手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

入院しました 2

入院しました 2

 

 昨日(17日)の手術は、あっという間でした。朝の6時30分に、体内を洗浄する薬を2リットル飲まされました。3時間かけてゆっくり飲みます。そして、呑むとすぐに排便が始まります。私は12回の排便をしました。12回目は殆ど色のない水のような便でした。これで大丈夫です。

 朝食も昼めしも食べられません。代わりに点滴を打ちます。生まれて初めての点滴です。私はずっと病気とは無縁の生活をしていましたので、病院の小道具はどれも新鮮です。血糖値の測定も、毎日一回来ます。何も食べていないので、血糖値は100でした。健康体です。

 考えてみれば。糖尿病の血糖値を下げようと思ったら、食事をしなければいいのです。あれも食べたい、これも食べたいと思って、何でも食べるから血糖値が上がるのです。日頃如何に余計なものを食べているかと言うことです。

 と言ってしまえばその通りなのですが、食べることの欲求には逆らえません。あれが食べたい、これが食べたいと思うから、日々の仕事に励めるのです。食をやめてしまうくらい情けないことはありません。

 午後1時半に手術室に行きました。手術と言っても体に傷をつけるわけではありません。肛門から内視鏡を入れて、腫物を見つけて、内視鏡についているはさみで切り取ってゆきます。実際私はその作業を見ていません。

 手術台に上がるとすぐに麻酔をかけられ、目が覚めると、病室のベッドに寝かされていました。その間、まったく何が起こったのか記憶にありません。

 ただし今回は、少し麻酔が強かったようで、目を覚ますともう夕方4時半でした。そして、少し頭がくらくらします。まだ麻酔が残っているのでしょう。

 

 さて、さっそく、読みたい本を読もうとしますが、頭が文字を受け付けません。まったく意識のないまま手術が終わったのですが、恐らく体は相当疲労していたのでしょう。やけに体がだるいのです。文字がかすみます。仕方なく目を閉じると、1時間くらい寝てしまい、また目を覚まします。目を覚ましたなら、本でも読もうかと思いますが、それは体が受付ません。結局寝るしかありません。

 そんなことを繰り返し、深夜まで寝たり起きたりを繰り返していました。ブログでも書こうと思って、パソコンを空けますが、どうも気力がありません。結局、寝たり起きたりを今日(18日)の朝まで繰り返しました。

 こんな生活は生まれて初めてです。何にもしないのは楽でいいのですが、どうもこのまま年を取ってゆくようで落ち着きません。

 昨晩は食事もありませんでした。点滴が生命線です。なんとも寂しい話です。今日一日は傷がふさがるのをひたすら待ちます。排便に血が混じっていてはだめです。私の努力でどうにかなる話ではありません。静かにしているほかはありません。

続く

 

入院しました 1

入院しました 1

 

 昨日(3月16日)昼に虎ノ門にある慈恵医大病院に入院しました。何度か慈恵医大には伺っていたのですが、どこに入院の病棟があるのか知りませんでした。いくつもある建物の本館の13階に私がお世話になる部屋がありました。

 私は生まれてこの方病気らしい病気をしたことがなく、入院もしたことがありません。唯一糖尿病だけが持病ですが、それもそれほど重くはないようで、今は数値も安定しています。

 むしろ病院と言うものがどんなものなのか興味です。昨日も朝から着替えや、元物をまとめるのが、まryで合宿にでも行くような気持がして、楽しみですらありました。

 私は病室に入ってこの部屋が一遍に気に入ってしまいました。なんといっても見晴らしが素晴らしいのです。私の部屋は北向きでしたが、広いロビーは南向きに面しています。大きな窓からは芝の増上寺の広い敷地が見えます。そのすぐそばには東京タワーが見えます。この近辺は緑も多く、眺めの良い地域です。

 東京タワーのすぐ裏は飯倉片町で、野田岩と言ううなぎ屋があります。(うなぎ屋は見えません)去年の春に行ったきりですが、こんなに近いならまた行きたくなりました。朝早くに増上寺まで行って散歩をして、東京タワーの林を抜けて、昼に野田岩でうなぎが食べられたならどんなに楽しいでしょう。

 でも、外出禁止です。散歩もだめ、うなぎも食べられません。じっと空中から見ているだけです。

 

 私の生活する、北側の病室は4人部屋ですが、結構広々していて快適です。北向きの部屋なら暗いのではないかと思ったら飛んでもありません。直射日光はありませんが明るい部屋です。なんといってもその眺めが素晴らしく、右側が新橋有楽町方面で、高層ビルが立ち並んでいます。北は虎ノ門で官庁街になります。

 左には愛宕山が近くに見えます。山と言っても今となっては周囲をビルに囲まれて丘くらいにしか見えませんが、かつてはここが東京市内(80年前の話)で一番高い場所だったそうで、NHKはここに放送局を建てて電波塔を作り、日本で初めて放送を開始したのです。今もNHK放送博物館が残っています。

 愛宕山は小さな山ですが、そこに立派な石段があります。この石段を寛永時代に馬に乗って上り切ったのが真垣平九郎と言う侍です。講釈でおなじみの寛永馬術はここの話です。胸を突くような石段を登り切った平九郎は馬術の名人になってその名を残しましたが、馬からすれば危険な仕事をさせられて、疲れただけの話だったろうと思います。

 愛宕山の前を少し北に行くと砂場と言う蕎麦屋があります。建物はもう90年くらい建っているのではないかと思われます。典型的な二階建ての商家の作りです。砂場はそば好きの贔屓が多く集まる店で、私も時々出かけます。雰囲気のいい店で、ぶらりと立ち寄ってざるを一枚食べるだけでもかつての戦前の東京の雰囲気が味わえます。神田の松屋と、虎ノ門の砂場は数ある東京の蕎麦屋の中でも貴重な店です。

 但し、今は店を改築しているため、中に入ることができません。どうやら、曳家移転をするようです。この古い店を壊してしまって、高層ビルにすれば随分大きな収入を得られるでしょうに、今となっては古くて使いにくい店をそっくり残して伝統を守ろうとする心意気は立派です。

 今現在、店は少し北に行った虎ノ門の大通りに新しく構えて営業しています。でも古い店の改築が出来上がったらまたここで店を営業するのでしょう。そうなったら思い切り奮発して、何種類も蕎麦ネタを頼み、一杯やりたいと思います。と、思いつつも外出できない我が身が残念です。

 

 昼に病室に入って、時々看護師さんが来て話をするほかは、用事はありません。そこでしこたま買い込んだ本を片端から読もうとベッドで読書を始めましたが、ついつい眠くなり、1時間寝ては起きて、本を読み、また寝るを繰り返しているうちに、気付くと晩飯になりました。

 食事は、おかゆティーカップ一杯。スープ。リンゴジュース。ゼリーです。全部食べるのに5分とかかりません。明日体に内視鏡を入れるため、消化の悪いものは食べられません。明日は朝から一日絶食です。

 これは苦痛です。ストレスが溜まります。野田岩も、砂場もお預けです。あぁ、早く明日一日が終わることを願います。寂しい食事を終えると、窓の外は暗くなり、周囲のビルが輝きだしました。思わず歓声を上げたくなるほどすばらしい景色です。私は東京に住んでいても、これほどの中心街で生活をしたことがありません。

 建築マニアが見たなら垂涎の風景でしょう。日本の名だたるビルディングがずらり並んでいます。同じ東京でも高円寺とは全く違う景色です。私はまるで地方都市から出て来た人のように窓の外をずっと眺めていました。

 

 今から十数年前、SAMのニューヨーク大会にゲスト出演したときに、ヒルトンホテルに泊まりました。朝方寝付かれずに早く起きてしまい。ボヤっと明け方のニューヨークの景色を眺めていました。飛んでもなく高いビルに囲まれて、まったく宇宙都市に連れて行くかれたようで異次元の世界でした。

 「こんな町で生活している人もいるんだ」。ここだけで生きている人は一体どんなことを考え。何をして生きているのだろう。と思いをはせました。見渡す限り人工に作られた世界の中で生きて行くのは楽しいのでしょうか。計り知れない世界の中でポツンと一人。窓の外を眺めていたあの日のことが虎ノ門にいてふと思い出されました。

 まったく世の中はどこにいて生活していたかで見える世界が全く違います。

高円寺に住み、ニューヨークを知り、そうして今虎ノ門の風景を見ていることは幸せなことなのでしょう。そう思えば入院もいい経験です。

 今日(17日)は朝から体を洗浄する水を2リットル飲みます。何回やっても慣れません。水以外は一切の食事もとれません。然しこれも健康回復のため。我慢です。とにかく我慢の一日です。

続く

 

 

 

 

 

入院します

入院します

 

 入院と言ってもたいしたことではありません。内視鏡で大腸のポリープを取るだけです。前にも一度取っていますので、内視鏡は慣れました。

 それよりも驚いたのは、コロナ検査です。昨日入院を前にコロナ検査をするために慈恵医大病院へ行きました。そこで、鼻の奥の粘膜を取って、奥にコロナ菌が付着していないかどうか確かめるのですが、細長い綿棒を、いきなり鼻からまっすぐ脳に向かって突っ込むのです。

 古代からあるマジックで、鼻に五寸釘(約15センチ)を打ち込むという芸があります。鼻の穴は下を向いていますが、五寸釘は正面からまっすぐに脳の奥に向かって打ち込みます。常識的に見てそんなことはできないはずなのですが、実際は鼻の穴は奥に行くとまっすぐ後ろに伸びています。そこに向かって五寸くらいのものなら楽に入るのです。

 その知識は私は知っていましたが、実際に五寸釘を打ち込んだことはありません。理屈では五寸釘が入ることはわかっていましたが、実際綿棒を入れられると、いまだ経験したことのない鼻の奥が刺激されましたので、びっくりして、顔を除けてしまいました。

 女性の看護師さんが、「これを入れないとコロナ菌が調べられませんから」。と言って、再度入れるのですが、ある地点に来ると、あまりに刺激が強すぎて、また顔を除けてしまいました。結局長い綿棒が6センチくらいしか入りません。3度目は覚悟をして、奥まで入れましたが、気持ちの悪さを言えば極限状態です。これは何度やってもなれません。

 然し、考えようによっては面白いと思いました。これを芸と考え、覚えたなら、手妻の演技が一つ増えることになります。まさか私が五寸釘を鼻に入れるとは誰も思わないでしょうから、面白いと思います。

 以前に胃に内視鏡を入れたときでも、手慣れてするする呑み込めるなら、30センチの鉄棒だって飲めますし、慣れて来たなら少し刃を落としたナイフだって飲めるでしょう。呑みながら軽いギャグなど言えば、スリルありと笑いありの楽しいショウになるはずです。

 私は昔から針のみを得意にしていました。針を10数本呑み込んで、糸を呑み込んで、つなげて出すというマジックです。お客様の見ている目の前で呑んで行きますので、クロースアップの場などでは臨場感があってとても受けます。受けますが、これを演じてしまうと、前にやった手妻がすべてお客様の印象から消えてしまいます。それほどインパクトのある演技なのです。しかもこの一芸のみ他の手妻と毛色が違います。ここだけ異質に見えるのです。

 

 然し、ここで五寸釘を鼻に刺す芸と、一尺の鉄棒を呑み込む芸を覚えたなら、それだけで一つの手順が出来てしまいます。これはすごいことです。針呑みだけでも喋りながら演じると5分から6分かかります。そこへうだうだとくだらない話をしながら、五寸釘を打ち込む芸を見せ、更に鉄の棒を呑み込む芸をしたなら、20分のフルショウが完成します。

 これでもまだ物足りないと言うのであれば、3本剣です。3本刀を抜き身で立てて、その上に術者が寝るというマジックです。奈良時代からすでに日本にあったイリュージョンです。あれを当時のやり方を調べて再現すれば、立派な古典の危険術になります。

 私の年齢で、全く未知なるマジックに遭遇して、しかも自らが実演することのなるというのは稀有なことです。これは一つ試してみるチャンスでしょう。

 針呑みと言うクロースアップのマジックから、釘刺し、棒呑み、三本剣のイリュージョンまで。ものすごい幅広いレパートリーを見せることになります。

 

 ただし、危険術は見せ方如何で場末感が漂います。金に詰まった集団が、窮余の策で演じているように見せたのでは救いがありません。知的に演じる危険術と言うものはないでしょうか。知的にくぎを刺して見せて、おしゃれに見えるという芸を開発したなら、間違いなく次の時代のトレンドを作り上げることになるでしょう。

 「藤山さん、そんなことあり得ませんよ」。と人は言うでしょう。でも世の中はわかりません。絶対にありえないところに次の大きな流れがあるのです。

 もし数年後に町を歩くおしゃれな女性が鼻に五寸釘を刺して歩いていたら、「あぁ、藤山さんはあの時将来の流行を見ていたんだ」。と気付くでしょう。

そうです。おかしなこと、変なことは必ず次に時代の主流になるのです。私は今からそれをやっておこうと思います。

 

 と言うわけで、毎日ブログは書きます。密室の世界に暮らすことになりますので、時間はたくさんありますから。但し面会謝絶ですので、病院にお越しになっても会えません。予定では日曜の午後に退院します。

続く

流れをつかむ 8

流れをつかむ 8

 

 バブルがはじけた平成5年から、平成8年くらいまで、私は蝶を改案するために悪戦苦闘していました。言葉で語らずに蝶の一生を語るにはどうしたらいいのか、アトリエに籠ってずっと工夫し続けていたのです。

 その答えは、いかに蝶を飛ばすかではありませんでした。話は逆で、動かぬ蝶を考えたのです。つまり蝶の死です。夫婦(めおと)の蝶が仲睦まじく飛んでいる時に、突然一羽がはらりと床に落ちて動かなくなります。動かなくなった蝶をもう一羽が心配して、何度も近くに寄り添い、「一緒に飛ぼうよ」、と誘いますが、落ちた蝶は動きません。やがて、飛んでいた蝶も床に落ち二羽は動かなくなります。そして静寂。ここから話は後半に進みます。

 蝶の死は話の終わりではなく、千羽蝶が飛んで行くことで話は戻ります。蝶は消えて無くなるのではなく形を変えて生き続けるのです。

 蝶に関しては私のブログでも何度か工夫や、成り立ちを語っていますので、詳細はそちらをご覧ください。

 

 なんにしても、私なりの改良を加えて、平成9年ころに蝶は仕上がりました。テレビなどでも蝶の演技を求められるようになり、随分と演じました。演芸番組ではなく、教育番組や、芸術鑑賞の番組などで取り上げられるようになりました。それはとても有り難いことでした。

 江戸時代に一蝶斎が蝶で一世を風靡したのは、一蝶斎が、紙で蝶を作って飛ばす、と言うただそれだけの芸に無常観を見出したことで多くの観客の琴線に触れたのです。然し、その後、明治に至って手妻が人々の支持を失い、人気が下降してゆきます。

 それがなぜかと考えると、手妻が形骸化して行き、形の美しさや、現象の不思議さを見せるだけの芸になったからでしょう。私が子供のころに見た、蝶の芸も、思い返してみると、生きることの苦悩も、無常感も、何も語っていなかったと思います。

 それは伝言ゲームのようなもので、表に見える奇抜な部分だけが継承されて、一蝶斎が何を語ろうとしたのか、一蝶斎の苦悩が後世の手妻師に伝わっていなかったのだと思います。

 

 蝶の手順を作り上げてから、私の周囲は俄(にわ)かに変化してきました。明らかに客層が変わってきたのです。求められる仕事の内容も、40分の蝶を含めた手妻の公演と、江戸文化の講演、などと言う、二本立ての依頼が来るようになりました。手妻を一つの文化と捉えてくれるお客様が増えたのです。

 バブルがはじけた後、一体どうやって生きて行ったらいいものか、何をしたらいいのか、ずっと模索を続けていましたが、ようやく生きる道がつかめるようになりました。

 平成9年の暮れに親父が亡くなりました。芸能の道に導いてくれた有り難い人でした。寂しくはありましたが、もう不安はありませんでした。自身のなすべき道が見つかったからです。

 親父が亡くなると、不思議なことに次々と支持者が現れました。千葉大学教授の多湖輝先生や、クロネコヤマトの元社長さんの都築幹彦さんなど何人もの支援者が現れ、仕事をくださったり、次々に生徒となってマジックを習いに来ました。

 初めに私には何か、大きな流れがあって、自然に人が持ち上げ運んでくれる時がある。と書きましたが、これまで何度かあった波の一つがこの時です。この流れを生かさない手はありません。

 久々公演もしてみようと思いました。平成6年以来5年間もリサイタル公演を休んでいました。最大の理由はバブルがはじけた後の資金不足でしたが、それだけではなくて、自身の芸の考えがまとまらなかったからです。

 然し、ようやく悩みが晴れて、翌年平成10年に26回目の公演をしました。そこで芸術祭大賞を受賞しました。この時、ようやく私の生きる道は確立したと実感しました。

 平成は、古典回帰の時代だったと言いました。そして、芸能人が文化を語る時代になったのです。多くの芸能人が、自分の立場をしっかりと文化の中で位置づけて語れる人が出てくる時代になったのです。

 

 この一連の話を書き始めたときに、「藤山さんは昔宇宙服を着て鳩を出していたのに、今はなんで着物を着て和妻を演じているんですか」。と尋ねられた話をしました。

 私としては当然の帰結だったのですが、はたから見たならとんでもない変化をしていると思ったのでしょう。その理由は二週間にわたって書いてきたことが答えです。昭和の時代は派手なもの、変わったものが受ける時代だったのです。然し、平成になると、人は内省的になり、心の内側を見つめるようになったのです。そして多くの人がどうやって生きて行ったらいいかを過去の歴史から考えるようになって行ったのです。これが大きな流れです。

 その時、マジシャンに、過去を語れる蓄積があるかどうか。文化を語れるだけの知識があるのかどうかが問われるようになったのです。そのことを理解して舞台活動をすれば、大きな波に乗るのですです。

 

 気の置けない仲間とマジックのイフェクトの不思議を追い求めているのは楽しいことです。でもプロであるならそればかり繰り返していては、周囲の芸能から取り残されて行きます。

 冷静に自身の周囲にいたマジック愛好家を眺めてみたらわかります。30年前から比べると、アマチュアの人口は十分の一に減少しています。明らかにマジック愛好家は減っているのです。それがなぜ減ってしまったかを考えてみることです。

 一言でいうなら、マジックを種仕掛けだけで語ることに限界が来ているのです。種仕掛けはもうステータスではなくなっているのです。それは決してマジックがステータスでなくなったと言うのではありません。

 実際、種仕掛けはどんどんネットで公表されています。種明かしはいけないことですが、ネットの連中はそんなことは聞こうともしません。彼らから見たなら、種明かしは遊びであり小銭稼ぎなのです。その連中と同列に存在していては将来はないのです。

 ある意味その世界は行き止まりです。そこからステータスは生まれないのです。今やマジックの種は100円ショップで吊るしで売っています。100円ショップで売っているものにアッパークラスの生活している人が寄っては行きません。そこに行って道具を買うこと自体底辺に染まっているのです。

 マジックの種を買うことも、習うことも素晴らしいことです。是非なさるべきです。然し、誰から、何を習うか、何を買うのか。少なくともステータスを感じさせる人と付き合い、種仕掛け以上の知識を得るための仲間を得ようとしない限り、ご自身も、マジック界のレベルも上がらないのです。

 時代はとっくに別の方向に進んでいるのに、いつまでたっても昭和を引きずっていてはマジックの世界に人が寄り付かず、社会から取り残されています。プロで生きるなら汚れや垢がつかないように生きなくてはいけません。

 仲間とコアな話をするのは結構ですが、その結果、そこから一般のお客様に支持されるようなマジックの演じ方や、イフェクトが生まれてくるようでない限り、マジックの支持者は増えないのです。

続く

 

 

流れをつかむ 7

流れをつかむ 7

 

 こうして毎日私はアトリエに籠って、古い手順にアレンジを加えて行きました。私の活動を、「手妻を破壊している」。と言う人もありました。それに関しては一切反論しませんでした。私が破壊しているのか、復活させようとしているのかは、近い将来世間の評価が決定するだろうと考えていたからです。

「古いものは一切形を変えず残すべきだ」。という人は、現実にそうすることで、手妻が仕事として成り立っているのかどうかを自分に問うてみればよいのです。手妻師が実際に手妻をするのは年に二、三回、などと言う状況で、生活していけるものかどうか、そんな状況で若いものがそれを継ぎたいと思うかどうか、この先30年、50年と手妻が残るどうか、考えてみたらよいのです。

 残らないと判断したら、今、何とかしなければ手妻は消えてしまうのです。

私のアレンジは、お椀と玉も、卵の袋も、紙卵も、真田紐も、紐抜けも、30年経った今も健在に継承されています。むしろ昔の型を演じる人がいなくなってしまいました。結局、古いものを古いまま演じていても残らないのです。

 と言って闇雲に新しく変えてはいけません。安易なアレンジは手妻そのものをつまらなくしてしまいます。アレンジするも残すも、演者のセンスが求められるのです。古典の作品のすばらしさを熟知した上で、よい部分は残して、今では通用しない部分をアレンジするのです。そして、演技が完成したときに、全体から見て、アレンジしたことがまったくわからないように、自分の成果を主張せず、アレンジが目立たないように、わざと初めから古めかしく作り上げるのです。

 私のしていることは、例えて言うなら障壁画の修復のようなものです。修復がどれほど高度なテクニックを必要とするものであっても、修復した箇所が目立ってはいけないのです。あたかも千年も前からそうなっていたかのようにさりげなく直すのです。

 これは極めて地味な作業です。うまくできたからと言って誰もほめてはくれません。私の演技を見たお客様も、習いに来る生徒さんも、それこそ数百年前からそうなっている手妻かと思っているのです。それでいいのです。そこで手妻のすばらしさを感じてくれたなら私の目的は達成されたことになります。

 

 さてこうして、手妻の作品を一つ一つ読み込んでアレンジを加えて行く作業をしていました。そうした活動と同時に私は、自身の演技として「蝶」のアレンジを工夫していました。蝶は20歳の時に高木重朗先生から資料をいただき、飛ばし方のコツなどを習いました。その後、師匠である松旭斎清子からもアドバイスを受けました。また手妻の研究家の山本慶一先生から、詳細な帰天斎の手順や口伝を習うことができました。

 こうした資料や口伝をまとめ上げて、昔のやり方ならなんとかできるようにはなりました。然し、古いやり方では間(あいだ)間に口上が入り、演技は10分以上になります。花道を一回り伝って舞台に戻るなどと言う演出を加えると、優に20分近く演じることになります。

 内容があっての20分なら結構ですが、ただ時間を延ばすための20分では現代のお客様は納得しません。ここは時間をなるべく詰めて、中身の濃い演技を作り直さなければいけません。然し言うは易く行うは難しで、遅々として答えが見出せません。平成6年の二度目の芸術祭賞受賞の時にも蝶を出しましたが、いい出来とは言えませんでした。

 その後アメリカのマジックキャッスルに出演したりして、蝶を演じましたが、まだまだ納得がゆきません。平成7年になって、なぜ自分が蝶の手順に納得がゆかないのか、もう一度根本から解体して考え直してみました。

 

 蝶がほかの手妻と根本が違う点は、蝶には無常観と言うテーマがあることです。蝶の種仕掛けをどうするか、と言う話ももちろん大切ですが、それよりも何よりも、無常観をどのように語って見せるか、と言う命題を抱えていたのです。

 蝶は、400年も前からある手妻ですが、はじめは紙で作った蝶を扇を使って10秒か20秒飛ばせばそれでおしまいと言う芸だったのです。その後、飛ぶ蝶に様々な情景をつけて、語って見せる芸に発展します。「三井寺の晩鐘を聞きつつ家路を急ぐ蝶」、とか、「琵琶湖に浮かぶ帆船の帆車に止まり羽番(はがい)を休める蝶」、などと情景を語って見せたのです。

 然し、文化の時代(1800年代初頭)に柳川一蝶斎と言う天才手妻師が現れ、一気に蝶は芸術に昇華します。それまで一羽の蝶を飛ばすことで景色を語っていた芸が、途中から二羽の蝶が飛ぶようになります。この二羽の蝶の発明がそれまでの単なる情景描写の芸から、蝶の生命を語る芸に発展します。

 蝶がなぜあちこち飛び回っていたのか、と言う答えが二羽の蝶なわけです。つまり蝶は限られた短い生命の中で必死に伴侶を探していたのです。伴侶を見つけた蝶は、幸せの絶頂を迎えます。「夫婦の蝶は仲睦まじく舞い戯れる」わけです。

 一蝶斎は、しばらくは二羽の蝶を飛ばすことで、この芸を終わらせていたようです。それが数年後、話はさらに発展します。二羽の蝶がさんざん逢瀬を楽しんだ後に、やおら二羽の蝶をつまみ上げ、「男蝶、女蝶を小手に揉み込みますれば、子孫繁栄、千羽蝶と変わります」。と言って、紙吹雪を宙に舞わせ、千羽の蝶を飛ばして終わります。

 これで蝶の芸は初めて完結しました。子供の蝶の飛び立つ姿は、初めの蝶の旅立ちに戻るわけです。生き物が生まれては死んで行くのを繰り返す中で、物は消え去るのではなく形を変えて生きてゆく。すなわち無常観を語って見せるわけです。

 一蝶斎はただ扇で飛ばしていた紙の蝶を、人生を語り、無常を語って見せたのです。面白い芸です。然し、これを現代によみがえらせるのは至難です。私はまず口上を取り去りたいと考えました。手順を10分以内にまとめるには、どうしても口上があると冗長になります。

 ところが口上を取り去ると、お終いの二羽の蝶を手に揉み込んで吹雪にするときに、吹雪が子供の蝶であることがお客様に理解しずらいのです。紙吹雪が次の世代の蝶であるということをどう伝えたらいいのか。そこで随分悩むことになりました。

続く 明日はブログはお休みです

流れをつかむ 6

流れをつかむ 6

 

 「紙卵」がいい手順で仕上がると、卵をはっきり印象付けるような前芸が欲しくなりました。常識的には「袖卵」を演じるべきなのでしょうが、私はこのころ袖卵と言う手妻に疑問を感じていました。

 卵が4個5個と出てくる袖卵は、和の型が残っていますし、美しい手妻だと思います。然し、異常なほど大きな袋(着物の袖をイメージしてできています)から、小さな卵が一つ、また一つと出てくるというのは、袋のサイズから考えて不思議さが薄いように思います。演じ方も最後まで一つ一つ卵が出てくるだけですので冗長に感じられます。これを取り入れて、果たしてお客様が喜ぶかどうかと悩みました。

 

 袖卵は明治になってできた手妻です。江戸時代の資料を調べても袖卵は出てきません。恐らく西洋人が演じる袋卵を譲り受け、それを、卵がたくさん出せるように改良して作ったものが袖卵なのでしょう。

 この時代は物が出るということがとにかく喜ばれました。物のない時代ですし、特に卵は貴重品でした。私が幼いころですら、卵一個は10円もしました。昭和30年代の10円は、今の100円以上の価値です。

 握り寿司に乗った卵焼きは、マグロの中トロや鯛と同価格でした。子供にとっては寿司屋の卵を親に気兼ねせずに何個も食べたい。と言うのが夢でした。それが昭和30年代です。現代人が卵を見る目と、明治の人が卵を見る目は全然違うものだったのです。

 そうした庶民の憧れを反映させて、袋卵を大きくして、袖卵にしたのは、時代的には正解だったのでしょう。然し、今それをどう伝えるかと言うと難しいと言わざるを得ません。袖を裏と表を一回ずつ丁寧に改めて、卵が一つ出てくる。これを繰り返して卵が一つ出る。この芸を果たしてお客様は面白がって見るでしょうか。

 

 むしろ、袖卵が生まれる以前に、袋卵から3個程度卵を出していた時代があったのです。それは私が子供のころでもまだ、松旭斎の女性方が袋卵で3個卵の出る手順を演じていました。多少今の袋よりは大きかったですが、袋卵だったのを記憶しています。

 今日の西洋の袋卵が、一つの卵を出す不思議を強調しているのに対し、かつての日本ではあくまで卵の数にこだわっていたのです。

 私は、袋卵で卵を3個出すやり方は面白いと思いました。これをしっかりした手順にアレンジして、スピードアップを図り、卵が3つ出る手順を復活させました。そして、そのあとに紙卵をつなげて一手順にしました。但し、袋卵も、紙卵も、卵と言うと、現象の先言いになります。この手順を私は「紙片の曲」と名付けました。この作品は評判がよく、弟子も生徒さんも、私自身もたびたび演じています。

 

 ところで、「袖卵」は、その後になって、大阪の帰天斎正華師匠から、帰天斎流の袖卵を習いました。これは、袖の表でも裏でもどちらからでも卵が出現します。裏と表を必ず一回一回改めて卵を出す式よりも、改めが半分で済みます。しかもハンドリングが美しく、この袖卵は優れものです。

 但し、卵を5個出しただけでは結末が盛り上がりません。そこで、ラストに大きなグラスを出すアイディアを加味しました。グラスに卵を割って入れるのが結末です。これも受けのいい手妻ですので時折演じています。

 

 さて、袋卵、紙テープの復活、紙卵、と、3つの作品をつなげて、4分30秒の作品にしました。実はこうした一連の作品をつなげて演じるという方法は、あまり手妻にはなかったやり方なのです。例えば蒸籠のように一作で10分以上かかる手順なら、間に才蔵さんとの掛け合いが入り、不思議あり、笑いあり、一作品で十分な内容になります。

 ところが、例えば紙卵と言う芸は、チリ紙を丸めて扇子の上で卵にしただけなら、約1分の現象でしかありません。ここだけ演じて、次に別の演技をするというのでは、はなはだまとまりが悪いショウになります。手妻には、このように、絶海の孤島のように周囲から取り残された作品がたくさんあったのです。

 それらの作品を3つ4つ集めて一つの流れを作るのはそう難しいことではありません。然し、3つの作品を一つにまとめるとなるとやたらとテーブルの上に小道具が並びます。演じる前にそれらを舞台に並べ、また終わってかたずけるのに時間がかかります。一つの盆にすべてが並んでいて、それを片付けた後に、すぐに次の手順の並んだ盆が出せたなら効率よく演技ができます。

 そこで飾り箱を工夫しました。きれいな飾り箱を作り、そこに、扇子2本、ワイングラス。卵を並べる台、小皿など一式を収めて、きれいに飾り付けます。テーブル上に置いてあるだけで、お客様が興味をもって期待して見てくれるようなディスプレイを考えたのです。

 無論こうした考え方は手妻にはありませんでした。ただ何となく、はるか300年前から手妻はこんなだったんだ、と思わせるような作りを考えて飾ってみると、手妻は一気にグレードアップして見えます。私は秘かに、「あぁ、私の人生はこうして手妻の格上げをすることで、先人が本当にしたかった世界を作り上げることなんだなぁ」。と知りました。

 

 いくつかの作品をつなげて、5分とか8分の演技にするという作業はその後も随分作りました。「真田紐の焼き継ぎ」も、シルクの出現、真田紐の焼き継ぎ、紐抜け、の三作をまとめ、おしまいに絹の帯が出てきて、傘が出るまでを8分の演技に仕上げました。

 真田紐の演技も、明治時代に入ってきた、ターバン切りと言う紐切りの変形です。蝋燭(ろうそく)で焼き切るところが古風ですが、鋏で切れば紐切りと同じです。これも切ってつなげるだけなら2分とかかりません。他に二本の紐を使っての紐切りの手順がありませんから、これはこれで単独の演技です。

 演出も、作品もいいマジックです。但し、現代にこれだけを見せられて、どうです?面白いでしょう。と言われてもお客様は困ってしまうでしょう。

 まず二本の紐を一緒にして焼くという原案に注目して、二本の紐を使った手妻を探してみると、紐抜けがちょうどそれにあたります。そうなら、真田と紐抜けはそのままつなげられます。次に紐抜けで使うシルクをどこからか出したなら面白いと考えました。

 全体のイメージを考えると、真田で使う蝋燭の炎の中から、3枚のシルクを次々出せば、蝋燭をうまく活用できます。しかもシルク出しをオープニングに演じたなら、神秘的で、スピーディーで華麗で面白いだろうと考えました。

 こうしてシルクの出現、真田紐、紐抜け、の三部作をまとめ、飾り盆をこしらえて一つの作品としました。タイトルも真田紐の焼き継ぎでは現象の先言いになりますので、「陰陽水火(おんみょうすいか)の術」と名付けました。小さな道具で8分もかかる演技になりましたので、これも好評です。

続く