手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

人に迷惑をかけてはいけない 4

人に迷惑をかけてはいけない 4

 家庭

 話を初めに戻しましょう。小学校や中学校で、子供がいじめにあったときに、親や教師は、「相手とよく話をしろ」。と 言います。然し、家庭が貧しいことや、身体的な弱点を攻めて来る者たちにどんな話をしろと言うのですか。

 

 アメリカの学校でいじめが起こったときの話を聞いたことがあります。教師は、すぐにいじめた生徒を呼び出し、原因を問い正し、いじめをすることがどれほど罪であるかを懇々と説教します。その上で、謝罪文を書かせ、翌日クラスの生徒の前で読ませ、いじめた生徒に謝罪させます。

 さらに生徒みんなに、なぜいじめを見て見ぬふりをしていたかと怒り、知っていながらいじめを黙認したことは犯罪だと説明します。もし、同じようなことがあったらすぐ担任に報告しろと伝えます。

 アメリカではいじめは100%いじめる側の問題です。いじめたものがとことん反省するまで説教を続け、反省させ、謝罪させます。

 こうした点日本の教師は曖昧です。「いじめられる者にも問題がある」。などと、信じられないような奇妙なバランス感覚を持っていじめた者に肩を持つ教師がいます。

 教師の毅然とした態度がない限りいじめはやみません。いじめる側は社会の無関心を縫って悪さをするのです。教師や学校が直接問題と向き合おうとしないからいじめがはびこるのです。

 大概のいじめは、初めは数人で陰口を言う。何か話してきても口を利かない。無視をする。そんな無言の嫌がらせをします。彼らは、世間を眺めながら、これくらいなら教師も、クラスの仲間も何も言わない。と知ると、いじめのレベルが上がって行きます。

 この時に、曖昧なまま放置をすると、やがて、いじめはエスカレートして行きます。物を盗む、物を隠す。ノートを破り捨てる。金をゆする。数人でリンチを加える。と、より過激ないじめに発展して行きます。

 然し、盗みや、集団リンチは、もういじめのレベルではなく、犯罪なのです。いじめを受けている子供一人が我慢して済むレベルではありません。これを許している同級生も、担任も、学校も犯罪を黙認していることと同じなのです。

 犯罪を見て見ぬふりをする教師や学校は既に教育をする資格がないのです。そうなら教師に被害を訴えるのは無意味です。直接教育委員会や、警察に訴えるしかないのです。

 そんなことは子供の裁量ではできません。我が子の尊厳を奪う者が現れたなら、親が本気になって戦ってやらなければいけないのです。「いじめがあったことなんて知らなかった」。という親がいます。そもそも、いじめが始まった時期に既に子供のSOSのサインは出ているはずです。

 学校から帰って来ると顔つきが暗かったり、学校に行きたがらなかったり、顔に傷をつけて帰ってきたり、子供は子供なりに親に心配をかけまいと気を使います。然し、何となくどこかで助けを求めている表情をするはずです。

 それを感じ取ったなら、親は出て行かなければいけません。 いつもいつもリンチを受けているなら、親がビデオカメラを持って学校に行き、いじめられている現場を密かにカメラに収め、学校と教育委員会に画像を送り、訴えるのです。それで学校が動かなければ、警察に訴えるのです。

 躊躇してはいけません。いじめは犯罪なのです。自分の子供が自殺でもしたら悔やんでも悔みきれないでしょう。間違いは間違いとはっきり怒ることです。曖昧な態度がいじめを繰り返すことになるのです。

 問題が起こったときに日本人の態度は実に曖昧です。何とか丸く収めようとしたり、弱者に対して我慢を要求したり、起こった問題をなかったことにしようとする人が大勢います。日本人は、自由も平等も、「天」から与えられていることを認識していないのです。

 いじめの問題は学校だけでなく、社会でも頻繁に起こります。会社の中で弱い立場の人が上司にいじめを受けたり、その会社も大元の会社にぼ下請けとしていじめを受けたりします。むしろ学校よりも利益が絡む分、会社のいじめは間違いを指摘しにくく解決が難しいかもしれません。

 

 私は大学浪人時代に、マジックメーカーでアルバイトをして、デパートに立っていました。マジック売り場の店員は、デパートの社員ではありません。派遣店員と言って、メーカーが自主的にサービスで、デパートに人を送っているのです。そのためデパートからは給料は出ていません。飽くまでメーカーからの派遣なのです。

 私はマジック売り場の店員となって初めて、派遣業者が如何に差別されているかを知ります。私は朝9時にメーカーに行き、販売の商品を担いでデパートに行き、検品所で商品を通過させ、商品を担いで売り場に行き、販売をします。仕事が煩雑なためにどうしてもデパートの開店の10時を10分くらい過ぎてしまいます。

 それを売り場の主任や、課長は烈火のごとく怒ります。「遅刻をするとは何事か、売り場の取引を停止するぞ」。と脅します。会社のルールを知らない私は始めは主任の言うことを聞いていましたが、物理的に10時出社は無理なのです。ある日ついに怒って課長と衝突します。そして、「取引を停止したらいい」。と怒って売り場から出て行ってしまいます。

 すると、仲間の派遣店員が、課長の言っていることは労働基準法に違反している、給料も支払っていない人に就業時間を守らせることは違法だと口添えしてくれました。そして私が毎日まじめに働いていること、売り上げも伸びていることを言ってくれ、きっと彼はこのまま労働基準局に行って、窮状を訴えるかも知れない。言いました、驚いたのは課長です。顔が真っ青になって慌てたそうです。

 私はその頃、別のデパートのディーラーのところに行って、喫茶店で遊んでいました。翌日、同じ時間に出社すると、課長が明るい顔で「おはよう」。と声をかけて来ました。

 あとで仲間の派遣業者から昨日の様子を聞いて、「なんだこんなことなら、毎日毎日いじめられて悩んでいないで、さっさと労働基準局に訴えてやればよかった」。と思いました。

 自分で抱えきれない悩みを持っていても何も解決しません。どうにもならなければ勇気を持って訴えるしか解決の道はないのです。その勇気を日本人は子供に教えないのです。こうしたことが様々なところで日本の問題となっているのです。

続く

 

人に迷惑をかけてはいけない 3

人に迷惑をかけてはいけない 3

 

 18世紀末になって、王政が崩壊し、資本主義が盛んになり、大きな工場が出来て、膨大な工業製品を生み出し、その販路として当初は植民地を作って、工業製品を売り捌きます。

 工場を持たない国の人々にとっては、工業製品は、布地にしても、鉄道にしても、蒸気船にしても、どうやって作ったのか見当もつかないくらい高級品に思えたでしょう。当初工業製品は良く売れましたが、すぐに頭打ちになります。

 なぜか、買い手の賃金が低すぎて買えないのです。植民地の民は信じられないような低賃金で働かされています。国内の労働者も同様です。彼らは自分たちが作ったシャツもドレスも買えないのです。

 資本家が富を独占して、労働者を劣悪な賃金で雇っていては、いつまでたっても工業製品の買い手が育たないのです。

 実は生産者は消費者でもあるのです。資本主義が発展するためには、国内に中流家庭を育てなければ産業の発展はあり得ないのです。そのために賃金闘争が頻発します。

 そしてその矛盾を突くかのように第一次世界大戦以後、ヨーロッパで社会主義運動が起こります。

 社会主義と言うのは、資本主義の矛盾を突いて生まれて来たイデオロギーです。金持ちが自分の資本で工場を作り、製品を販売する限り、利益は金持ちに渡るばかりで、労働者はいつまでも手間賃以上の収入になりません。

 労働者は低い賃金で働き、一たび災害があればたちまち困窮してしまいます。貧困層が増えれば犯罪が多発し、就学できない子供が増えて、治安は悪くなり、結果、政府は治安維持に税金がかかります。

 社会主義は、農地も資本もいったん国のものとして、個人のすることを国が管理し、国が工場を作り、農地を管理し、そこで労働者が働き、平等に賃金をもらいます。工場製品や農産品から出た利益を、労働者の福利厚生費や、病気の治療、子供の教育費に回せば、世の中の貧困はなくなり、誰でも能力に合わせて、機会均等に成功がつかめるだろう。と考えたのです。

 社会主義は、一見わかりやすい思想なため、一気に労働者の間で広まります。

 こうした考えが起こると、資本家は個人の財産が犯され、革命に怯えるようになります。労働者は「平等」を盾に社会主義を訴えます。平等と言われては資本家は反論が出来ません。 

 そこで先進国の政府は資本家と労働者の考えの折衷案を考え出します。つまり税金によって福祉を取り入れる方法です。

 税金から、福祉や、医療保険、失業保険を出して、国民に富の再分配を図ります。つまり今日、多くの政府がしているような形態を作り出したわけです。

 

 世界中に、資本主義国と、社会主義国がありますが、初期のような完全な資本主義の国と言うのはありません。同様に、完全な社会主義の国と言うものもありません。

 資本主義も社会主義も百年の時を経て、今では互いの政策を取り入れています。

 実際日本でも、税金から支払われる医療保険や福祉の費用の比重は大きく、年間予算が約百兆円であるのに対して、35兆円が社会保障費用に使われています。教育費などと合わせると約40兆円近くが使われています。

 日本は資本主義国家ですが、税金から見たなら、実は日本は既に40%が社会主義化しているのです。

 

 一方、ロシアを見ると、国の政策で社会保障は充実していますが、肝心の税収を得るための経済が不安定です。

 昔から計画経済を立てていますが、計画が計画通り達成できないのが社会主義の弱点です。経済は巨大で複雑怪奇です。それをテーブルの上で役人が企画を立てても、理屈通りには進みません。うまく行かなければ平等の思想は崩れます。

 社会主義国にも立ち廻りのうまい人がいて、巨万の富を築き

上げる人が出て来ます。富を維持するために役人を賄賂で抱き込んで権利も富も手に入れます。そうなれば平等も、社会主義思想も崩壊します。

 中国も同じです。計画経済はことごとく失敗します。然し、社会主義の国は、一党独裁国家ですから、国の失敗を批判する勢力がありません。政府は計画経済の成功を高らかに宣言しますが、その裏で餓死者が続出します。批判する人があれば拘束して数日後には川に死体が浮かびます。

 平等とは名ばかりで、暗黒の政治が続きます。結局、役人がプランを立てるよりも、経済は能力ある人の自由裁量にした方がいいと言うことになり、中国も資本主義を取り入れたことで初めて経済が安定して行きます。

 

 随分と長い話をしましたが、何が言いたいのかと言うと、自由も平等も、簡単には手に入らないと言うことです。人は長く戦いを続けてきて、ようやく今の生活を手に入れましたが、だからと言って自由も平等も完ぺきに手に入れたわけではありません。

 一見イデオロギーや経済の充実が自由や平等を約束すると思えても、ロシアや中国に自由や平等が行き渡っていないのを見れば、イデオロギーは怪しいとわかります。人の心の内側では依然と不平等がはびこります。

 初めの小学校のいじめの話にしても、今現実に起こっている話です。依然として人は隣人の自由と平等をいとも簡単に侵しています。弱者や仲間が生きる権利に関してあまりに鈍感です。

 それは、無知な人がしているのでなく、高学歴で社会的に地位の高い人ですら底辺に無理解や差別を内包しています。

 

 それでも最近の救いは、SNSなどによって行き過ぎた考え方をする人に対して批判が集中することです。但し、これも行き過ぎればファッショになります。

 ネット民と称する人は一見善意でことをしているように見えますが、その実新たな差別を合法的に作り出しているのです。早くにルールを作っておかないと、とても危険なことになります。

 世の中にはストレスのたまった人がたくさんいます。そうした人が、何かあればこれ幸いとネットで人を叩きまくります。正義を持てば何を言っても許されると勘違いをします。

 一方、社会で成功した人は、自分の考えが通るようになると急にわがままになります。弱者の配慮など消えてしまい、自己主張ばかりするようになります。

 こうした人が間違った発言をすると、たちまちストレスをためたネット民の餌食になります。彼らにとって力のある人が引きずり降ろされることは快感なのです。どっちもどっちですが、放置していれば犯罪につながって行きます。

 気を付けてください。自由も平等も天から与えられた権利なのです。人間ごときが自由を侵し、弱者を貶める権利などないのです。

続く

人に迷惑をかけてはいけない 2

人に迷惑をかけてはいけない 2

 

 福沢諭吉が神を天と言う言葉に置き換えて説明したまでは良かったのですが、どうも天は漠然としています。そのためいつの間にか、日本では、自由も平等も、絶対のものであると言う基本が抜け落ちてしまいます。

 しかも、自由も平等も、福沢諭吉の本を読んだ人が自動的に手に入れられるわけではないのです。

 欧米でも、キリスト教の教えにあると言っても、何もせずにそのまま自由平等が手に入ったわけではありません。

実態は、1789年。フランス革命がおこります。フランスの国是は自由、平等、博愛です。自由平等を手にれるために多くのパリ市民が犠牲になります。

 鉄砲をもって市民を攻撃するフランス政府軍に対して、市民は、道の敷石を剥がして、それを投げて応戦します。誰が見ても市民は非力です。道端にたちまち死人の山が出来ます。然し市民は次々にやってきてフランス兵と戦います。どれほど市民が死んでも、次々に市民の応援が増えて行きます。それだけ自由平等は価値あるものなのです。

 結果、王家は没落して、民衆は議会を手に入れます。フランス革命の効果は大きく、19世紀以降、欧州では各国で革命運動がおこります。

 昨日、自由と平等は人として生まれたなら始めから持っているものだと書きました。然し、実際はそれを現実のものとして手に入れるために、欧州では多くの犠牲を払って戦って勝ち取っているのです。

 ルイ王朝が倒れた後、今度は資本家と労働者との間で自由平等の戦いが始まります。

 

 かつては、職人や大工、鳶の世界で、「怪我と弁当は手前(てめぇ)持ち」。と言われていましたが、実際19世紀から20世紀まで、大工職人だけでなく、多くの労働者は何の保証もなく手間賃だけで働いていたのです。

 工場で機械に体が挟まって、腕や足を無くしたとしても、工場長がわずかな見舞金を持ってきて、それで終わり。翌日からは仕事はなくなり、一家は悲惨な生活を送ることになります。

 資本主義の初期は文字の通り、資本が全てで、誰も補償をしてくれなかったのです。経営者も、労働者も、持っている財産が全てで、怪我をすれば自らの蓄えで治療するほかはなかったのです。

 それでも財産があれば何とか生きては行けますが、元々が手間賃のような給料で働いていたのでは、財産などありません。そのため、怪我や病気をすればたちまち生活が困窮したのです。

 今の感覚で考えると、なぜ資本家は庶民を助けないのか、と思いますが、資本が全ての時代では、金を使うことは罪悪です。金持ちは金を使わないから金持ちなのです。

 そのことは日本も同じで、金のある人は、金をため込むばかりで一切使いません。使う必要がないのです。資本があれば黙っていても金は入ってきます。

 農村では庄屋様と言う金持ちがいて、広大な田畑を持ち、田畑は小作人に貸して耕作させ、その収入が入ってきます。

 米も大豆も麦も作って、都市に卸し、余剰の穀物で味噌、醤油、酒、を作って村で販売します。村人は、味噌も醤油も酒も庄屋様から買い、すべて付けで支払います。値段は庄屋様のさじ加減でいくらでも価格を上げることが出来ます。生活が出来なければ庄屋様から金を借り、利息と元金を労働で支払います。いつしか借金が大きくなれば、本百姓は田畑を庄屋様に売り渡し、小作人に落ち、自前の田畑を庄屋様から借りて耕すことになります。農村経済は庄屋様が牛耳っていたのです。

 初期の資本主義では、大きな資本を持った資本家が圧倒的に有利で、十年と経たないうちに、本百姓は田畑を失い、ほとんど庄屋様の小作人になって行きます。

 

 このころの経営者にすれば、「なぜ自分は国に税金を支払わなければならないのか。すべて俺の才覚で稼いだ金ではないか。それを国は、困窮者救済の費用に充てたり、病人の治療費に充てている。全く無駄ではないか。貧しいものは頭が悪いから貧しいのだ。努力をしないから貧しいのだ」。

 と、言ったかどうかは知りません。多分そう言っていたのでしょう。自分の持つ資本がすべてと言う時代は、労働者は、災害があればたちまち生活が困窮しますし、資本家はいつ不況が来るとも知れませんから、決して金を使おうとしないのです。

 

 Daigoさんが言っていた、「なぜホームレスに自分の税金を使わなければいけないのか」。という不満は、実は資本主義の初期の時代の経営者の言葉なのです。福祉や医療保険が国の安定を作り出していることに気が付いていないのです。

 Daigoさんの言葉の裏には、「自分はこれまで努力をしてきた。だからみんなも努力をしろ、頭を使え」。と自分の成功を盾に物を言っているのでしょう。

 Daigoさんは、子供の頃はいじめられっ子だったと告白しています。彼はその境遇から脱出するために人一倍勉強をしたのでしょう。そして、執筆活動やネットで収入を上げて大成功しました。

 ところが、いつの日か、Daigoさんは、いじめられている立場から強者の立場に変わって、弱者を攻撃するようになりました。彼が心の中で本当は何を考えていたのか、この一週間で本心を吐露したのです。

 その思いは、よほど根深いものだったらしく、始めは決して考えを改めませんでした。然し数日後、突然謝罪をしました。Daigoさんも、周囲に言われまずいと思ったのでしょう。とにかくこの場は謝罪をしておこうと判断したのでしょう。

 然し、そこから彼は大きなミスを連発します。謝罪があまりにおざなりだと言う反発が集まったのです。その翌日、謝罪の撤回の撤回と言う意味不明な画像を出します。

 この画像を出すまでに、予想以上に周囲からの批判が来たのでしょう。ここに至って、彼は自分の言った言葉の重さに気が付きます。然し、彼の心の中は決して自分の考えを改める姿勢を見せません。

 二度の謝罪に至っても、言葉の端々に、強者の立場が見えます。施設に寄付金を出す。などと、金で解決をする姿勢を見せます。寄付なら寄付で黙ってするなら美しい行為なのですが、散々生活保護者に対して、死刑にしろだの、猫の方がかわいいだのと言っておきながら、自分が窮地に立つといきなり寄付を言い出すのは絶対にマイナスです。金で幕引きをしているように見えます。金のある人の絶対にやってはいけない行為です。

 なぜ彼のような、30代のリーダーが、年寄りの頑迷な経営者のような、時代錯誤な解決の仕方をするのでしょうか。彼は発言するたびにどんどん墓穴を掘っています。

 経営者に対して啓発本を出して成功していた彼の本心はこんなものだったのでしょうか。

 いじめられていた子供が、努力をして成功すると、いじめる側に立って弱者を攻撃する。と言うのは、日本では自由も平等も心底根付いていない証拠なのです。明日はそのことをお話ししましょう。

続く

人に迷惑をかけてはいけない 1

人に迷惑をかけてはいけない 1

 

 日本中の親が子供に教育するときに、一番耳にする言葉が、「人に迷惑をかけてはいけない」。と、言うものでしょう。ではなぜ人に迷惑をかけてはいけないか。と問えば、「自分がされたらいやなことは人にもしない」。と言う教え方をします。これはその通りです。

 日本で日常に暮らすための生き方としてはこれでいいのでしょう。然し、この教育方法には曖昧さが残ります。

 先ず、自分自身が人に迷惑をかけないように生きようとすることは正しい行いです。然し、わがままな友達がいて、自分に危害を加えてきたらどうしますか。自分の持ち物を壊したり、自分の欠点をあからさまに悪く言っていじめて来たり、或いは、相手はまったく悪意はなくても、自分にとって言われたくないことを執拗に言ってくるような人がいたらどうしますか。

 こんなことは日常幾らでもあります。然し、日本の親はそれに対処する方法は教えません。子供は小学校に上がって、まず直面することは、世の中は善意の人だけではないことを知ります。初めから差別しようとして寄ってくる人。悪意むき出しで向かってくる人。初めから自分をいじめる目的で仲間を作て嫌がらせをする人がいるのです。

 いじめの対象は、体が小さい。家が貧しい、勉強ができない。性格がおとなしい。自己表現力が低い。いろいろな理由で同級生は弱者を攻めて来ます。

 小学校入学時には、さほど人と違ってはいないと思っていても、同学年と暮らすうちに、小さな差から少しずつ目に見えない階級が作られて行きます。いつの間にか優位に立つ人、底辺に押しやられる人の差が出てきます。

 担任の先生に相談すると、先生は、「仲間同士で話し合え」。と言って対処してくれません。殴られたり、叩かれたりすると、さすがに担任も、いじめをする生徒を職員室に呼び、通り一遍の注意をします。

 これで問題解決かと思いきや、むしろ、先生に言いつけたことがいじめを一層ヒートアップさせて、極端ないじめに発展して行きます。

 人に迷惑をかけてはいけないと言う教えは、互いが相手を尊重する社会においては有効でが、わざと弱い者をいじめて楽しんでいるような人には何ら役に立ちません。

 小学校、中学校などと言う、小さな社会で暮らすにも、人に迷惑をかけないと言うだけでは全く無力であることは、子供でも気付くのです。

 そこで前向きな子供は、運動能力を伸ばそうとしたり、勉強を熱心にして人に認めてもらおうと努力をします。そうした子供はめでたく虐げられた社会から抜け出すことが出来るでしょう。然しそれが本当に問題解決でしょうか。

 弱者の立場から抜け出した子供は、自分の自由は手に入ります。然し、今度はその実績を盾に、強者の立場に立って弱者を差別する立場に立ちませんか。

 

 幕末期から明治にかけて、西洋の思想が入ってきます。自由、平等などと言う考え方も伝わります。いや、あえて習わなくても自由や平等の考え方は日本にも古くからありました。ただ身分制度によって完全な自由も平等も妨げられていただけなのです。自由も平等も狭い仲間内の価値観に過ぎなかったのです。

 そのことは西洋も同じです。ヨーロッパも、王がいて、貴族がいて、資本家がいて、力ある人が労働者を搾取して自由を奪っていたのです。然し、キリスト教によって思想は根付いています。神の元において人は平等であり、自由であると言う考え方です。

 今、たまたま、様々な理由によって自由も平等も手に入れられないとしても、神は自由と平等を初めから認めていると言うものです。ヨーロッパの人はこうした考えによって心の救いを得ていたのです。

 ヨーロッパの思想を日本に取り入れようとしたときに、まず立ち止まってしまったことは、神と言う存在です。日本では、様々な神、仏がいて、考えを一つににまとめることが出来ません。自分の家の近所の、住吉神社であるとか、明神様、権現様など、そうした神様が自由や平等を保障してくれたことはなかったのです。勿論隣人愛や、正しく生きる道は語られていたでしょう。然し、自由と平等の保証はありませんでした。

 

 福沢諭吉は、学問ノススメを書くときに、神と言う言葉を使うことをためらいました。日本では神、仏がたくさんいて、まとめきれなかったからです。そこで、「天」と言う言葉を使うことを思いつきました。天とは太陽です。太陽は世界にただ一つ。誰の頭にも平等に日が差します。

 その太陽のもと、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言えり」。と語り始めました。分かりやすい言葉です。

 日本人は初めてここで、自由も平等も、権力者の都合で与えてくれたりするものではなく、始めから人として生まれて来た時に既に身に備わっているものだと知ります。

 今、学問ノススメを読んでも恐らく多くの人はさほどの感動もしないかもしれません。然し、明治時代の人には衝撃的な本だったのです。思想が書かれた本であるにも関わらず、明治のベストセラーになります。学生だけが読んだのではありません。呉服屋の手代でも、蕎麦屋の出前持ちでも懐に忍ばせて、必死になって読んだのです。そして希望を膨らませて日本は文明開化を迎えたのです。

 文明開化以前に日本に文化も文明もなかったか、と、言うとそうではありません。爛熟した文化も思想も備わっていたのですが、自由も平等も、思想と捉えるには、少し緩かったのだと思います。それがなぜかと言えば、ヨーロッパのように、神の元に平等、という絶対の考えが備わっていなかったのです。神はキリスト教では絶対であり、その神がすべての人々は平等と言えば絶対なのです。

 ところが日本での平等は少し違います。互いの仲間を認め合うことで、「自分がされて嫌なことは人にしない」。と言う考えから互いの自由を認め合います。これは人が初めから持っている権利ではなく、人と人との約束事で成り立っている考えなのです。

 この考え方は、戦国時代の楽市楽座に似ています。為政者が、わが城下町では自由な商売を許す。と、許可すれば、その日からその場では自由が手に入ります。

 然し、力ある人のさじ加減でいつでも自由は奪われます。飽くまで人と人の取り決めであって絶対の自由などないのです。

 日本が欧米と比べて、学校でのいじめが多いのは、多分に、教育をするときに、初めに、神の元に人は自由で平等であると教えないからではないかと思います。

 自由も平等も絶対であることを指導していないのです。それゆえに、子供は自由を勝手に解釈し、教師は自由を侵されている子供に対しても曖昧な対応しかしないのです。

 最近Daigoさんが、生活保護者なんかに税金を使うのは無駄だ。ホームレスなんかいないほうがいい。犯罪者と同じ、死刑にしてもいい。と、強者の立場でものを言ったことで世間から非難を浴びています。

 生きることの自由も平等も、いとも簡単に個人の裁量で好き勝手な解釈をされてしまいます。なぜこんな考え方が出て来るのか、このことは明日また詳しくお話ししましょう。

続く

 

カタヤマさんコロナに罹る

カタヤマさんコロナに罹る

 

 実はもう、一週間も前からカズカタヤマさんはコロナに罹っていて、入院していました。本当はすぐにお知らせしたかったんですけど。いらぬことを言って噂を広げたらカタヤマさんに失礼かと思って黙っていました。

 然し、昨日朝(15日)調子はどうかと電話をした時に、ブログで伝えてもいいという了解を得ましたのでお知らせします。カタヤマさん曰くは、あと4日くらいで退院が出来るそうです。

 カタヤマさんは本当なら、8月10日から13日まで板橋文化会館の小ホールでマジックのイベントを立ち上げていたのですが、コロナ禍のため中止となり、随分落胆していました。

 せっかくマジック界やジャグリング界のため、奉仕をして若手を育てようとしていたのに、国からの補助金が下りず、同時に、板橋区が会場使用を渋ったために、中止のやむなくに至っています。まったくお気の毒です。

 そのさ中にコロナに感染したわけで、弱り目に祟り目で、不幸が続いたことになります。私も何とかカタヤマさんを助けたいと、9月4日のマジックマイスター(座高円寺)でのゲスト出演を頼みました。

 カタヤマさんへの電話では、「もうじき退院します。体はなんとか大丈夫です。退院復帰後の初仕事がマジックマイスターです。ぜひ出演させてください」。と言っていました。

 マイスターを復帰後一番目の仕事の目標にしているようです。ぜひみんなでカタヤマさんの復帰を祝いましょう。

 

 カタヤマさんは現在独身ですのでコロナに感染すると、誰も家のことをしてくれる人がいないため、むしろ入院したほうが気楽だそうです。分かります。入院できたことは、不幸中の幸いです。一人部屋の中で呼吸が乱れて、酸素呼吸器もないようではそれこそ不安です。

 体は脱力感で何もする気がせず、イラストも描かず、マジックの稽古もせず、ただひたすら寝ているようです。

 

 思えば私も、今年春に一週間、直腸のポリープを取るために、慈恵医大に入院しましたが、ただ寝ると言うことがなかなか苦痛です。朝から晩までずっと寝ていると、深夜に眠れなくなります。そんな時に、真っ暗な部屋で、ずっと目を開けて天井を眺めているのは苦痛です。

 何もすることがなく、時間ばかりが有り余っていると、余計なことが頭に浮かんできます。この先の自身の健康は大丈夫か、退院した後仕事は来るのか、人から忘れ去られて行かないか、ついつい悪いほうに考えが行きます。

 そんな時に、ぱっと考えを切り替えて、前向きに生きて行ける人は強い人です。私も努めて自分のなすべき仕事を考えていました。「峰の桜を完成させよう」。「絵コンテを書いてみよう」。「秋のリサイタルの構成を考えて見よう」。自分でやるべき仕事を考えて、次々にプランを立ち上げ、退院後の日程を作っていました。

 そんな風に考えを巡らせて生きて行けば、病気に押しつぶされることはありません。しかし中には病気に負けてしまう人もいるのです。世の中は幸も不幸もありません。すべては自分の想い一つです。自分が今の状況を幸せと感じたなら、必ず幸せになれます。不幸と感じたならどんな状況でも不幸です。ものは思いようなのです。カタヤマさんも、どうか気持ちを明るく、前向きに考えて過ごしてください。

 

医療崩壊は嘘、危機的状況は嘘

 テレビでは医療崩壊を叫んでいますが、医療が崩壊することを一般国民に伝えてどうなりますか。国民は病院を作ることなどできません。肝心なことは、患者を受け入れる病院がなぜ増えないのかと言うことでしょう。増えないのは簡単です。

 日本中の医師がコロナにかかわることを拒否しているからです。なぜ拒否しているのかと言えば、コロナにかかわると病院の設備費や、人件費に金がかかり過ぎて病院が維持できなくなるからです。

 コロナの感染の危険度をワンランク下げて、今ある病院の設備で対応できるようにすれば、すぐにでもコロナ患者を受け入れられる病院はたくさん増えます。

 世界中の医師は、コロナを日本ほど危険視していません。簡単な治療器具しかない病院で普通に患者を入院させています。日本だけがコロナを過大に危険視して、実態とかけ離れた治療をしているのです。その結果、病床数が足らないのです。

  苦肉の策で政府がホテルを借り切って患者を入れていますが、話は逆です。むしろ一般病院に入院させたほうが医師、看護士がいて、医療設備は整っています。

 明らかに矛盾した政策を取っているために、使える病床が使えなく、感染を扱う病院だけがフル稼働で、人手が足らずに身動きが出来ないのです。その半面、町の病院は患者がいなくて閑古鳥です。

 日本では感染者が二万人を超えたと大騒ぎですが、10万人を超えているアメリカが、マスクもせず、飲食店は大繁盛、観光地では水着姿で浜辺で日光浴をしています。この違いはコロナとは無関係です。人の思いようが幸せにも不幸にもつながっているのです。

 国民全員がマスクをして、互いが周囲を干渉しあって、観光もするな。大学にも行くな。デパートの地下にも行くな。と制限ばかりを連発しているのはどういう理由ですか。

 先ず病床の足らないことは、国民に言うことではなく、医師に伝えて、国が対応がすべきことです。また、もう、一年半以上非常事態に耐えている国民には、いい加減に通常生活に戻すよう政策を切り替えるべきです。

 「そんなことをしたら、感染者が今の十倍になる」。なりません。そのためのワクチン接種が進んでいます。この先9月末には必ず減少に転じます。危険を煽るばかりでは国民が精神的に異常をきたしてしまいます。

 あれだけ感染を危険視したオリンピックでさえ、海外の選手や、記者からの感染はほとんどありませんでした。あれは日本のオリンピックスタッフの努力の成果です。今の感染者の増加とオリンピックはまったく無関係です。

 それが証拠に、競技を開催しなかった、大阪、京都、福岡でも、東京とまったく同じように感染者が増えています。つまり、オリンピックをしようとしまいと感染者は増えたのです。それは単にインド株の感染力が強いだけです。

 むしろひと時でもオリンピックが見られて、気持ちが晴れたことの方が国民に精神的な安定感を与えて、結果幸せになりました。国民を追い込むばかりでは何も解決しません。見方を変えて冷静にコロナに対処しなければ長い戦いを戦い抜くことはできません。

 尾見さんも、デパ地下の人出を止めることなどやめてください。デパ地下が感染を増やしている根拠があるのですか。飲食店の時間制限をするのはやめてください。大学のキャンパスは解放してください。不要不急の外出もどんどんさせて下さい。制限するなら、すべての感染の根拠を先にデーターで出してください。

 いい加減に元の生活に戻りましょう。世の中は、ワクチンによって、どんどん感染者を減らす方向に進んでいるのですから。よき方向に進んでいるのに不安を煽ることはおよしなさい。

続く

Daigoさん気を付けて

Daigoさん気を付けて

 

 一週間前(7日)にDaigoさんが自身の動画で、ホームレスや、生活保護者に対して差別的な発言をしたことで、ネットで騒ぎが広がったようです。何かと思って、昨日(13日)のネットの記事を読んでみると、

「ホームレスは自分にとっては必要のない存在。ホームレスなんていないほうがいい。邪魔な存在。治安が悪くなる。臭い。これまで人間は群れから外れた人たちを処刑して生きてきた。犯罪者を殺すのと同じことだ。

 自分が支払っている税金がホームレスや、生活保護者に使われるなんて望まない。生活保護者に金を使うなら、猫(注、野良猫のことか)を救ったほうがまし。猫のほうが可愛い。」等々。

 

 何を言っているのか、意味不明で、話がつながっていません。ビジネスのハウトゥー本など書籍を何十冊も出していて、時折書店などでも平積みした本を見る人なだけに、理性ある人の発言とは思えずびっくり。

 受験勉強などに明け暮れている高校生が、時折仲間同士でこんなことを言って、ホームレスを差別しているのを聞いたことはありますが、物を知らない高校生ならいざ知らず、社会人で人に指導するような立場の人が、こんな子供のような発言をするのは信じられません。

 その後、ネットで反論する人がたくさん現れたらしく、Daigoさんは、それでも自分の意見にこだわって「自分の思っていることを言って何がいけませんか」。と居直り、「文句があるなら、文句を言う人がホームレスに金を出してやったらいい、自分は自分の税金が使われるのは嫌だ」。と、まったく意味不明な反論。

 何でこの人はこんな子供のような発言をするのか。と首をかしげてしまいます。正直ばかばかしい。どうでもいい話です。

 然し、なぜここに書いたのかと言えば、Daigoさんは、かつてマジシャンとして活動をしていました。その薄き縁で彼の活動を今も時折見ていました。私は、彼のマジシャン時代に一度接点がありました。

 大した接点ではありません。日本奇術協会のマジックコンテストで、Daigoさんがコンテスタントとして出ていたのです。その時は、残念ながら制限時間オーバーで失格になってしまいました。

 その時何を思ったのか、彼は私に近づいてきて、先の曲がったフォークをくれました。なぜ私に曲ったフォークをくれたのかはわかりません。常識的に言って、はるか大先輩に渡すプレゼントではありません。相手の気持ちが読めない人なのかな。若いクロースアップマジシャンに時折みられる、社会とつながりを持てないタイプの人かな。と思いました。

 私にすれば、そもそも彼が誰であるのかも知りませんでした。恐らく彼はまだ大学生だったと思います。Daigoさんとの接点はそれだけでした。

 

 その後、Daigoさんが時流に乗って、著作活動で成功をしているのを時折書店などで見ました。私はその活動は素直に認めなければいけないと思っていました。著作を散見すると、いろいろなことを知っている人だと言うのは分かります。但し、私の興味の対象ではありません。

 youtubeでも顔を見ます。若い人はDaigoさんの考え方に共鳴する人がたくさんいるようです。但し、画像で見ると、目に落ち着きがなく、常に相手を見ないようにして、あちこち視線が泳いでいます。視点が定まらないまま、早口で話をするのがどうも見ていて不安定に感じます。

 気が弱いのか、内向的なのか、「この人は人に対して冷淡なのではないか」。と思ったりもしました。今、目の前にいる人に本気で話しかけていないのです。

 こうした人と向かい合って話をしたなら、聞く側は常にDaigoさんの本心がどこにあるのかを探らなければなりません。今話していることが実は片手間で、本当の考えは別にあるように思えてしまうからです。彼は心理学を勉強していて、それに関連する本をいくつか出しているようですが、それにしては、自身の話し方が不安定に見えるのはマイナスだと気付かないのでしょうか。

 どうも最近はこういうタイプの人が多いようです。youtubeひろゆきと言う人が、同じように、画像で話をするときに、正面を見ないで、目が常に泳いでいます。

 話し方は早口で、少し世の中から冷めたような、突き放したもののいい方をします。だから悪いとは言いません。そのスタイルが若い人に受けているのでしょうから。

 ただ、共感しにくい人です。Daigoさんもひろゆきさんも、頭のいい人なのでしょうが、誠実に人と向き合っていないように見えます。それでも仕事が成功しているなら結構なことです。

 

 今日の朝、ネットを見ると、Daigoさんの謝罪文が載っていました。随分何日も自分の意見を正しいと言い張っていたのに、あっさりと全面謝罪をしています。

 

 謝罪することは正しいと思いますが、今回のことでDaigoさんは今後、活動する上では相当に悪い印象を世間に与えたと思います。かなり人を上から見ていて、弱者への差別をしていることが見えてしまいました。

 また、自身が税金を支払っていることに対して、多額納税者の発言が見えてしまいました。もう彼は十分経営者なのでしょう。

  私の人生でもこうした強者の発言を平気で言う人を何人か見たことがあります。国立大学を卒業して、官庁や一流企業に就職していながら人の心が読めない人。

 

 でも、お気を付けたほうがいいでしょう。出版にしろ、youtubeにしろ、マジシャンにしろ、どれも人気稼業です。

 仮に今、大金を稼いでいたとしても、この社会に実などと言うものはまったくありません。雲に乗って空を飛んでいるような人生です。成功したからと言って、上からものを言おうとすると、ある日突然ファンは去って行きます。人気は浮気なのです。

 ファンはタレントが自分を軽視していると知ったとき、いとも簡単に離れて行きます。仕事は、どんな時でも、一人一人に誠実に向き合って接して行かなければいけないのです。自分がマスを相手にしているなどとゆめゆめ思わないことです。十把一からげに人を見ることは危険です。飽くまで自分は一人一人のファンに支えられていることを肝に銘じることです。

 と、もっともらしい説教を垂れましたが、そんなこと私が言うまでもなく、頭のいいDaigoさんはご存じですよね。

 

 明日はブログを休みます。