手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大谷選手の時代

大谷選手の時代

 

 本当は今日(11月20日)、シトロエン一代記の3回目を書いて、シトロエンを終わらせようと考えていたのですが、昨日(11月19日)大谷翔平選手が、MVPを獲得したため、急遽内容を変えて、お届けします。シトロエン一代記はまた数日のうちに書きます。

 大谷翔平選手が、アメリカンリーグのMVP(年間最優秀選手)に選ばれるであろうことは、随分前から多くの関係者の間でささやかれていました。

 それゆえ、かくなりつるとは知りながら、いざ、発表されると、その実感はまたひとしおです。これは、日本人としての偉業ではなく、全ての野球選手の中での偉業と言えます。

 

 MVPと言うのは、アメリカンリーグナショナルリーグの両球団のチームの中から、それぞれ一名が選ばれます。その選出方法は、全米記者協会に所属する記者のうち30人による投票で、投票する記者は、名前を公表し、選手に与えた得点までも公表します。

 選ばれる選手は、優れた選手であることは勿論ですが、第一に、所属するチームに多大なる貢献をした、という実績を最も重視します。

 ことの発端は、1910(明治43)年に始まり、当初は優れた選手に自動車を一台プレゼントすると言うものだったのですが、翌年の1911年から今の形式になりました。

 つまり大谷選手は、110年に及ぶ歴史の中での優秀選手として選ばれたわけです。ちなみに、110年間の中で満票を取った選手は、19名で、全体の受賞者の約五分の一にも満たないのです。選ばれることすら至難な中での満票ですから、その功績は偉大です。

 過去には20年前にイチロー選手が受賞しています。日本人としては二人目の快挙です。

 この一年はアメリカのニュースを伝え聞いていると、全米で大谷熱が異常に盛り上がり、それに連れて、長らく低迷していた野球が、新聞や、テレビなどの話題に乗る機会が増えて来ました。

 観客動員も、はっきりと増加していて、特に大谷選手の絡む試合となると通常よりも二万人も多い観客動員を見せるようになりました。たった一人の選手の出現が二万人を集めてしまうのです。

 アメリカの球界としても、大谷選手の登場は待ちに待ったものでした。と言うのもアメリカの野球界は、フットボールや、バスケットボールの人気に押され、観客動員数も、テレビの視聴率も減少し続けています。このまま行ったなら、野球は今の球団も球場も維持することが難しくなると思われていたのです。

 ここらで何としてでもスターを作らなければならない、とは野球関係者もファンもみんなが考えていたことです。そこに現れたのが大谷選手です。アメリカ人の考え方として、これほどのチャンスを手に入れて、それをみすみす逃すようなことは考えられません。

 すべてのルールを書き換えてでも、大谷選手のやり良いように、球界が一丸となって大谷翔平と言う、大スターを育てて行かなければならないと理解しているのです。つまり、大谷選手の活動は、一球団の一選手を語っているのではなく、アメリカの野球界の浮沈が関わっているのです。

 

 土産売り場に置いてあるエンジェルスの赤いシャツは、17番の背番号だけは販売と同時に即完売です。相手球団の応援団までもが争って、大谷のシャツを買い求めます。どこの球団の観客席を見ても赤シャツ17番を着た子供が必ず映像に映ります。

 相手球団の応援をする子供たちが、エンジェルスのシャツを着ていることなどかつてあり得なかったのです。然し、それを誰も咎め立てできません。大谷フィーバーは止まらないのです。

 

 彼らはみんな大谷選手になりたいのです。白人の子供で、日本人をそこまで愛したことなど今までなかったでしょう。しかも、その両親までも、大谷選手の活躍を喜びます。

 なぜなら、大谷選手は人間として模範的な人物だからです。野球選手の中には、ホームランは打てても、薬物中道患者であったり、飲酒が元で暴力沙汰を起こしたり、子供のころ万引きをして家計を助けていたり、野球選手となって人気が出た後で、いきなり莫大な収入を得たことで、女性関係で乱れていたり、

 つまり、スポーツマンとして尊敬は出来ても、人間として模範的な生き方をして見せられない人もいたのです。それは野球選手に限らず、多くのスポーツ選手は、ハングリーな暮らしの裏返しでスポーツをしています。

 それは間違った考えではありません。然し、それゆえにアメリカではスポーツ選手を格下の生活者と見る人は多いのです。子供がスポーツ選手になりたいと言い出すと、半分は子供の夢を尊重しつつも、半分は早くその夢が覚めることを心の内で願う親は多かったのです。

 そうした中で突然出てきた大谷選手です。マウンドでのプレーの姿勢も素晴らしいですし、インタビューでの話し方も言葉を選んで、実に謙虚です。実際頭がいいのでしょう。

 身長も高く、顔立ちも少女漫画の主人公のようでさわやかです。その生活態度に暗い影がないのです。大きな車も買わないし、高級な衣装も買いません。ごく普通の生活をしています。そうした大谷選手に子供が憧れるなら、親は安心です。

 つまり大谷選手はアメリカ人の普通の生活をする家庭の中で安心して子供に見せられる野球選手なのです。

 

 全米野球ファンは来年の活躍に期待しています。恐らくこれからのアメリカの球界は、大谷の実績が原点となって、大谷を中心となって動き出すでしょう。

 但し、毎回申し上げますが、二刀流は危険です。今回MVP  を取ったのですから、これで一区切りとして、投手としての出番を減らして、自身の健康管理に注意した上で、打者に専念したほうがいいと思います。

 無理を重ね続けていると選手生命が早くに終わります。記録が出せなければ、ファンは簡単に離れて行きます。ここから先は何とか長い選手生命を送れるように、自己管理をして行った方がいいと思います。

 

明日はブログをお休みします。

 

今日の玉ひではお休みです。

 

大谷選手の時代

大谷選手の時代

 

 本当は今日(11月20日)、シトロエン一代記の3回目を書いて、シトロエンを終わらせようと考えていたのですが、昨日(11月19日)大谷翔平選手が、MVPを獲得したため、急遽内容を変えて、お届けします。シトロエン一代記はまた数日のうちに書きます。

 大谷翔平選手が、アメリカンリーグのMVP(年間最優秀選手)に選ばれるであろうことは、随分前から多くの関係者の間でささやかれていました。

 それゆえ、かくなりつるとは知りながら、いざ、発表されると、その実感はまたひとしおです。これは、日本人としてではなく、全ての野球選手の中での偉業と言えます。

 

 MVPと言うのは、アメリカンリーグナショナルリーグの両球団のチームの中から、それぞれ一名が選ばれます。その選出方法は、野球記者による投票で、投票する記者は、名前を公表され、選手に与えた得点までも公表されます。

 選ばれる選手は、優れた選手であることは勿論ですが、第一に、所属するチームに多大なる貢献をした、という実績を最も重視します。

 ことの発端は、1910(明治43)年に始まり、当初は優れた選手に自動車を一台プレゼントすると言うものだったのですが、翌年の1911年から今の形式になりました。

 つまり110年に及ぶ歴史の中での優秀選手として選ばれたわけです。ちなみに、110年間の中で満票を取った選手は、19名で、全体の受賞者の約五分の一にすぎません。選ばれることすら至難な中での満票ですから、その功績は偉大です。

 過去には20年前にイチロー選手が受賞しています。日本人としては二人目の快挙です。

 但し、この一年はアメリカの野球界をニュースなどで伝え聞いていると、全米で大谷熱が異常に盛り上がり、それに連れて、長らく低迷していた野球が、新聞や、テレビなどの話題に乗る機会が増えて来ました。

 観客動員も、はっきりと増加していて、特に大谷選手の絡む試合となると通常よりも二万人も多い観客動員を見せるようになります。たった一人の選手の出現が二万人を集めてしまうのです。

 アメリカの球界としても、大谷選手の登場は待ちに待ったものでした。このまま行ったなら、野球は今の球団も球場も維持することが難しくなると思われていたのです。

 ここらで何としてでもスターを作らなければならない、とは野球関係者もファンもみんなが考えていたことです。そこに現れたのが大谷選手です。アメリカ人の考え方として、これほどのチャンスを手に入れて、それを逃すことは考えられません。

 すべてのルールを書き換えてでも、大谷選手のやり良いように、球界が一丸となって大谷翔平と言う、大スターを育てて行かなければならないのです。つまり、大谷選手の活動は、一球団の一選手を語っているのではなく、アメリカの野球界の浮沈が関わっているのです。

 

 土産売り場に置いてあるエンジェルスの赤いシャツは、17番の背番号だけは販売と同時に即完売です。相手球団の応援団までもが争って、大谷のシャツを買い求めます。どこの球団の野球を見ても赤シャツ17番を着た子供が必ず映像に映ります。

 相手球団の応援をする子供たちが、エンジェルスのシャツを着ていることなどかつてあり得なかったのです。司会それを誰も咎め立てできません。大谷フィーバーは止まらないのです。

 

 彼らはみんな大谷選手になりたいのです。白人の子供で、日本人をそこまで愛したことなど今までなかったのです。しかも、その両親までも、大谷選手の活躍を喜びます。

 なぜなら、大谷選手は人間として模範的な人物だからです。野球選手の中には、ホームランは打てても、薬物中道患者であったり、飲酒が元で暴力沙汰を起こしたり、子供のころ万引きをして家計を助けていたり、野球選手となって人気が出た後で、いきなり莫大な収入を得たことで、女性関係で乱れていたり、

 つまり、スポーツマンとして尊敬は出来ても、人間として模範的な生き方をして見せる人は限られていたのです。それは野球選手に限らず、多くのスポーツ選手は、ハングリーな暮らしの裏返しでスポーツをしています。

 それは間違った考えではありません。然し、それゆえにアメリカではスポーツ選手を格下の生活者と見る人は多いのです。子供がスポーツ選手になりたいと言い出すと、半分は子供の夢を尊重しつつも、半分は早くその夢が覚めることを心の内で願う親は多かったのです。

 そうした中で突然出てきた大谷選手です。マウンドでのプレーの姿勢も素晴らしいですし、インタビューの話し方も言葉を選んで、実に謙虚です。実際頭がいいのでしょう。

 身長も高く、顔も少女漫画の主人公のようでさわやかです。その生活態度に暗い影がないのです。大きな車も買わないし、高級ないショウも買いません。ごく普通の生活をしています。そうした大谷選手に子供が憧れるなら、親は安心です。

 つまり大谷選手はアメリカ人の普通の生活をする家庭の中で安心して子供に見せられる野球選手なのです。

 

 全米野球ファンは来年の活躍に期待しています。ただし毎回申し上げますが、二刀流は危険です。今回MVP  を取ったのですから、これで一区切りとして、投手としての出番を減らすなどして、自身の健康管理に注意したほうがいいと思います。

 無理を重ね続けていると選手生命が早くに終わります。記録が出せなければ、ファンは簡単に離れて行きます。ここから先は何とか長い選手生命を送れるように自己管理をして行った方がいいと思います。

続く

 

シトロエン一代記 2

シトロエン一代記 2

 

 1919年、シトロエンはA型を発表して瞬く間に大ヒットをし、ルノープジョーなどと並んで一躍フランスを代表する自動車メーカーに成長しました。ところが、販売して気付いたのですが、余りに安価に価格設定したため、少しも利益が出なかったのです。

 多くの人が買える自動車を作りたい、と言う理想が先走ってしまい、経営的には利益が出なかったのです。しかし、他社より遥かに安い車を作ったことでその名は世間の話題となり、宣伝効果としては大成功をします。

 そこで、すぐに1921年にB2を発表し、これも爆発的なヒットをします。今度はしっかり原価計算をして利益が出ました。

 その成功に気を良くしたシトローエンは、奇抜な宣伝を次々に考えます。先ず子供のためにミニカーを販売します。今ではミニカーは何でもないおもちゃですが、自動車を精密に小型に作ったおもちゃはシトローエンが考え出したもので、発売後爆発的な人気を呼びます。以後新車が出るたびに種類を増やして子供たちにシトロエンを認知させて行きます。

 社名をシトローエンから、シトロエンに変更します。シトロエンはシトロン(柑橘系の果物)、に似た響きがあって覚えやすいと言うことでシトロエンと言う社名にします。後には、実際に黄色いボディの車まで作って、シトロンそのものになって販売します。それまでの車は黒ばかりだったものが、黄色い車が出たため町の雰囲気まで一変し、一躍人気になります。

 シトローエンのアイディアは益々冴えわたり、飛行機でCitroënの文字を空に書くことを考えます。こうした広告は今までになく、独創的だったためにこれも話題になります。

 さらにはエッフェル塔を広告塔にすることを思いつき、ネオンサインでCitroënとものすごい太い文字で縦書きのアルファベットのネオンを出しました。この宣伝効果は絶大でした。

 夜にパリの街を歩いていると、どこにいてもシトロエンの文字がキラキラ輝いているのですから。

 実際、リンドバークが飛行機で大西洋横断をした時に、闇夜の中で有視界でパリの街を見つけ出します。そこで有名なセリフ、「翼よあれがパリの灯だ」。と言った話は彼の伝記にも書かれていますが、このリンドバークの言った、「パリの灯」と言うのは間違いなくエッフェル塔に輝くシトロエンの文字だったのです。

 

 更に1925年から、自社の車の耐久性のすばらしさを宣伝するために、サファリラリーを開催します。アフリカのサハラ砂漠を縦断する企画です。砂漠を当時の自動車で縦断すると言うことは無謀な行為であって、誰も達成した人はありません。

 今日までも続いているサファリラリーの発案者はシトローエンです。現代の考えで見たならそう無理な話ではありませんが、ガソリンスタンドもなく、修理工場もなく、砂ばかりの土地で灼熱の太陽のもと、どうやって未成熟だった当時の自動車が砂漠の縦断を果たすのか、それは困難の連続だったのです。それをあえてシトロエンはやってのけたのです。

 この冒険は予想以上の効果を生み、世界中の自動車愛好家から信頼を勝ち取り、縦断を成し遂げたことが会社の性能の高さを実践で示すことになったのです。

 以後、シトロエン社は、様々なラリーを企画して、ゴビ砂漠を超えて、北京まで行くラリーまでやって見せたのです。

 このサファリラリーは今も続けられています。自動車の耐久レースと言う点ではとても重要なラリーなのです。シトローエンの発想が今も続いているのです。

 

 この間にも車は大改良がされて、ボディ全体が一枚の鋼板で成形される車を発表します。これは今では当たり前のことですが、昔の車は、エンジンを納めている鼻先の部分と、人の乗る客車部分は別に作られていました。

 つまり当時の自動車はまだ馬車の形から変化をしていなかったのです。それを鋼板の一体型のボディ。つまり今日の自動車の形に改めています。当時としては画期的な自動車でした。

 さらに、車全体を一切木製を使わず鉄のみのボディを達成しています。現代の感覚からすれば、そんなことは当たり前と考えてしまいますが、床から天井から細部の部品まで鋼板を使い、強度を増した設計になっています。つまり1920年代以降に車は急激に今日の形になって行きます。アンドレシトローエンと言う人は、今日でいうならスティーブンジョブスのような、先駆者であり、経営者として、科学者としての先端を行く人として欧州の中で大いに持てはやされたのです。

 第二次世界大戦前までのフランスでは、約三分の一の自動車がシトロエンで、会社としては欧州最大の自動車メーカーだったのです。世界的に見ても、生産量第一位はアメリカのフォード車で、二位がシトロエンだったのです。今日ドイツ車の影に隠れて、冴えなくなってしまったフランス車の現状を見ると隔世の感があります。

 

 彼は大変なギャンブル好きで、しかもアルコール好き、ナイトクラブにはしょっちゅう出入りして、半端なく遊び続けました。こう書くと成り上がりのスケベ親父の様に思われるかもしれません実際そういう面も多々あったようです。

 然し、同時にシトローエンは、作曲家のモーリスラベルの良きパトロンでもあったのです。当時すでにフランスを代表する作曲家として名を成していたラベルですが、彼は極度の人嫌いで、社交界の類には一切出て来ることはありませんでした。

 彼は身長の低いことに強い劣等感を抱いていて、立って記念写真を撮ることを嫌がりました。パーティーの中にいると一人だけ埋没してしまうため、パーティーも嫌いでした。そのためほとんど外出をしなかったのです。

 然し、人の心を掴むことに長けていたシトローエンとは馬が合い、度々彼のパーティーには出席したようです。シトローエンとラベルの不思議なつながりは長く続きました。

 

 ここまで私が如何にシトロエンが先進的な自動車作りをしてきたかを熱を込めて語りましたが、この先もまだまだ世界に先駆けて独創的なアイディアを発表して行きます。

 ところが、余りに独創的なため、開発費に費用がかかり過ぎ、いつしかシトロエンは儲かっていながら莫大な開発費によって大きな負債を抱え、身動きが出来なくなって行きます。

 その最たるものがトラクシオンアバン(前輪駆動)でした。彼の自動車作りの最大の事業がトラクシオンアバンだったのですが、同時にこの事業が彼の人生を終わらせる結果となりました。トラクシオンアバンとは何か、その話はまた明日。

続く 

シトロエン一代記 1

シトロエン一代記 1

 

 フランスの自動車メーカーの初代経営者、アンドレシトローエンは、実に個性的な人柄と独創的なアイディアの持ち主で、彼の個人的な才能が一代で巨大自動車メーカーを作り上げました。

 父親はポーランド人、母親はオランダ人、ユダヤ系の家系で、父親は宝石の職人をしていたそうです。パリにある国立工科大学に在学し、技術者の道を考えていたところ、親戚の町工場の経営者が変わった発明をしたと言う噂を聞いて、工場を訪ねると、そこで見たものは、奇妙な歯車でした。

 歯車と言うのは、円形の金属の縁を何十等分かに歯を立てて、溝を削り落として、刻みを入れるものですが、この溝がまっすぐでなく、全て山形に折れ曲がっていて、歯の面が突の文字になっています。

 なぜこんな奇妙な歯車を作ったのかと尋ねると、歯車同士は平たんなところで回す分には問題なく作動しますが、例えば船舶のような、船体自体が動くところで歯車を回すと、何かのショックがあると歯車が左右にずれて外れてしまうことがあります。大きな歯車だと一度ずれると船内でつなぐことが難しく、船はそのまま航行不可能になります。

 ところがこの山歯(やまば)の歯車は左右のずれに強く、動力を無駄なく伝えるため効率がいいことが分かりました。するとシトローエンはすぐに親戚のアイディアの権利を買取ります。

 その資金の出どころは不明です。多分親を説得したのでしょう。まだ学生であるにもかかわらず、早速、このアイディアを船舶会社やフランス海軍に売り込みをかけます。

 山歯(やまば)の歯車の素晴らしさはすぐに評価され、大量発注を受けてシトローエンは一躍フランスの経営者の一人となり大成功をおさめます。1905年、シトローエン27歳でした。

 彼はこの時の成功を忘れず、後年、自動車会社を設立したときに会社のマークとして、ダブルシェブロン(二つの山歯)のマークを考え出します。今日のシトロエンのとがった山歯のマークがそれです。

 彼は大きな収入を得て、その後ひたすら研究に没頭したかと言うと、そうではなく、ナイトクラブや社交界に入り浸り、遊び惚(ほう)けていました。この姿を見たフランスの多くの経営者は、「あいつは一発屋で終わる」。と見ていたようです。

 シトローエンは当時のアメリカの自動車メーカー‐フォードの流れ作業による自動車生産に着目していました。当時の欧州の工場は、自動車一台作るにも、数人がチームを作って、初めから終いまでを責任を持って作り上げていました。戦艦を作るのも似たようなやり方でした。

 然し、これでは注文製作と同じで手間暇がかかります。しかも職人の技量の差で製品の良し悪しがはっきり出てしまいます。

 ネジやリペットを打つのでも、職人の勘で適当な位置に穴を開け、ネジを打ち込んでいたのです。一台一台ネジの位置もネジの数も違っていたのです。然し、もし、ネジ位置が初めから決まった位置にあけられていて、その穴にネジを打ち込むのであれば誰でも作れて、製作スピードは驚異的に早まります。

 フォード車がしたことは、穴をあける担当は穴専門に開け、ネジを打ち込む担当はネジ打ち込みに専念したのです。

こうすることで一回一回ドリルとドライバーを持ち換えて作業することなく効率よく作業が出来るようになりました。

 しかも製品はすべて共通の規格のものを採用しました。こうすることで誰が組み立てても同じクオリティで製品が出来るようになったのです。このため、フォードの車はアメリカ中のどこの修理工場に持ち込んでも修理可能となったのです。アメリカのような巨大な国ではこうした互換性を備えた製品が支持されたことは当然でした。

 シトローエンはフォードの合理的な経営の影響を受け、セーヌ川畔に流れ作業の工場をこしらえます。

 

 するとおりしも第一次世界大戦が勃発します。フランスはドイツに苦戦をします。そこでシトローエン陸軍省に乗り込み、「私の新工場で砲弾を作れば一日5万発製造して見せる」。と豪語します。軍は当初その言葉を俄に信用できませんでしたが、彼の工場を見て納得します。

 しかも、シトローエンは、「私の工場は特別な技術は必要としない。亭主が戦争に出ていて収入を失っている兵士の妻たちでも出来る。彼女らを雇い入れれば、人手不足は解消し、雇用が増えて一石二鳥ではないか」。

 と、とんでもないアイディアを出します。実際、工場内に託児所まで設けて、兵士の妻たちを雇い入れ、女性に玉を作らせて、女性の生活を助けると言うアイディアを考え出します。これには陸軍も頭を下げ、シトローエンに大砲の玉の製造を依頼します。

 お陰で世界大戦中の4年間で巨万の富を得たシトローエンはフランス中の経営者の羨望の的になります。そして以前にもまして夜遊びが激しくなります。

 

 大戦後に、シトローエンは満を持しての自動車製造を始めます。彼が尊敬してやまないアメリカのヘンリーフォードに憧れ、フォードが作ったT型フォードをフランス式に製造したいと考えました。

 当時のフランスにはたくさんの自動車メーカーがあり、そこでは貴族や経営者相手の注文によって自動車を製作していたのです。いわば当時の自動車は、馬車の時代と何ら変化はなく、全くの手作りで、その価格は家一軒に匹敵するもので、とても庶民には買えませんでした。

 シトローエンは、せめて中産階級が買えるくらいの製品を出したいと考え、自慢の流れ作業の工場をさらに大きく作り替え、自動車生産を始めます。

 シトローエンは工科大学を卒業していますが、彼が自動車の設計をしたことはなく、有能な技術者を他社から引き抜いて、彼らに製作を任せます。シトローエンはむしろ、製品を売り込む才能に長けた人で、この先も彼の突飛なアイディアで会社は大成功をおさめます。

 とにかくシトローエン社はA型という車を発表します。1300CCの4人乗り、どうと言って目立った長所のない車ですが、価格の安さが大衆に受けて、初年度、二年目を合わせて二万台の製造を達成します。今、二年で二万台の車製造は大したものではありませんが、貴族だけを相手にしていた時代に、二万台と言う個数は常識を超えた台数だったのです。またまたシトローエンは大成功をおさめます。

続く

 

 

お道具製作

お道具製作

 

 一週間ほど前に連理の曲のお道具が10組届きました。連理と言うのは、半紙をハサミで切って御幣(ごへい)を作る手妻です。これを演じるためには、鋏、扇子、マッチ、小皿、水の入ったグラス、茶わんなど、様々な小道具が必要です。

 これらをいちいちテーブルに並べたり、かたずけたりするのは大変な手間のため、一つの箱に収めて、一回で取り出して、演技が済んだらまたしまえるようにしています。

 これが私の流派で使っている連理の曲の一式です。箱には木目込み細工の装飾がしてあって、結構凝った造りになっています。それを10セット依頼したものが仕上がって来たのです。

 いつ生徒さんが習いに来るかはわかりませんので、常になくならないうちに注文しています。

 

 それから卵の袋が無くなってしまいました。これも私のところでは人気の作品ですので、一か月前に、仕立て屋さんに50個注文しました。それが昨日(11月16日)に届きました。

 袋卵は習いたい生徒さんが多いため、指導に欠かせません。私の作品の中ではよく出ます。それでも一年に10人指導すればまずまずです。そうなると、50個が完売するのは5年後です。先の長い話です。それでも仕立て屋さんに注文するとなると5個10個は頼めませんので、50個注文します。

 私のところでは、木工所が3件。塗師屋さん、銀細工師、飾り職人、椀屋さん、布地の仕立て屋さんなど、あちこちの職人に道具を依頼しています。この人たちの仕事のお陰で手妻もマジックも安心してできるのです。

 ただしこのところどこも皆さん高齢化して、店をたたむところが出て来ています。鉄工所などはもうどこもやってはくれません。それまでゾンビボールやリングなども作ってもらっていたのですが、今では金物はもう作れません。そうなるとこの先、金輪の曲も、12本リングももう作れないのです。

 くす玉もミリオンフラワーも作る人がいなくなり、入手不可能になってしまいました。私が、思いっきり大量に注文してあげれば制作者も安定した生活が出来るのでしょうが、私の注文ではあまりにわずかです。この先いい仕事をする職人がどんどん消えて行ってしまうのが残念です。

 

 私は30代くらいから、出来ることならからくり細工を復活させて、舞台に取り入れたいと考えていました。からくりとは、ぜんまい仕掛けで動く人形のようなものですが、古い文献を見ると、かなり不思議な現象をからくり細工でやっているのです。

 いろはの文字を当てる人形は、傘を広げて、傘の先にいろは48文字のが一文字ずつ書かれた紙がぶら下がっています。人形が真ん中に立っていて、お客様の注文により、文字を指定すると、その文字の下で手を上げて文字を当てます。

 

 道成寺清姫の人形が鐘を撞く、と言うからくり人形があります。お客様の注文によって、3回とか、5回とか言うと、その数だけ鐘を撞きます。鐘は小さいながらもお寺にあるような鋳物で作られていて、清姫の人形が手に撞木を持っていて、鐘を鳴らすのです。

 いい人形師に注文して、鐘も鋳物でしっかり作ったら見た目にも素晴らしいお道具になるでしょう。但し、費用もけた違いなものになると思います。一組400万円とか500万円くらいかかるかも知れません。

 それでも手妻をする者としては、一つ、二つくらいの作品は持っていたいと思います。どなたかこの話に一口乗りませんか。三人くらいで一緒に作ればかなり安くなると思います。世界でたった三つだけのからくり細工を作るのです。十分価値あると思います。

 但し、からくり細工の製作者がいなくなってしまいました。以前は何人かからくり細工を作っている人を知っていたのですが、今はまったくわかりません。何とか一から製作者を探して、江戸のからくり細工を復活させたいと思います。

 そうした製作者と話をしているうちにまた新しい手妻が生まれるかも知れません。見た目は思いっきり古風に作られていて、まるで三百年も四百年も前からあったように見えて、然し、作品はまったく新作の手妻が出来たらどんなに面白いかと思います。

 種も、決してぜんまい仕掛けとは気付かれないような凝った造りにして、見た目はどうなっているのか見当がつかないような細工だったら面白いと思います。

 そんな手妻をこの先いくつか作って行きたいと考えています。

続く

 

鳥獣戯画

鳥獣戯画

 

 昨日(11月15日)は、昼に踊りの稽古に行き、一度自宅に戻ってデスクワークをして、夜に日本橋劇場に行き、邦楽の新曲発表会を聴きに行きました。

 踊りは「江戸の初春」と言う、短い長唄物を稽古しています。気持ちのいい踊りですので、年内に仕上げたら、正月の玉ひででご祝儀に踊ってみようかと思います。

 私が人前で踊ると言うことはめったにありませんが、たまにはご愛敬でいいと思います。特にお座敷の芸能は昔からそんなことが頻繁にありました。落語家などは今も座敷に余興で一席語った後に踊りを踊る人がいます。その伝統を生かして私もやってみます。

 

 邦楽の発表会は、先月の私のリサイタルの時に演奏をしてくれた、鳴り物(打楽器)奏者の、蘆慶順(ろきょんすん=韓国語読み=韓国系日本人)さんからチケットをもらいました。慶順さんは芸大で鳴り物の教授をしてらっしゃって、私とは十数年前の学校公演以来ずっと演奏をして下さっています。

 というわけで、多くは芸大出身の演奏家が並んで新作音楽を演奏いたします。

 日本橋劇場は私もたびたび利用致しますが、和の芸能を見せる場所としては理想的な劇場です。サイズも350人程度ですし、所作板も花道も作ることが出来ます。

 

 鳥獣戯画は、ご存じのように、京都栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)にある国宝の絵画です。絵画と言うより漫画に近く、のびのびと動物の絵が描かれていて、ウサギとカエルが相撲を取っている図など、見たら誰でもすぐお分かりになる有名な絵です。

 鎌倉時代のものらしく、これが日本の漫画の原点と考えて間違いないと思います。作品は長い巻物で描かれていて、何やらストーリーがあって進行しています。ウサギ、カエル、サルが、人物に成りすまして色々なことをしますが、全四巻の後半になると竜や、麒麟や獏が出て来たりします。作者すらも見たことのない動物を描いたことは、当時の人にしてみれば想像上の世界で、夢溢れる絵画だったのでしょう。

 

 その作品を邦楽演奏で作り上げたわけです。舞台はひな壇が三段になっていて、上段が現代邦楽の皆さん。中段が長唄連中と、義太夫連中。下段が、鳴り物の皆さん。

 幕が開くと、雅楽風な厳かな始まり方をし、徐々に十七弦琴などが入って現代邦楽になって行きます。前半の演奏が終わると、左右から金屏風が出て来て、現代邦楽の琴や三味線打楽器の皆さんはお休みになります。

 次に長唄義太夫の掛け合いがあり、全体はこの掛け合いで進行します。ウサギとカエルの相撲馬風景や、ウサギが弓矢を射る風景。川遊びをする猿とウサギ。次々と長唄の曲など使いながら、鳥獣戯画を表現します。西垣和彦師の語りが重厚で素晴らしく、山口太郎さんの高音の唄い口も健在です。慶順さんも鳴り物で活躍していました。

 国宝の娘義太夫連中も、ご高齢ながら、面白い演奏でした。この先もうこうした組み合わせは二度と聴けないかも知れません。

 ひとしきり純邦楽を演じた後、屏風が取り払われて、現代邦楽と純邦楽がコラボして大団円となって終わりますが、お終いが、大太鼓をティンパニーのような使い方をして、壮大な終わり方をします。これではどう聞いてもマーラー交響曲になってしまいます。壮大ではありますが、邦楽はこうした世界を目指しているのかなぁ、と思うと聞く側としても邦楽の将来が心配になります。

 日本を代表する邦楽の皆さんが20数名舞台に乗って、華麗に新曲発表なさったことは素晴らしいことと思いますが、邦楽が何を目指そうとしているのかが混沌として理解しがたいように思いました。

 音楽そのものは様々な邦楽が聴けて楽しいものでしたが、全体のくくりが西洋音楽になっていました。これも時代の流れでやむを得ないことなのでしょうか。

 元NHKのアナウンサー、葛西聖司さんが愛情あふれる解説をされていたのが好感を抱きました。

 

 せっかく人形町まで来たので、一杯飲んで帰ろうと、近くの焼鳥屋に寄りました。焼き鳥を3本、さつま揚げ、揚げ出し豆腐、白魚(しらうお)の刺身を肴に、ハイボールを二杯呑みました。

 店が勧めた白魚の刺身は、透き通った新鮮な白魚を生姜醤油でいただきました。これが実にうまかったです。身そのものはたいして味のあるものではありませんが、軽い歯ごたえが面白いと感じ、酒呑みには有り難い一品です。

 次に、さつま揚げの小さなボールが7つ出て来ました。直に揚げたさつま揚げですがこれはいい出来です。

 結果とするならこの店は正解でした。焼き鳥も、皮とつくね、ネギ焼を頼みましたが、たれはしつこさがなく、どれもいい味です。揚げ出し豆腐まで合わせてはずれがありませんでした。店はかなり混んでいましたが、店の親父が、カウンターの奥から私の顔を心配そうに見ています。

 こうした店に入ると、いつでもそうですが、私は、何か料理の研究家の様に思われてしまいます。どうしてそう感じるのかは知りません。いつも私の食べている表情を親父が心配そうに見ています。

 私が料理の研究家ならそれは正解ですが、私はマジシャンです。何のことはないただの酒呑みなのです。

 どうも私は、相手に必要以上の圧迫感を与えるような外見をしているようです。少なくともそれで良かったことは人生で一度もありません。まったくマイナスな性格です。

 それでもハイボールのお陰で気持ちよく帰れました。幸せな一日でした。

続く

 

5枚カード

5枚カード

 

 一昨日(11月13日)は富士に指導に行き、昨日(14日)は、午前中は高校生の朗磨君の指導。午後はザッキーさん、早稲田康平さん、小林拓馬さんの指導をしました。このところ舞台が少ないため、私の活動は指導が主になりました。一か月の内10日間くらいは指導をしています。

 これまでの人生が殆ど舞台出演することで生きてきたのですが、コロナ以降、これほどマジックの指導ばかりすることになるとは想像もしませんでした。こうして、私のところに若い人たちが習いに来るのも、私がこれまでいろいろな人からマジックを習ってきたお陰です。私が10代20代に覚えたことが今になって役立っているわけです。

 私が覚えて演じて来たマジックや手妻は、今となっては誰も知らないことがたくさんあります。弟子にしろ、生徒さんにしろ、それが貴重であることを知って習いに来るわけです。

 

 毎月一回習いに来る朗磨君は群馬に住んでいて、ロシア人のお母さんと日本人のお父さんとのハーフです。高校生ですが、手妻が好きで、お父さんに着物や袴を買ってもらい、もう一年以上私のところで手妻の稽古を続けています。

 彼の希望は手妻の指導だけなのですが、基礎指導も必要だと思い、マジックと手妻の両方を指導しています。そのため、個人レッスンで毎回2時間指導しています。

 「マジックと手妻のどっちが面白い?」と尋ねると、断然手妻の方が面白いそうです。私が中学高校時代に手妻をしていると、周囲のマジシャンはみんな「そんな古臭いことをしていては売れないよ」。と言いました。

 今、こうしてマジックより手妻の方が面白いと言われる時代が来るとは想像もしていませんでした。ロシア人の血の流れる高校生がこの先どんな風に育って行くのか、楽しみです。

 

 午後は、ザッキーさん早稲田さん、小林さんのプロ、セミプロの皆さんに指導しました。ここはファンカードから5枚カードの稽古をしました。

 日本では普通、ファンカード、5枚カード、ミリオンカードの3種目を組み合わせてカードマニュピレーション(技巧的なカードマジック)の手順を作ります。

 ところが欧米では、ファンカードと言う種目がありません。ファンの技法は断片的なものばかりで、手順と言うほどに形になっていません。多くはカードの連続出し(ミリオンカード)か、5枚カードに限られます。

 しかもアメリカ人は不器用な人が多く、地味な5枚カードの演技は敬遠されて、演じる人がほとんどいません。私が世界大会のロビーなどで稀に天海の5枚カードを演じたりすると、マジシャンが山ほど集まって来て、何度も所望されたりします。そのため彼らがカードを演じる時は思いっきり狭い内容になります。

 カードを扇状に広げることで様々な変化を表現するファンカードのアクトは今では日本にしか残っていない可能性があります。然し、カードを学ぶために、スタイリッシュなファンカードはとても大切なのです。もともとカードの縁具はスタイリッシュなものだからです。

 私のファンカードの技法は、初代天海師のものを、松浦天海氏から学んだものが元になっています。天海師のものは難しい技法が多いのですが、どれも美しく、演じていて気持ちのいいものばかりです。私の弟子は、マジックは基礎学問として学んではいますが、舞台で生かすことはほとんどありません。みんな手妻のみを演じる人が多いためです。然し、できることなら、タキシードを着る機会を作って、少しでも先人の技法を舞台で演じてほしいと思います。

 

 さて、5枚カードですが、これは全く天海師の技法です。相当に難しい技で、10代の頃から随分稽古をしてきました。実際のショウでも随分演じました。

 もう私が舞台でカードを演じなくなって30年以上経ちますが、最近また稽古をするようになって演じて見ると、かつて10代20代の時に向きになって演じていたころとは違い、ゆとりを持ってできるようになりました。

 そうなると「これも芸能としていいものだなぁ」と感じ、どこかで演じて見たいと言う気持ちになって来ました。

 

 5枚カードと言うのはスライハンドの中では随分古いマジックで、スライハンドの歴史とほぼ同時に、150年くらいの歴史があると考えられます。

 5枚のカードを空中から、一枚ずつ出し、また、一枚ずつ消して行く。単純な現象を組み合わせたものから始まり、徐々に技法が加味されて、5枚カードと言うジャンルが生まれました。

 かつてはどんな5枚カードを演じるのか、と言うことが、マジシャンの技量を測る物差しと見られた時代があったのです。

 日本で初めて5枚カードを演じたのは、松旭斎天二です。彼は天一の芸養子で、天一天勝と共に明治34年アメリカに渡り、4年近くも海外公演を続けました、その時見たスライハンドに魅せられ、天一帰国後もアメリカに残り、アメリカ人から指導を受け、スライハンドを学びました。

 欧米も、この時期がスライハンドの隆盛期だったのかも知れません。丁番でつながった四つ玉から丁番が取れて、ボールのテクニックで増減するマジックになって行ったのもこのころです。

 天一アメリカで四つ玉を買ってきたときにはボールに丁番が付いていて、一個のボールが自動的に四個になる単純な道具だったのです。然し、天二が明治42年に帰国をした時に、一座の前で見せた四つ玉はまったく技法のみでボールが増減するマジックになっていました。

 それを見た天一は、「俺の知っている四つ玉とは違う」。と言いました。その通りで、この間、四つ玉の技法が発達したのです。天二の技法は、四つ玉も、5枚カードも、コインも、どれも天一一座の座員には全くタネの糸口すらつかめませんでした。

 帰国後、天二は天一一座に戻って日本全国を回りますが、たちまち人気を博します。座員の中には天二からスライハンドを学びたく天二に接近しますが、天二はそうした座員を冷たくあしらい、仕掛けのセットも布で囲って誰にも見せません。舞台の横から見ようとすることも嫌がりました。

 一座にいた天海、天洋はそのことを怒り、やがて、天一の死後、天二が一座を引き継いだ時に、みんな天勝の方に寄って行きます。

 天二は後に二代目天一になりますが、幾つかの興行で赤字を出し、その都度一座の規模が小さくなって行きます。そして大正10年に40代で亡くなってしまいます。

 せっかくの技量を持ちながら、大一座を維持できなかったことが、後継者を作れず、天二の名前は今は消えてしまいました。日本のスライハンドは、その後の天海師に寄るところが大きいのですが、そのことを認めつつも、天二さんの功績を何とか評価し、その技がどこかに残っていないかと探しています。

続く