手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ブルックナーはお好き?

ブルックナーはお好き?

 

 昨日(11月12日)はベートーベンを書いてみました。以前に、私はブログで、クラシックについて書くと覿面に読者数が減る、と言いました。ところが、このところ何を書いても読者数はほとんど変わりません。昨日のベートーベンも、私の日常について書たものと同じくらいの読者数でした。

 少し安心をして、もう少しクラシック音楽を書いてみます。クラシックの面白さは小学校4年生のころ、兄が運命と田園のレコードと、メンデルスゾーンチャイコフスキーのバイオリン協奏曲のレコードを買ってきたときにはじまりました。

 兄は少しクラシックに興味を持って定番のレコードを買ってきたのです。そして初めは熱心に聴いていたのですが、二か月もしないうちに全く聴かなくなりました。

 私が学校から帰って来て、一体兄は何を聴いていたのかと兄のレコードをかけて見ると、運命も田園も初めはほとんど理解できないながらも、ところどころのメロディーが面白く、それ以外は難解な部分がたくさんあり、得体のしれないものに感じました。

 それでも学校から帰ると必ず一曲聴くようにしていると、まるで深い雲に隠れていた景色が少しずつ晴れて、雄大な景色が見えてくるように音楽が理解できるようになりました。そうなると興味が湧いてきます。

 当時のLPレコードは高価で、一枚2000円くらいしましたので、小学生ではなかなか買えません。何しろ大学生がアルバイトを8時間しても1200円くらいの時代です。

 やむなく、夕方にクラシック音楽を放送するラジオ番組がありましたので、それをよく聞きました。中学生くらいになると深夜に、作曲家の芥川也寸志さんと野際陽子さんがお話をしながらクラシックを聴かせる「百万人の音楽」と言う番組があり、欠かさず聞くようになりました。その頃はもう手当たり次第に面白そうな曲を聴いていました。

 中学生くらいになると、幸いなことに私がマジックで舞台に立つようになり、まとまった小遣いが手に入るようになったため、半分はマジックに、半分はレコードを買うようになりました。

 そうこうするうちに、同級生の女性で、ご両親がNHK定期演奏会のチケットを買っているお家がありました。ところがご両親は仕事が忙しく、演奏会のチケットをいつも無駄にしています。

 同級生の彼女はクラシックが好きなのですが、一人で演奏会に行くと帰りが遅くなるので、一人で出歩くことが出来ません。そこで毎回私をボディガードにして上野の文化センターに行くことになりました。私とすればこれ以上の好条件はありません。かなりいい席で毎回NHK交響楽団の演奏が聴けるのですから。

 その頃のN響の常任指揮者は、ハインツワルベルクさんか、ロブロフォンマタチッチさんでした。ワルベルクさんと言う人は伝統的なドイツ音楽の指揮者で、私にも理解出来る、ハイドンモーツァルト、ベートーベンと言ったおなじみの演目が主で毎回楽しみでした。

 マタチッチさんは東欧の人で、体は肥満していて、目も鼻も顔の造作の大きな人でした。この人が得意とするのはブルックナーでした。昭和40年代の前半、いまだブルックナーはポピュラーとはいいがたいものでしたが、マタチッチさんは9曲の交響曲を公演のたびに必ず一曲ずつ演目に入れていました。

 ブルックナーは一曲1時間近くかかるものが多く、当初、私は何をどう聞いていいものか皆目わからず、ただただ長い曲としか思えませんでした。しばしばブルックナーの演奏は私にとってはお休みタイムで、演奏中はぐっすり寝ていました。

 結局N響の演奏会に出かけるたび、ブルックナーはまったく理解できませんでした。今思えば勿体ないことをしたと思います。マタチッチほどの名指揮者が熱演するブルックナーを聴かずに寝ていたのですから。

 然し、中学生ではやむを得なかったかも知れません。当時の大人のクラシックファンですら、ブルックナーは難解と考えられていたのですから。

 

 ブルックナーの面白さに気付いたのは20歳を過ぎてからでした。ブルックナーの音楽には聴き方があります。ベートーベンや、ブラームスチャイコフスキーのように、音楽にドラマはないのです。人間の苦悩、悲しみ、寂しさなどどこにも語られていないのです。

 確かに音楽には悲しさ寂しさと言った陰影はありますが、それは人間の行いから出てくる感情ではなく、自身の体を自然にゆだねて体感したときに得る寂寥感のようなものなのです。

 人に何かされたから悲しい、いじめられて寂しいと言うのではなく、人は生まれながらに寂しく悲しいのです。大きな自然の中で生かされている自分を感じたときにブルックナーの音楽は聞こえてきます。

 ブルックナーからベートーベンのような人間ドラマを期待していると、何も起こらず、何も感じないのです。一度人間の生活から離れて、例えば温泉につかって、景色を眺めるように、受け身で世の中を眺めて見ない限り、ただただ冗長な音楽としか聞こえません。厄介な音楽です。

 ところが、ひとたび聞き方が分かるとまるで3D画像のように、忽然と大自然が見えて来ます。「なんでこんなことが分からなかったのか」。と思うほど全く見えなかったものが見えるのです。ブルックナーと言うのは決して難解な音楽ではなく、俗世から離れ、心を無にしてすべてを受け入れようとしたときに自然に感じて来る音楽なのです。

 ある意味で東洋の禅の哲学に通じるものがあるかも知れません。日常の些末なことから離れて、心を無にして座禅を組んだ時にハタと気付く世界です。

 九曲ある交響曲が語っていることは一つで、自然の素晴らしさであり、その自然を作り上げた神への感謝です。150年前のオーストリアに生活していながら、物質文明に毒されることなく、ただただ純粋に交響曲を書き続けた人なのです。

 ブルックナーの生前はほとんど演奏される機会もなく、理解者もわずかでした。昭和40年代でさえ理解者は少なかったのです。それが昭和50年代の末頃から急に演奏会で取り上げられるようになり、レコードが売れ出しました。今ではベートーベンやブラームスと並ぶくらいの演奏頻度です。

 時折マタチッチさんのCDを聴くことがあります。「あぁ、私はこの指揮者の生演奏に接していながら、どうしてこの演奏の素晴らしさに気が付かなかったのだろう」。と後悔することしきりです。せめて18歳くらいで聴けていたなら、人生が大きく変わったかもしれません。但し、そうなるとマジシャンになってはいなかったかもしれません。聖職者となって神の教えを語っていたかもしれません。何ともインチキ臭い聖職者です。

 

明日はブログを休みます。