手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ロシア マジックの旅 4

ロシア マジックの旅 4

 

 奇妙な縁で私はロシアに行き、マジックコンベンションに出演する予定が、コンベンションはなく、得体のしれない会議に出て、夕方には、野外マジックショウに出演する羽目になりました。一体自分は何をしているのかといぶかしく思いました。

  ここで冷静に周りを見てみると、ユーリとユーリの奥さん、それにユーリのマジック一座の座員数名。それにイタリア人のマジックショップのオーナー、ダンテさん。そして私の三組しかマジシャンはいません。

 今のところ観客は皆無です。ロシア国内のアマチュアマジシャンとも会ってはいません。これではマジックコンベンションとは呼べません。「この集まりは一体何なんだ」。見当もつきません。

 夕方になって町の広場に行き、野外で催されているイベントに加わりました。観客は500人ほどいるでしょうか。ユーリが簡単なイリュージョンを2,3演じ、そのあと、イタリア人が私服で出て来て、自分の店の売り物のマジックを2つ3つ演じました。そして私の出番です。正直、こんなショウを政府関係者に見せて、来年のコンベンションが獲得できるとは思えません。規模も内容も、あまりにお粗末なショウです。

 それゆえ、私がしっかり演じなければ全くショウの体裁も成していません。私は派手な和服と金の袴で出て来ると、それだけで客席が湧きます。然し、野外の舞台ですから、蝶は飛ばせません。やむなく連理の曲をします。滝や、吹雪が散りますので和の要素はたっぷりで、華麗です。

 演技は予想以上の拍手でした。次に、喋りながらサムタイを演じました。一人お客様に舞台に上がってもらい、紙紐で私の両指を結んでもらいました。そして、マイクスタンドを貫通します。予想以上の反応です。

 ところがここで、頼みもしないのに司会者が出て来ました。司会者はロシアのコントをする人たちなのか、3人組です。この3人組が、勝手に出て来て、私の指を調べ始めます。笑いを足して舞台を盛り上げようとしているのでしょう、「俺の腕を通して見ろ」とか、「膝を貫通して見ろ」などと注文します。予め打ち合わせが出来ていたならそれも可能ですが、いかにも思い付きでことをしますので、無駄に時間がかかって舞台はぶち壊しです。

 私はあまりにセンスのないコメディアンを見て情けなくなりました。これでは私のショウはめちゃくちゃです。この場をどう終結させたらいいかと思案し、リングを観客に渡し、放り投げてもらい、舞台の3人はほったらかしでさっさとリングの貫通をしてサムタイを終わらせました。

 それでも観客は予想外に大喜びです。然し、私は不愉快でした。ローカルマジシャンのイリュージョンと、ディーラーショウのような売りネタをするマジシャンと、三流の司会者と、その中で私の芸が受けるのは当たり前です。何とも後味の悪い舞台を経験して、野外ショウを終えました。

 夜にユーリとホテルのバーで飲みました。来年のコンベンションに来てくれと言います。然し、いつ開催されるのかも分からないコンベンションでは出演のしようがありません。

 またモスクワのクレムリン宮殿で催される年末のイベントにも来てくれないかと言います。その際には水芸をお願いしたい、などと調子のいい話をします。まったく当てにならない話です。何もかもいい加減な話を聞き、したたか呑んで、この晩は、悪酔いしました。

 

 翌朝は、朝食を済ませ、ユーリの奥さんに、車で町の土産物屋さんに連れて行ってもらい、マトリョーシカを買ってもらいました。こうしたことにはきっちり気を使ってくれます。まったくいい加減な人たちではないようです。

 午後になって、飛行場に行き、モスクワへ戻ります。この時、突然、ロシアの憲兵隊のような人につかまり、なぜか別室に連れて行かれました。彼らが何者かは知りません。然し、私が黒海に行った時とか、外に買い物に出たときなど、ときどき遠目に私を見張っていたことは知っていました。

 どうも、浴衣を着てうろうろしていましたので、怪しい奴だと疑っていたようです。この国で彼らに疑いをかけられたら、その先どこに連れて行かれるか分かったものではありません。 とにかく、気持ちを落ち着けなければいけません。

 彼らは私が何しに来たのか、なぜここにいるのか尋ねました。そこで招聘状を見せて、マジシャンであると言いました。すると、「どんなマジックをするのか」、と興味で言ってきました。仕方なく、通いの銭(コインアクロス)、を演じました。若い憲兵たちは大喜びです。もっと見せろとせがみます。

 私は来年マジックショウをするからそこで見てくれと言いました。無論私の英語は彼らには理解できません。それでも何となくわかったようです。大国の国民は、純粋で素直です。憲兵は自分の興味を満たしたことですっかる上機嫌で、解放されました。その後、飛行機に乗り、中でぐっすり寝てしまいました。

 

 モスクワに着くと、夕方でした、外は粉雪が舞っていて相当に冷えています。イタリア人と共にタクシーでホテルに行きます。モスクワの街は大きく、人通りも多く賑やかでした。あちこちに寿司レストランがありました。日本食が大ブームで、金持ちは寿司を食べるのがステータスなのだそうです。美人に寿司に行こうと誘うと簡単について来るそうです。

 私はホテルに入って、一人レストランでステーキとボルシチ、生野菜を頼みました。ステーキはフィレを頼みましたが、肉は硬く、サイズは小さくいいところのない肉でした。シチューも野菜もまぁまぁで、値段だけは7000円しました。7000円の晩飯の食べられるロシア人が一体どれだけいるでしょうか。味は三流、値段は一流の晩飯でした。

 翌日は昼に東京行きの飛行機が出ます。午前中に飛行場に行くと、いつまで待っても案内板が出ません。午後3時くらいになってようやく搭乗出来ましたが、機内で待つこと1時間、一向に離陸しません。そのうち降りてくれとアナウンスがあり、全員一度飛行場に戻されました。飛行機は修理を始めます。

 何とか飛行機の修理が済んで離陸を始めたのが深夜12時でした。結局この日も1日飛行場にいたことになります。ロシアの食事には失望していますので、何も食べず、紅茶やコーヒー、ビ-ルばかり飲んでいました。一路東京に向かいましたが、機内ではひたすら眠っていました。

 私は社会主義の国に生まれなかったことを幸いと思いました。今東京で普通に享受できる様々なことがどれほど恵まれていることなのか、しみじみと有難く思いました。

ロシア マジックの旅 終わり

 

ロシア マジックの旅 3

ロシア マジックの旅 3

 

 さて、少し時間があったので近所を歩いて回りましたが、およそソチの街は、観光する場所がありません。飛行場から、コンベンションホールまでのタクシーの窓から眺めたときも、大きな邸宅が並び、公園などもあり、豊かな町であることは分かりました。然し、余り商店街のようなものは見当たりません。

 これはロシアの国情がそうなのでしょうか。コンビニもなければ、どこにでもあるような商店街、マーケット、レストラン街も見当たりません。飛行場の売店からして殺風景で、そもそも商売気がありませんでした。

 プーチンさんの別荘があると聞きましたが、別段行ったところで中に入れるわけでもないでしょうし、さほどに興味もありません。手持無沙汰で結局戻って来てしまいました。

 晩に、コンベンションホールで関係者とビュッフェパーティーがありました。食事はとても楽しみです。ピロシキボルシチはありました。これは日本でもおなじみです。他には、餃子のような皮で肉を包んだ煮物がありました。これはこの晩で一番旨い料理でした。

 肉は、鶏の煮込みや、牛肉と野菜の煮物がありました。ロシアはこうした、日本で言う鍋料理のようなものがポピュラーです。生野菜は限られていて、余り新鮮には見えませんでした。パンはライ麦パンでしょうか、ぼそぼそしています。果物の数は少なく、あまり興味をそそりません。ケーキはいくつか並んでいましたが、甘いばかりでデリカシーがありません。

 デリカシーがないと言う点ではすべての料理が共通しています。何を食べても大味なのです。ある意味アメリカと共通しています。大国は甘いも辛いも極端で、繊細な味は望めません。

 一通り食べましたが、感動はありません。それでも恐らくロシア人にとってはこの晩の食事はかなりいい方なのでしょう。スタッフはみんな喜んで食べています。

 イタリア人はマイペースで一人黙々と食べています。「旨いですか」。と尋ねると、「まぁまぁ」、と答えました。どんな話をしても面白い返事が返って来ない人です。話はすぐに途切れてしまいます。

 恐らくこの会場を離れたら何もないのでしょうから、なるべくここに残って、スタッフと話をする以外ありません。アルコールもいただきました。ワインやウオッカの水割りを飲みましたが、気を付けないと呑み過ぎて足を取られます。遅くまで主催者と飲食をし、その晩は休みました。

 翌日は昼に会議、夕方に野外のパブリックショウに出演します。朝食を済ませると大分時間がありましたので、黒海に行ってみようと思いました。スタッフに聞くと海はすぐそばで、歩いて行けるそうです。ユーリの仲間が連れて行ってくれました。

 私は浴衣を着て、雪駄履きで行きました。すると、行く道々ロシア人が寄って来て、握手を求められ、勝手に肩を組み写真を撮られました。私は写真は許可をしていないのにどんどん撮ります。撮りながら、右を向けだの笑えだの要求してきます。失礼です。

 しかも、次々に人が集まって来て、後ろを見ると、私と写真を撮ろうとする人が順番待ちしています。私はただ海岸に向かって歩いているだけなのに、とても歩ける状況ではありません。みんな「ハポンスキー(日本人)、ハポンスキー」と大騒ぎして仲間を呼んで来ます。

 とにかく私はこの場のロシア人から逃げて、黒海に向かいます。歩くこと10分。大きな海が広がっています。みんなビーチパラソルを出して浜辺に寝そべり、海水パンツで泳いでいます。

 黒海と言うくらいですから水が黒いのかと思うと、色は鼠色で、決して奇麗ではありません。地中海の水が遥かここまで流れ込んで来ているために水は暖かく、確かに泳げないものではありません。ロシア人にとっては数少ない海水浴場なのでしょう。帰り際も観光客の写真攻めで、とても面倒でした。

 

 午後にはミーティングがありました。私は和服で羽織袴で出席しました。主催者が喜んだことは勿論ですし、役人も寄って来て、私と記念写真を撮りたがりました。これで私の役目は一つ果たせました。その後、話は私を中心に進んで行きました。

 スタッフと役人(見た目の区別はありません)、それにマジシャンが10人程度、合計20人ほどの前で、私はコンベンションの話をしましたが、どうも彼らの意向は、コンベンションと言うよりも、ソチでマジックショウを開催したいと言うような話でした。

 ロシアの地方都市ではショウビジネスが未成熟で、世界のタレントを呼び込む方法が分からないようです。私に、「日本のマジシャンを10人呼んでくれるか」、とか、「中国や、ほかのアジアのマジシャンとコンタクトを取ってくれるか」、など、私を呼び屋として使いたい意向が見えました。

 逆に私が、「ロシアではどれくらいアマチュアの数がいるのか」。などと言う質問には全く答えが出て来ませんでした。つまり、マジック愛好家を集めてのコンベンションではなく、一般の観客に対するショウを望んでいるようです。

 ある意味それは納得が行きます。ソチの街を歩く人を見ても、コンベンションホールで働くスタッフを見ても、実に質素で、豊かな生活をしているようには見えません。

 今のロシアで簡単に一週間仕事を休んで、飛行機に乗って、マジックの世界大会に出かけられるロシア人は極く少ないのでしょう。

 彼らが望んでいるのもは、政府が資金を出して、世界のマジシャンを集めて、マジックショウをすることのようです。

 イタリアのダンテさんもFISMの話をしました。3年に一遍2000人のマジック愛好家を集めて、世界中で大会を開催している。など、説明をしていましたが、そもそも役人はコンベンションに興味を示しません。あまり質問もないまま終了してしまいました。

 このままでは会議も空中分解だなと思ったので、私はその場でお椀と玉を演じました。三味線のBGMを流して古典手妻を演じると、参加者は目を見張って喜んでくれました。

 主催者が求めていたことは、私のような未知なる世界から珍しいマジシャンが来てくれること、そして主催者であるユーリが、私のようなマジシャンを電話一つで呼べると言う、信用があることを確かめたかったのでしょう。結局会議はそれで終わりです。まぁ、多分こんなことだろうと予想はしていました。

続く

ロシア マジックの旅 2

ロシア マジックの旅 2

 

 知らない国に行って、予定通りに行動が出来ないときほど不安なことはありません。東京を立って早、まる一日経っていながら、いまだモスクワの飛行場でうろうろしています。

 顔の長いイタリヤ人は呑気に週刊誌を読んで椅子に腰を掛けたままです。私は思いっきり時間があるなら外に出て観光もしますが、いつ出発するともわからない飛行機を待つのでは何もできません。

 見ると待合室の奥にスロットマシンが20台ほど並んでいます。レートを見ると、日本円で10円くらいです。

 「あぁ、これなら退屈しのぎに遊ぶ分には大した負けにはならない」。と思い、売店で小銭を100枚ほど両替して、コインを投入していると、すぐに当たりを引きました。ルールは分からないのですが、当たりが連動する機会らしく、一度当たると、どんどん小当たりを繰り返します。

 マシンの上にパトカーのランプのようなものがあり、激しく回転して光っています。カフスボタンサイズの銀色の小銭がマシンからジャラジャラ出て来ます。その当たりが珍しいのか、売店の親父も、周囲のお客さんも寄って来て騒いでいます。ほんの退屈しのぎにと思っていたスロットマシンが思いがけなく小銭稼ぎにつながりました。

 一時間ほど遊んで、売店に持って行くと500枚くらいになっていました。売店の親父は私を天才とか何とか、お世辞を言っています。そこで、紅茶とケーキを二つずつ買い、イタリア人に持って行きました。

 「君はわずかな時間にいい仕事をするねぇ、周りのロシア人がヤポンスキーがスロットマシンを当てたと騒いでいたよ」。「そう、私のことです。これが戦利品です」。と言ってケーキを渡しました。食べてみると、ただ甘いだけで少しも旨くありません。

 それでもマシンもお茶も一時の気晴らしにはなりました。地味なイタリア人と二人で午後の紅茶を楽しむこと30分。再度人の動きがありました。階下に降りて行くと黒い掲示板にソチ行きが出ています。

 今度は飛行機に乗れそうです。大きな飛行機です。機体に乗り込むために滑走路を乗客がぞろぞろ歩いて行きます。時刻は昼。外は晴れてはいますが、かなり温度は下がっています。

 飛行機は胴体の前方がパックリ大きく口を開けていて、幅広い階段が付いています。階段を上がると広い荷物置き場があって、そこから再度階段を上がると客席になっていました。随分旧式なシステムです。まるで戦闘機に乗り込むような気持です。客席は300席くらいあるでしょうか。

 やがて機体は離陸して、モスクワから一路ソチへ向かいます。ソチはロシアの最南端で、ロシアの中では暖かい土地です。そのためロシア人の金持ちの別荘が並んでいて高級リゾート地になっているそうです。日本の感覚で言うなら沖縄あたりに行くような雰囲気なのでしょうか。

 下界は曇り空で、景色は良く見えませんでしたが、ところどころ雲の間から広い耕作地が見えて、シベリアの景色とは全く違います。二時間半ほどして大きな海が見えて来ました。黒海でしょう。海岸線がずっと続き、海と山との間にあるわずかな平地に町が見えます。どうやらそこがソチのようです。

 飛行機が無事着陸すると、乗客がみんなで拍手をしました。これがロシアのマナーのようです。

 

 外に出ると、モスクワとは打って変わって少し蒸し暑い陽気です。飛行場は小さく、日本で言うなら、高知空港とか米子空港と言ったサイズです。飛行場にはユーリさんと言うロシアのマジシャンが迎えに来ていました。アメリカのコンベンションで会って以来7年ぶりくらいでしょうか。正直顔も忘れかけていました。

 タクシーに乗ってコンベンションホールへ。さて会場は、国の施設であろうことは分かりますが、建物の作りは大学の構内のように見えます。マジックコンベンションですので、ロシア国内のマジシャンがたくさん集まっていると思いましたが、人はほとんどいません。

 ここからが謎の三日間の始まりです。結局マジックコンベンションらしき催しはなかったのです。では何のために私とイタリア人は呼ばれたのかと言えば、近々、マジックコンベンションを開催したいが、コンベンションとはどんなものなのかを国の役人に説明してほしいと言うものだったのです。

 なるほど、それでFISMの副会長のダンテさんが招かれたのかと納得が行きました。私はと言うと、当時日本国内でコンベンションを開催していましたので、日本の大会主催者として招かれたようです。

 明日には役人やスタッフを交えて説明会を開くそうです。それはいいのですが、そもそも今回の催しが説明会であると言うことを私は聞いていません。頼まれればコンベンションについて説明もしますが、私が話をするために日本語の通訳が必要です。通訳はいるのかと尋ねると、いないと言います。すなわち私が英語で話し、その英語をロシア語に訳すそうです。

 えらいことになりました。マジックの解説なら何とか英語でも話せますが、役人の質問に英語で受け答えなんてできるわけがないのです。そうならあらかじめ質問内容など教えてほしいと頼んだのですが、そんなものはないそうです。

 正直、私は困りました。私をここに招いてマジックをして、会議をして、一週間泊まらせると言うことは、全て含めて80万円くらいの経費が掛かるはずです。80万円分の価値ある日本のコンベンションの情報を私が提供しなければ、私がここに来た価値はないのです。然し、通訳は当てになりませんし、私の英語はもっといい加減です。

 「今日中に簡単な資料くらい作りましょうか」と、スタッフに尋ねましたが、「軽いミーティングですから大丈夫」。と呆気羅漢としています。

 ははぁ、多分、イタリア人が、詳細なFISMの資料を持っているのでしょう。ここはイタリア人に全てお任せしたほうがいいと思い、説明会の件を尋ねました。ところが、ダンテさんは、長い顔で少しも騒がす「いや、FISMのパンフレットは持ってきているけど、別に他の資料はないよ」。と言います。

 そんなことで大丈夫なのか、そもそも、この会の趣旨が説明会であること自体、今聞いたのです。こんな催しに限って、帰りがけにギャラを渋られたり、約束にないショウを頼まれたりすることが往々にあります。

私は一気に不安になりました。

続く

 

 

ロシア マジックの旅 1

ロシア マジックの旅 1

 

 今から10年ほど前に、ロシアのマジシャンから、ソチと言う都市でマジックコンベンションをするから来てくれないか、と言う電話をもらいました。

 往復の移動の日数も合わせておよそ一週間。大会の間は、ステージ一回、レクチュアー一回。交通費、宿泊費、食事、ギャラすべて支払うと言うものでした。

 まず通常のコンベンションの条件と同じですので、了解しました。ロシアへの旅は初めての体験です。ちょっと興味があります。この時は私一人で行きました。大会一か月前に飛行機のチケットが届きました。

 ロシアは飛行機チケットがバカ高くて、東京モスクワ間往復で一人30万円近くします。日本の様に格安飛行機と言うものはありません。すべて国営の飛行機会社です。ロシア人の所得を思えば、大会主催者が支払うチケット料金は法外に高額です。

 共産国と言うのは、基本的に排他的で、人の出入国を拒否している風があります。私は主催者の苦労を思えば、何とか期待に応えなければいけないと、あれこれ手妻の道具をスーツケースに詰め、衣装も、外国人が喜ぶような派手な衣装を持ってロシアに向かいました。

 10月初め、成田から飛び立って、飛行機は北に向かい、やがて日本海を超え大陸の上を飛び始めました。幸い雲一つない快晴で、窓から下の様子が良く見えます。然し、行けども行けども物の見事に森林が見えるだけで町らしいものが見えません。

 ようく目を凝らして見ていると、細い道が見えます。然しその道に車は見えません。でも、道が続くならその先には町があるのだろう。と思ってずっと見ていると、50㎞に一か所くらいの間隔で、数軒の集落がありました。寂しいところです。

 「あぁ、もし飛行機が不時着して、この集落にたどり着いたら万事休すだなぁ」。などと不安がよぎりました。ここの人たちは何をして暮らしているのでしょうか。もしこの集落に生まれ育ったなら、自分がマジシャンになるなどとは考えもしないでしょう。毎日木こりとなって働き、晩にウオッカを飲むのが唯一の幸せなのかも知れません。そんなことを想像しつつ、飛行機はシベリアのツンドラ地帯を西へ進みました。

 あまりに単純な地形のため、眠くなりました。うつらうつらして目を覚ますと、はるか前方に山並みが見えます。それはとんでもなく大きな山並みで南北に伸びています。

 「ひょっとしてこれがウラル山脈かな」と予測を立てると、正解で、南北に真っ白な山脈が伸びています。実にわかりやすく東西を仕分けています。西側からくると、この山脈がヨーロッパの終点になります。そして今私が来たツンドラ地帯がアジアと言うことになります。その昔、ここを橇(そり)などを使って超えて行くのは簡単ではなかったでしょう。

 ヨーロッパ人が飛行機に乗って東京に行くときは、ウラル山脈を見てきっと「この先に人が住んでいるのだろうか」。と心配になるはずです。ウラル山脈ですら地の果てのように見えるのに、その先、シベリアのツンドラを越え、人のいない土地を超えて行った末に、更に海を越えた絶海の孤島が日本だったのです。

 

 13時間の旅を終え、モスクワに到着、ここから国内線用の飛行場に行かなければいけません。ソチはロシアの南端。黒海の近くにあります。10月初頭のモスクワは空がどんより曇っていて、風が冷たく、東京の真冬の気温です。

 ここでソチに向かう飛行場にはどう行ったらいいかを、空港関係者に尋ねますが、物の見事に英語が伝わりません。いろいろな人に尋ねると、どうやら、「外に出てタクシーに乗れ」、と言っているようです。要領を得ず不安です。

 タクシーの運転手の中で少しでも英語の話せる人を探し、ソチに行きたいと言うと、相手は了解し、10分ほど運転をして国内空港に到着。運賃は1000円ほど。

 カウンターで手続きを済ませ、係員に「何時に飛行機が出るのか」、と聞いても要領を得ません。「待っていればじきに発車する」。とロシア語で言っているように感じます。多分正解なのでしょう。この先もそうでしたが、全てのことは時間通りには進まないのです。

 然し、うっかり乗り遅れたら路頭に迷いますから、周囲をよく見ていないといけません。待合所に座っていると、イタリアのドミニコダンテがやって来ました。

 この人はFISMと言うマジックの世界組織の副会長です。(現在は会長)。背の高い、顔の長い男で、ベニスに住んでいます。実家は金持ちだと聞きました。マジックショップを経営していて、セミプロマジシャンです。

 互いにロシア語を話せないため、ロビーをうろうろしていました。日本の飛行場のようにきれいなショップもありません。売店はありますが、品物は粗末です。

 サンドイッチを買いましたが、キャベツは硬く、なかなか呑み込めません。ハムは塩がきつく硬くて食べにくかったです。パンはほとんど味がしませんでした。とりあえずこの先に何が起こるかもわかりませんので、我慢して食べました。

 やがて人がぞろぞろ移動し始めました。くっついて下の階に行くとありました、昔の駅の掲示板のように、天井から下がっている掲示板に、パタパタと音を立て黒い薄い板が入れ替わる仕掛けで、ソチと書いてありました。これで一安心です。

 ダンテさんはイタリア人にしては珍しく地味な人のようです。あまり積極的に話をしてきません。彼はショップをしているのに道具らしい道具を持ってきてはいません。ステージに立つ様子も感じられません。

 「あなたは何のためにロシアに来たのか」。と尋ねると、「来てくれと言うから来た」、と言います。随分人のいい人です。

 さてしばらく並んでいると、突然黒い掲示板が、パタパタと音を立ててソチからペテルブルグに変わってしまいました。すると乗客はぶつぶつ文句を言いながら四方に散って行きました。「何があったんだ」。ダンテさんと顔を見合わせました。

 出発場所が変わったのならそれなりの説明をすべきだ。私はカウンターに行って、大柄な女性に、何があったのかを尋ねました。彼女は「分からない」と言いました。「そうなら、ソチはいつ出るのか」と尋ねても「わからない」と言います。何を聞いてもわからないのです。

 ロシアにいると常に、不愛想、不親切、無責任で不信感を抱きます。それに対して人々はあきらめの表情で、文句も言わず運命に従います。仕方なく私と顔の長いイタリア人は元の待合所に戻り、時を待ちました。

続く

 

ライフスタイルの変化

ライフスタイルの変化

 

 本当なら今頃、大道具を猿ヶ京に持って行って、その分アトリエの稽古スペースを広くして、アトリエの模様替えをしようと考えていました。

 一階にある道具の大物は水芸です。水芸一式を猿ヶ京に運んでしまえば、2mの長さのスチール棚にしまってある道具がそっくりなくなります。その他もろもろ、あまり使わない道具も思い切って運んでしまおうと決断しました。

 実際、コロナ禍に遭って、大道具の公演はほとんどありません。またこの先、仮に来年の春以降、仕事が活発に動き出したとしても、おいそれと水芸が動き出すとは考えられません。

 私の予想では、順調な活動に戻るまで更に一年、つまり2023年春までは、まだ芸能不況が続くとみています。

 それだけ時間があるなら、使用する可能性の少ない水芸の装置を、後生大事にアトリエに置いておいても意味はなく、しばらくは倉庫にしまっておいてもいいんではないかと考えて、アトリエの模様替えを考えました。

 さて、そう決断した矢先に、水芸の企画が来てしまいました。無論水芸があることは幸いです。となると、水芸はアトリエに残り、模様替えはまた今度ということになります。

 

 然し、いずれは私のライフスタイル自体を変えて行かなければなりません。5人も6人も人を使ってするイリュージョンショウはこの先出来にくくなっています。せいぜいアシスタントや弟子を一人二人使うくらいのショウのサイズに収めて行かなければならないと思います。

 

 私が所有している大道具で、水芸以外のものは、一里四方取り寄せ、壺中桃源郷、怪談手品、峰の桜、呑馬術。洋物は、ギロチン、ガラス箱の交換術、トランク抜け、3m浮揚。等々、ほとんど生かされないまま猿ヶ京に眠っています。

 勿体ない話です。どこか演じる場所があればいいのですが、どうにもなりません。弟子の中でも、大道具を継ぎたいと言う者がおりません。

 衣装から道具から人の手配から、全て用立ててやればやるものはいます。然しそれではいつまでたっても自立できません。先ず維持管理が問題ですし、いつでも手伝ってくれるアシスタントを雇わなければ仕事になりません。当然経費が掛かります。

 若い連中は人の面倒まで見てマジックを維持して行こうとは考えません。手妻は継承しても、手妻一座を持とうとは考えません。結局この先大きな手妻は公演出来なくなるでしょう。

 

 大分前に亡くなりましたが、マジックの道具を作ってくれた鉄工所の親父さんで渡部貞次さんと言う人がいました。この人は一時40人もの従業員を使って鉄工所を経営していたそうです。その渡部さんの話で、

「俺はねぇ、60歳で引退して、その時、建物から倉庫から一旦金額に換算して、売れるものは売って、それで借金を返してねぇ、全て清算して息子に会社を譲ったんだ。

 その時まで、俺が長年会社をやっていて、会社が儲かっていたのか、赤字だったのか、全然分からなかったんだよ。会社は仕事をしていたから毎月毎月収入はあったけど、取引先がくれるのは手形だからね。手形を金にするためにいつも銀行から借金していたんだ。

 手形が必ず落ちるならいいんだけども、中には手形が落ちないこともあって、商品の売り上げが入ってこないこともある。そうなると従業員の給料は払えない、材料費は支払わなければいけない。大きな赤字を背負うよね。

 それでも銀行から金を借りてやりくりしていると、長い間、収入と借金が追いかけっこをしていて、今、自分が儲かっているのか赤字なのかもわからなくなっちゃうんだよ。

 それが引退の時に全て清算をしたらわかったよ。会社のビルと、資材置き場と、自宅だけが残ったんだ。銀行の借金は資材置き場を処分して支払ったよ。結局残ったのは会社のビルと自宅だけ。

 でもね、誰にも迷惑をかけずに、小さくても財産を残せたのは幸いだった。それを息子たちに譲れたからね。仲間の中には借金して夜逃げするやつもたくさんいたからなぁ」。

 そんな話を30年前に、渡部さんから、お茶を飲みながら聞いていましたが、今になってそれが現実に自分の話になるとは思ってもいませんでした。私の場合は製造業ではありませんので、在庫と言っても自分の使っている大道具小道具だけです。

 特別借金もありません。事務所と自宅のビルは残りました。小道具や衣装は、私に何かあれば、それを欲しがる弟子や一門は大勢います。

 然し、水芸などの大道具はなかなか継ぎたいと言うものが出て来ません。まぁ、私が現役で続けていくうちには現れるかも知れません。それまでの間、どう大道具を維持して行ったらいいのか。

 いやそれよりも何よりも、手妻全体を把握して継承して行く人が現れるかどうか。先々が心配です。

 私自身は、今は、蝶を柱にした30分から60分のショウが主流になっていますので。これをこのまま演じて行けば生きて行く分には何とかなるでしょう。その間にもう一人二人有能な人材を育てて行かなければいけません。

 アトリエの絵図面を眺めて、部屋の模様替えを考えつつ、この先このアトリエを生かしつつ、どうやって人を育てて行ったらいいものか。模索しています。

続く

 

 18日土曜日、人形町玉ひでで手妻の公演があります。藤山新太郎の数々の手妻と若手マジシャンは、せとなさん、早稲田康平さん、前田将太。宜しかったら東京イリュージョンまでお申し込みください。03-5378-2882。

 

 1月8日9日の座高円寺でもマジックセッション。お申し込みはお早めに。緒川集人、藤山大樹、魔法使いアキット、藤山新太郎、菰原裕、ダンク、綾鷹、前田将太。

 9日13時からはコンテスト、入場料1000円。参加者募集中。

ターンテーブル

ターンテーブル

 

 昨日、若手指導の日に、ザッキーさんと、古林一誠さんと、早稲田康平さんの3人が共同で私にレコードのターンテーブルをプレゼントしてくれました。

 もう誕生日プレゼントなどと言うものは、長いこと頂いたこともなく。ときどき娘からシャツをもらうことはあっても、もらってももらわなくても全く期待もせず、誕生日と言っても、家族でケーキを食べるくらいのもので、なんら特別なことはやっておりませんでした。

 たまたま12月1日のブログに誕生日であることを書きましたが、返って周囲の皆様に入らぬ心配をかけてしまったのかも知れません。

 秋田の小野学さんから徳利を頂き、昨日はまたターンテーブルを頂きましたが、今年は稀の稀の出来事です。どうぞこの先も何かを送られることのないように、私をそっと静かに67歳にさせて下さい。普通にお付き合い下さればそれだけで幸せです。

 

 ただ、ターンテーブルは正直有難く思いました。実は、私の家のオーディオはかなり古物になってしまいました。当然買い替えを考えてはいましたが、このコロナ禍の中、オーディオセットの買い替えもままならず、コロナが収まって、舞台の仕事が来るようになったら、一式買い直そうと考えていました。

 そうした中、2年前からターンテーブルが動かなくなり、ささやかな楽しみであった、レコード鑑賞が出来なくなっていました。

 幸い、youtubeで、様々な名盤を紹介してくれる投稿者さんがいて、今まで買う機会を逃していた過去の名盤を聴くことが出来て、新たな楽しみを覚えました。

 それはそれで楽しいのですが、10代から買い続けてきたレコードもたまには聞きたいと言う思いが募っていました。

 

 それが思いがけなくも、若手三人のお陰でかなうことになりました。実は、先日福井に行った折、こども歴史文化館に出演した際、子ども歴史文化館には、昔の蓄音機が何十台も保管されていて、しかもそのほとんどが現役で聴けます。

 先日はそこでボレロを聴かせていただきました。ボレロと言う小品ですら、レコード一枚の裏表を使います。曲が少し高揚してきたところで一面が終わり、蓄音機のぜんまいを巻きなおして、レコードをひっくり返して裏面を聴きます。昔は面倒な作業をして、音楽を聴いていたわけです。

 まるでコンパスの針のようなしっかりとしたレコード針をレコード盤に乗せます。すると、シャーと言う独特の音がして、やおら音楽が出て来ます。針がレコードの溝に触れ、反応し、それが拡声板で拡幅されて音は再生されます。一切電気を使わずに、いわばからくりによって音が出ます。

 今から見たなら原始的な装置ですが、音は意外にもしっかりしていて、十分録音当初の音が奇麗に再現されています。

 蓄音機時代のレコードは78回転というスピードで回転し、25㎝くらいのレコードが片面4分くらいしか入りません。

 そうなると交響曲のように、各楽章が5分以上あるものは、裏と表で一つの楽章になり、全曲を聴くためにはレコード4枚セットを買う必要がありました。当時のレコードは今の価値にすると、一枚1万円くらいでしょうか。4枚セットとなると、4万円です。よほどの金持ちでなければレコード鑑賞などできなかったのです。

 応接間で紅茶を入れて、蓄音機をかけて、オーケストラやバイオリン曲などを聴くと、昭和初年のアッパークラスの生活をしのぶことが出来ます。

 無論、私の家には蓄音機はありません。SPレコードを焼き直したモノラール盤はレコードも、CDもたくさんあります。それを応接間ではなく、アトリエで聴きます。アトリエと言えば聞こえはいいですが、マジックの道具でごちゃごちゃしています。いわば作業場です。

 コーヒーを入れて、ロールケーキをつまみつつ、ほんのひと時1940年代のメンゲルベルクフルトヴェングラー指揮の、アムステルダムコンセルトヘボウやベルリンフィルハーモニーを聞きます。

 時には、ベートーベンの、3番や7番、ブラームスの1番などを二人の演奏で聴き比べたりもします。そうしたことはこの50年間、何百回もしてきたことですが、聞き比べてみると、その都度新たな発見があって面白いのです。

 私のレコードやCDは、古い物ばかりです。最近の指揮者はあまりあありません。1940年代から、90年代までの指揮者がほとんどです。それがいいのです。

 特にSPレコードを聴いていると、私が知らないはずの昭和初年の風景が忽然と現れてきます。そこに浸っていると、充実感を感じます。

 

 さて、私の家のターンテーブルが故障をしていることをなぜ若手の彼らが知っていたのか。私が福井で蓄音機を聴いているときに、ついうっかり「今はSPレコードを聴くことは出来ないんだ」。と言ったのです。何気に言った一言を気にかけてくれて、贈ってくれたのです。

 有難く善意をいただきます。今日は前田は休みですので、明日、彼が来たなら、オーディオセットに接続して、早速古いレコードを聴いてみます。

 何を聴こうかな、ムラビンスキーのチャイコフスキー5番にしようか、ウィーンで録音した5番の演奏は大迫力で、何度聞いても感動します。

 いやいや、感動と言えば、メンゲルベルクのマタイでしょう。永久に忘れられない名演です。然し、全体を聴くには相当に長い。もう少し短めで感動する音楽はないか。

 心に響く演奏ではフルトヴェングラーブラームスの4番でしょうか、いやいや、これは暗すぎます。出だしから陰陰滅滅としています。もう少し明るい希望のある音楽にしましょう。

 ここは陽気に、メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトをクライスラーの演奏で聴こう。これはいい。これだ。と言うわけで、明日はクライスラーをかけて見ます。あぁ、明日が楽しみだ。

続く