手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

新太郎のこと

新太郎のこと

 

 二週間前に私はリサイタルで花咲か爺さんを演じました。ところで、江戸時代の童話には爺さん婆さんが頻繁に出て来ますが、その爺さん婆さんの年齢は一体何歳だったのでしょうか。

 人生50年と言われていた江戸時代では、爺さんも婆さんも40代半ばだったのではないかと思います。もう40の声を聞くと隠居をして、仕事から離れ、40代半ばで孫がいて、頭は真っ白になって、顎髭を生やし、歯は半分ほど抜けて、顔はしわくちゃ、そして「わしはもう年寄りじゃから」。などと40代でそんなもののいい方をしていたのです。そして50になると老衰で亡くなっていたのです。

 そうしてみると、私が最近腰が痛いだの、疲れが抜けないなどと言うのは自然の摂理に即していて、当たり前の話なのかもしれません。

 

 今日のブログのタイトルは新太郎です。新太郎と言っても私のことではありません。私の祖父は新太郎と言いました。つまり私の名前は祖父を継いだことになります。然し、祖父は芸人ではありませんでした。

 ブリキ職人で、仲間内では銅古(どうこ)屋と言い、古くは銅板で屋根や、箱火鉢の内側、台所の流しの内側などを作っていたのです。その後に、銅よりも安いブリキ板が普及して、屋根や店の看板や雨樋などを作るようになりました。

 祖父は、若い衆を何人か使い、手広く仕事をしていました。それなら相当に稼いだだろうと思われますがそうではなく、酒と博打が好きで、その上子供が多く、生活は楽ではありませんでした。それでも自営業ですから、小銭は自由になり、私にはよく小遣いをくれました。

 祖父は私を猫っ可愛がりに可愛がりました。漫画もおもちゃも祖父にねだるとすぐに買ってくれました。どこへでも連れて行ってくれましたし、自分が飲みに行く時も私を連れて行って、隣に座らせて、好きな食べ物を食べさせてくれました。

 何でも食べていいと言うのですが、飲み屋の食べ物ですから、塩辛だの、くさやの干物だの、ウニの酒漬けだのと言ったもので、子供のすれば、何を食べてもこれが人間の食べ物かと思うほど不味いものばかりでした。

 たまにすし屋に連れていかれると、玉子焼きが楽しみでした。子供にとって寿司屋の玉子は憧れでした。

 

 私の生まれた池上の町は、日蓮さんの亡くなった場所で、町の中心に本門寺と言う大きなお寺があります。毎年10月、日蓮さんの命日にお会式(おえしき)という行事があり、この時は池上の町全体に屋台店がたくさん出て、大変賑やかになります。屋台だけでなく、見世物が来たり、屋台の手品師が来て小道具を売ったりします。これが楽しみでした。

 中には傷痍軍人が来て、日本軍の軍服を着て、片腕のない人、足のない人などが二、三人でアコーディオンを弾きながら軍歌を唄います。前には募金箱を置いて、寄付を集めます。片腕のない人は腕の先に金属の鍵フックを取り付けていて、まるで漫画で見るキャプテンクックのようでした。

 祖父の新太郎は、傷痍軍人を見ると、懐から小銭入れを出し、中身の小銭を全部取り出して私に渡します。「これをあのおじさんたちにあげなさい」。と言います。それはとても小銭と言えるレベルではなく、昭和30年代の金で500円くらいありました。今なら5000円くらいの価値でしょうか。

 私はこぼれ落ちるほどの小銭を大事に持って、傷痍軍人の前に行き、募金箱にすべての金を入れました。軍人は、「坊ちゃんすみません、有難うございます」。とやけに丁寧に礼を言いました。その間、新太郎爺さんは木陰で、こっちを見るでもなくじっと待っています。

 私はなぜ爺さんが自分で金をやらないのかわかりませんでした。「どうして自分でお金を持って行かないの」。と尋ねても、爺さんは何も言いません。そもそもあの手足のない人たちが一体何者なのかも私にはわかりません。「あの人たちは何をする人なの」。

「あの人たちはなぁ、自分が犠牲となって国のために働いた人たちなんだ。だから応援しないといけないんだ」。そうなら爺さん自らが金を持って行ったらいいものを当人は木の影に隠れて、決して自分から善意を施そうとはしません。

 あの時の祖父は、50代の末だったと思います。そうなら今の私よりも10歳も若かったのです。国のために戦って犠牲となった人に支援したいと思う気持ちは素晴らしいとしても、面と向かって礼を言われることが恥ずかしいからか、自分で渡せないと言う爺さんの気持ちはいまだにわかりません。

 その新太郎爺さんは酒の飲み過ぎで63歳で亡くなりました。今思い出しても63歳の新太郎爺さんは、今の私よりもよほどに年寄りじみていました。脳溢血か何かで倒れてからは言葉も満足に話せず、ずっと寝たきりの状態で、その姿は、今なら70歳をはるかに超えている人に見えました。

 私は爺さんの名前を継ぎ、実際、新太郎爺さんより長く生きています。まだまだ体は丈夫ですし、考えもしっかりしています。と、自分では思っています。

 周囲からも頼られていますし、なにより人が集まってきます。まだ老け込むのは早いと思います。

 今のうちにもう少しマジックの作品を作っておこうと考えて、毎日作品の図面を書いたり、練習をしています。日々充実はしていますが、そうした活動の合間に時々、先代の新太郎を思い出します。50代で「お爺さん」と言われ、63歳で亡くなった新太郎を。

続く