手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アトリエ改装

アトリエ改装

 

 私の家は4階建てですが、ちょっと聞くと豪邸を想像されるかも知れませんが、室内は13坪しかありません。13坪の総4階建てです。まったく鉛筆のような家なのです。その家を改装をしようと思いますが、改装と言っても、所詮13坪しかありませんので、どう工夫しても部屋が広くなるわけではありません。

 

 家と言うものは、建てた時と、実際住んでみた時では随分住み方が変わります。今の家を建てた30年前は、まだ娘が赤ん坊でしたから、四階の寝室は、夫婦のベッド一つ、赤ん坊の小さなベッド一つで十分で、3階は、居間と台所、風呂にトイレでこれも十分でした。二階は事務所になっていて、一階は当時駐車場で、車が二台停まっていました。

 他に、板橋に倉庫兼アトリエの家を一軒を借りていました。私とすれば、これだけあればすべての生活と、仕事に必要なものが満たされて、私の夢が実現したことになります。

 これが30代半ばのことでした。ところが、ここに困った問題が起きました。娘が大きくなってきたのです。何とか部屋を作ってやらなければなりません。そこで、事務所を半分に仕切り、娘の部屋を作りました。すると、事務所が手狭になりました。

 やむなく、環7通りに事務所を借りることになりました。15坪もある日当たりのいい事務所です。表通りに面していましたので、仕事の関係者も頻繁に訪れて賑やかでした。

 然し、事務所の家賃と倉庫の家賃の両方を支払うのは大変です。バブルが弾けた後でしたので、仕事もがったりと減りました。そこで、板橋を引き払い、一階の駐車場を改装して倉庫にしました。

 それまで二台所有していた車は日産のキャラバンだけにして、シトロエンは手放しました。涙の別れでした。キャラバンは近くの駐車場に入れました。

 その後、仕事は回復ぜず、小さな仕事ばかりになったため、キャラバンを手放し、またぞろシトロエンを買いました。10年前のことです。

 そして、猿ヶ京に古民家を借りるようになり、そこに大道具の半分を移動しました。お陰で一階アトリエの半分が使えるようになりました。

 そうこうするうちに娘が結婚をして、娘はアパートを借りて家を出るようになりました。そこへ以て来て、母親が高齢化して老人マンションに引っ越すことになりました。そのマンションの負担が大きく、やむなく、環7通りの事務所をたたんで、元の自宅の二階に事務所を戻しました。すばらしい事務所だったのに残念です。

 その後、一階の大道具をかなりの量、猿ヶ京に持って行き、一階のアトリエは稽古が出来るくらいのスペースになりました。そこで長く指導をしていたのですが、だんだん生徒さんが増えて来ました。今東京の教室は20人近くいます。

 そして、御存知のように、コロナ以降、舞台仕事は激減しています。そうなら、アトリエをもっと活用したほうがいいと言うことで、思い切って、水芸の装置も猿ヶ京に持って行き、今以上にアトリエを広く使おうと考えました。

 

 話は長くなりました、そのために今、絵図面を書いています。いろいろあの手この手で部屋を広くする工夫をしていますが、実際書いてみると、それほど部屋は広くなりません。どうしても残しておきたいものが多く、水芸の装置が減ったくらいでは劇的な変化は起きません。

 これから道具を解体し、道具を収めていた金属棚も解体し、荷物を箱に入れ替え、重い箪笥を移動して、2tトラックで猿ヶ京まで移動し、向こうで金属棚を作り、道具を並べる仕事をしても、さほどアトリエは広くならないのです。

 トラックを借りて、人の手伝いを用意して、一日かけて数万円を使っても、手に入るスペースはわずかなのです。

 わずかばかり広がった図面を見て、「何だこんなものか」。とがっかりしました。それを前田に見せると、「いいと思います。少しでも広く使えるなら絶対その方が有効だと思います」。と言うのです。どうやら前田は、自分の稽古場に使いたいのでしょう。それでもいつ来るかわからない大道具の依頼をひたすら待って、狭いアトリエで指導をするよりも、広くなって多くの人の役に立つなら、その方がいいのかなぁ。と思い、荷物を運んで、内装をし直すことにしました。

 但し、今すぐに移動は出来ません。月末には大阪セッションがあり、その翌日には福井の公演があります。少なくとも福井以降でないと部屋のかたずけも満足には出来ません。

 「まぁ、福井の後に、ゆっくり内装をし直したらいいか」。と考えています。かくして、同じ家に住みながら、住み方は随分変わり、まさかこうした使い方のなろうとは思いもよりませんでした。生きると言うことは変化することであり、変化に対応できなければ生きて行けないと知るに至りました。

続く