞ豚まんを食べられないときもあります。そんな時には新横浜を過ぎると、乗客はかなり少なくなります。それでもいっぱいの時には品川を過ぎると、乗客は約半分になります。

 然し、品川からではあと5分しかありません。それでも空腹のときには、551の箱を開けて豚まんをぱくつきます。あの下味のしっかりついた肉の塊と。ほのかに甘みのある饅頭の生地が混ざると、独特な旨味を感じます。私はこんな時につくずく「大阪の人は粉ものを扱わせたら日本一だなぁ」。と感心します。決して過剰な味付けをせずに、それでいながら、それとなく味を伝える才能は、なかなか関東の飲食店ではまねできません。いや、関東でもうまい仕事をする店はたくさんありますが、わずか一個、百数十円の豚まんでそこまでこだわったレベルのものはなかなかお目にかかれません。大したものだと感心します。

 

 太巻きを食べるときは、先ずスライスされた太巻きを一つ、端から飯の部分を少しかじると太巻きはバラバラになります。それを一度容器に戻して、次に箸を使って、中のおかずを一つ一つ摘まんで、それを肴にビールを飲みます。こうするとまるで小鉢に並んだおかずを一つ一つチョイスしながら、小料理屋で酒を飲んでいる気持になります。一つ食べたらまたスライスした太巻きをかじって、中身を食べます。こうして4つに切り分けた太巻きをすべて食べ終わると、もう他に何も食べられません。

 そもそも飯の量が多くて、茶わん二膳分くらいあります。それをビールや、ハイボールと一緒に食べるわけですから、これだけでもう満足です。一仕事を終えて、車窓から夕方の近江平野や関ヶ原の景色を眺めながら、のんびり酒が飲めるのは幸せです。

続く

マンダリンホテル アゴラカフェ始動

マンダリンホテル アゴラカフェ始動

 

 先日(25日)から、日本橋にあるマンダリンホテルの二階、アゴラカフェで、マジックショウが始動しました。平日の毎日昼にカフェで飲食されるお客様にクロースアップショウをご覧いただきます。料金は、飲食の費用だけで、ショウチャージはありません。宜しかったらチップのご協力をお願いします。

 出演は、早稲田康平さんをメインに、若手マジシャンがいたします。

 

 そして、6月からは毎週日曜日の昼にマジックショウが開催されます。5日は藤山新太郎一門がいたします。私と、前田将太、穂積みゆきで致します。

 12日は、ヤングマジシャンズショウ、ザッキー、早稲田康平、前田将太、諭吉、など、若手マジシャンが得意芸を披露します。

 19日はカズカタヤママジックショウ、カズカタヤマさんと若手によるマジックショウです。毎週日曜日のマジックショウは、一年間続けて行きます、どうぞ一度アゴラカフェにお越し下さい。

 

 何とか東京で、マジックがいつでも見られる場所を作りたい、と思ってこれまで活動してきました。玉ひでもその一つですし、神田明神の江戸っ子ホールもそうでした。

 そうした中でも今回のアゴラカフェはかなり高級な場所です。先ず、日本橋三越の隣の三井本館の隣に、ホテルマンダリンがあります。建物はとても豪華な造りで、右側に千疋屋さんがあります。中に入ると大きなエスカレーターがあり、二階に上がり、二階の左奥にアゴラカフェがあります。

 カフェは飲み物と、イタリアン系の食事を出すお店で、料金も、比較的この場所では安価に設定されています。カフェの中は、天井が高く、客席は奥に長い店になっています。全面ガラス張りで、開放感があります。長い客席に対して、右奥に舞台があります。

 有難いことにこの舞台は、三方を囲まれていて、一面からのみ見られるステージになっています。これはスライハンドには願ってもないことで、飲食店の中にある舞台は、横から見られるような場所が多く、演者にとってはやりにくい条件が多いのですが、ここは理想的な舞台です。スペースの都合上、イリュージョンは無理でも、スライハンドトークにはとてもいい舞台です。

 ここで毎週、60分から90分のショウを演じます。ここが定着して、海外からのお客様などがどんどん来て下さるようになると幸いです。私は今のところ毎月第一週の日曜日のみですが、お客様が増えて来たなら日数を増やして行こうと考えています。

 手妻を見たいと言うお客様はかなりいらっしゃいますので、新しい東京の名所になるといいと思います。詳細は東京イリュージョンまで。

 

コロナの終息

 さて世の中は、少しコロナから解放されて、マスクの着用もやめようと言う流れになってきています。良いことだと思います。

 私は初めから、コロナはそう大した感染病ではないと言い続けて来ました。無論、心筋梗塞や、肺病の患者さんには危険な病気ではありますが、一般にはそう簡単に感染するものではなく、感染してもほとんど風邪と同じ症状ですので、そう大騒ぎをするほどではないはずなのです。それを大騒ぎして日本中を恐怖に陥れたのはテレビワイドショウです。

 毎日毎日感染者数を大げさに発表することで、国民が委縮してしまい、外出しなくなり、結果、世の中の景気は後退し、倒産する飲食店や、旅行業者が続出しました。今でもJRや飛行機会社は大赤字を抱えたままです。観光地も、来週からの連休で一つ当てなければ、もう土産物屋さんも、旅館も続けて行くことは不可能でしょう。

 何とか、上向いてきた景気の流れに水を差すようなことのないよう、変種のコロナが出ないことを望みます。

 

ショウの依頼がやって来ました

 ショウのほうも少しずつ依頼の話が来ています。まだまだこれで十分なほどには復活はしませんが、全く依頼の来なかった時を思えば生き返った心地がします。ショウの依頼の電話がかかってくると、「あぁ、まだ私はまだ見捨てられていなかったんだ」、と、ほっとします。恐らく、連絡をしてくる芸能事務所も同じ気持ちでしょう。何とかしたいのは誰しものことですが、世間が動こうとしないければイベントは発生しません。人の気持ちが変わらなければどうにもならないのです。

 然し、ようやく遅まきながら雪解けとなって春がやってきたように思います。有難いと思います。

 私は景気の悪いとき、仕事がないときもなるべくいつもと変わらないように、悩まずに生きて行こうと考えて来ました。

 悩んでもどうにもなるものではありませんから、仕事がないならないなりに遊んでいればいいと考えて来ました。せっかく自由な時間があるのですから、今までできなかったことを試してみたり、新しいアイデアの舞台を構成して見たり、いろいろ試して見るチャンスだと考えていました。

 それはバブルの時も、東日本大震災の時も同じでした。然し、今回のコロナは、二年以上不景気が続きました。これは少し不安になりました。このまま舞台がなくなって、全く無職となって人生が終わるのか、と思うと呑気に遊んでいていいものか、不安が募って来ました。

 然し、然しです、ここが勝負なのだな、と思います。いよいよどうにもならない、ぎりぎりのところで人生は大きな展開を見せる場合が多いのです。そしてぎりぎりを耐えた先に人は救われます。もうどうにもならないと考えたところでも、ポーカーフェースで、気楽に生きていると、ある時、突然、展望が開けて行きます。

 過去にもそうした経験は随分ありました。恐らく今回もその通りになるでしょう。大丈夫です。と、根拠なく大丈夫と言ってしまって、全く楽観視していますが、楽観とは本来無根拠です。これまでやってきた実績と、人脈があれば、そうひどい結果にはならないものです。この先は良くなります。

続く

その後の島田師

その後の島田師

 

 さて、一時危篤と言われていた島田晴夫師でした。島田師の娘さんのリサさんや、奥さんのキーリーさんの実家であるイギリスのご両親にも連絡をし、ロサンゼルスの病院に集まる算段をされたそうです。

 そして、4月21日と。22日の両日、NHK古谷敏郎アナウンサーは国際電話をして、島田師と話をしたそうです。それによると、声はかぼそかったのですが、辛うじて話が出来たそうです。島田師の話では、

 腹水と尿を合わせて9リットル排出し、その効果、大分体が楽になり、食欲が出て、お粥くらいは食べられるようになったそうです。一時期は危篤状態だったのですが、最悪な状態からは脱出できたそうです。

 古谷さんが島田師に電話をした時には、「もうここれが声の聞き納め」かと思ったそうで、実際、声はかぼそく元気がなかったそうです。然し、その後の回復が早く、上手くすると退院も可能かもしれないと言う話だったそうです。

 

 と言うわけで、絽三世るその島田晴夫師は最悪の状況からは脱出できたそうです。その後の情報が入ったならまたお知らせします。

 

ルビー天禄師死去

 このところお亡くなりになる人が多く、情報を聴くとここに書くようにしています。ルビー天禄さんは、大阪で、バーノンズバーを経営されていて、それ以前には、別の場所でバーを経営されていたと聞きます。私とのご縁はほとんどなく、何度かマジックの会でお会いした程度で、深く話をしたことはありません。

 4月16日に交通事故に遭い、その翌日病院で亡くなったそうです。後になって知りましたが、1955年生まれだそうで、私より一つ若かったのです。頭が薄い方で、何となくお年を召した方だと思っていましたので、私は先輩かと思って、会った時には敬語で話をしていました。

 天禄さんは、ムッシュピエールさんを育てた人と伺っております。ピエールさんと話をすると必ず天禄さんのことが出て来ます。ピエールさんの言葉からは自分を育ててくれた恩人と言う姿勢は常に変わりませんでした。

 関西のクロースアップマジシャンに多大な影響を与え、多くのマジシャンを育てた人として忘れることは出来ないでしょう。それにしても、まだまだ活動が出来る年齢だったでしょうに、寿命を終わられてしまうのは残念だったでしょう。ご冥福を祈ります。

 

帰天斎正華師死去

 

 これはだいぶ前の話です。二か月前にキタノ大地さんから聞いた話ですので、今年の初めに亡くなられたと思います。正確な日時を聞いた上でお伝えしようと思いましたが、噂がどこからも入って来ないので、と帰天斎正華にかく死亡通知だけはここに記しておきます。

 帰天斎正華師は。故三代目帰天斎正一師の芸養子で、帰天斎一門を預かって来ました。住まいも三代目の家をそのまま住まわれ、鶴橋の猪飼野と言うところに長らくおられました。私らがお稽古に伺うときは必ずそのお宅で。狭い部屋の中で蝶や引き出しのお稽古をしました。

 90歳を過ぎて、昨年体調を悪くしてからは家を売り、病院に入りました。私の舞台には何度も見に来て下さり、文楽劇場や、ZAZAの舞台まで来てくださいました。マジックを見るのは楽しいと言ってお終いまで熱心に見ておられました。

 毎年暮れに私が行っていた若い人との忘年会には、よく参加してくださいました。飲んだり食べたりしてお元気でした。こうした若い人との話にはついて行けないんじゃないかと思っていましたが、「とても楽しい」。と言っていました。

 今年になって、「帰天斎正華師匠はどうしているんだろう」、と思い、また遊びに伺おう。と思っている矢先の訃報でした。ご冥福をお祈りします。

 

 人が年を取る、亡くなることは常のことです。亡くなることは残念ですが、その分次の人が出て来て、活躍すればそれでよく、問題は人が亡くなることではなく、うまく人が育って行くことです。何とか次の人を育てなければいけません。人が育つことで話題が生まれ、人が集まってくるのですから。

 

 さて私は今大阪にいます。毎月の指導で、富士、名古屋、大阪とご指導して回っています。今は朝8時です。これから稽古場に向かいます。今日も一日、長い指導が始まります。もうこの活動も10年以上続いています。指導することが全く私自身の生活になってしまいました。さてここから新しい人が出て来るといいと思います。

続く