手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

独自の世界を作る 3

独自の世界を作る 3

 

3、方向性を見据えている(昨日の続き)

 私は20代のころ、マリックさんと接していて、およそ芸能で名前が出ることのない人なのだろう。と思っていたのですが、あれよあれよと言う間に、どんどん世間の話題を集めて知名度を得て。やがていくつも特別番組を手掛けるようになりました。それが平成になってすぐのころです。平成はまったく新しいタイプのマジシャンが登場するようになりました。

 今、マリックさんの功績を考えたなら、超魔術を広めた人と言うのももちろんですが、マジック的に見たならクロースアップマジックを社会に認知させたと言うことでしょう。それまでほとんどの人はクロースアップマジックに理解がなかったのです。

 当然、クロースアップで生活できる人は少なく、わずかに、バーマジシャンと言う人たちが、アルコールを楽しむお客様を相手にカードマジックなどを見せていたのです。然しこれはお店のサービスであって、マジックで収入を得ていたわけではありません。

 

 私は昭和61年に、知人の水商売をしているオーナーに頼まれて、渋谷の東急本店の目の前にマジックキャッスルというバーを作り、その店のシステムからレイアウト、それにショウを入れる仕事を引き受けることになりました。

 ステージマジシャンを二名。クロースアップマジシャンを二名。毎日入れて、ステージショウと、クロースアップマジックが毎晩見られる場所を作ったのです。ステージマジシャンはたくさんいたのですが、クロースアップマジシャンを誰にしようか考えた末に、ヒロサカイさんと前田知洋さんを入れました。二人はまだ学生でした。プロになろうと考えていましたが、どうすればプロになれるのか、暗中模索でした。

 そんな時にマリックさんが出て来たのです。これまでもいろいろなクロースアップマジシャンが出てきて、テレビでも演じられていたのですが、一般の人にはなかなかクロースアップの見方がわからなかったのでしょう。

 それまでの一般が認識していたクロースアップには、クロースアップの負の要素ばかりがイメージされていたように思います。つまり、派手さに欠ける。現象が小さい。結論が出るまで持って回って長い。など、

 先ず、マリックさんは、それを、クロースアップと言わずに、超魔術と言ったのです。奇妙なネーミングです。超能力とマジックの合体でしょうか。それが超能力であるなら、マジックと合体する必要はないはずですし、マジックなら超能力であるはずはないのです。どうも嘘臭い存在です。

 然し、多くの視聴者は超魔術の曖昧さを素直に受け入れたのです。結果、超魔術のネーミングは当たったのです。視聴者は、超魔術をまるで超能力と捉えて話題にしたのです。同じ時代に、「ファジー(曖昧)」と言う言葉がはやりましたが、超魔術はまさにファジーそのものでした。

 マリックさんは、多くの人が見慣れていないクロースアップマジックの中から、カードのような、見るからにクロースアップ然としたものを除き、100円玉にたばこを通すであるとか、預言であるとか、瞬間移動であるとか、超能力のような演出でテレビで見せて行きました。視聴者はこれらを超能力と信じて、大騒ぎをしたのです。当のマリックさんは超魔術と言いつつ、大真面目に売り物のマジックを演じているのです。その姿を見てマジック関係者は唖然とするばかりでした。

 「なんで、あのタネが話題になるの。あれでよかったの」。

 そうと分かれば、同じようなマジックを買い集めて、サングラスをかけて、腕まくりをした俄超魔術師があちこちに生まれました。そして、たちまち超魔術の番組がたくさんできました。

 それまでクロースアップを演じていて、なかなか目の出なかったマジシャンが、いきなりいいギャラで既製品のクロースアップマジックを大真面目に真剣に演じるようになりました。この状況を、嘆かわしいなどと言ってはいけないのです。ここに売れるための鍵が隠されています。

 これまでマジシャンが、軽いジョークなどを言いながら、半ば照れたように既成の作品や、既製品のマジックをさらりと演じて見せていたことが間違いだったのです。どんなマジックでも真剣になって、「来てます。来てます」。などと言って大真面目に演じて見せる姿勢が大切だったのです。超魔術はマジックだというよりも何よりも、マジックは本来超能力だったはずです。それがエンターティナーの世界でこなれて行くうちに、緊張感なく流して見せる癖を覚えてしまっていたのです。

 マリックさんはマジックをどう見せるかと言うことの原点を示したのです。これは自身がクロースアップを仕事とするうちに、どうしたらこの小さな素材をより効果的にインパクトをもって伝えられるか、悩んだ末の結論だったのでしょう。

 すなわち、クロースアップをプロとして演じる見せ方、或いはテレビの中で効果を訴える方法を形作ったのはマリックさんなのです。つまりこれが「方向性を作り上げる」ことなのです。ただ闇雲に見せるのでなく、一作一作を重くしっかり見せることの大切さを実践して見せたのです。

 多くの視聴者は、こうした番組を数々見ているうちに、やがて、超魔術が、マジックだということに気付いて行きました。つまり、超能力ではないと認識するようになったのです。然し、だからと言って、超魔術に失望して行ったわけではありません。クロースアップマジックの面白さがわかってきたのです。

 そうなると、むしろ、サングラスや腕まくりをしないで、普通にすっきりと演じるクロースアップマジックを見たいという欲求が湧いてきます。

 こうして徐々にクロースアップの番組が生まれる土壌が出来て行きました、そこへ現れたのが前田知洋さんでした。前田さんは学生の時に渋谷のマジックキャッスルで手伝っていた時から既に10数年が経っていました。世間は彼を若手と言いましたが、下積は長かったのです。

 

 話があちこちにそれました。ここで言いたいことは、マリックさんはクロースアップの見せ方を作り上げたということです。超魔術と言うネーミングは、クロースアップをどう見せるかと言うことのマリック流の答えなのです。マリックさんがクロースアップの不思議をテレビで訴えた効果は大きかったと思います。

 私は、マジシャンがする、魔法の粉をかけるジェスチュアーをマリックさんほど真剣に演じた人を見たことがありません。恐らくマリックさんは生きるがために真剣にやらざるを得なかったのでしょう。「来てます。来てます」は真剣そのものだったのです。

 もし自分が本当の魔法使いで、種仕掛けを使わずに魔法をするとしたなら、魔法の動作は笑いながらはやりません。全精神を集中してやって見せるでしょう。そんな基本的なことすらマジシャンはおろそかにしていたのです。それは自らが演じているマジックが嘘であることを知っているからです。本気がなかったのです。

続く

独自の世界を作る 2

独自の世界を作る 2

 

 昨日、「独自の世界を作る」ための5つのことをお話ししました。

1、独創性を持つ

2、優れた技術を持っている

3、方向をしっかり見据えている

4、人が見えている

5、パーソナリティを備えている

 

 1、と2、は、この道で生きて行こうとする人なら、誰に言われなくても自分で工夫して作り上げるでしょう。いくつかのマジックをアレンジして、手順を作り、それを演じるために必要なスキルを学び、そしてプロ活動を開始します。ところがそれでうまく波に乗り、人が注目してくれるかというと、なかなかそうは行きません。

 自分としては相当に練った演技を作り上げたつもりでいても、実際社会でマジシャンとして活動してみると、人の興味の対象にはならず、仕事につながらない場合が多いのです。自分のしてきたことはマジックの世界の中で好きなマジックの工夫をしていただけのことなのです。

 自分の作ったマジックが世間の人の求めるものと合致するのか、そこを考えていない場合が多いのです。ここでマジシャンは、自分のしてきたことがいかに小さなことで、いかに自分のマジックが無力なものであるかに気付きます。

 問題の解決はマジシャンが3,4,5、を認識しているかどうかなのです。順にお話ししましょう。

 

3、方向性を見据えている 

 多くのマジシャンは、自身の活動がうまくゆかないと、解決をマジックに求めようとして、闇雲にいろいろなマジックに手を出すようになります。それはちょうど、はやらない定食屋さんのメニューがだんだん増えて行くようなものです。

 お客さんの来ない理由を、「お客さんのニーズにこたえていないのではないか」、と悩み、お客さんの求めるものを片っ端から形にして行こうとします。結果、メニューの数が増え、仕事は雑になり、しまいには冷凍ものを温めるだけの料理まで出すようになります。

 「お客さんのニーズに応えよう」、とする姿勢までは正解だったのです。しかしここでしなければいけないのとは、得意の作品を育て上げて、そこに特化してゆくことなのです。ところが、自分自身に自信が持てなくなると、周りをきょろきょろ眺めだして、目先の人のニーズに応えようとするあまり、どんどん不得意なメニューを増やして墓穴を掘って行きます。

 ここで大切なのは方向性をしっかり見据えることです。何がしたくてマジシャンになったのか。自分の得意とするものが何なのか。そこをもう一度考えることです。

 

 昭和57,8年ころのことです。私は、イリュージョンチームを作って、イリュージョンの活動を始めていました。日々、道具製作とアイデア作りに明け暮れていました。

 当時、私はマリックさんと会う機会があり、たびたび一緒に喫茶店で世間話をすることがありました。ある日、マリックさんはクロースアップをレストランでテーブルホップをして回る仕事を始めました。当時は、クロースアップが収入になるとは誰も考えてはいない時代でした。まったくアマチュアのお遊び道具だったのです。そのことはアメリカでも似たり寄ったりで、バーノンでも、スライディーニでも、収入は恵まれてはいませんでした。

 然し、毎週末マリックさんは大阪に出かけ、大阪のホテルの最上階のレストランでクロースアップを見せるようになります。

 マリックさんと言う人は、およそマジックと言うマジックは何でも好きで、スライハンドも、イリュージョンも、ものすごい熱意で取り組んで、ほかのマジシャンとは一味も二味も違う演技を見せ、若いアマチュアの間ではカリスマでした。鳩出し、ダンシングケーン、フラフープリング、何をやっても上手いのです。

 然し、それで恵まれたステージ活動をしているか、と言うとそのようにも見えません。当時マリックさんは、マジックショップをされて、若手に指導をして、コンベンションをして、と、アマチュアとのつながりを持ち、あまりプロ活動はしていないようでした。

 そして、この日、クロースアップを始めたと聞いたときに、私は、正直言って、「またまた定食屋のメニューを増やしたな」。と思いました。そして「結局この人は器用貧乏なのだなぁ」。と思いました。これだけ何でもできて、人を超えた才能を持っていながら、マリックさんと言う人は、狭い世界の中のカリスマで一生を終える人なのだと考えていました。

 さて、それから3年経ったころ。またまたマリックさんと喫茶店で話をしていると、「今している仕事がどうやら大きなチャンスにつながるかもしれない」。と言い出しました。以前言っていた大阪でのクロースアップが少し話題になりだしたようです。

 然し、私はこのことに少しも注目してはいませんでした。「クロースアップはどう演じてもクロースアップでしょう。数人を前にして見せるカードやコインでは、仕事とするには小さ収入にしかならない」。と考えていたからです。

 その時、私は、イリュージョンが軌道に乗って、相当に忙しくなっていました。道具もモノトーンで統一して、宇宙をイメージしたショウを作っていました。以前私が「宇宙服を着て鳩出しをしていたでしょう」。と言われたのはこの時代のことです。

 さらに、このころ、私は水芸を買い取ることにしました。私の持っていた手妻をもっともっと仕事につながるように改良しなければならなかったのです。そこで、手妻のメインとするために水芸の装置を買い取ったのですが、これが使い物になりません。

 装置は横から見たならタンクもホースも丸見えですし、床にはホースが走っていますし、セットアップにやたら時間がかかります。普通にホテルなどに呼ばれて行って、すぐに水を出せる状態のものではなかったのです。これを360度、どこから見ても種仕掛けの見えない装置に作り替えなければなりません。それから悪戦苦闘の日々が続きました。昼から夜にかけては、イリュージョンショウの仕事で走り回って、夜中には水芸の装置の改良をしていました。まったく昼も夜もなかったのです。

 そんなある日、仕事から帰って、テレビをつけると、マリックさんが出ていました。内容はクロースアップです。ところが、周囲のタレントが大声をあげて騒いでいます。100円玉にたばこを通しています。周囲の人はこれを超能力だと言いました。超能力とは何のこと。これがミスターマリックの超魔術の始まりでした。

続く

 

 

 

独自の世界を作る 1

独自の世界を作る 1

 

 このところのブログは、私の日常の些末な話ばかりが続きましたが、皆様には相当に退屈だったろうと思います。幸い体も、頭の中も徐々に回復してきましたので、ここでマジックの話をいたします。

 タイトルにある「独自の世界を作る」と言うのはマジシャンとしていて、長く活動してゆくための答えです。長く活動するためには何が必要か、についてお話をしましょう。

 

 毎年威勢よくプロ宣言をして、この世界に入ってくる人はかなりいます。ところが数年も経つとそうした人はマジックの世界からものの見事に消えて行ってしまいます。プロになろうとするくらいの人なら、相当にマジックが好きで、才能もそれなりにあるのでしょう。それがプロとして活動できずにいなくなってしまうのはなぜでしょう。

 逆に、40年も50年も長きにわたってマジックの世界で活動している人もあります。そうしたマジシャンはなぜ老年になってもマジシャンとして活動ができるのでしょうか。

 

 結論から先に言うなら、そのマジシャンしか作り出せないような「独自の世界」を持っているマジシャンは生き残って行けます。それは二、三のオリジナル作品を持っているかどうかと言う話ではありません。演技全体を覆っている、そのマジシャンしか創り出せないような世界がしっかり見えるマジシャンならば必ずお客様がついていて、マジシャンは生きていけます。

 このことはマジシャンだけに言えることではなく、芸能すべてに言えます。落語家でも、ミュージシャンでも、役者でも、その人にしか出せない独自の世界があればその芸能人は生きて行けます。

 

 とこう話せば、誰もが、独自の世界があれば生きて行けることはお判りでしょう。ならばどうしたら独自の世界を作り出せるのでしょうか。

 私のところには頻繁に。「蝶々を習うとしたらいくら払ったらいいですか」。と聞いてくる人があります。

 つまり有名料理店に来て、いきなり「この味の作り方を教えてください。幾ら払ったらいいですか」。と言うのと同じで、まったく習うことの段取りを理解せずに話をしているのです。その料理店の裏では、この味を覚えたくて、何年も修行している見習いが何人もいることに気付かないのです。

 私は、そうした人にも、教えないとは言いません。まず、通常のレッスン料をお話しして、これで先ず最低1年間。基礎レッスンを受けてください。そこで手妻がなんであるのかを理解してください。それからあなたの才能と照らし合わせて「蝶」のご指導を考えましょう。と話します。

 何度も言いますが、二、三の独創的なマジックが出来ても、それで長くこの道で生きて行けるものではありません。演技全体を見渡して、すべてが独自の世界になっていない限り多くの支持者(お客様)は集まりません。

 そのマジシャンでしか出せない世界があれば、お客様とすれば、そのマジシャンに会いにゆかない限りその世界に浸ることができません。

 そばや、ラーメン屋は何万店あってもあそこのそば、あそこのラーメンでなければ、とお客様が惚れ込んで、独自の味にはまり込んでしまったなら、その店に行く以外自分を満足させる方法はありません。つまりそうした店は一種の麻薬を手に入れたようなものです。マジックとは幻想だという人がありますが、その幻想が、麻薬ほどに強烈なものなら、お客様はマジシャンの作り出す世界から離れられなくなり、マジシャンは幾つになっても仕事があります。それなら年齢に関係なく体が動く限りこの道で生きて行けるわけです。

 

 「藤山さんの話はよくわかりますが、ではどうやってその独自の世界を作り出せるかがわからないのですが、どうしたらいいのですか」。こう質問してくる人がたくさんいます。つまり、いろいろな話をして、方向付けをしてあげて、いわば方程式まで教えてあげても、答えが導き出せないのです。そして、とどのつまりは「答えを教えてください」。と言って来るのです。

 それは根本を間違えています。芸能は自身が悩んで答えを出さなければ、威力を持たないのです。歌舞伎の名人の倅(せがれ)が必ず名人になるとは限らないように、親が既に答えを出していて、毎日近くで親に接していても、答えを理解することはできないものです。父親と同じように苦しんで、人生の中から体で会得してゆかなければ独自の世界はできないのです。

 電話やメールで自分自身の悩みを私にぶつけて、「幾らですか」といきなり金額に変えて聞いて来ることがそもそも根本を間違えています。でも、私は相談に来れば必ず話をしています。当人にやる気さえあれば話をすることも指導をすることも致します。「いいでしょう。お話ししましょう」。と言って話をします。以下は、私なりの独自の世界の作り方です。

 

 長く生きて行けるマジシャンは、

1、独創性がある。

2、優れた技術を持っている。

 この二つが答えなら、マジシャンはにっこり笑って誰でも理解できるでしょう。この二つはマジシャンとして生きて行く上でとても大切なものではあります。然し、実際それだけでどうにかなるものではありません。上手い人、不思議なことをして見せる人はたくさんいます。しかしそうした人がマジシャンとして成功しているか、と言えば必ずしもそうではありません。なぜでしょうか。むしろ大切なのは、以下の三つです。

3、方向をしっかり見据えている。

4、人が見えている。

5、パーソナリティを備えている。

 以下このことを順にお話ししましょう。然し、紙面がなくなってしまいました。このことはまた明日お話しします。

続く

 

ジャパンカップ

 晩の6時から帝国ホテルでジャパンカップがあります。ショウと表彰式です。私はそこに参加します。よろしかったらネットで検索してお越しください。お越しくださればお会いしてお話もできます。

昨日退院

昨日退院

 

 皆様にご心配をおかけしましたが、私は昨日退院をしました。5泊6日の入院でした。入院していきなり一切の食事ができません。2日目に、直腸にできたポリープを取りました。直腸とは、大腸から肛門に続く短い通り道です。そこに内視鏡を入れて、直腸にくっついたポリープを取りました。実際の手術は麻酔をしていたので、内視鏡を入れた記憶さえありません。麻酔が覚めた時にはすべてが終わっていました。

 そうなら、この後すぐに帰れそうなものですが、そうは行きません。2日目の時点では何も食べていませんので胃も腸も空っぽの状態ですから、食べ物のカスもなにもありません。当然便は水みたいな便が毎回少量出ます。

 ちょうど坊さんが断食をするときに、わずかな水だけを飲んで胃腸の中を空にするのと同じ状態です。断食はすべての欲を捨て去って体内をすっきりさせ。同時に頭の中の煩悩を取り去るためにするのだそうです。そうすると、頭の中だけで考えていた、物欲が無意味であることを知ります。

 私は到底そこまでは行きません。煩悩の塊です。と言うよりも、煩悩そのものです。うっかり断食などしたら、煩悩と共になめくじのように消え失せてしまいます。

 実際入院中は食べ物ことばかり考えていました。それでも、仮にもう数日断食を続けると、食べ物も欲しなくなるそうです。そうなったときに、仏教でいう世俗の欲を捨てた状態になるようです。そんな体験も興味はありますが今、私は断食をしているわけではありませんので、ほんのわずかの間体内を空にしただけです。栄養は点滴で補給しています。

 この状態は、取り除いたポリープの傷口に食物が当たらないようにしているわけです。処置した傷口に瘡蓋(かさぶた=多分そんなものかと思いますが)を作っているわけで、瘡蓋が剥がれると、再度内視鏡を入れて、傷口を塞がなければなりません。3日目、4日目までは点滴を使用しつつ、瘡蓋の様子を見ながら、少しずつお粥やスープを飲んで腸を慣らして行きます。

 つまり、2日目の手術以降は、実際何もすることがありません。便と共に下血しないかどうかを見極めるだけが用事です。当初、わずかながら便に血が混じりましたが、どうもそれは手術の時に出た血が腸内で固まったものが流れ出たようで、4日目からはまったく血の塊は出ませんでした。危険なのは、便を出したときに、血が便器いっぱいに広がる状態のようです。

 そんな時はどうするのでしょう。血は肛門を抑えきれないでしょう。常に肛門から血が流れます。タンポンでも入れて止めておくのでしょうか。そうなればそうなったでまた面白い体験です。タンポンと見せかけて、白い袋の中に万国旗を隠しておけば、タンポンを抜いた時にまさかの万国旗が出てきて、華麗にフィナーレを作り出すことができます。看護婦さんも喜ぶことでしょう。

 然し、タンポンを使用するチャンスもなく、経過は順調です。但し、ものを食べないということは確実に体力が落ちます。病院の廊下を歩いていてもふらふらします。

 日曜日、退院の朝、最後の朝食で、パンと温野菜と牛乳が出ました。パンにはマーガリンとジャムが付きました。内容を見ていると、まるで小学校の給食を思い出しました。当然のことではありますが、一週間慈恵医大病院に入院していていいものが一つも食べられませんでした。

 パンが温まっていたのは救いでした。パンは2枚、一枚はマーガリンを塗り、もう一枚はジャムを塗って食べましたが、「うまい」と思いました。ようやく食事らしい食事をしたという実感がわきました。これが朝の7時40分でした。

 それからかたずけを始め、9時には予定の通り玄関ロビーに行き、前田が車で迎えに来るのを待ちます。前田には早朝から車の用意をしてもらい気の毒ですが、やむをえません。それが修行です。実際、着替えから書籍から、もろもろをスーツケースに詰めるとかなりの重量です。私一人でコロコロ曳いて徒歩10分歩いて虎ノ門に行くのはかなりきつかったと思います。ここはやはりお迎え車が必要です。

 この先、二週間は安静にしていないといけません。激しい運動はできません。アルコールは勿論だめです。そう言われましたが、それでは火曜日のジャパンカップでは酒は飲めません。せっかくの帝国ホテルでの食事会なのに残念です。明日は、目の前にたくさんの誘惑が並び、きっと直腸には毒なものが手招きするでしょう。酒だけでなく、刺激物もダメです。辛子はだめ、カレーはだめ、麻婆豆腐はだめ。下手な喋りのマジックもダメです。(見ていてイライラしますから)。とにかくこれから二週間。少しつらい日々が続きます。

 

 そうそう、月末の辻井さんとの柳ケ瀬での飲み会も中止しなければいけません。あそこで酒を飲みながら、うだうだ世間話を喋るのが人生の幸せの一つなのですが、貴重な楽しみが消えてしまいました。4月の末には再度、お伺いしたいと思います。お気の毒ではありますが、いつものメンバーの酒好きの峯村さんも柳ケ瀬は一回お休みです。私の直腸の瘡蓋の影響で酒を飲むことができません。天下の名人峯村健二も私の直腸の瘡蓋にはかないません。

 家に戻ると、一昨日(20日)能勢裕里江さんが来て、プレゼントを持ってきてくれたそうです。裕里江さんは今順天堂大学の病院に医師として勤務しているようです。百瀬師匠を亡くして、マジックが出来ず寂しいようです。久々私と話がしたくて来たのでしょうが、私は慈恵医大に入院中でした。よく考えてみたなら、私は順天堂大学病院に入院しなくてよかったと思いました。順天堂で、私が内視鏡を入れて、肛門から血を流していたり、水のような便を流しいる姿を裕里江さんに見られたなら、私の手妻師としての威厳は薄れてしまいます。(元々威厳はありませんが)、

 いただいたお土産は開けてみると落雁でした。最近落雁を食べたことなどありません。落雁は梅鉢の形をした小さな陶器の入れ物に入っていて、中の落雁も、芥子粒ほどの小さな梅鉢の形をしていました。お茶を飲みながら、一粒いただくと甘味と、梅の香りが口に広がりました。この時初めて、自宅に帰って来た幸せを実感しました。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥皮のたれ焼き

鳥皮のたれ焼き

 

 昨日(18日)に女房と娘のすみれが訪ねて来たようです。訪ねてきてもコロナの感染があるため、面会謝絶です。無論このことは事前に伝えてあったのですが、とりあえず来てみたようです。

 私のほうは、昨日からひたすら読書をしています。「志道軒」の変人ぶりは大笑いです。こうまで気持ちのままに生きられたらどんなに面白いでしょう。少なくとも自分を捨て、世の中を捨て去らなければこの境地に至らないでしょう。すべてを捨て去って到達した人生です。敬服します。

 「日米戦争を起こしたのはだれか」。の話も面白く、読みだすと止まりません。フーバーはルーズベルトの人種差別主義が問題の根本にあると断罪しています。戦争末期に日本は降伏を伝えてきていたにもかかわらず、アメリカはそれを認めようとはしませんでした。結果として原子爆弾の実験台に日本を利用しました。これによってアメリカの正義が吹っ飛んでしまいました。戦争とは軍人同士がするものであり、一般市民を10万人も殺戮して許される法はありません。いかなる理由があろうとも、アメリカが犯したことは間違いであるとフーバーは熱弁をしています。このことはフーバーが語ることではなく、日本の政治家が語るべきことです。

 

 今日は昼食が出ました。3日目にして初めての昼食です。カップ一杯のおかゆと、すましの豆腐の入った汁。ジョア、とゼリーです。

 食べても腹の膨れない、どうでもいいような食事でした。3分とかからずに食べてしまいました。唯一塩味のきいたお澄ましがうまいと思いました。塩気をいただくのは久しぶりです。何でもないものが妙にうまいと思います。

 昨晩から、食べ物のことがいろいろ頭に浮かんできます。あれも食べたい、これも食べたい。そう思うのですが、不思議にいい食事が思い浮かびません。

日頃何でもなく食べていたものが思い出されます。コロッケ、鳥皮の焼き鳥、塩鮭を乗せたお茶漬け、焼きたらこの入ったおにぎり、南部煎餅皿うどん、ウインナー焼きにマヨネーズをかけたもの、

 どれも安い食べ物ばかりです。それが一つ一つ私の心を誘惑します。

 コロッケの衣が口の裏側にざらざら当たるのを我慢しつつ、熱々のコロッケをほおばると、淡い甘みのあるポテトが舌の上でさっと崩れて、衣の油と甘いソースと合わさって口の中でコクが出ます。それを呑み込んだ時にはこれほどの幸せがあるかと思うほどのうまさを感じます。これがわずか100円もしない価格で食べられることはまさに神の恵みです。神は貧しき者を見捨ててはいません。すべての人に幸せを分け与えてくれます。話は妙に宗教がかってきましたが、今の私はその恵みに早くあやかりたいと願うばかりです。

 鳥皮をたれで焼いて、皮の端を少し余計に焦げるくらいに焼くと皮の縁が固くなり、鳥皮が香ばしく歯ごたえもよくなります。皮の裏側に残ったゼラチンの脂身が甘いたれと合わさって。皮の歯ごたえ、香りとマッチして絶妙なうまさです。あぁ、鳥皮ハイボールをやりたい。

 塩鮭を乗せたお茶漬けもいいですね。鮭に付いている塩にまで鮭の脂身が染みていて、塩にうまみがあります。それを飯に乗せて。お茶をかけると、塩が溶けて、出汁の上に脂身が浮いてきます。この脂身が絶品のうまさです。鮭の香りを吸い込んでいます。飯と塩気のきいた出汁を掻き込み、ときどき鮭をほぐして口に入れると、また強い塩気で一層飯が進みます。これほどの幸せがあるでしょうか。

 焼きたらこのおにぎりも捨てがたいです。あの塩辛いたらこはまさに麻薬です。飯に隠されたたらこを見つけて、ほんの少しずつ歯で小分けしながら塩味を楽しみます。たらこを噛んだ時の味わい深さと塩気が口中に広がり、飯との相性が抜群です。そこに飯の外に巻かれた海苔とが合わさると、どんな食事よりもうまさが光ります。

 あぁ、あぁ、こうしていろいろ思い出していると、何でもなく日々食事をしていたことが本当に幸せだったんだなぁ、と思います。私は、二、三日すれば普通の生活に戻れますので、恵まれていると思いますが、病気などで普通の食事のできない人はお気の毒だと思います。

 

 ところで連日病人のたわごとを読んでくれる人が300人くらいいらっしゃいます。読んだからと言って物に役に立つわけでもなく、どうと言うものではありません。それでも読んでくださるなら少しはいいことを書こうと思っていますが、気負いはすれどもあまり大したことは書けません。

 

 明日(21日)退院します。そして23日(火曜日)ジャパンカップの表彰式に出ます。毎年帝国ホテルで開催しています。田代さんの出費を思うと大変なご苦労と思います。私は一回目からご協力をさせていただいていますが、マジックの催しで20年以上続くと言うのは珍しいことです。願わくば氏の跡を継ぐ人が現れることを願っています。

続く

ひたすら読書

ひたすら読書

 

 一昨日(17日)は手術で、麻酔が効いて一日ボヤっとしていましたが、昨日は、取り去ったポリープの跡から下血しないかどうか、様子見をするだけで何も用事がありません。それに丸一日食事ができません。一昨日よく寝すぎたために、昨日は少しも眠くありません。そうなるとすることがなく、これ幸いと本を読むことにしました。

 まず、明け方から、「狂講 深井志道軒(ふかいしどうけん)」を読み始めました。これはなかなかの大著です。以前からこの本が読みたかったのですが、本が分厚く、しかも内容が濃いためになかなか読みこなすことができませんでした。一介の江戸時代の講釈師の話なのですが、読み進んでゆくうちに大変な才能の持ち主であることがわかります。

 志道軒を支持し、神のごとく崇める文化人が山ほどいたのです。太田南畝、平賀源内、二代目市川團十郎、みんな志道軒のとりこになってしまいます。

 その志道軒は、浅草の浅草寺の境内で葦簀(よしず)を張って道行く人に講釈を語って聞かせていたのです。言ってみれば大道芸人です。ところがその語りが面白く、手には擂粉木(すりこぎ)のような形をした男根を持ち、話の途中で、それをトントンとたたきながら調子をとり、時にいとおしく弄り回し、猥談がふんだんに入ります。

 講釈ですから三河武士の出世物語などを演じるのですが、それが度々羽目を外し、猥談になり、時には世相の批判を取り入れ、観客は大笑いをします。

 言ってみればどうしようもない漫談なのですが、どうしてどうして、語り口には品があり、知性を感じさせ、武士階級の人にも愛されたのです。40歳までは寺の坊さんをしていたようですが、女性といい関係になり、寺を追い出されます。それからは見様見真似で覚えた講釈を語ることで生計を立てて行き、86歳で亡くなるまで語り続けます。

 食うや食わずの大道芸人かと思うととんでもなく、金持ちの座敷に招かれたり、大名屋敷で講釈を語ったり、江戸で三本の指に数えられるほどの名人なのです。

 晩年に至るまで大人気で江戸の名物だったそうです。私は名前だけは知っていましたが、読めば読むほど面白く、今日も早く続きが読みたいと気がせいています。まだ三分の一ほどしか読んでいませんが、読み終えたら感想をお伝えします。

 

 「日米戦争を起こしたのは誰か」アメリカの大統領であった、フーバー氏の回顧録です。氏は1964年に亡くなりますが、その一年前にこれを書き上げ、出版社に原稿を送ったのですが、なぜか刊行されることはなかったのです。

 それがなぜかは文章を読めば明らかで、全編がルーズベルトの政策批判です。第二次世界大戦アメリカの輝かしき成果ですが、フーバーに言わせれば大失策だというのです。ナチスポーランド侵攻も、するに任せておけば、やがてドイツはソ連と対峙することになり、ドイツとソ連の戦いになります。

 ドイツとソ連が戦いをするなら、共産国と、全体主義の国が消耗戦をするだけのことで、イギリスもフランスも、アメリカも何ら被害を受けることはなかったのです。人の戦いに首を突っ込んだイギリスこそ大失策で、それをまたアメリカが支援するのは愚の骨頂です。そんな理由はなかったのです。

 それは日本も同様で、日本はアメリカと戦う意思はなかったのです。それがABCDラインを敷いて経済封鎖をし、ハルノートを出して、承諾不可能な条件を持ち出せばいかに日本でも戦争をする以外なくなるのです。なぜそんなことをしたのかと言うなら、ルーズベルト第二次世界大戦に参戦したかったからなのです。しかし結果は日米ともに大きな損失を生みました。

 フーバーはまったく太平洋戦争は意味のない戦いだったと言っています。これも分厚い本ですのでまだ四分の一ほどしか読めていませんが、この先が楽しみです。

 

 「逆説の日本史」西郷隆盛 薩英戦争、井沢元彦著、著者は独特な歴史観で日本の歴史を読み解いてゆきます。時として朝日新聞の批判が、本の半分近くを占めていたりして、きわめて過激です。恐らく書き出すと止まらない性格なのでしょう。これで著者はよく人生を失敗しないものだと思いますが、私も含め、熱い支持者がいるのでしょう。

 今回はこの薩英戦争から、その先4巻を買い求め、片端から読んでいます。この本は単行本で、文字が細かく、読むのに一苦労です。でも面白いのです。幕末期の日本が、混迷する中でいかに今の時代に至ったか、何から何までうまく行ったわけではなく、多くの失敗をしつつ世の中は進んでゆきます。その過程を精査してゆく姿が素晴らしいと思います。

 

 近代日本奇術文化史

 以前から読んでいる明治大正期の奇術の歴史書です。分厚いことに関してはこれが一番です。それゆえに簡単には読めません。少しずつ読んでいます。

 

 と言うわけで入院を生かして読書三昧です。こんな日があってもいいのでしょう。とても幸せな日々です。

続く