手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

新太郎のこと

新太郎のこと

 

 二週間前に私はリサイタルで花咲か爺さんを演じました。ところで、江戸時代の童話には爺さん婆さんが頻繁に出て来ますが、その爺さん婆さんの年齢は一体何歳だったのでしょうか。

 人生50年と言われていた江戸時代では、爺さんも婆さんも40代半ばだったのではないかと思います。もう40の声を聞くと隠居をして、仕事から離れ、40代半ばで孫がいて、頭は真っ白になって、顎髭を生やし、歯は半分ほど抜けて、顔はしわくちゃ、そして「わしはもう年寄りじゃから」。などと40代でそんなもののいい方をしていたのです。そして50になると老衰で亡くなっていたのです。

 そうしてみると、私が最近腰が痛いだの、疲れが抜けないなどと言うのは自然の摂理に即していて、当たり前の話なのかもしれません。

 

 今日のブログのタイトルは新太郎です。新太郎と言っても私のことではありません。私の祖父は新太郎と言いました。つまり私の名前は祖父を継いだことになります。然し、祖父は芸人ではありませんでした。

 ブリキ職人で、仲間内では銅古(どうこ)屋と言い、古くは銅板で屋根や、箱火鉢の内側、台所の流しの内側などを作っていたのです。その後に、銅よりも安いブリキ板が普及して、屋根や店の看板や雨樋などを作るようになりました。

 祖父は、若い衆を何人か使い、手広く仕事をしていました。それなら相当に稼いだだろうと思われますがそうではなく、酒と博打が好きで、その上子供が多く、生活は楽ではありませんでした。それでも自営業ですから、小銭は自由になり、私にはよく小遣いをくれました。

 祖父は私を猫っ可愛がりに可愛がりました。漫画もおもちゃも祖父にねだるとすぐに買ってくれました。どこへでも連れて行ってくれましたし、自分が飲みに行く時も私を連れて行って、隣に座らせて、好きな食べ物を食べさせてくれました。

 何でも食べていいと言うのですが、飲み屋の食べ物ですから、塩辛だの、くさやの干物だの、ウニの酒漬けだのと言ったもので、子供のすれば、何を食べてもこれが人間の食べ物かと思うほど不味いものばかりでした。

 たまにすし屋に連れていかれると、玉子焼きが楽しみでした。子供にとって寿司屋の玉子は憧れでした。

 

 私の生まれた池上の町は、日蓮さんの亡くなった場所で、町の中心に本門寺と言う大きなお寺があります。毎年10月、日蓮さんの命日にお会式(おえしき)という行事があり、この時は池上の町全体に屋台店がたくさん出て、大変賑やかになります。屋台だけでなく、見世物が来たり、屋台の手品師が来て小道具を売ったりします。これが楽しみでした。

 中には傷痍軍人が来て、日本軍の軍服を着て、片腕のない人、足のない人などが二、三人でアコーディオンを弾きながら軍歌を唄います。前には募金箱を置いて、寄付を集めます。片腕のない人は腕の先に金属の鍵フックを取り付けていて、まるで漫画で見るキャプテンクックのようでした。

 祖父の新太郎は、傷痍軍人を見ると、懐から小銭入れを出し、中身の小銭を全部取り出して私に渡します。「これをあのおじさんたちにあげなさい」。と言います。それはとても小銭と言えるレベルではなく、昭和30年代の金で500円くらいありました。今なら5000円くらいの価値でしょうか。

 私はこぼれ落ちるほどの小銭を大事に持って、傷痍軍人の前に行き、募金箱にすべての金を入れました。軍人は、「坊ちゃんすみません、有難うございます」。とやけに丁寧に礼を言いました。その間、新太郎爺さんは木陰で、こっちを見るでもなくじっと待っています。

 私はなぜ爺さんが自分で金をやらないのかわかりませんでした。「どうして自分でお金を持って行かないの」。と尋ねても、爺さんは何も言いません。そもそもあの手足のない人たちが一体何者なのかも私にはわかりません。「あの人たちは何をする人なの」。

「あの人たちはなぁ、自分が犠牲となって国のために働いた人たちなんだ。だから応援しないといけないんだ」。そうなら爺さん自らが金を持って行ったらいいものを当人は木の影に隠れて、決して自分から善意を施そうとはしません。

 あの時の祖父は、50代の末だったと思います。そうなら今の私よりも10歳も若かったのです。国のために戦って犠牲となった人に支援したいと思う気持ちは素晴らしいとしても、面と向かって礼を言われることが恥ずかしいからか、自分で渡せないと言う爺さんの気持ちはいまだにわかりません。

 その新太郎爺さんは酒の飲み過ぎで63歳で亡くなりました。今思い出しても63歳の新太郎爺さんは、今の私よりもよほどに年寄りじみていました。脳溢血か何かで倒れてからは言葉も満足に話せず、ずっと寝たきりの状態で、その姿は、今なら70歳をはるかに超えている人に見えました。

 私は爺さんの名前を継ぎ、実際、新太郎爺さんより長く生きています。まだまだ体は丈夫ですし、考えもしっかりしています。と、自分では思っています。

 周囲からも頼られていますし、なにより人が集まってきます。まだ老け込むのは早いと思います。

 今のうちにもう少しマジックの作品を作っておこうと考えて、毎日作品の図面を書いたり、練習をしています。日々充実はしていますが、そうした活動の合間に時々、先代の新太郎を思い出します。50代で「お爺さん」と言われ、63歳で亡くなった新太郎を。

続く

今は昔

今は昔

 

 年を取ると、はるか昔もついこの間のこともみんな一緒になってしまうことが良くあるようです。私が若いころによくしてくれた、アマチュアの松田昇太郎さんは、子供のころに松旭斎天一の舞台を見たらしく、話の中で何気に「天一はこうだった、ああだった」。と話してくれました。

 それがごく自然な話で、70年くらい前に見た天一が、ついこの間の出来事のように話に出て来るのが不思議でした。私は天一も天勝も実際には見たことはありませんが、早くから老人の話を聞いていたために、天一も、天勝も歴史上の人物ではなく、自分も含めた大きな流れの中の先輩奇術師として捉えることが出来ました。

 私が20代くらいの時に長崎にレクチュアーに出かけた時に、長崎マジッククラブの会長の小出さんと言う人が、レクチュアー前に食事をご馳走してくれました。その際の何気ない会話で、前年にあった長崎の集中豪雨の話として、「この間の災害はどうだったのですか」。と尋ねると、小出さんは、「それはひどいものでした。長崎市の半分が焼けてしまい。みんな焼け出されました」と、言いました。妙です。集中豪雨は火事はなかったはずです。いろいろ聞いて行くと、昭和20年の長崎の原爆に被災したときの話だったのです。

 つまり小出さんにとってはこの間の災害とは太平洋戦争であり、原爆被害はつい昨日の出来事だったのです。小出さんは長崎県庁にお勤めになっていて、見るからに頭のいい中年紳士だったのですが、戦争を体験していて、その記憶は常に昨日のことのように感じていたのです。

 

 戦争の体験は、私に取っては日常で、両親が朝食をとるときには決まって空襲の話をしていました。B29が編隊でやって来て、町にばらばらと爆弾を落として行くのが良く見えたと言います。

 当時両親は大田区の池上に住んでいて、大田区と言うのは、池上、洗足池、旗の台と言った西半分は住宅地で。東半分、蒲田、糀谷、羽田あたりは町工場がたくさんありました。

 米軍は町工場を狙って爆弾を大量に落としたのです。同じ大田区でも西半分は、何度B29がやって来ても、まったく被害がなく、爆弾が落ちるのは決まって東京湾沿いの工場群だったそうです。

 空襲と言うものを当時の人はどんな風に考えているのかと、子供心に興味を持ち、両親に聞くと、「戦争と言ってもいつも戦争しているわけではなくて、敵の飛行機が飛んできたときが戦争なんだ。空襲の時には決まって南の方から爆音が聞こえて来るんだ、それがB29の編隊の音で。だんだんものすごい音になって、そして爆弾を落として行くんだ」。

「日本軍は戦わなかったの?」。「無論戦ったさぁ。隼だのゼロ戦が出撃するんだけど、B29ははるか高い所を飛んでいるから、小さな飛行機では届かないんだ。それでも果敢に機関銃を打つんだけどなかなか当たらないんだ。品川沖に高射砲があって、空のB29に向かって高射砲を発射するんだけど、これもなかなか当たらない。たまに当たって墜落するB29があると、翌日の新聞に出て、大騒ぎさぁ」。

 それほど大量の爆弾を落とされたなら、都市の機能は破壊されて、何もできないだろうと思うとそうではなく、空襲のあった翌日には、池上線も京浜東北線(当時は省線)も早朝から運行していて、みんな電車に乗って会社に出かけていたと言います。まったく大空襲と言いながらも、そこに暮らす人にとっては空襲が台風や集中豪雨のようなもので、飛行機が去ってしまえば、まったく日常と変わらなかったのです。

 親父などは空襲の後に火事見舞いに出かけ、仲間の芸人の家を訪ねて行くと、家もなく、当人も、当人の家族も消えていなくなっていたことがあったそうです。それ以降その仲間と会うこともなかったと言います。

 まったく日常生活と戦争が同居していて、明日のことは誰もわからない生活だったのです。

 

 私のところに学生さんが習いに来ることが多く、彼らと何気に話をしていると、必ず昔の奇術師のところで話が止まってしまいます。初代天功や、天洋、アダチ龍光、ダーク大和、となるともう知る人はいませんし、また、若い人から尋ねられることもありません。

 もっと極端なのはマチュア研究家です。高木重朗先生などはまだ書籍を読んだ人は理解していますが、それでも過去の人になってしまいました。柳澤よしたねさんなどとなるとまったく興味の対象ですらなくなってしまっています。

 天洋さんなどは、存在自体歴史の人となってしまいましたが、私に取っては良く見知ったお爺さんで、浅草の新世界にあるマジックショップに出かけるたび、天一の話をして下さり、明治38年に、天一は欧米から帰国をして、歌舞伎座で華々しい興行をした時のことを、まるで昨日のことのように熱心に話してくれました。

 歌舞伎座こそが天洋さんの初舞台であり、この時天一の舞台をまざまざと見たことが天洋の一生を決定づけたわけです。天洋さんは私と話しているときは既に80に近かったと思いますが、天一を語るときは、まるで少年のように純粋になり、目を輝かせて天一を語りました。時に天一の声色までも使って見せて、仕草から言葉遣い、風格まで表現して見せました。

 かくして私は12歳にして、天一の声から動作まで知りました。そのことを若い人に得意になって話していると、いつの間にか相手はぽかんとして唖然として聞いています。「いけない、彼らにとっては天洋も天一も歴史の彼方の人なのだ」。

 そう、私にとっては昨日のことでも、彼らにとってははるか昔の話なのです。私の親父の空襲の話よりももっとはるか彼方の話を私はしてしまっていると知り、私がどっぷり年寄りの仲間に入ってしまったことを知りました。昔話は控えなければいけません。もっと未来について語ろうと無理無理気持ちを切り替える決意をしますが、昔話は私にとって麻薬です。

続く

アトリエ改装

アトリエ改装

 

 私の家は4階建てですが、ちょっと聞くと豪邸を想像されるかも知れませんが、室内は13坪しかありません。13坪の総4階建てです。まったく鉛筆のような家なのです。その家を改装をしようと思いますが、改装と言っても、所詮13坪しかありませんので、どう工夫しても部屋が広くなるわけではありません。

 

 家と言うものは、建てた時と、実際住んでみた時では随分住み方が変わります。今の家を建てた30年前は、まだ娘が赤ん坊でしたから、四階の寝室は、夫婦のベッド一つ、赤ん坊の小さなベッド一つで十分で、3階は、居間と台所、風呂にトイレでこれも十分でした。二階は事務所になっていて、一階は当時駐車場で、車が二台停まっていました。

 他に、板橋に倉庫兼アトリエの家を一軒を借りていました。私とすれば、これだけあればすべての生活と、仕事に必要なものが満たされて、私の夢が実現したことになります。

 これが30代半ばのことでした。ところが、ここに困った問題が起きました。娘が大きくなってきたのです。何とか部屋を作ってやらなければなりません。そこで、事務所を半分に仕切り、娘の部屋を作りました。すると、事務所が手狭になりました。

 やむなく、環7通りに事務所を借りることになりました。15坪もある日当たりのいい事務所です。表通りに面していましたので、仕事の関係者も頻繁に訪れて賑やかでした。

 然し、事務所の家賃と倉庫の家賃の両方を支払うのは大変です。バブルが弾けた後でしたので、仕事もがったりと減りました。そこで、板橋を引き払い、一階の駐車場を改装して倉庫にしました。

 それまで二台所有していた車は日産のキャラバンだけにして、シトロエンは手放しました。涙の別れでした。キャラバンは近くの駐車場に入れました。

 その後、仕事は回復ぜず、小さな仕事ばかりになったため、キャラバンを手放し、またぞろシトロエンを買いました。10年前のことです。

 そして、猿ヶ京に古民家を借りるようになり、そこに大道具の半分を移動しました。お陰で一階アトリエの半分が使えるようになりました。

 そうこうするうちに娘が結婚をして、娘はアパートを借りて家を出るようになりました。そこへ以て来て、母親が高齢化して老人マンションに引っ越すことになりました。そのマンションの負担が大きく、やむなく、環7通りの事務所をたたんで、元の自宅の二階に事務所を戻しました。すばらしい事務所だったのに残念です。

 その後、一階の大道具をかなりの量、猿ヶ京に持って行き、一階のアトリエは稽古が出来るくらいのスペースになりました。そこで長く指導をしていたのですが、だんだん生徒さんが増えて来ました。今東京の教室は20人近くいます。

 そして、御存知のように、コロナ以降、舞台仕事は激減しています。そうなら、アトリエをもっと活用したほうがいいと言うことで、思い切って、水芸の装置も猿ヶ京に持って行き、今以上にアトリエを広く使おうと考えました。

 

 話は長くなりました、そのために今、絵図面を書いています。いろいろあの手この手で部屋を広くする工夫をしていますが、実際書いてみると、それほど部屋は広くなりません。どうしても残しておきたいものが多く、水芸の装置が減ったくらいでは劇的な変化は起きません。

 これから道具を解体し、道具を収めていた金属棚も解体し、荷物を箱に入れ替え、重い箪笥を移動して、2tトラックで猿ヶ京まで移動し、向こうで金属棚を作り、道具を並べる仕事をしても、さほどアトリエは広くならないのです。

 トラックを借りて、人の手伝いを用意して、一日かけて数万円を使っても、手に入るスペースはわずかなのです。

 わずかばかり広がった図面を見て、「何だこんなものか」。とがっかりしました。それを前田に見せると、「いいと思います。少しでも広く使えるなら絶対その方が有効だと思います」。と言うのです。どうやら前田は、自分の稽古場に使いたいのでしょう。それでもいつ来るかわからない大道具の依頼をひたすら待って、狭いアトリエで指導をするよりも、広くなって多くの人の役に立つなら、その方がいいのかなぁ。と思い、荷物を運んで、内装をし直すことにしました。

 但し、今すぐに移動は出来ません。月末には大阪セッションがあり、その翌日には福井の公演があります。少なくとも福井以降でないと部屋のかたずけも満足には出来ません。

 「まぁ、福井の後に、ゆっくり内装をし直したらいいか」。と考えています。かくして、同じ家に住みながら、住み方は随分変わり、まさかこうした使い方のなろうとは思いもよりませんでした。生きると言うことは変化することであり、変化に対応できなければ生きて行けないと知るに至りました。

続く

来客は楽し、峯ゼミは盛況

来客は楽し、峯ゼミは盛況

 

来客は楽し

 毎日誰かが訪ねて来ます。日々の仕事の合間にそうした人たちとお茶を飲んで話をするのが楽しみです。

 一昨日(11月6日)は、朝に大樹が訪ねて来ました。何かの演出で、衣装が必要だそうで、私の後見の衣装を持って行きました。数日前も大樹は訪ねて来ましたが、このところ頻繁にやって来ます。急な用事なのでしょうか。いずれにしても俄かに忙しくなってきたようで、忙しいのは幸いです。

 朝10時から、学生の、錦君と、高木君が稽古にやって来ました。ちょうどいいので、大樹と一緒にお茶をしました。彼らにとって、プロマジシャンからいろいろな話が聴けることは、将来にも随分といい影響を受けることになるでしょう。何の話をするわけでもなく、ただ30分、一緒に時間を過ごすと言うことが実は後々とても貴重なのです。

 ちょうど私が、20代でアメリカに行って、チャニングポロックハイボールを飲んで話が聴けた時のように、マジシャンの傍で話が聴けたことは一生の思い出です。

 

 午前中は二人の指導をして、午後になって、同じく学生の谷水君が来て、三人一緒に午後の指導を始めました。指導内容は、卵の袋です。私が、20代からトークマジックをしていたときに得意で演じていたもので、マックスマリニーの手順をアレンジしたやり方です。これでどれほど稼いだことか。

 私の一門では必ず習得する手順です。実際この手順は、殆どの弟子が一番役に立っている演技ではないかと思います。

 日本では卵の袋を演じるマジシャンは少ないのですが、これほど角度に強く、場所を選ばず、効果の大きなマジックはそうはありません。特に喋りの好きな人ならぜひ覚えておくべき手順です。

 とは言っても、マジックは縁ですから、縁がなければ覚えられません。もっともっと日頃、アンテナを張って、いろいろな人の演技を見ておくことは大切です。

 

 夕方に穂積みゆきさんが来て、頼んでおいた傘のホルダーを届けてくれました。一日人の出入りの多い中、前田は、天一祭や、大阪マジシャンズセッション、1月のヤングマジシャンズセッションのパンフレット作りをしています。これも弟子修行の一環です。毎日毎日あわただしく活動をするうちに一日は過ぎて行きます。

 

峯ゼミ盛況

 昨日(11月7日)は峯ゼミでした。私は先月休んでしまいました。ところが、前田が事務所に戻ってから、峯ゼミが素晴らしかったと興奮気味に語っていました。

 実は、日本人の多くは漠然と峯村さんを理解していても、本当の才能を知らないのです。彼は手順を理論構築して行きます。まったく、数学の方程式のように、理詰めで結論を導いて行きます。こうした考え方は、多くの芸能で生きる者には不得意です。

 私なども、ついついハンドリングを雰囲気で解決しようとしますが、多くは、解決したつもりが成功していません。ついつい無理を重ねてしまうのです。

 今回はカラーボールの変化を手順にしていますが、その演技は驚きの連続です。紅白のボールと、緑のボール。それに赤のシェルと青のシェル、たったこれだけのボールなのですが、手に持った白白のボールが、白赤に変わり、赤赤になり、一つ増えて、赤白赤になり、次の瞬間には白赤白になる。白を右手に握ると青になり、右手に持っている玉が順に青に変わり、お終いは青赤緑白に変化します。

 目まぐるしく変化が連続しますが、手順が整理されているために複雑さが感じられません。ごく何気にカラーチェンジが進み、四色ボールになって行きます。

 しかも、彼の手順には四つ玉の常套手段である、シェルとボールを親指と人差し指に持って、中指でボールをずり上げ、ずり下げて、増やしたり消したりする動作がほとんどないのです。このやり方が、どれほど四つ玉を堕落させたかは言うまでもありません。安易に増やせることが、四つ玉の芸を価値の低いものにしたのです。

 無論彼はそのことを承知です。彼の手順を解説されると独自の解決方法が次々に出て来ます。受講者が喜ぶのは当然で、全くこれだけの作品を作り上げ、指導できる人が世界中にどれだけいるでしょうか。大変な高レベルな指導です。

 13時から16時までみっちり3時間。練習と受講をしてこの日は終わり、そして二月からは半年間。シルク手順をします。受講者はほぼ全員参加します。

 いい流れになってきました。これまで人から習うことに対してあまりに安易だったものが、習うこと、継承することの大切さに気付いたようです。実は日本人がそこに気付くことが、この先日本人のマジック界の地位を底上げするのです。

 へんてこな手順を作ることがえらいのではなく、きっちり基礎を学んで、そこから自分の考えを構築して初めて分厚い演技が出来るのです。

 

 さて4時半にスタジオを出て、峯村さんと前田、そして私は電車を乗り継いで両国へ、この晩はちゃんこ鍋を食べました。かつて寺尾と言う二枚目の相撲取りがいましたが、寺尾が経営するちゃんこ屋さんで名前も寺尾です。

 寺尾さんの奥さんが美人なのですが、残念ながらこの日は会うことは出来ませんでした。

 私は15年前から両国の回向院(えこういん)脇で年に春と秋に、両国祭りと言う企画を開催していました。ショウを演じる舞台を野外にこしらえ、たくさんの芸能の皆さんに出ていただき様々な芸能を披露しました。

 ただし残念ながら、3年前に終了しました。その頃、寺尾さんには良く行きました。

 味は醤油と味噌と塩がありますが、私の好みは醤油味の鳥鍋です。少し濃いめの汁に鶏肉と野菜を入れて熱々の中を食べます。中でも絶品なのは鶏肉のミンチを匙で掬って、玉にして鍋の中に入れます。ニンニクが入った濃いめの味付けのミンチがいい味を出して鍋全体を引き締めます。

 峯村さんも前田もこれには満足でした。少し寒くなって来て、酒が恋しいころに、鍋を突っつきながら酒を飲むのは最高です。峯村さんも指導で緊張していたものが、ここでようやく穏やかな顔になりました。

 この濃いめの醤油味の鍋は、峯村さんの地元、信州の鍋に通じるところがあり、彼にとっては郷愁をそそる料理だったようです。三人は体も温まり、十分満足して帰りました。

 こんな日があることは幸せです。

続く

 

二宮金次郎

二宮金次郎

 

 二宮金次郎さんと言えば、戦前の修身の教科書には日本人のお手本として尊敬された人物です。かつての小学校の校庭には、薪を背負って本を読む子供のころの金次郎さんの銅像が必ず立っていたそうです。

 二宮金次郎さんが尊敬を集めていた理由は、勤勉に生きる姿でした。金次郎さんの家は足柄郡の農家で、村では豊かな暮らしをしていたようですが、酒匂川の氾濫で田んぼが流されてしまいます。家族は必死に働きますが、悪いことに、両親は病気に罹り亡くなってしまいます。

 この時金次郎さんは12歳です。弟が二人います。12歳の長男の背中に一家の一切がかかってきます。やむなく金次郎さんは賃仕事をして、手伝いで生計を立てようとします。然し12歳では満足に大人の仕事が出来ません。生活は一気に困窮します。

 薪を背負って本を読む姿は、親戚の家に身を寄せているときに、夜に灯りを使うのは勿体ないから本を読むな、と言われ、やむなく山に薪を取りに行く行き帰りに本を読んで勉強したことから、あの姿が村でも知られるようになったわけです。

 ある日、田植えを手伝っていると、田んぼの畔に余った苗が捨てられているのを見つけます。わずかな苗ですが、周囲の田んぼを見ると、ところどころに苗が捨ててあります。金次郎さんはそれを拾い集めて、自分の家の荒れて使えなくなった田んぼに水を引いて苗を植えてみます。

 すると秋には一俵の米が出来ました。その米を食べずにそのまま植えると三年で三十俵の米になりました。これを元手に、田んぼに転がった大きな石を村の人に手間賃を支払って取り除き、土を運んで田んぼを整え、自作農が出来るようになりました。元をただせば拾ってきたわずかな苗です。

 こうして自前の田んぼで稼げるようになると、田んぼは弟に任せ、そこから上がるわずかな金で本を買い、自身は小田原に出て商家に勤め、傍らに学問を学びに行くようになります。

 金次郎さんは自分の家の田んぼを元の規模にまで戻し、更に親戚の生活を助け、世話になった商家の経営を立て直します。すると、小田原藩の家老から家の経理を任されます。これも数年で借金を返し、健全な暮らしに戻します。

 そうなるとあちこちの村や、大名家から経理を頼まれるようになります。

 

 金次郎さんが、商家や大名家の経理を立て直すときに、まず何をしたかと言うと、過去5年の収入を調べてその平均を取るようにしました。そして平均の収入で生きて行くことを教えます。平均より収入の多かった年にはその収入を貯めて、少ない年には貯めておいた収入を使って賄います。こうすれば外から利息の付いた金を借りなくても生きて行けるわけです。

 当時の日本は農業で成り立っていた社会ですから、天候によって作物の出来不出来があります。そして、豊作だからと言って、必ずしも利益が上がるものではなく、地域全体が豊作だと、米の値自体が下がってしまい、収入も少なくなります。豊作でも不作でも収入は常に不安定だったのです。

 貧しいがゆえに、米の安いときに自作の米を売らなければならず、不作になれば逆に借金をして高い米を買わなければならなかったのです。

 毎年初夏になれば、日本全体で米が不足します。秋の収穫までは、米の値段が高騰するのです。この時まで米を残しておけばいい値段で売れるのです。然し、それが出来ないのは、その日その日に追われた生活をしているからです。そこで金次郎さんは、先ず、5年間の収入の平均値で生きる方法を教え、少しでも貯蓄することを教えます。これを固く守れば必ず収入が上がり、逆に利益が残るのです。

 ちなみに、今でも日本人が夏場に蕎麦やそうめんを食べるのは、江戸時代、夏に米が高騰して、庶民の口に米が入らなかった名残です。

 今は何でもなく蕎麦やうどんを食べますが、江戸っ子にとっては早く新米が食べたいと言う思いで、我慢して蕎麦うどんを食べていたのでしょう。

 話を戻して、金次郎さんは単なる倹約家なのではなく、経済の仕組みをしっかり周囲の人に教えて、せっかく作った利益を少しでも価値を高める方法を指導した、と言うところが今日の経営者の才能を備えた人なのだと思います。

 こうした点、教科書では金次郎さんの利殖の方法は教えません。然し、金次郎さんの人生を見ると、勤勉に生きることももちろん大切なのですが、むしろ、稼いだ金をどう生かすか、と言う才能を農民に指導したことが、当時としては新しく、疲弊していた江戸の農本体制の改革に役立ったのだと思います。

 

 金次郎さんの名前は全国に知られ、その農業、経理を学びたいと日本中の農家、大名家の家老が押し掛けてくるようになります。また、村の立て直しも依頼されます。

 金次郎さんは、大名家から村の立て直しを頼まれると、必ず村に行き、つぶさに村の様子を眺めます。そして、すぐに改革に着手しません。何日か逗留して、そのまま去って行きます。

 大名家の役人などは、何事かとあわてて追いかけて尋ねますが、金次郎さんは相手にしません。いくら聞かれても話をしません。なぜか、金次郎さん曰く、「人に頼るのでなく、自分がどうにかなろうとする気持ちがなければ改革はできない」、のだそうです。

 村に行くと、多くの百姓が働く意欲をなくし、朝から酒を飲んでいたり、博打をしていたりします。それでは何を話しても何も変わらないのです。自らが変わろうと言う気持ちがなければどうにもならないのです。

 金次郎さんは努力をしない人を助ける神様ではなく、まともに働く人に報われる生き方を教える人なのです。それもこれも、今の生活から抜け出そうと目を覚まして、自らが立ち上がる気概がなければどうにもならないのです。

 本気で今の生活を変えようとする人だけを相手に改革をするのです。後に名前を二宮尊徳と変えて、農家の間では神様にまつられるようになりますが、その生き方を見ると、決して倹約だけで金を作れと言っているのではなく、コメの備蓄を進め、備蓄をするだけでなく、その米を貸し出して利益を上げるように勧めます。

 また、相場もしっかり見て、利殖も進めています。そのためには積極的に学問を勧めます。つまり、金次郎さんは有能な経営者であり、その考え方は、一人一人の実践に役立つ経営方法を教えていたのだと気付きます。

 真面目であること、倹約家であることは金次郎さんの一面ではありますが、余りにそればかりを強調すると、金次郎さんがつまらない人に見えてしまいます。

 私は、金次郎さんを面白おかしく小説にして書いてみたいと思い、資料を少しずつ集めましたが、いまだ小説は果たせず、断片的な話をつらつら述べました。

 

明日はブログを休みます。

 

 

 

 

そもプロ復活

そもプロ復活

 

 昨日(11月4日)、カードを販売する会社を経営している和泉圭佑さんが訪ねて来ました。

 和泉さんはマジック雑誌を出そうと企画をしています。そしてその中に私の「そもプロ(そもそもプロマジシャンと言うものは)」を連載したいと言うのです。

 そもプロは、今から20年前に、東京堂出版から出していた、ザマジック(季刊誌)に10年間掲載されていたもので、その後、まとめられて同名で単行本になりました。

 話の内容は、プロに成りたての若手マジシャン、コワザ君とキムコ君が私のところに尋ねて来て、様々な悩みを話します。それに対して私が適切なアドバイスをすると言うもので、ステージ上の注意であるとか、手順の作り方であるとか、種明かし問題であるとか、話は多岐にわたりました。

 今でも熱烈な「そもぷろ」信者がいて、続編を求める声は高いのですが、ザマジックが廃刊になってしまい、如何ともし難い状況でした。

 そもプロを執筆しているときには、新幹線などで移動しているときにも、座っている私に、通りがかった人が、「ひょっとして藤山さんですか」。と尋ねられることがあり、「私はそもプロのファンです」と言う人がたくさんいました。

 ローカル線のホームで列車を待っているときも、高校生と思しき人が、私をちらちら見ていて、やがて意を決したように寄って来て、「藤山さんですか。僕はそもプロのファンなんです。毎回ザマジックを買っていますが、一番先に読むのがそもプロです。握手してくれますか」。と緊張して話してくる人があります。「あぁ、こんな田舎までも私は知られているんだなぁ」。と思うと嬉しくなりました。

 毎回、手紙や、メールなどももらいました。中には、「藤山さんと一緒に食事がしたい」。と言う人も何人かいて、「私が費用を出しますので、一緒に食事をして下さい」。と頼まれました。そして食事をしながら、マジックの話をすると、「これこれ、こんな話が聞きたかったんです」。

 と、妙なところで感動しまくる人がいて、彼らはそもプロに出て来るコワザ君や、キムコ君になり切って悦に入っていました。すっかり読者は、そもプロにはまって感動していました。

 連載が終わった後も、随分多くの読者から「続編を出してください」。と言う手紙をもらいました。考えて見ると、マジックの種仕掛けを解説している本はたくさんありますが、マジックの考え方、或いは、プロマジシャンは何を、どう、考えて生きて行かなければいけないか。などと言う話はどこにも書いていないため、そんな話を読みながら、プロを疑似体験するにはまことに貴重な本だったようです。

 

 それをこれから連載するそうですので、差し当たって、写真を撮り、タイトルの文字を作り。私が毛筆でタイトルを書きました。私の筆は決して自慢のできるものではないのですが、和泉さんのたっての依頼ですからやむなく書きました。

 原稿は月末までに書き上げます。私の執筆がマジック界発展の一助となれば幸いです。私の活動が、人に求められて、それが人の役に立つと言うのは何と幸せなことかと思います。

 雑誌名も発行日も知りませんが、ともかくご期待ください。

 

大阪セッション完売の勢い

 11月26日の大阪マジックセッションが完売の勢いです。もともと、120席程度のスペースですので、売れることは間違いないのですが、どうも大阪のマジックファンは、コロナ禍に遭ってあらゆるマジックの催しが中止になったため、マジックショウに飢えているようです。きっと白熱した舞台になるでしょう。

 

 福井天一祭苦戦

 方や、11月27日、福井市のフェニックスホールで開催される、天一祭は、チケットの売れ行きが今一歩です。福井ではこの天一祭の催しが唯一のマジック公演ですので、もっと盛大にマジックファンに集まっていただきたいのですが、どうもコロナ禍に遭って、人が出歩かなくなってしまったようで、人集めに苦労しています。

 峯村健二さんや、東京から、九州から、色々なマジシャンが集まりますので、是非ご覧いただきたく思います。

 

玉ひで公演

 11月20日は、12時から玉ひで公演です。私の他に、ザッキーさん、戸崎拓也さん、前田将太、が出演します。お食事をしながら、目の前で手妻をじっくりご堪能いただきます。どうぞひと時江戸情緒をお楽しみください。

 

2022年1月8日9日 ヤングマジシャンズセッション

 今月末からチケットの販売開始します。出演者は、緒川集人さん、アキットさん、藤山新太郎、藤山大樹、大学の優秀マジシャン。

 8日は18時30分スタート。9日は、13時からマジックコンテスト、17時30分からショウスタート。

 コンテストの募集も致します。11月15日から。内容。10分以内、ステージマジック。ビデオ審査あり、12月15日までビデオを東京イリュージョンまで送ってください。メールも可。12月20日に結果をお伝えします。