手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ブルックナーはお好き?

ブルックナーはお好き?

 

 昨日(11月12日)はベートーベンを書いてみました。以前に、私はブログで、クラシックについて書くと覿面に読者数が減る、と言いました。ところが、このところ何を書いても読者数はほとんど変わりません。昨日のベートーベンも、私の日常について書たものと同じくらいの読者数でした。

 少し安心をして、もう少しクラシック音楽を書いてみます。クラシックの面白さは小学校4年生のころ、兄が運命と田園のレコードと、メンデルスゾーンチャイコフスキーのバイオリン協奏曲のレコードを買ってきたときにはじまりました。

 兄は少しクラシックに興味を持って定番のレコードを買ってきたのです。そして初めは熱心に聴いていたのですが、二か月もしないうちに全く聴かなくなりました。

 私が学校から帰って来て、一体兄は何を聴いていたのかと兄のレコードをかけて見ると、運命も田園も初めはほとんど理解できないながらも、ところどころのメロディーが面白く、それ以外は難解な部分がたくさんあり、得体のしれないものに感じました。

 それでも学校から帰ると必ず一曲聴くようにしていると、まるで深い雲に隠れていた景色が少しずつ晴れて、雄大な景色が見えてくるように音楽が理解できるようになりました。そうなると興味が湧いてきます。

 当時のLPレコードは高価で、一枚2000円くらいしましたので、小学生ではなかなか買えません。何しろ大学生がアルバイトを8時間しても1200円くらいの時代です。

 やむなく、夕方にクラシック音楽を放送するラジオ番組がありましたので、それをよく聞きました。中学生くらいになると深夜に、作曲家の芥川也寸志さんと野際陽子さんがお話をしながらクラシックを聴かせる「百万人の音楽」と言う番組があり、欠かさず聞くようになりました。その頃はもう手当たり次第に面白そうな曲を聴いていました。

 中学生くらいになると、幸いなことに私がマジックで舞台に立つようになり、まとまった小遣いが手に入るようになったため、半分はマジックに、半分はレコードを買うようになりました。

 そうこうするうちに、同級生の女性で、ご両親がNHK定期演奏会のチケットを買っているお家がありました。ところがご両親は仕事が忙しく、演奏会のチケットをいつも無駄にしています。

 同級生の彼女はクラシックが好きなのですが、一人で演奏会に行くと帰りが遅くなるので、一人で出歩くことが出来ません。そこで毎回私をボディガードにして上野の文化センターに行くことになりました。私とすればこれ以上の好条件はありません。かなりいい席で毎回NHK交響楽団の演奏が聴けるのですから。

 その頃のN響の常任指揮者は、ハインツワルベルクさんか、ロブロフォンマタチッチさんでした。ワルベルクさんと言う人は伝統的なドイツ音楽の指揮者で、私にも理解出来る、ハイドンモーツァルト、ベートーベンと言ったおなじみの演目が主で毎回楽しみでした。

 マタチッチさんは東欧の人で、体は肥満していて、目も鼻も顔の造作の大きな人でした。この人が得意とするのはブルックナーでした。昭和40年代の前半、いまだブルックナーはポピュラーとはいいがたいものでしたが、マタチッチさんは9曲の交響曲を公演のたびに必ず一曲ずつ演目に入れていました。

 ブルックナーは一曲1時間近くかかるものが多く、当初、私は何をどう聞いていいものか皆目わからず、ただただ長い曲としか思えませんでした。しばしばブルックナーの演奏は私にとってはお休みタイムで、演奏中はぐっすり寝ていました。

 結局N響の演奏会に出かけるたび、ブルックナーはまったく理解できませんでした。今思えば勿体ないことをしたと思います。マタチッチほどの名指揮者が熱演するブルックナーを聴かずに寝ていたのですから。

 然し、中学生ではやむを得なかったかも知れません。当時の大人のクラシックファンですら、ブルックナーは難解と考えられていたのですから。

 

 ブルックナーの面白さに気付いたのは20歳を過ぎてからでした。ブルックナーの音楽には聴き方があります。ベートーベンや、ブラームスチャイコフスキーのように、音楽にドラマはないのです。人間の苦悩、悲しみ、寂しさなどどこにも語られていないのです。

 確かに音楽には悲しさ寂しさと言った陰影はありますが、それは人間の行いから出てくる感情ではなく、自身の体を自然にゆだねて体感したときに得る寂寥感のようなものなのです。

 人に何かされたから悲しい、いじめられて寂しいと言うのではなく、人は生まれながらに寂しく悲しいのです。大きな自然の中で生かされている自分を感じたときにブルックナーの音楽は聞こえてきます。

 ブルックナーからベートーベンのような人間ドラマを期待していると、何も起こらず、何も感じないのです。一度人間の生活から離れて、例えば温泉につかって、景色を眺めるように、受け身で世の中を眺めて見ない限り、ただただ冗長な音楽としか聞こえません。厄介な音楽です。

 ところが、ひとたび聞き方が分かるとまるで3D画像のように、忽然と大自然が見えて来ます。「なんでこんなことが分からなかったのか」。と思うほど全く見えなかったものが見えるのです。ブルックナーと言うのは決して難解な音楽ではなく、俗世から離れ、心を無にしてすべてを受け入れようとしたときに自然に感じて来る音楽なのです。

 ある意味で東洋の禅の哲学に通じるものがあるかも知れません。日常の些末なことから離れて、心を無にして座禅を組んだ時にハタと気付く世界です。

 九曲ある交響曲が語っていることは一つで、自然の素晴らしさであり、その自然を作り上げた神への感謝です。150年前のオーストリアに生活していながら、物質文明に毒されることなく、ただただ純粋に交響曲を書き続けた人なのです。

 ブルックナーの生前はほとんど演奏される機会もなく、理解者もわずかでした。昭和40年代でさえ理解者は少なかったのです。それが昭和50年代の末頃から急に演奏会で取り上げられるようになり、レコードが売れ出しました。今ではベートーベンやブラームスと並ぶくらいの演奏頻度です。

 時折マタチッチさんのCDを聴くことがあります。「あぁ、私はこの指揮者の生演奏に接していながら、どうしてこの演奏の素晴らしさに気が付かなかったのだろう」。と後悔することしきりです。せめて18歳くらいで聴けていたなら、人生が大きく変わったかもしれません。但し、そうなるとマジシャンになってはいなかったかもしれません。聖職者となって神の教えを語っていたかもしれません。何ともインチキ臭い聖職者です。

 

明日はブログを休みます。

ベートーベンでヌキ卵

ベートーベンでヌキ卵

 

 今日はヌキ卵の作業をしながらベートーベンを聴きました。それも交響曲5番の運命です。クラシック音楽の中でもっとも有名な曲で、極め付きの一作でありながら、近年、私はなかなか運命を聴くことがありません。

 なぜと問われて、例えて言うなら、今、この年で森鴎外を再度読もうと言うことがほとんどないように、日常、クラシックを聴こうとするときに、運命を聴くと言う選択肢は先ずありません。然し、それが逆に、いざ聴くとなると、まるで中学生に戻った気持ちでワクワクと胸をときめかせます。

 さて、誰の指揮で聞くかとなると、本命はフルトヴェングラーか、私の好きなメンゲルベルク、となるのですが、どちらも戦前の録音で、音が古く、指揮の仕方もかなり粘っこくって重たい演奏をします。

 例の、ダダダダーンと言うテーマも、演奏した後、しばらく休符が入ってまた、ダダダダーンと来るのが古い演奏の仕方です。一事が万事フレーズごとに念押しをするような指揮の仕方が戦前の演奏です。

 それはそれで面白いのですが、どうも年寄りに説教されているようで、この年で聴くと辛くなります。後年になって運命を聞かなくなったのは、あのダダダダーンの繰り返しがあまりに執拗なところが嫌悪感をもよおすからなのかもしれません。

 何しろベートーベンは、ダダダダーンと言う主題だけで240回も繰り返し、ほぼダダダダーンだけで一楽章を作り上げています。音楽の歴史上そんな曲の作り方をした人は彼だけです。

 無論、第二主題も出て来ます。チャーミングな、人をなだめるような安らぎの第二主題です。本来なら、第一主題のダダダダーンと、優しい第二主題が論を張ってソナタ形式で意見をまとめて行くのですが、運命だけはそこに接点も妥協もありません。

 運命は人の話も聴かず、ダダダダーンを繰り返し、愛情あふれる第二主題を蹴っ飛ばして、結局ダダダダーンが勝利してしまいます。あまりに粘着質なベートーベンの音楽を聴くと、精神異常とすら思えます。

 無論それが好きで聞くのですが、でも、今日は、悲劇を諦観するようなロマン派の演奏は避けたいと思います。すっきり、いい録音で、それでいて魂の籠った指揮者が聴きたいと思い、カルロスクライーバー指揮のウイーンフィル1974年版を聴きました。

 カルロスクライバーは若くしてスターで、ベルリンフィルウィーンフィルなど超一流のオケを指揮し続けた人ですが、残念ながら録音が極めて少なく、演奏曲も限られています。晩年はほとんど指揮もしなかったようです。然し、ひとたび指揮をすると躍動感あふれる華麗な演奏に加えて、魂の叫びが聞こえるものすごい熱演を聞かせます。単なる人気指揮者ではないのです。

 彼の指揮の中でも私のお気に入りがこの、運命と、7番の入ったCDです。今日はその二曲を続けて聞きました。

 

 改めて聞くと、やはり運命は名曲です。ベートーベンは音楽の世界に初めて哲学を持ち込んだ人です。音楽史ではソナタ形式の完成者と言われていますが、ソナタ形式がベートーベンの手にかかると白熱した議論のように展開されます。

 ベートーベン以前にもソナタ形式は存在しましたが、モーツァルトハイドンも、どの曲を聴いても曲の中に対立などありません。陽気で明るい曲ばかりです。

 ベートーベンはそうした音楽の世界にいきなり、いかに生きるかと言う命題が示され、議論が展開します。そして弁証法を駆使するかの如く主題同士が白熱して曲をまとめ上げます。19世紀初頭の人がこの曲を聴いたなら余りの崇高さ、余りの奇抜さに度肝を抜かれたことでしょう。

 

 さて、カルロスクライバーは、早めのテンポで華麗な演奏を聴かせ、粘着質なベートーベンをうまく語って行きます。早いのですが、決して一画一画をおろそかにせず、かなり細かく曲を抉って行きます。この辺りが音楽マニアをうならせる理由でしょうか。実際ウィーンフィルのような小うるさいオケも彼の指揮には素直に従っています。

 カルロスクライバーは晩年にウィーンフィルと喧嘩をしてリハーサルを中止し、演奏をキャンセルしたと聞きました。こうしたトラブルがあちこちで起こったために、彼の録音は少ないのでしょう。これほどの名指揮者が今日なかなか聞けないことは残念です。それでも、この運命の最終楽章などはまるで炎がめらめらと立ち上ったかのような壮絶な演奏です。

 同様に7番も大熱演です。どちらかと言うと7番の方が指揮者の性格に合っているのでしょう。水を得た魚の様に呼び跳ねた7番が聴けます。特に最終楽章の金管楽器が素晴らしく、ホルンなどはアルプスの彼方から聞こえて来るようで実に雄大です。こんな演奏はウィーンフィルでなければ聴けないでしょう。まったく、カルロスクライバーウィーンフィルと言う組み合わせは、天の配剤のごとき名演です。

 久々ベートーベンを聴いて充実したひと時でした。

 

 ベートーベンを聴きながら私は何をしていたのかと言うと、卵の中身を抜いて、ヌキ卵、と甘皮卵を作っていました。随分所帯じみた作業です。私のところでは、卵の手妻はプラスチックの卵などは使いません。1000年昔から中身を抜いた本物の卵を使います。

 本物の卵を使うわけですから違和感はありません。但し、本物は使っているうちに割れてしまいますので、年に一度くらい大量に卵の作り置きをしなければなりません。中身を抜いて、中を洗浄して、中を完全に乾かさなければならず、一日では終わらない仕事です。

 10代の頃から繰り返してきた仕事ですので、手慣れてはいますが、20個のヌキ卵を作るのは洗浄までで半日仕事です。そのうちの何個かは甘皮にします。ヌキ卵を酢に漬け込むのですが、これも丸一日漬け込まなければなりません。甘皮も、保管しておくとだんだん劣化しますので、定期的に作らなければなりません。

 手妻の種は結構自家製作のものがたくさんあります。どこにも売っていません。すべて私と弟子とで作ります。細かな製法は一子相伝です。こうした口伝があるから手妻は価値があるのです。

 運命と7番を聴いて、ちょうどヌキ卵14個、甘皮6個が出来ました。何十年も続けてきた仕事ですが、楽しいひと時です。抜いた卵の中身は、明日きっと茶わん蒸しかプリンになって出て来るでしょう。それも楽しみの一つです。

続く

 

新太郎のこと

新太郎のこと

 

 二週間前に私はリサイタルで花咲か爺さんを演じました。ところで、江戸時代の童話には爺さん婆さんが頻繁に出て来ますが、その爺さん婆さんの年齢は一体何歳だったのでしょうか。

 人生50年と言われていた江戸時代では、爺さんも婆さんも40代半ばだったのではないかと思います。もう40の声を聞くと隠居をして、仕事から離れ、40代半ばで孫がいて、頭は真っ白になって、顎髭を生やし、歯は半分ほど抜けて、顔はしわくちゃ、そして「わしはもう年寄りじゃから」。などと40代でそんなもののいい方をしていたのです。そして50になると老衰で亡くなっていたのです。

 そうしてみると、私が最近腰が痛いだの、疲れが抜けないなどと言うのは自然の摂理に即していて、当たり前の話なのかもしれません。

 

 今日のブログのタイトルは新太郎です。新太郎と言っても私のことではありません。私の祖父は新太郎と言いました。つまり私の名前は祖父を継いだことになります。然し、祖父は芸人ではありませんでした。

 ブリキ職人で、仲間内では銅古(どうこ)屋と言い、古くは銅板で屋根や、箱火鉢の内側、台所の流しの内側などを作っていたのです。その後に、銅よりも安いブリキ板が普及して、屋根や店の看板や雨樋などを作るようになりました。

 祖父は、若い衆を何人か使い、手広く仕事をしていました。それなら相当に稼いだだろうと思われますがそうではなく、酒と博打が好きで、その上子供が多く、生活は楽ではありませんでした。それでも自営業ですから、小銭は自由になり、私にはよく小遣いをくれました。

 祖父は私を猫っ可愛がりに可愛がりました。漫画もおもちゃも祖父にねだるとすぐに買ってくれました。どこへでも連れて行ってくれましたし、自分が飲みに行く時も私を連れて行って、隣に座らせて、好きな食べ物を食べさせてくれました。

 何でも食べていいと言うのですが、飲み屋の食べ物ですから、塩辛だの、くさやの干物だの、ウニの酒漬けだのと言ったもので、子供のすれば、何を食べてもこれが人間の食べ物かと思うほど不味いものばかりでした。

 たまにすし屋に連れていかれると、玉子焼きが楽しみでした。子供にとって寿司屋の玉子は憧れでした。

 

 私の生まれた池上の町は、日蓮さんの亡くなった場所で、町の中心に本門寺と言う大きなお寺があります。毎年10月、日蓮さんの命日にお会式(おえしき)という行事があり、この時は池上の町全体に屋台店がたくさん出て、大変賑やかになります。屋台だけでなく、見世物が来たり、屋台の手品師が来て小道具を売ったりします。これが楽しみでした。

 中には傷痍軍人が来て、日本軍の軍服を着て、片腕のない人、足のない人などが二、三人でアコーディオンを弾きながら軍歌を唄います。前には募金箱を置いて、寄付を集めます。片腕のない人は腕の先に金属の鍵フックを取り付けていて、まるで漫画で見るキャプテンクックのようでした。

 祖父の新太郎は、傷痍軍人を見ると、懐から小銭入れを出し、中身の小銭を全部取り出して私に渡します。「これをあのおじさんたちにあげなさい」。と言います。それはとても小銭と言えるレベルではなく、昭和30年代の金で500円くらいありました。今なら5000円くらいの価値でしょうか。

 私はこぼれ落ちるほどの小銭を大事に持って、傷痍軍人の前に行き、募金箱にすべての金を入れました。軍人は、「坊ちゃんすみません、有難うございます」。とやけに丁寧に礼を言いました。その間、新太郎爺さんは木陰で、こっちを見るでもなくじっと待っています。

 私はなぜ爺さんが自分で金をやらないのかわかりませんでした。「どうして自分でお金を持って行かないの」。と尋ねても、爺さんは何も言いません。そもそもあの手足のない人たちが一体何者なのかも私にはわかりません。「あの人たちは何をする人なの」。

「あの人たちはなぁ、自分が犠牲となって国のために働いた人たちなんだ。だから応援しないといけないんだ」。そうなら爺さん自らが金を持って行ったらいいものを当人は木の影に隠れて、決して自分から善意を施そうとはしません。

 あの時の祖父は、50代の末だったと思います。そうなら今の私よりも10歳も若かったのです。国のために戦って犠牲となった人に支援したいと思う気持ちは素晴らしいとしても、面と向かって礼を言われることが恥ずかしいからか、自分で渡せないと言う爺さんの気持ちはいまだにわかりません。

 その新太郎爺さんは酒の飲み過ぎで63歳で亡くなりました。今思い出しても63歳の新太郎爺さんは、今の私よりもよほどに年寄りじみていました。脳溢血か何かで倒れてからは言葉も満足に話せず、ずっと寝たきりの状態で、その姿は、今なら70歳をはるかに超えている人に見えました。

 私は爺さんの名前を継ぎ、実際、新太郎爺さんより長く生きています。まだまだ体は丈夫ですし、考えもしっかりしています。と、自分では思っています。

 周囲からも頼られていますし、なにより人が集まってきます。まだ老け込むのは早いと思います。

 今のうちにもう少しマジックの作品を作っておこうと考えて、毎日作品の図面を書いたり、練習をしています。日々充実はしていますが、そうした活動の合間に時々、先代の新太郎を思い出します。50代で「お爺さん」と言われ、63歳で亡くなった新太郎を。

続く

今は昔

今は昔

 

 年を取ると、はるか昔もついこの間のこともみんな一緒になってしまうことが良くあるようです。私が若いころによくしてくれた、アマチュアの松田昇太郎さんは、子供のころに松旭斎天一の舞台を見たらしく、話の中で何気に「天一はこうだった、ああだった」。と話してくれました。

 それがごく自然な話で、70年くらい前に見た天一が、ついこの間の出来事のように話に出て来るのが不思議でした。私は天一も天勝も実際には見たことはありませんが、早くから老人の話を聞いていたために、天一も、天勝も歴史上の人物ではなく、自分も含めた大きな流れの中の先輩奇術師として捉えることが出来ました。

 私が20代くらいの時に長崎にレクチュアーに出かけた時に、長崎マジッククラブの会長の小出さんと言う人が、レクチュアー前に食事をご馳走してくれました。その際の何気ない会話で、前年にあった長崎の集中豪雨の話として、「この間の災害はどうだったのですか」。と尋ねると、小出さんは、「それはひどいものでした。長崎市の半分が焼けてしまい。みんな焼け出されました」と、言いました。妙です。集中豪雨は火事はなかったはずです。いろいろ聞いて行くと、昭和20年の長崎の原爆に被災したときの話だったのです。

 つまり小出さんにとってはこの間の災害とは太平洋戦争であり、原爆被害はつい昨日の出来事だったのです。小出さんは長崎県庁にお勤めになっていて、見るからに頭のいい中年紳士だったのですが、戦争を体験していて、その記憶は常に昨日のことのように感じていたのです。

 

 戦争の体験は、私に取っては日常で、両親が朝食をとるときには決まって空襲の話をしていました。B29が編隊でやって来て、町にばらばらと爆弾を落として行くのが良く見えたと言います。

 当時両親は大田区の池上に住んでいて、大田区と言うのは、池上、洗足池、旗の台と言った西半分は住宅地で。東半分、蒲田、糀谷、羽田あたりは町工場がたくさんありました。

 米軍は町工場を狙って爆弾を大量に落としたのです。同じ大田区でも西半分は、何度B29がやって来ても、まったく被害がなく、爆弾が落ちるのは決まって東京湾沿いの工場群だったそうです。

 空襲と言うものを当時の人はどんな風に考えているのかと、子供心に興味を持ち、両親に聞くと、「戦争と言ってもいつも戦争しているわけではなくて、敵の飛行機が飛んできたときが戦争なんだ。空襲の時には決まって南の方から爆音が聞こえて来るんだ、それがB29の編隊の音で。だんだんものすごい音になって、そして爆弾を落として行くんだ」。

「日本軍は戦わなかったの?」。「無論戦ったさぁ。隼だのゼロ戦が出撃するんだけど、B29ははるか高い所を飛んでいるから、小さな飛行機では届かないんだ。それでも果敢に機関銃を打つんだけどなかなか当たらないんだ。品川沖に高射砲があって、空のB29に向かって高射砲を発射するんだけど、これもなかなか当たらない。たまに当たって墜落するB29があると、翌日の新聞に出て、大騒ぎさぁ」。

 それほど大量の爆弾を落とされたなら、都市の機能は破壊されて、何もできないだろうと思うとそうではなく、空襲のあった翌日には、池上線も京浜東北線(当時は省線)も早朝から運行していて、みんな電車に乗って会社に出かけていたと言います。まったく大空襲と言いながらも、そこに暮らす人にとっては空襲が台風や集中豪雨のようなもので、飛行機が去ってしまえば、まったく日常と変わらなかったのです。

 親父などは空襲の後に火事見舞いに出かけ、仲間の芸人の家を訪ねて行くと、家もなく、当人も、当人の家族も消えていなくなっていたことがあったそうです。それ以降その仲間と会うこともなかったと言います。

 まったく日常生活と戦争が同居していて、明日のことは誰もわからない生活だったのです。

 

 私のところに学生さんが習いに来ることが多く、彼らと何気に話をしていると、必ず昔の奇術師のところで話が止まってしまいます。初代天功や、天洋、アダチ龍光、ダーク大和、となるともう知る人はいませんし、また、若い人から尋ねられることもありません。

 もっと極端なのはマチュア研究家です。高木重朗先生などはまだ書籍を読んだ人は理解していますが、それでも過去の人になってしまいました。柳澤よしたねさんなどとなるとまったく興味の対象ですらなくなってしまっています。

 天洋さんなどは、存在自体歴史の人となってしまいましたが、私に取っては良く見知ったお爺さんで、浅草の新世界にあるマジックショップに出かけるたび、天一の話をして下さり、明治38年に、天一は欧米から帰国をして、歌舞伎座で華々しい興行をした時のことを、まるで昨日のことのように熱心に話してくれました。

 歌舞伎座こそが天洋さんの初舞台であり、この時天一の舞台をまざまざと見たことが天洋の一生を決定づけたわけです。天洋さんは私と話しているときは既に80に近かったと思いますが、天一を語るときは、まるで少年のように純粋になり、目を輝かせて天一を語りました。時に天一の声色までも使って見せて、仕草から言葉遣い、風格まで表現して見せました。

 かくして私は12歳にして、天一の声から動作まで知りました。そのことを若い人に得意になって話していると、いつの間にか相手はぽかんとして唖然として聞いています。「いけない、彼らにとっては天洋も天一も歴史の彼方の人なのだ」。

 そう、私にとっては昨日のことでも、彼らにとってははるか昔の話なのです。私の親父の空襲の話よりももっとはるか彼方の話を私はしてしまっていると知り、私がどっぷり年寄りの仲間に入ってしまったことを知りました。昔話は控えなければいけません。もっと未来について語ろうと無理無理気持ちを切り替える決意をしますが、昔話は私にとって麻薬です。

続く

アトリエ改装

アトリエ改装

 

 私の家は4階建てですが、ちょっと聞くと豪邸を想像されるかも知れませんが、室内は13坪しかありません。13坪の総4階建てです。まったく鉛筆のような家なのです。その家を改装をしようと思いますが、改装と言っても、所詮13坪しかありませんので、どう工夫しても部屋が広くなるわけではありません。

 

 家と言うものは、建てた時と、実際住んでみた時では随分住み方が変わります。今の家を建てた30年前は、まだ娘が赤ん坊でしたから、四階の寝室は、夫婦のベッド一つ、赤ん坊の小さなベッド一つで十分で、3階は、居間と台所、風呂にトイレでこれも十分でした。二階は事務所になっていて、一階は当時駐車場で、車が二台停まっていました。

 他に、板橋に倉庫兼アトリエの家を一軒を借りていました。私とすれば、これだけあればすべての生活と、仕事に必要なものが満たされて、私の夢が実現したことになります。

 これが30代半ばのことでした。ところが、ここに困った問題が起きました。娘が大きくなってきたのです。何とか部屋を作ってやらなければなりません。そこで、事務所を半分に仕切り、娘の部屋を作りました。すると、事務所が手狭になりました。

 やむなく、環7通りに事務所を借りることになりました。15坪もある日当たりのいい事務所です。表通りに面していましたので、仕事の関係者も頻繁に訪れて賑やかでした。

 然し、事務所の家賃と倉庫の家賃の両方を支払うのは大変です。バブルが弾けた後でしたので、仕事もがったりと減りました。そこで、板橋を引き払い、一階の駐車場を改装して倉庫にしました。

 それまで二台所有していた車は日産のキャラバンだけにして、シトロエンは手放しました。涙の別れでした。キャラバンは近くの駐車場に入れました。

 その後、仕事は回復ぜず、小さな仕事ばかりになったため、キャラバンを手放し、またぞろシトロエンを買いました。10年前のことです。

 そして、猿ヶ京に古民家を借りるようになり、そこに大道具の半分を移動しました。お陰で一階アトリエの半分が使えるようになりました。

 そうこうするうちに娘が結婚をして、娘はアパートを借りて家を出るようになりました。そこへ以て来て、母親が高齢化して老人マンションに引っ越すことになりました。そのマンションの負担が大きく、やむなく、環7通りの事務所をたたんで、元の自宅の二階に事務所を戻しました。すばらしい事務所だったのに残念です。

 その後、一階の大道具をかなりの量、猿ヶ京に持って行き、一階のアトリエは稽古が出来るくらいのスペースになりました。そこで長く指導をしていたのですが、だんだん生徒さんが増えて来ました。今東京の教室は20人近くいます。

 そして、御存知のように、コロナ以降、舞台仕事は激減しています。そうなら、アトリエをもっと活用したほうがいいと言うことで、思い切って、水芸の装置も猿ヶ京に持って行き、今以上にアトリエを広く使おうと考えました。

 

 話は長くなりました、そのために今、絵図面を書いています。いろいろあの手この手で部屋を広くする工夫をしていますが、実際書いてみると、それほど部屋は広くなりません。どうしても残しておきたいものが多く、水芸の装置が減ったくらいでは劇的な変化は起きません。

 これから道具を解体し、道具を収めていた金属棚も解体し、荷物を箱に入れ替え、重い箪笥を移動して、2tトラックで猿ヶ京まで移動し、向こうで金属棚を作り、道具を並べる仕事をしても、さほどアトリエは広くならないのです。

 トラックを借りて、人の手伝いを用意して、一日かけて数万円を使っても、手に入るスペースはわずかなのです。

 わずかばかり広がった図面を見て、「何だこんなものか」。とがっかりしました。それを前田に見せると、「いいと思います。少しでも広く使えるなら絶対その方が有効だと思います」。と言うのです。どうやら前田は、自分の稽古場に使いたいのでしょう。それでもいつ来るかわからない大道具の依頼をひたすら待って、狭いアトリエで指導をするよりも、広くなって多くの人の役に立つなら、その方がいいのかなぁ。と思い、荷物を運んで、内装をし直すことにしました。

 但し、今すぐに移動は出来ません。月末には大阪セッションがあり、その翌日には福井の公演があります。少なくとも福井以降でないと部屋のかたずけも満足には出来ません。

 「まぁ、福井の後に、ゆっくり内装をし直したらいいか」。と考えています。かくして、同じ家に住みながら、住み方は随分変わり、まさかこうした使い方のなろうとは思いもよりませんでした。生きると言うことは変化することであり、変化に対応できなければ生きて行けないと知るに至りました。

続く

来客は楽し、峯ゼミは盛況

来客は楽し、峯ゼミは盛況

 

来客は楽し

 毎日誰かが訪ねて来ます。日々の仕事の合間にそうした人たちとお茶を飲んで話をするのが楽しみです。

 一昨日(11月6日)は、朝に大樹が訪ねて来ました。何かの演出で、衣装が必要だそうで、私の後見の衣装を持って行きました。数日前も大樹は訪ねて来ましたが、このところ頻繁にやって来ます。急な用事なのでしょうか。いずれにしても俄かに忙しくなってきたようで、忙しいのは幸いです。

 朝10時から、学生の、錦君と、高木君が稽古にやって来ました。ちょうどいいので、大樹と一緒にお茶をしました。彼らにとって、プロマジシャンからいろいろな話が聴けることは、将来にも随分といい影響を受けることになるでしょう。何の話をするわけでもなく、ただ30分、一緒に時間を過ごすと言うことが実は後々とても貴重なのです。

 ちょうど私が、20代でアメリカに行って、チャニングポロックハイボールを飲んで話が聴けた時のように、マジシャンの傍で話が聴けたことは一生の思い出です。

 

 午前中は二人の指導をして、午後になって、同じく学生の谷水君が来て、三人一緒に午後の指導を始めました。指導内容は、卵の袋です。私が、20代からトークマジックをしていたときに得意で演じていたもので、マックスマリニーの手順をアレンジしたやり方です。これでどれほど稼いだことか。

 私の一門では必ず習得する手順です。実際この手順は、殆どの弟子が一番役に立っている演技ではないかと思います。

 日本では卵の袋を演じるマジシャンは少ないのですが、これほど角度に強く、場所を選ばず、効果の大きなマジックはそうはありません。特に喋りの好きな人ならぜひ覚えておくべき手順です。

 とは言っても、マジックは縁ですから、縁がなければ覚えられません。もっともっと日頃、アンテナを張って、いろいろな人の演技を見ておくことは大切です。

 

 夕方に穂積みゆきさんが来て、頼んでおいた傘のホルダーを届けてくれました。一日人の出入りの多い中、前田は、天一祭や、大阪マジシャンズセッション、1月のヤングマジシャンズセッションのパンフレット作りをしています。これも弟子修行の一環です。毎日毎日あわただしく活動をするうちに一日は過ぎて行きます。

 

峯ゼミ盛況

 昨日(11月7日)は峯ゼミでした。私は先月休んでしまいました。ところが、前田が事務所に戻ってから、峯ゼミが素晴らしかったと興奮気味に語っていました。

 実は、日本人の多くは漠然と峯村さんを理解していても、本当の才能を知らないのです。彼は手順を理論構築して行きます。まったく、数学の方程式のように、理詰めで結論を導いて行きます。こうした考え方は、多くの芸能で生きる者には不得意です。

 私なども、ついついハンドリングを雰囲気で解決しようとしますが、多くは、解決したつもりが成功していません。ついつい無理を重ねてしまうのです。

 今回はカラーボールの変化を手順にしていますが、その演技は驚きの連続です。紅白のボールと、緑のボール。それに赤のシェルと青のシェル、たったこれだけのボールなのですが、手に持った白白のボールが、白赤に変わり、赤赤になり、一つ増えて、赤白赤になり、次の瞬間には白赤白になる。白を右手に握ると青になり、右手に持っている玉が順に青に変わり、お終いは青赤緑白に変化します。

 目まぐるしく変化が連続しますが、手順が整理されているために複雑さが感じられません。ごく何気にカラーチェンジが進み、四色ボールになって行きます。

 しかも、彼の手順には四つ玉の常套手段である、シェルとボールを親指と人差し指に持って、中指でボールをずり上げ、ずり下げて、増やしたり消したりする動作がほとんどないのです。このやり方が、どれほど四つ玉を堕落させたかは言うまでもありません。安易に増やせることが、四つ玉の芸を価値の低いものにしたのです。

 無論彼はそのことを承知です。彼の手順を解説されると独自の解決方法が次々に出て来ます。受講者が喜ぶのは当然で、全くこれだけの作品を作り上げ、指導できる人が世界中にどれだけいるでしょうか。大変な高レベルな指導です。

 13時から16時までみっちり3時間。練習と受講をしてこの日は終わり、そして二月からは半年間。シルク手順をします。受講者はほぼ全員参加します。

 いい流れになってきました。これまで人から習うことに対してあまりに安易だったものが、習うこと、継承することの大切さに気付いたようです。実は日本人がそこに気付くことが、この先日本人のマジック界の地位を底上げするのです。

 へんてこな手順を作ることがえらいのではなく、きっちり基礎を学んで、そこから自分の考えを構築して初めて分厚い演技が出来るのです。

 

 さて4時半にスタジオを出て、峯村さんと前田、そして私は電車を乗り継いで両国へ、この晩はちゃんこ鍋を食べました。かつて寺尾と言う二枚目の相撲取りがいましたが、寺尾が経営するちゃんこ屋さんで名前も寺尾です。

 寺尾さんの奥さんが美人なのですが、残念ながらこの日は会うことは出来ませんでした。

 私は15年前から両国の回向院(えこういん)脇で年に春と秋に、両国祭りと言う企画を開催していました。ショウを演じる舞台を野外にこしらえ、たくさんの芸能の皆さんに出ていただき様々な芸能を披露しました。

 ただし残念ながら、3年前に終了しました。その頃、寺尾さんには良く行きました。

 味は醤油と味噌と塩がありますが、私の好みは醤油味の鳥鍋です。少し濃いめの汁に鶏肉と野菜を入れて熱々の中を食べます。中でも絶品なのは鶏肉のミンチを匙で掬って、玉にして鍋の中に入れます。ニンニクが入った濃いめの味付けのミンチがいい味を出して鍋全体を引き締めます。

 峯村さんも前田もこれには満足でした。少し寒くなって来て、酒が恋しいころに、鍋を突っつきながら酒を飲むのは最高です。峯村さんも指導で緊張していたものが、ここでようやく穏やかな顔になりました。

 この濃いめの醤油味の鍋は、峯村さんの地元、信州の鍋に通じるところがあり、彼にとっては郷愁をそそる料理だったようです。三人は体も温まり、十分満足して帰りました。

 こんな日があることは幸せです。

続く