手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

今は昔

今は昔

 

 年を取ると、はるか昔もついこの間のこともみんな一緒になってしまうことが良くあるようです。私が若いころによくしてくれた、アマチュアの松田昇太郎さんは、子供のころに松旭斎天一の舞台を見たらしく、話の中で何気に「天一はこうだった、ああだった」。と話してくれました。

 それがごく自然な話で、70年くらい前に見た天一が、ついこの間の出来事のように話に出て来るのが不思議でした。私は天一も天勝も実際には見たことはありませんが、早くから老人の話を聞いていたために、天一も、天勝も歴史上の人物ではなく、自分も含めた大きな流れの中の先輩奇術師として捉えることが出来ました。

 私が20代くらいの時に長崎にレクチュアーに出かけた時に、長崎マジッククラブの会長の小出さんと言う人が、レクチュアー前に食事をご馳走してくれました。その際の何気ない会話で、前年にあった長崎の集中豪雨の話として、「この間の災害はどうだったのですか」。と尋ねると、小出さんは、「それはひどいものでした。長崎市の半分が焼けてしまい。みんな焼け出されました」と、言いました。妙です。集中豪雨は火事はなかったはずです。いろいろ聞いて行くと、昭和20年の長崎の原爆に被災したときの話だったのです。

 つまり小出さんにとってはこの間の災害とは太平洋戦争であり、原爆被害はつい昨日の出来事だったのです。小出さんは長崎県庁にお勤めになっていて、見るからに頭のいい中年紳士だったのですが、戦争を体験していて、その記憶は常に昨日のことのように感じていたのです。

 

 戦争の体験は、私に取っては日常で、両親が朝食をとるときには決まって空襲の話をしていました。B29が編隊でやって来て、町にばらばらと爆弾を落として行くのが良く見えたと言います。

 当時両親は大田区の池上に住んでいて、大田区と言うのは、池上、洗足池、旗の台と言った西半分は住宅地で。東半分、蒲田、糀谷、羽田あたりは町工場がたくさんありました。

 米軍は町工場を狙って爆弾を大量に落としたのです。同じ大田区でも西半分は、何度B29がやって来ても、まったく被害がなく、爆弾が落ちるのは決まって東京湾沿いの工場群だったそうです。

 空襲と言うものを当時の人はどんな風に考えているのかと、子供心に興味を持ち、両親に聞くと、「戦争と言ってもいつも戦争しているわけではなくて、敵の飛行機が飛んできたときが戦争なんだ。空襲の時には決まって南の方から爆音が聞こえて来るんだ、それがB29の編隊の音で。だんだんものすごい音になって、そして爆弾を落として行くんだ」。

「日本軍は戦わなかったの?」。「無論戦ったさぁ。隼だのゼロ戦が出撃するんだけど、B29ははるか高い所を飛んでいるから、小さな飛行機では届かないんだ。それでも果敢に機関銃を打つんだけどなかなか当たらないんだ。品川沖に高射砲があって、空のB29に向かって高射砲を発射するんだけど、これもなかなか当たらない。たまに当たって墜落するB29があると、翌日の新聞に出て、大騒ぎさぁ」。

 それほど大量の爆弾を落とされたなら、都市の機能は破壊されて、何もできないだろうと思うとそうではなく、空襲のあった翌日には、池上線も京浜東北線(当時は省線)も早朝から運行していて、みんな電車に乗って会社に出かけていたと言います。まったく大空襲と言いながらも、そこに暮らす人にとっては空襲が台風や集中豪雨のようなもので、飛行機が去ってしまえば、まったく日常と変わらなかったのです。

 親父などは空襲の後に火事見舞いに出かけ、仲間の芸人の家を訪ねて行くと、家もなく、当人も、当人の家族も消えていなくなっていたことがあったそうです。それ以降その仲間と会うこともなかったと言います。

 まったく日常生活と戦争が同居していて、明日のことは誰もわからない生活だったのです。

 

 私のところに学生さんが習いに来ることが多く、彼らと何気に話をしていると、必ず昔の奇術師のところで話が止まってしまいます。初代天功や、天洋、アダチ龍光、ダーク大和、となるともう知る人はいませんし、また、若い人から尋ねられることもありません。

 もっと極端なのはマチュア研究家です。高木重朗先生などはまだ書籍を読んだ人は理解していますが、それでも過去の人になってしまいました。柳澤よしたねさんなどとなるとまったく興味の対象ですらなくなってしまっています。

 天洋さんなどは、存在自体歴史の人となってしまいましたが、私に取っては良く見知ったお爺さんで、浅草の新世界にあるマジックショップに出かけるたび、天一の話をして下さり、明治38年に、天一は欧米から帰国をして、歌舞伎座で華々しい興行をした時のことを、まるで昨日のことのように熱心に話してくれました。

 歌舞伎座こそが天洋さんの初舞台であり、この時天一の舞台をまざまざと見たことが天洋の一生を決定づけたわけです。天洋さんは私と話しているときは既に80に近かったと思いますが、天一を語るときは、まるで少年のように純粋になり、目を輝かせて天一を語りました。時に天一の声色までも使って見せて、仕草から言葉遣い、風格まで表現して見せました。

 かくして私は12歳にして、天一の声から動作まで知りました。そのことを若い人に得意になって話していると、いつの間にか相手はぽかんとして唖然として聞いています。「いけない、彼らにとっては天洋も天一も歴史の彼方の人なのだ」。

 そう、私にとっては昨日のことでも、彼らにとってははるか昔の話なのです。私の親父の空襲の話よりももっとはるか彼方の話を私はしてしまっていると知り、私がどっぷり年寄りの仲間に入ってしまったことを知りました。昔話は控えなければいけません。もっと未来について語ろうと無理無理気持ちを切り替える決意をしますが、昔話は私にとって麻薬です。

続く