手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ロシア マジックの旅 1

ロシア マジックの旅 1

 

 今から10年ほど前に、ロシアのマジシャンから、ソチと言う都市でマジックコンベンションをするから来てくれないか、と言う電話をもらいました。

 往復の移動の日数も合わせておよそ一週間。大会の間は、ステージ一回、レクチュアー一回。交通費、宿泊費、食事、ギャラすべて支払うと言うものでした。

 まず通常のコンベンションの条件と同じですので、了解しました。ロシアへの旅は初めての体験です。ちょっと興味があります。この時は私一人で行きました。大会一か月前に飛行機のチケットが届きました。

 ロシアは飛行機チケットがバカ高くて、東京モスクワ間往復で一人30万円近くします。日本の様に格安飛行機と言うものはありません。すべて国営の飛行機会社です。ロシア人の所得を思えば、大会主催者が支払うチケット料金は法外に高額です。

 共産国と言うのは、基本的に排他的で、人の出入国を拒否している風があります。私は主催者の苦労を思えば、何とか期待に応えなければいけないと、あれこれ手妻の道具をスーツケースに詰め、衣装も、外国人が喜ぶような派手な衣装を持ってロシアに向かいました。

 10月初め、成田から飛び立って、飛行機は北に向かい、やがて日本海を超え大陸の上を飛び始めました。幸い雲一つない快晴で、窓から下の様子が良く見えます。然し、行けども行けども物の見事に森林が見えるだけで町らしいものが見えません。

 ようく目を凝らして見ていると、細い道が見えます。然しその道に車は見えません。でも、道が続くならその先には町があるのだろう。と思ってずっと見ていると、50㎞に一か所くらいの間隔で、数軒の集落がありました。寂しいところです。

 「あぁ、もし飛行機が不時着して、この集落にたどり着いたら万事休すだなぁ」。などと不安がよぎりました。ここの人たちは何をして暮らしているのでしょうか。もしこの集落に生まれ育ったなら、自分がマジシャンになるなどとは考えもしないでしょう。毎日木こりとなって働き、晩にウオッカを飲むのが唯一の幸せなのかも知れません。そんなことを想像しつつ、飛行機はシベリアのツンドラ地帯を西へ進みました。

 あまりに単純な地形のため、眠くなりました。うつらうつらして目を覚ますと、はるか前方に山並みが見えます。それはとんでもなく大きな山並みで南北に伸びています。

 「ひょっとしてこれがウラル山脈かな」と予測を立てると、正解で、南北に真っ白な山脈が伸びています。実にわかりやすく東西を仕分けています。西側からくると、この山脈がヨーロッパの終点になります。そして今私が来たツンドラ地帯がアジアと言うことになります。その昔、ここを橇(そり)などを使って超えて行くのは簡単ではなかったでしょう。

 ヨーロッパ人が飛行機に乗って東京に行くときは、ウラル山脈を見てきっと「この先に人が住んでいるのだろうか」。と心配になるはずです。ウラル山脈ですら地の果てのように見えるのに、その先、シベリアのツンドラを越え、人のいない土地を超えて行った末に、更に海を越えた絶海の孤島が日本だったのです。

 

 13時間の旅を終え、モスクワに到着、ここから国内線用の飛行場に行かなければいけません。ソチはロシアの南端。黒海の近くにあります。10月初頭のモスクワは空がどんより曇っていて、風が冷たく、東京の真冬の気温です。

 ここでソチに向かう飛行場にはどう行ったらいいかを、空港関係者に尋ねますが、物の見事に英語が伝わりません。いろいろな人に尋ねると、どうやら、「外に出てタクシーに乗れ」、と言っているようです。要領を得ず不安です。

 タクシーの運転手の中で少しでも英語の話せる人を探し、ソチに行きたいと言うと、相手は了解し、10分ほど運転をして国内空港に到着。運賃は1000円ほど。

 カウンターで手続きを済ませ、係員に「何時に飛行機が出るのか」、と聞いても要領を得ません。「待っていればじきに発車する」。とロシア語で言っているように感じます。多分正解なのでしょう。この先もそうでしたが、全てのことは時間通りには進まないのです。

 然し、うっかり乗り遅れたら路頭に迷いますから、周囲をよく見ていないといけません。待合所に座っていると、イタリアのドミニコダンテがやって来ました。

 この人はFISMと言うマジックの世界組織の副会長です。(現在は会長)。背の高い、顔の長い男で、ベニスに住んでいます。実家は金持ちだと聞きました。マジックショップを経営していて、セミプロマジシャンです。

 互いにロシア語を話せないため、ロビーをうろうろしていました。日本の飛行場のようにきれいなショップもありません。売店はありますが、品物は粗末です。

 サンドイッチを買いましたが、キャベツは硬く、なかなか呑み込めません。ハムは塩がきつく硬くて食べにくかったです。パンはほとんど味がしませんでした。とりあえずこの先に何が起こるかもわかりませんので、我慢して食べました。

 やがて人がぞろぞろ移動し始めました。くっついて下の階に行くとありました、昔の駅の掲示板のように、天井から下がっている掲示板に、パタパタと音を立て黒い薄い板が入れ替わる仕掛けで、ソチと書いてありました。これで一安心です。

 ダンテさんはイタリア人にしては珍しく地味な人のようです。あまり積極的に話をしてきません。彼はショップをしているのに道具らしい道具を持ってきてはいません。ステージに立つ様子も感じられません。

 「あなたは何のためにロシアに来たのか」。と尋ねると、「来てくれと言うから来た」、と言います。随分人のいい人です。

 さてしばらく並んでいると、突然黒い掲示板が、パタパタと音を立ててソチからペテルブルグに変わってしまいました。すると乗客はぶつぶつ文句を言いながら四方に散って行きました。「何があったんだ」。ダンテさんと顔を見合わせました。

 出発場所が変わったのならそれなりの説明をすべきだ。私はカウンターに行って、大柄な女性に、何があったのかを尋ねました。彼女は「分からない」と言いました。「そうなら、ソチはいつ出るのか」と尋ねても「わからない」と言います。何を聞いてもわからないのです。

 ロシアにいると常に、不愛想、不親切、無責任で不信感を抱きます。それに対して人々はあきらめの表情で、文句も言わず運命に従います。仕方なく私と顔の長いイタリア人は元の待合所に戻り、時を待ちました。

続く