手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

シトロエン一代記 1

シトロエン一代記 1

 

 フランスの自動車メーカーの初代経営者、アンドレシトローエンは、実に個性的な人柄と独創的なアイディアの持ち主で、彼の個人的な才能が一代で巨大自動車メーカーを作り上げました。

 父親はポーランド人、母親はオランダ人、ユダヤ系の家系で、父親は宝石の職人をしていたそうです。パリにある国立工科大学に在学し、技術者の道を考えていたところ、親戚の町工場の経営者が変わった発明をしたと言う噂を聞いて、工場を訪ねると、そこで見たものは、奇妙な歯車でした。

 歯車と言うのは、円形の金属の縁を何十等分かに歯を立てて、溝を削り落として、刻みを入れるものですが、この溝がまっすぐでなく、全て山形に折れ曲がっていて、歯の面が突の文字になっています。

 なぜこんな奇妙な歯車を作ったのかと尋ねると、歯車同士は平たんなところで回す分には問題なく作動しますが、例えば船舶のような、船体自体が動くところで歯車を回すと、何かのショックがあると歯車が左右にずれて外れてしまうことがあります。大きな歯車だと一度ずれると船内でつなぐことが難しく、船はそのまま航行不可能になります。

 ところがこの山歯(やまば)の歯車は左右のずれに強く、動力を無駄なく伝えるため効率がいいことが分かりました。するとシトローエンはすぐに親戚のアイディアの権利を買取ります。

 その資金の出どころは不明です。多分親を説得したのでしょう。まだ学生であるにもかかわらず、早速、このアイディアを船舶会社やフランス海軍に売り込みをかけます。

 山歯(やまば)の歯車の素晴らしさはすぐに評価され、大量発注を受けてシトローエンは一躍フランスの経営者の一人となり大成功をおさめます。1905年、シトローエン27歳でした。

 彼はこの時の成功を忘れず、後年、自動車会社を設立したときに会社のマークとして、ダブルシェブロン(二つの山歯)のマークを考え出します。今日のシトロエンのとがった山歯のマークがそれです。

 彼は大きな収入を得て、その後ひたすら研究に没頭したかと言うと、そうではなく、ナイトクラブや社交界に入り浸り、遊び惚(ほう)けていました。この姿を見たフランスの多くの経営者は、「あいつは一発屋で終わる」。と見ていたようです。

 シトローエンは当時のアメリカの自動車メーカー‐フォードの流れ作業による自動車生産に着目していました。当時の欧州の工場は、自動車一台作るにも、数人がチームを作って、初めから終いまでを責任を持って作り上げていました。戦艦を作るのも似たようなやり方でした。

 然し、これでは注文製作と同じで手間暇がかかります。しかも職人の技量の差で製品の良し悪しがはっきり出てしまいます。

 ネジやリペットを打つのでも、職人の勘で適当な位置に穴を開け、ネジを打ち込んでいたのです。一台一台ネジの位置もネジの数も違っていたのです。然し、もし、ネジ位置が初めから決まった位置にあけられていて、その穴にネジを打ち込むのであれば誰でも作れて、製作スピードは驚異的に早まります。

 フォード車がしたことは、穴をあける担当は穴専門に開け、ネジを打ち込む担当はネジ打ち込みに専念したのです。

こうすることで一回一回ドリルとドライバーを持ち換えて作業することなく効率よく作業が出来るようになりました。

 しかも製品はすべて共通の規格のものを採用しました。こうすることで誰が組み立てても同じクオリティで製品が出来るようになったのです。このため、フォードの車はアメリカ中のどこの修理工場に持ち込んでも修理可能となったのです。アメリカのような巨大な国ではこうした互換性を備えた製品が支持されたことは当然でした。

 シトローエンはフォードの合理的な経営の影響を受け、セーヌ川畔に流れ作業の工場をこしらえます。

 

 するとおりしも第一次世界大戦が勃発します。フランスはドイツに苦戦をします。そこでシトローエン陸軍省に乗り込み、「私の新工場で砲弾を作れば一日5万発製造して見せる」。と豪語します。軍は当初その言葉を俄に信用できませんでしたが、彼の工場を見て納得します。

 しかも、シトローエンは、「私の工場は特別な技術は必要としない。亭主が戦争に出ていて収入を失っている兵士の妻たちでも出来る。彼女らを雇い入れれば、人手不足は解消し、雇用が増えて一石二鳥ではないか」。

 と、とんでもないアイディアを出します。実際、工場内に託児所まで設けて、兵士の妻たちを雇い入れ、女性に玉を作らせて、女性の生活を助けると言うアイディアを考え出します。これには陸軍も頭を下げ、シトローエンに大砲の玉の製造を依頼します。

 お陰で世界大戦中の4年間で巨万の富を得たシトローエンはフランス中の経営者の羨望の的になります。そして以前にもまして夜遊びが激しくなります。

 

 大戦後に、シトローエンは満を持しての自動車製造を始めます。彼が尊敬してやまないアメリカのヘンリーフォードに憧れ、フォードが作ったT型フォードをフランス式に製造したいと考えました。

 当時のフランスにはたくさんの自動車メーカーがあり、そこでは貴族や経営者相手の注文によって自動車を製作していたのです。いわば当時の自動車は、馬車の時代と何ら変化はなく、全くの手作りで、その価格は家一軒に匹敵するもので、とても庶民には買えませんでした。

 シトローエンは、せめて中産階級が買えるくらいの製品を出したいと考え、自慢の流れ作業の工場をさらに大きく作り替え、自動車生産を始めます。

 シトローエンは工科大学を卒業していますが、彼が自動車の設計をしたことはなく、有能な技術者を他社から引き抜いて、彼らに製作を任せます。シトローエンはむしろ、製品を売り込む才能に長けた人で、この先も彼の突飛なアイディアで会社は大成功をおさめます。

 とにかくシトローエン社はA型という車を発表します。1300CCの4人乗り、どうと言って目立った長所のない車ですが、価格の安さが大衆に受けて、初年度、二年目を合わせて二万台の製造を達成します。今、二年で二万台の車製造は大したものではありませんが、貴族だけを相手にしていた時代に、二万台と言う個数は常識を超えた台数だったのです。またまたシトローエンは大成功をおさめます。

続く

 

 

お道具製作

お道具製作

 

 一週間ほど前に連理の曲のお道具が10組届きました。連理と言うのは、半紙をハサミで切って御幣(ごへい)を作る手妻です。これを演じるためには、鋏、扇子、マッチ、小皿、水の入ったグラス、茶わんなど、様々な小道具が必要です。

 これらをいちいちテーブルに並べたり、かたずけたりするのは大変な手間のため、一つの箱に収めて、一回で取り出して、演技が済んだらまたしまえるようにしています。

 これが私の流派で使っている連理の曲の一式です。箱には木目込み細工の装飾がしてあって、結構凝った造りになっています。それを10セット依頼したものが仕上がって来たのです。

 いつ生徒さんが習いに来るかはわかりませんので、常になくならないうちに注文しています。

 

 それから卵の袋が無くなってしまいました。これも私のところでは人気の作品ですので、一か月前に、仕立て屋さんに50個注文しました。それが昨日(11月16日)に届きました。

 袋卵は習いたい生徒さんが多いため、指導に欠かせません。私の作品の中ではよく出ます。それでも一年に10人指導すればまずまずです。そうなると、50個が完売するのは5年後です。先の長い話です。それでも仕立て屋さんに注文するとなると5個10個は頼めませんので、50個注文します。

 私のところでは、木工所が3件。塗師屋さん、銀細工師、飾り職人、椀屋さん、布地の仕立て屋さんなど、あちこちの職人に道具を依頼しています。この人たちの仕事のお陰で手妻もマジックも安心してできるのです。

 ただしこのところどこも皆さん高齢化して、店をたたむところが出て来ています。鉄工所などはもうどこもやってはくれません。それまでゾンビボールやリングなども作ってもらっていたのですが、今では金物はもう作れません。そうなるとこの先、金輪の曲も、12本リングももう作れないのです。

 くす玉もミリオンフラワーも作る人がいなくなり、入手不可能になってしまいました。私が、思いっきり大量に注文してあげれば制作者も安定した生活が出来るのでしょうが、私の注文ではあまりにわずかです。この先いい仕事をする職人がどんどん消えて行ってしまうのが残念です。

 

 私は30代くらいから、出来ることならからくり細工を復活させて、舞台に取り入れたいと考えていました。からくりとは、ぜんまい仕掛けで動く人形のようなものですが、古い文献を見ると、かなり不思議な現象をからくり細工でやっているのです。

 いろはの文字を当てる人形は、傘を広げて、傘の先にいろは48文字のが一文字ずつ書かれた紙がぶら下がっています。人形が真ん中に立っていて、お客様の注文により、文字を指定すると、その文字の下で手を上げて文字を当てます。

 

 道成寺清姫の人形が鐘を撞く、と言うからくり人形があります。お客様の注文によって、3回とか、5回とか言うと、その数だけ鐘を撞きます。鐘は小さいながらもお寺にあるような鋳物で作られていて、清姫の人形が手に撞木を持っていて、鐘を鳴らすのです。

 いい人形師に注文して、鐘も鋳物でしっかり作ったら見た目にも素晴らしいお道具になるでしょう。但し、費用もけた違いなものになると思います。一組400万円とか500万円くらいかかるかも知れません。

 それでも手妻をする者としては、一つ、二つくらいの作品は持っていたいと思います。どなたかこの話に一口乗りませんか。三人くらいで一緒に作ればかなり安くなると思います。世界でたった三つだけのからくり細工を作るのです。十分価値あると思います。

 但し、からくり細工の製作者がいなくなってしまいました。以前は何人かからくり細工を作っている人を知っていたのですが、今はまったくわかりません。何とか一から製作者を探して、江戸のからくり細工を復活させたいと思います。

 そうした製作者と話をしているうちにまた新しい手妻が生まれるかも知れません。見た目は思いっきり古風に作られていて、まるで三百年も四百年も前からあったように見えて、然し、作品はまったく新作の手妻が出来たらどんなに面白いかと思います。

 種も、決してぜんまい仕掛けとは気付かれないような凝った造りにして、見た目はどうなっているのか見当がつかないような細工だったら面白いと思います。

 そんな手妻をこの先いくつか作って行きたいと考えています。

続く

 

鳥獣戯画

鳥獣戯画

 

 昨日(11月15日)は、昼に踊りの稽古に行き、一度自宅に戻ってデスクワークをして、夜に日本橋劇場に行き、邦楽の新曲発表会を聴きに行きました。

 踊りは「江戸の初春」と言う、短い長唄物を稽古しています。気持ちのいい踊りですので、年内に仕上げたら、正月の玉ひででご祝儀に踊ってみようかと思います。

 私が人前で踊ると言うことはめったにありませんが、たまにはご愛敬でいいと思います。特にお座敷の芸能は昔からそんなことが頻繁にありました。落語家などは今も座敷に余興で一席語った後に踊りを踊る人がいます。その伝統を生かして私もやってみます。

 

 邦楽の発表会は、先月の私のリサイタルの時に演奏をしてくれた、鳴り物(打楽器)奏者の、蘆慶順(ろきょんすん=韓国語読み=韓国系日本人)さんからチケットをもらいました。慶順さんは芸大で鳴り物の教授をしてらっしゃって、私とは十数年前の学校公演以来ずっと演奏をして下さっています。

 というわけで、多くは芸大出身の演奏家が並んで新作音楽を演奏いたします。

 日本橋劇場は私もたびたび利用致しますが、和の芸能を見せる場所としては理想的な劇場です。サイズも350人程度ですし、所作板も花道も作ることが出来ます。

 

 鳥獣戯画は、ご存じのように、京都栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)にある国宝の絵画です。絵画と言うより漫画に近く、のびのびと動物の絵が描かれていて、ウサギとカエルが相撲を取っている図など、見たら誰でもすぐお分かりになる有名な絵です。

 鎌倉時代のものらしく、これが日本の漫画の原点と考えて間違いないと思います。作品は長い巻物で描かれていて、何やらストーリーがあって進行しています。ウサギ、カエル、サルが、人物に成りすまして色々なことをしますが、全四巻の後半になると竜や、麒麟や獏が出て来たりします。作者すらも見たことのない動物を描いたことは、当時の人にしてみれば想像上の世界で、夢溢れる絵画だったのでしょう。

 

 その作品を邦楽演奏で作り上げたわけです。舞台はひな壇が三段になっていて、上段が現代邦楽の皆さん。中段が長唄連中と、義太夫連中。下段が、鳴り物の皆さん。

 幕が開くと、雅楽風な厳かな始まり方をし、徐々に十七弦琴などが入って現代邦楽になって行きます。前半の演奏が終わると、左右から金屏風が出て来て、現代邦楽の琴や三味線打楽器の皆さんはお休みになります。

 次に長唄義太夫の掛け合いがあり、全体はこの掛け合いで進行します。ウサギとカエルの相撲馬風景や、ウサギが弓矢を射る風景。川遊びをする猿とウサギ。次々と長唄の曲など使いながら、鳥獣戯画を表現します。西垣和彦師の語りが重厚で素晴らしく、山口太郎さんの高音の唄い口も健在です。慶順さんも鳴り物で活躍していました。

 国宝の娘義太夫連中も、ご高齢ながら、面白い演奏でした。この先もうこうした組み合わせは二度と聴けないかも知れません。

 ひとしきり純邦楽を演じた後、屏風が取り払われて、現代邦楽と純邦楽がコラボして大団円となって終わりますが、お終いが、大太鼓をティンパニーのような使い方をして、壮大な終わり方をします。これではどう聞いてもマーラー交響曲になってしまいます。壮大ではありますが、邦楽はこうした世界を目指しているのかなぁ、と思うと聞く側としても邦楽の将来が心配になります。

 日本を代表する邦楽の皆さんが20数名舞台に乗って、華麗に新曲発表なさったことは素晴らしいことと思いますが、邦楽が何を目指そうとしているのかが混沌として理解しがたいように思いました。

 音楽そのものは様々な邦楽が聴けて楽しいものでしたが、全体のくくりが西洋音楽になっていました。これも時代の流れでやむを得ないことなのでしょうか。

 元NHKのアナウンサー、葛西聖司さんが愛情あふれる解説をされていたのが好感を抱きました。

 

 せっかく人形町まで来たので、一杯飲んで帰ろうと、近くの焼鳥屋に寄りました。焼き鳥を3本、さつま揚げ、揚げ出し豆腐、白魚(しらうお)の刺身を肴に、ハイボールを二杯呑みました。

 店が勧めた白魚の刺身は、透き通った新鮮な白魚を生姜醤油でいただきました。これが実にうまかったです。身そのものはたいして味のあるものではありませんが、軽い歯ごたえが面白いと感じ、酒呑みには有り難い一品です。

 次に、さつま揚げの小さなボールが7つ出て来ました。直に揚げたさつま揚げですがこれはいい出来です。

 結果とするならこの店は正解でした。焼き鳥も、皮とつくね、ネギ焼を頼みましたが、たれはしつこさがなく、どれもいい味です。揚げ出し豆腐まで合わせてはずれがありませんでした。店はかなり混んでいましたが、店の親父が、カウンターの奥から私の顔を心配そうに見ています。

 こうした店に入ると、いつでもそうですが、私は、何か料理の研究家の様に思われてしまいます。どうしてそう感じるのかは知りません。いつも私の食べている表情を親父が心配そうに見ています。

 私が料理の研究家ならそれは正解ですが、私はマジシャンです。何のことはないただの酒呑みなのです。

 どうも私は、相手に必要以上の圧迫感を与えるような外見をしているようです。少なくともそれで良かったことは人生で一度もありません。まったくマイナスな性格です。

 それでもハイボールのお陰で気持ちよく帰れました。幸せな一日でした。

続く

 

5枚カード

5枚カード

 

 一昨日(11月13日)は富士に指導に行き、昨日(14日)は、午前中は高校生の朗磨君の指導。午後はザッキーさん、早稲田康平さん、小林拓馬さんの指導をしました。このところ舞台が少ないため、私の活動は指導が主になりました。一か月の内10日間くらいは指導をしています。

 これまでの人生が殆ど舞台出演することで生きてきたのですが、コロナ以降、これほどマジックの指導ばかりすることになるとは想像もしませんでした。こうして、私のところに若い人たちが習いに来るのも、私がこれまでいろいろな人からマジックを習ってきたお陰です。私が10代20代に覚えたことが今になって役立っているわけです。

 私が覚えて演じて来たマジックや手妻は、今となっては誰も知らないことがたくさんあります。弟子にしろ、生徒さんにしろ、それが貴重であることを知って習いに来るわけです。

 

 毎月一回習いに来る朗磨君は群馬に住んでいて、ロシア人のお母さんと日本人のお父さんとのハーフです。高校生ですが、手妻が好きで、お父さんに着物や袴を買ってもらい、もう一年以上私のところで手妻の稽古を続けています。

 彼の希望は手妻の指導だけなのですが、基礎指導も必要だと思い、マジックと手妻の両方を指導しています。そのため、個人レッスンで毎回2時間指導しています。

 「マジックと手妻のどっちが面白い?」と尋ねると、断然手妻の方が面白いそうです。私が中学高校時代に手妻をしていると、周囲のマジシャンはみんな「そんな古臭いことをしていては売れないよ」。と言いました。

 今、こうしてマジックより手妻の方が面白いと言われる時代が来るとは想像もしていませんでした。ロシア人の血の流れる高校生がこの先どんな風に育って行くのか、楽しみです。

 

 午後は、ザッキーさん早稲田さん、小林さんのプロ、セミプロの皆さんに指導しました。ここはファンカードから5枚カードの稽古をしました。

 日本では普通、ファンカード、5枚カード、ミリオンカードの3種目を組み合わせてカードマニュピレーション(技巧的なカードマジック)の手順を作ります。

 ところが欧米では、ファンカードと言う種目がありません。ファンの技法は断片的なものばかりで、手順と言うほどに形になっていません。多くはカードの連続出し(ミリオンカード)か、5枚カードに限られます。

 しかもアメリカ人は不器用な人が多く、地味な5枚カードの演技は敬遠されて、演じる人がほとんどいません。私が世界大会のロビーなどで稀に天海の5枚カードを演じたりすると、マジシャンが山ほど集まって来て、何度も所望されたりします。そのため彼らがカードを演じる時は思いっきり狭い内容になります。

 カードを扇状に広げることで様々な変化を表現するファンカードのアクトは今では日本にしか残っていない可能性があります。然し、カードを学ぶために、スタイリッシュなファンカードはとても大切なのです。もともとカードの縁具はスタイリッシュなものだからです。

 私のファンカードの技法は、初代天海師のものを、松浦天海氏から学んだものが元になっています。天海師のものは難しい技法が多いのですが、どれも美しく、演じていて気持ちのいいものばかりです。私の弟子は、マジックは基礎学問として学んではいますが、舞台で生かすことはほとんどありません。みんな手妻のみを演じる人が多いためです。然し、できることなら、タキシードを着る機会を作って、少しでも先人の技法を舞台で演じてほしいと思います。

 

 さて、5枚カードですが、これは全く天海師の技法です。相当に難しい技で、10代の頃から随分稽古をしてきました。実際のショウでも随分演じました。

 もう私が舞台でカードを演じなくなって30年以上経ちますが、最近また稽古をするようになって演じて見ると、かつて10代20代の時に向きになって演じていたころとは違い、ゆとりを持ってできるようになりました。

 そうなると「これも芸能としていいものだなぁ」と感じ、どこかで演じて見たいと言う気持ちになって来ました。

 

 5枚カードと言うのはスライハンドの中では随分古いマジックで、スライハンドの歴史とほぼ同時に、150年くらいの歴史があると考えられます。

 5枚のカードを空中から、一枚ずつ出し、また、一枚ずつ消して行く。単純な現象を組み合わせたものから始まり、徐々に技法が加味されて、5枚カードと言うジャンルが生まれました。

 かつてはどんな5枚カードを演じるのか、と言うことが、マジシャンの技量を測る物差しと見られた時代があったのです。

 日本で初めて5枚カードを演じたのは、松旭斎天二です。彼は天一の芸養子で、天一天勝と共に明治34年アメリカに渡り、4年近くも海外公演を続けました、その時見たスライハンドに魅せられ、天一帰国後もアメリカに残り、アメリカ人から指導を受け、スライハンドを学びました。

 欧米も、この時期がスライハンドの隆盛期だったのかも知れません。丁番でつながった四つ玉から丁番が取れて、ボールのテクニックで増減するマジックになって行ったのもこのころです。

 天一アメリカで四つ玉を買ってきたときにはボールに丁番が付いていて、一個のボールが自動的に四個になる単純な道具だったのです。然し、天二が明治42年に帰国をした時に、一座の前で見せた四つ玉はまったく技法のみでボールが増減するマジックになっていました。

 それを見た天一は、「俺の知っている四つ玉とは違う」。と言いました。その通りで、この間、四つ玉の技法が発達したのです。天二の技法は、四つ玉も、5枚カードも、コインも、どれも天一一座の座員には全くタネの糸口すらつかめませんでした。

 帰国後、天二は天一一座に戻って日本全国を回りますが、たちまち人気を博します。座員の中には天二からスライハンドを学びたく天二に接近しますが、天二はそうした座員を冷たくあしらい、仕掛けのセットも布で囲って誰にも見せません。舞台の横から見ようとすることも嫌がりました。

 一座にいた天海、天洋はそのことを怒り、やがて、天一の死後、天二が一座を引き継いだ時に、みんな天勝の方に寄って行きます。

 天二は後に二代目天一になりますが、幾つかの興行で赤字を出し、その都度一座の規模が小さくなって行きます。そして大正10年に40代で亡くなってしまいます。

 せっかくの技量を持ちながら、大一座を維持できなかったことが、後継者を作れず、天二の名前は今は消えてしまいました。日本のスライハンドは、その後の天海師に寄るところが大きいのですが、そのことを認めつつも、天二さんの功績を何とか評価し、その技がどこかに残っていないかと探しています。

続く

ブルックナーはお好き?

ブルックナーはお好き?

 

 昨日(11月12日)はベートーベンを書いてみました。以前に、私はブログで、クラシックについて書くと覿面に読者数が減る、と言いました。ところが、このところ何を書いても読者数はほとんど変わりません。昨日のベートーベンも、私の日常について書たものと同じくらいの読者数でした。

 少し安心をして、もう少しクラシック音楽を書いてみます。クラシックの面白さは小学校4年生のころ、兄が運命と田園のレコードと、メンデルスゾーンチャイコフスキーのバイオリン協奏曲のレコードを買ってきたときにはじまりました。

 兄は少しクラシックに興味を持って定番のレコードを買ってきたのです。そして初めは熱心に聴いていたのですが、二か月もしないうちに全く聴かなくなりました。

 私が学校から帰って来て、一体兄は何を聴いていたのかと兄のレコードをかけて見ると、運命も田園も初めはほとんど理解できないながらも、ところどころのメロディーが面白く、それ以外は難解な部分がたくさんあり、得体のしれないものに感じました。

 それでも学校から帰ると必ず一曲聴くようにしていると、まるで深い雲に隠れていた景色が少しずつ晴れて、雄大な景色が見えてくるように音楽が理解できるようになりました。そうなると興味が湧いてきます。

 当時のLPレコードは高価で、一枚2000円くらいしましたので、小学生ではなかなか買えません。何しろ大学生がアルバイトを8時間しても1200円くらいの時代です。

 やむなく、夕方にクラシック音楽を放送するラジオ番組がありましたので、それをよく聞きました。中学生くらいになると深夜に、作曲家の芥川也寸志さんと野際陽子さんがお話をしながらクラシックを聴かせる「百万人の音楽」と言う番組があり、欠かさず聞くようになりました。その頃はもう手当たり次第に面白そうな曲を聴いていました。

 中学生くらいになると、幸いなことに私がマジックで舞台に立つようになり、まとまった小遣いが手に入るようになったため、半分はマジックに、半分はレコードを買うようになりました。

 そうこうするうちに、同級生の女性で、ご両親がNHK定期演奏会のチケットを買っているお家がありました。ところがご両親は仕事が忙しく、演奏会のチケットをいつも無駄にしています。

 同級生の彼女はクラシックが好きなのですが、一人で演奏会に行くと帰りが遅くなるので、一人で出歩くことが出来ません。そこで毎回私をボディガードにして上野の文化センターに行くことになりました。私とすればこれ以上の好条件はありません。かなりいい席で毎回NHK交響楽団の演奏が聴けるのですから。

 その頃のN響の常任指揮者は、ハインツワルベルクさんか、ロブロフォンマタチッチさんでした。ワルベルクさんと言う人は伝統的なドイツ音楽の指揮者で、私にも理解出来る、ハイドンモーツァルト、ベートーベンと言ったおなじみの演目が主で毎回楽しみでした。

 マタチッチさんは東欧の人で、体は肥満していて、目も鼻も顔の造作の大きな人でした。この人が得意とするのはブルックナーでした。昭和40年代の前半、いまだブルックナーはポピュラーとはいいがたいものでしたが、マタチッチさんは9曲の交響曲を公演のたびに必ず一曲ずつ演目に入れていました。

 ブルックナーは一曲1時間近くかかるものが多く、当初、私は何をどう聞いていいものか皆目わからず、ただただ長い曲としか思えませんでした。しばしばブルックナーの演奏は私にとってはお休みタイムで、演奏中はぐっすり寝ていました。

 結局N響の演奏会に出かけるたび、ブルックナーはまったく理解できませんでした。今思えば勿体ないことをしたと思います。マタチッチほどの名指揮者が熱演するブルックナーを聴かずに寝ていたのですから。

 然し、中学生ではやむを得なかったかも知れません。当時の大人のクラシックファンですら、ブルックナーは難解と考えられていたのですから。

 

 ブルックナーの面白さに気付いたのは20歳を過ぎてからでした。ブルックナーの音楽には聴き方があります。ベートーベンや、ブラームスチャイコフスキーのように、音楽にドラマはないのです。人間の苦悩、悲しみ、寂しさなどどこにも語られていないのです。

 確かに音楽には悲しさ寂しさと言った陰影はありますが、それは人間の行いから出てくる感情ではなく、自身の体を自然にゆだねて体感したときに得る寂寥感のようなものなのです。

 人に何かされたから悲しい、いじめられて寂しいと言うのではなく、人は生まれながらに寂しく悲しいのです。大きな自然の中で生かされている自分を感じたときにブルックナーの音楽は聞こえてきます。

 ブルックナーからベートーベンのような人間ドラマを期待していると、何も起こらず、何も感じないのです。一度人間の生活から離れて、例えば温泉につかって、景色を眺めるように、受け身で世の中を眺めて見ない限り、ただただ冗長な音楽としか聞こえません。厄介な音楽です。

 ところが、ひとたび聞き方が分かるとまるで3D画像のように、忽然と大自然が見えて来ます。「なんでこんなことが分からなかったのか」。と思うほど全く見えなかったものが見えるのです。ブルックナーと言うのは決して難解な音楽ではなく、俗世から離れ、心を無にしてすべてを受け入れようとしたときに自然に感じて来る音楽なのです。

 ある意味で東洋の禅の哲学に通じるものがあるかも知れません。日常の些末なことから離れて、心を無にして座禅を組んだ時にハタと気付く世界です。

 九曲ある交響曲が語っていることは一つで、自然の素晴らしさであり、その自然を作り上げた神への感謝です。150年前のオーストリアに生活していながら、物質文明に毒されることなく、ただただ純粋に交響曲を書き続けた人なのです。

 ブルックナーの生前はほとんど演奏される機会もなく、理解者もわずかでした。昭和40年代でさえ理解者は少なかったのです。それが昭和50年代の末頃から急に演奏会で取り上げられるようになり、レコードが売れ出しました。今ではベートーベンやブラームスと並ぶくらいの演奏頻度です。

 時折マタチッチさんのCDを聴くことがあります。「あぁ、私はこの指揮者の生演奏に接していながら、どうしてこの演奏の素晴らしさに気が付かなかったのだろう」。と後悔することしきりです。せめて18歳くらいで聴けていたなら、人生が大きく変わったかもしれません。但し、そうなるとマジシャンになってはいなかったかもしれません。聖職者となって神の教えを語っていたかもしれません。何ともインチキ臭い聖職者です。

 

明日はブログを休みます。

ベートーベンでヌキ卵

ベートーベンでヌキ卵

 

 今日はヌキ卵の作業をしながらベートーベンを聴きました。それも交響曲5番の運命です。クラシック音楽の中でもっとも有名な曲で、極め付きの一作でありながら、近年、私はなかなか運命を聴くことがありません。

 なぜと問われて、例えて言うなら、今、この年で森鴎外を再度読もうと言うことがほとんどないように、日常、クラシックを聴こうとするときに、運命を聴くと言う選択肢は先ずありません。然し、それが逆に、いざ聴くとなると、まるで中学生に戻った気持ちでワクワクと胸をときめかせます。

 さて、誰の指揮で聞くかとなると、本命はフルトヴェングラーか、私の好きなメンゲルベルク、となるのですが、どちらも戦前の録音で、音が古く、指揮の仕方もかなり粘っこくって重たい演奏をします。

 例の、ダダダダーンと言うテーマも、演奏した後、しばらく休符が入ってまた、ダダダダーンと来るのが古い演奏の仕方です。一事が万事フレーズごとに念押しをするような指揮の仕方が戦前の演奏です。

 それはそれで面白いのですが、どうも年寄りに説教されているようで、この年で聴くと辛くなります。後年になって運命を聞かなくなったのは、あのダダダダーンの繰り返しがあまりに執拗なところが嫌悪感をもよおすからなのかもしれません。

 何しろベートーベンは、ダダダダーンと言う主題だけで240回も繰り返し、ほぼダダダダーンだけで一楽章を作り上げています。音楽の歴史上そんな曲の作り方をした人は彼だけです。

 無論、第二主題も出て来ます。チャーミングな、人をなだめるような安らぎの第二主題です。本来なら、第一主題のダダダダーンと、優しい第二主題が論を張ってソナタ形式で意見をまとめて行くのですが、運命だけはそこに接点も妥協もありません。

 運命は人の話も聴かず、ダダダダーンを繰り返し、愛情あふれる第二主題を蹴っ飛ばして、結局ダダダダーンが勝利してしまいます。あまりに粘着質なベートーベンの音楽を聴くと、精神異常とすら思えます。

 無論それが好きで聞くのですが、でも、今日は、悲劇を諦観するようなロマン派の演奏は避けたいと思います。すっきり、いい録音で、それでいて魂の籠った指揮者が聴きたいと思い、カルロスクライーバー指揮のウイーンフィル1974年版を聴きました。

 カルロスクライバーは若くしてスターで、ベルリンフィルウィーンフィルなど超一流のオケを指揮し続けた人ですが、残念ながら録音が極めて少なく、演奏曲も限られています。晩年はほとんど指揮もしなかったようです。然し、ひとたび指揮をすると躍動感あふれる華麗な演奏に加えて、魂の叫びが聞こえるものすごい熱演を聞かせます。単なる人気指揮者ではないのです。

 彼の指揮の中でも私のお気に入りがこの、運命と、7番の入ったCDです。今日はその二曲を続けて聞きました。

 

 改めて聞くと、やはり運命は名曲です。ベートーベンは音楽の世界に初めて哲学を持ち込んだ人です。音楽史ではソナタ形式の完成者と言われていますが、ソナタ形式がベートーベンの手にかかると白熱した議論のように展開されます。

 ベートーベン以前にもソナタ形式は存在しましたが、モーツァルトハイドンも、どの曲を聴いても曲の中に対立などありません。陽気で明るい曲ばかりです。

 ベートーベンはそうした音楽の世界にいきなり、いかに生きるかと言う命題が示され、議論が展開します。そして弁証法を駆使するかの如く主題同士が白熱して曲をまとめ上げます。19世紀初頭の人がこの曲を聴いたなら余りの崇高さ、余りの奇抜さに度肝を抜かれたことでしょう。

 

 さて、カルロスクライバーは、早めのテンポで華麗な演奏を聴かせ、粘着質なベートーベンをうまく語って行きます。早いのですが、決して一画一画をおろそかにせず、かなり細かく曲を抉って行きます。この辺りが音楽マニアをうならせる理由でしょうか。実際ウィーンフィルのような小うるさいオケも彼の指揮には素直に従っています。

 カルロスクライバーは晩年にウィーンフィルと喧嘩をしてリハーサルを中止し、演奏をキャンセルしたと聞きました。こうしたトラブルがあちこちで起こったために、彼の録音は少ないのでしょう。これほどの名指揮者が今日なかなか聞けないことは残念です。それでも、この運命の最終楽章などはまるで炎がめらめらと立ち上ったかのような壮絶な演奏です。

 同様に7番も大熱演です。どちらかと言うと7番の方が指揮者の性格に合っているのでしょう。水を得た魚の様に呼び跳ねた7番が聴けます。特に最終楽章の金管楽器が素晴らしく、ホルンなどはアルプスの彼方から聞こえて来るようで実に雄大です。こんな演奏はウィーンフィルでなければ聴けないでしょう。まったく、カルロスクライバーウィーンフィルと言う組み合わせは、天の配剤のごとき名演です。

 久々ベートーベンを聴いて充実したひと時でした。

 

 ベートーベンを聴きながら私は何をしていたのかと言うと、卵の中身を抜いて、ヌキ卵、と甘皮卵を作っていました。随分所帯じみた作業です。私のところでは、卵の手妻はプラスチックの卵などは使いません。1000年昔から中身を抜いた本物の卵を使います。

 本物の卵を使うわけですから違和感はありません。但し、本物は使っているうちに割れてしまいますので、年に一度くらい大量に卵の作り置きをしなければなりません。中身を抜いて、中を洗浄して、中を完全に乾かさなければならず、一日では終わらない仕事です。

 10代の頃から繰り返してきた仕事ですので、手慣れてはいますが、20個のヌキ卵を作るのは洗浄までで半日仕事です。そのうちの何個かは甘皮にします。ヌキ卵を酢に漬け込むのですが、これも丸一日漬け込まなければなりません。甘皮も、保管しておくとだんだん劣化しますので、定期的に作らなければなりません。

 手妻の種は結構自家製作のものがたくさんあります。どこにも売っていません。すべて私と弟子とで作ります。細かな製法は一子相伝です。こうした口伝があるから手妻は価値があるのです。

 運命と7番を聴いて、ちょうどヌキ卵14個、甘皮6個が出来ました。何十年も続けてきた仕事ですが、楽しいひと時です。抜いた卵の中身は、明日きっと茶わん蒸しかプリンになって出て来るでしょう。それも楽しみの一つです。

続く