手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

その後の島田師

その後の島田師

 

 さて、一時危篤と言われていた島田晴夫師でした。島田師の娘さんのリサさんや、奥さんのキーリーさんの実家であるイギリスのご両親にも連絡をし、ロサンゼルスの病院に集まる算段をされたそうです。

 そして、4月21日と。22日の両日、NHK古谷敏郎アナウンサーは国際電話をして、島田師と話をしたそうです。それによると、声はかぼそかったのですが、辛うじて話が出来たそうです。島田師の話では、

 腹水と尿を合わせて9リットル排出し、その効果、大分体が楽になり、食欲が出て、お粥くらいは食べられるようになったそうです。一時期は危篤状態だったのですが、最悪な状態からは脱出できたそうです。

 古谷さんが島田師に電話をした時には、「もうここれが声の聞き納め」かと思ったそうで、実際、声はかぼそく元気がなかったそうです。然し、その後の回復が早く、上手くすると退院も可能かもしれないと言う話だったそうです。

 

 と言うわけで、絽三世るその島田晴夫師は最悪の状況からは脱出できたそうです。その後の情報が入ったならまたお知らせします。

 

ルビー天禄師死去

 このところお亡くなりになる人が多く、情報を聴くとここに書くようにしています。ルビー天禄さんは、大阪で、バーノンズバーを経営されていて、それ以前には、別の場所でバーを経営されていたと聞きます。私とのご縁はほとんどなく、何度かマジックの会でお会いした程度で、深く話をしたことはありません。

 4月16日に交通事故に遭い、その翌日病院で亡くなったそうです。後になって知りましたが、1955年生まれだそうで、私より一つ若かったのです。頭が薄い方で、何となくお年を召した方だと思っていましたので、私は先輩かと思って、会った時には敬語で話をしていました。

 天禄さんは、ムッシュピエールさんを育てた人と伺っております。ピエールさんと話をすると必ず天禄さんのことが出て来ます。ピエールさんの言葉からは自分を育ててくれた恩人と言う姿勢は常に変わりませんでした。

 関西のクロースアップマジシャンに多大な影響を与え、多くのマジシャンを育てた人として忘れることは出来ないでしょう。それにしても、まだまだ活動が出来る年齢だったでしょうに、寿命を終わられてしまうのは残念だったでしょう。ご冥福を祈ります。

 

帰天斎正華師死去

 

 これはだいぶ前の話です。二か月前にキタノ大地さんから聞いた話ですので、今年の初めに亡くなられたと思います。正確な日時を聞いた上でお伝えしようと思いましたが、噂がどこからも入って来ないので、と帰天斎正華にかく死亡通知だけはここに記しておきます。

 帰天斎正華師は。故三代目帰天斎正一師の芸養子で、帰天斎一門を預かって来ました。住まいも三代目の家をそのまま住まわれ、鶴橋の猪飼野と言うところに長らくおられました。私らがお稽古に伺うときは必ずそのお宅で。狭い部屋の中で蝶や引き出しのお稽古をしました。

 90歳を過ぎて、昨年体調を悪くしてからは家を売り、病院に入りました。私の舞台には何度も見に来て下さり、文楽劇場や、ZAZAの舞台まで来てくださいました。マジックを見るのは楽しいと言ってお終いまで熱心に見ておられました。

 毎年暮れに私が行っていた若い人との忘年会には、よく参加してくださいました。飲んだり食べたりしてお元気でした。こうした若い人との話にはついて行けないんじゃないかと思っていましたが、「とても楽しい」。と言っていました。

 今年になって、「帰天斎正華師匠はどうしているんだろう」、と思い、また遊びに伺おう。と思っている矢先の訃報でした。ご冥福をお祈りします。

 

 人が年を取る、亡くなることは常のことです。亡くなることは残念ですが、その分次の人が出て来て、活躍すればそれでよく、問題は人が亡くなることではなく、うまく人が育って行くことです。何とか次の人を育てなければいけません。人が育つことで話題が生まれ、人が集まってくるのですから。

 

 さて私は今大阪にいます。毎月の指導で、富士、名古屋、大阪とご指導して回っています。今は朝8時です。これから稽古場に向かいます。今日も一日、長い指導が始まります。もうこの活動も10年以上続いています。指導することが全く私自身の生活になってしまいました。さてここから新しい人が出て来るといいと思います。

続く