手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

二宮金次郎

二宮金次郎

 

 二宮金次郎さんと言えば、戦前の修身の教科書には日本人のお手本として尊敬された人物です。かつての小学校の校庭には、薪を背負って本を読む子供のころの金次郎さんの銅像が必ず立っていたそうです。

 二宮金次郎さんが尊敬を集めていた理由は、勤勉に生きる姿でした。金次郎さんの家は足柄郡の農家で、村では豊かな暮らしをしていたようですが、酒匂川の氾濫で田んぼが流されてしまいます。家族は必死に働きますが、悪いことに、両親は病気に罹り亡くなってしまいます。

 この時金次郎さんは12歳です。弟が二人います。12歳の長男の背中に一家の一切がかかってきます。やむなく金次郎さんは賃仕事をして、手伝いで生計を立てようとします。然し12歳では満足に大人の仕事が出来ません。生活は一気に困窮します。

 薪を背負って本を読む姿は、親戚の家に身を寄せているときに、夜に灯りを使うのは勿体ないから本を読むな、と言われ、やむなく山に薪を取りに行く行き帰りに本を読んで勉強したことから、あの姿が村でも知られるようになったわけです。

 ある日、田植えを手伝っていると、田んぼの畔に余った苗が捨てられているのを見つけます。わずかな苗ですが、周囲の田んぼを見ると、ところどころに苗が捨ててあります。金次郎さんはそれを拾い集めて、自分の家の荒れて使えなくなった田んぼに水を引いて苗を植えてみます。

 すると秋には一俵の米が出来ました。その米を食べずにそのまま植えると三年で三十俵の米になりました。これを元手に、田んぼに転がった大きな石を村の人に手間賃を支払って取り除き、土を運んで田んぼを整え、自作農が出来るようになりました。元をただせば拾ってきたわずかな苗です。

 こうして自前の田んぼで稼げるようになると、田んぼは弟に任せ、そこから上がるわずかな金で本を買い、自身は小田原に出て商家に勤め、傍らに学問を学びに行くようになります。

 金次郎さんは自分の家の田んぼを元の規模にまで戻し、更に親戚の生活を助け、世話になった商家の経営を立て直します。すると、小田原藩の家老から家の経理を任されます。これも数年で借金を返し、健全な暮らしに戻します。

 そうなるとあちこちの村や、大名家から経理を頼まれるようになります。

 

 金次郎さんが、商家や大名家の経理を立て直すときに、まず何をしたかと言うと、過去5年の収入を調べてその平均を取るようにしました。そして平均の収入で生きて行くことを教えます。平均より収入の多かった年にはその収入を貯めて、少ない年には貯めておいた収入を使って賄います。こうすれば外から利息の付いた金を借りなくても生きて行けるわけです。

 当時の日本は農業で成り立っていた社会ですから、天候によって作物の出来不出来があります。そして、豊作だからと言って、必ずしも利益が上がるものではなく、地域全体が豊作だと、米の値自体が下がってしまい、収入も少なくなります。豊作でも不作でも収入は常に不安定だったのです。

 貧しいがゆえに、米の安いときに自作の米を売らなければならず、不作になれば逆に借金をして高い米を買わなければならなかったのです。

 毎年初夏になれば、日本全体で米が不足します。秋の収穫までは、米の値段が高騰するのです。この時まで米を残しておけばいい値段で売れるのです。然し、それが出来ないのは、その日その日に追われた生活をしているからです。そこで金次郎さんは、先ず、5年間の収入の平均値で生きる方法を教え、少しでも貯蓄することを教えます。これを固く守れば必ず収入が上がり、逆に利益が残るのです。

 ちなみに、今でも日本人が夏場に蕎麦やそうめんを食べるのは、江戸時代、夏に米が高騰して、庶民の口に米が入らなかった名残です。

 今は何でもなく蕎麦やうどんを食べますが、江戸っ子にとっては早く新米が食べたいと言う思いで、我慢して蕎麦うどんを食べていたのでしょう。

 話を戻して、金次郎さんは単なる倹約家なのではなく、経済の仕組みをしっかり周囲の人に教えて、せっかく作った利益を少しでも価値を高める方法を指導した、と言うところが今日の経営者の才能を備えた人なのだと思います。

 こうした点、教科書では金次郎さんの利殖の方法は教えません。然し、金次郎さんの人生を見ると、勤勉に生きることももちろん大切なのですが、むしろ、稼いだ金をどう生かすか、と言う才能を農民に指導したことが、当時としては新しく、疲弊していた江戸の農本体制の改革に役立ったのだと思います。

 

 金次郎さんの名前は全国に知られ、その農業、経理を学びたいと日本中の農家、大名家の家老が押し掛けてくるようになります。また、村の立て直しも依頼されます。

 金次郎さんは、大名家から村の立て直しを頼まれると、必ず村に行き、つぶさに村の様子を眺めます。そして、すぐに改革に着手しません。何日か逗留して、そのまま去って行きます。

 大名家の役人などは、何事かとあわてて追いかけて尋ねますが、金次郎さんは相手にしません。いくら聞かれても話をしません。なぜか、金次郎さん曰く、「人に頼るのでなく、自分がどうにかなろうとする気持ちがなければ改革はできない」、のだそうです。

 村に行くと、多くの百姓が働く意欲をなくし、朝から酒を飲んでいたり、博打をしていたりします。それでは何を話しても何も変わらないのです。自らが変わろうと言う気持ちがなければどうにもならないのです。

 金次郎さんは努力をしない人を助ける神様ではなく、まともに働く人に報われる生き方を教える人なのです。それもこれも、今の生活から抜け出そうと目を覚まして、自らが立ち上がる気概がなければどうにもならないのです。

 本気で今の生活を変えようとする人だけを相手に改革をするのです。後に名前を二宮尊徳と変えて、農家の間では神様にまつられるようになりますが、その生き方を見ると、決して倹約だけで金を作れと言っているのではなく、コメの備蓄を進め、備蓄をするだけでなく、その米を貸し出して利益を上げるように勧めます。

 また、相場もしっかり見て、利殖も進めています。そのためには積極的に学問を勧めます。つまり、金次郎さんは有能な経営者であり、その考え方は、一人一人の実践に役立つ経営方法を教えていたのだと気付きます。

 真面目であること、倹約家であることは金次郎さんの一面ではありますが、余りにそればかりを強調すると、金次郎さんがつまらない人に見えてしまいます。

 私は、金次郎さんを面白おかしく小説にして書いてみたいと思い、資料を少しずつ集めましたが、いまだ小説は果たせず、断片的な話をつらつら述べました。

 

明日はブログを休みます。