手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

流れをつかむ 5

流れをつかむ 5

 

 「お椀と玉」がどうにか形になると、次に「卵の袋」と「紙卵」を手掛けようと考えました。なぜお椀と玉や紙卵から改良を始めたのかと言えば、お椀と玉も、紙卵も、殆ど費用をかけずに、自分で道具や、仕掛けが作れるからです。いきなり、蒸籠や夫婦引き出しを職人に依頼するとなると費用が掛かりすぎます。バブルがはじけた後の私にとっては大きな出費は不可能だったのです。

 半紙をちぎって丸めて扇子の上に置き、扇子で紙を飛ばしているうちに紙が膨らんで来て、卵になるというマジックは、日本に古くからありました。卵の種の製法も伝授本に書かれています。しかし当時、紙卵を演じる手妻師はいませんでした。

 まず種を作ることが面倒です。そしてハンドリングも残されてはいません。伝授本には、座布団の上に正座して、扇子を広げて、扇子の上に紙を乗せ、紙をポンポン飛ばして卵にする挿絵が残されています。

 この芸は欧米でも古くから演じられています。恐らく中国人の奇術師が、17世紀ごろ欧米に渡って演じて見せたのでしょう。お客様が見ている目の前で、紙が卵に変わるのですから、ビジュアルで素晴らしいマジックです。日本でも頻繁に演じられていました。然し今、やり手がいません。

 なぜか、それは人は人がやっているものにしか興味がないからです。カードでも四ツ玉でも鳩出しでも、人がやっているからやるのであって、誰もやらなければやらないのです。逆に言えば、人がやらないからこそチャンスがあるのです。

 人が、「古い」とか「興味がない」と言って手掛けないものには必ず成功のカギがあります。但し、成功するためには、いくつかハードルを越えなければいけません。やらないにはやらない理由があるからです。

 紙卵で言うなら、口中でのスイッチです。口で咥えたものを、口中で取り換える技は、太古の昔から頻繁に行われていました。大昔の手妻は、周囲を囲まれた場所で演じていました、マジックテーブルなどはありません。種を取り換えるにも、パームやパスなどは殆ど開発されていません。そうした中で、交換改めと、口中のスイッチは有効な技法として頻繁に行われていたのです。その技法が日本ではいつしか忘れ去られてしまいました。私はここに成功のカギがあるなと見当をつけて色々調べてみました。

 すると、不思議な技と次々に出会ったのです。紙を口に加え、丸めて、小さな紙箱に入れて、地面に伏せます。すると紙箱が少しずつ動き出します。中を開けてみるとカエルが出てきます。「紙変じてカエルとなる」です。

 これは予め口の中にカエルを入れておきます。カエルは口中なら湿っていますし暖かいので死ぬことはありません。口に丸めた紙を咥え、それを紙箱に吐き出すときに、カエルも入れてしまいます。あとは一人でに紙箱が動き出すわけです。

 これを現代に演じて見せたなら人は不思議がるでしょう。然し、常にカエルを持って歩かなくてはいけませんし、先ず口中にカエルを入れる覚悟しなければいけません。いろいろ面倒だから人はやらなくなったです。

 カエルを咥えること思えば、紙卵などはいと易きことです。早速昔の製法で種を作ってみると、殆ど苦も無く種が作れました。これは面白いと、すぐにハンドリングを考え、手順を作り弟子に教えました。

 

 平成6年に芸術祭の二度目の受賞をすると、弟子希望者が次々にやって来ました。来る弟子なら育ててやりたいとは思いますが、バブル不況のさなかですから、なかなか生活の面倒も見てやれません。それでも私の舞台を手伝わせることで、毎月15万円の給料を渡し、間の時間にマジックと手妻の両方を指導しました。

 弟子が増えると同じ事ばかり教えることはできません。誰も彼も蒸籠と連理ばかりしていてはやがて弟子同士の食い合いになります。それぞれに個性を持たせてやらなければ彼らが生きて行けないのです。そのため、次々と作品を考え、手順を作ってやらなければなりませんでした。

 自分のこと、弟子のことで私は夜も昼もないくらいに多忙になりました。私が必死になって古い文献から作品を引っ張り出し、新たな手順を作り、種作りしているものを、弟子は、「師匠、次は何を教えてくれるんですか」。と受け身で待っています。

 ただ待っているのではなく、私の苦労している姿を見て学ぶことこそ修行だと思いますが、多くは私についていれば何とか珍しい種を教えてもらえると思っているのです。

 然し、そんな弟子でも、とにかく手妻に興味のある者が入ってきたなら、教えてやろうと考えていました。このままでは手妻は絶えてしまうからです。私がいなければこの世界はもたないのです。今は人の質などを問わず、とにかく人を増やすことだと考えていました。

 落語の世界などを見ていると、落語家の数は東西で五百人以上います。その中でうまい人、才能のある人はほんの一握りです。然し、数が多いから、その中からスターが出てきますし、日々の寄席経営も成り立っているのです。

 私一人が手妻で認められて、どうにか生きていけたとしても、一人では、手妻の専門劇場はできません。手妻師が何十人か増えることで、手妻の面白さが世間に伝わり、そこから手妻の専門劇場を作ってやろうかと考える御贔屓さんが現れなければ将来がありません。そのためにはまず演じる人がいなければいけません。弟子が入ってくるならめでたいことです。縁があるならどんな人でも育ててやろうと考えていました。

 

 卵は、半紙をただ丸めて扇子に乗せるだけでは芸がありません。古い松旭斎の人が演じていた「紙テープの復活」を思い出して、それを冒頭にくっつけてみました。これは、西洋のヒンズーヤンと同じマジックです。糸を細かにちぎって、手の中で丸めて、糸の両端を引っ張って行くとまたつながるというものです。いいマジックです。

 然し、糸では舞台で見せることができません。そこで昔の奇術師は、糸の代わりに紙テープを使ったのです。いいハンドリングですがこのマジックも単発のもので使い道がありません。これをアレンジして、紙卵に生かしました。まず紙テープの復活があって、その切れ端を扇子に乗せて卵に変えます。いい手順になりました。

 ただしこれでは卵が結末にしか出てきません。卵で手順を作りたいと考えたなら、冒頭にも卵を強調しておきたいと考えました。そこで、袖卵をやってみようかと考えましたが、ここで少し悩みました。なぜ悩んだのかは明日お話しします。

続く

流れをつかむ 4

流れをつかむ 4

 

 手妻のアレンジを真剣に始めたのは平成5年からでした。無論、今までも手妻やマジックをアレンジする活動はずっと続けて来ました。然し、この時から小手先のアレンジではなく、手妻の歴史や、手妻の成り立ちを踏まえて、思い切った改良をしようと考えたのです。何しろ時間はあります。じっくり一作一作考えてゆきました。

 手妻には優れた要素がたくさんありますが、同時に人がやりたがらない理由もあるのです。例えば不自然なハンドリングや、冗長と思われる手順がなぜか今まで手妻として繰り返し演じられて来たためです。手妻を発展させるにはその根本から考え直す必要があったのです。

 

 手妻の改良には、昔私が12本リングをアレンジしたときの作業が随分役立っています。12本リングは、昭和40年代末で既に演じる人が殆どいなくなっていました。なぜマジシャンが演じないのか、問題を探り出して改良したのです。20歳の時のことです。

 これほど面白いマジックであるにもかかわらず、12本リングを演じない理由は、お客様に渡して調べてもらったリングを返してもらっておきながら、トリプルリングも、ダブルリングも外して見せなかったからです。

 返してもらった12本のリングを腕にかけて、両手を握り、両腕で輪を作り、腕の中で全部のリングを車輪のごとくに大回転させて、「はい、このようにバラバラになりました」。と言って外したことにしていたのです。

 現在、私の手順を知っている人たちが、昭和40年代までの12本リングを見たなら、目を丸くして、「これがマジックか」と思うでしょう。

 つまり、旧手順にはリングのスライハンド的な要素はまったくないに等しかったのです。1,2本のつなぎ外しが一切ないのです。そしてすぐに手順は造形作りに入ってしまいます。全体で7分くらいかけて演じていた古い手順の、5分以上は造形に費やされて、殆んど技の見せ場がなかったのです。

 まず、私は、12本リングをマジックとして成り立つ芸にしなければならないと思いました。(おかしな言い方ですが、古い手順をアレンジするときに、先ず、マジックとしての不思議さを加味しなければならなかったのです)。

 具体的にはトリプル、ダブルのリングを外して見せることが最低必要だと考え、外し方にアレンジを加えました、その上で、基本的なつなぎ外しのハンドリングを足して、お客様に渡す改めから、全部外すまでを2分30秒で仕上げました。ここまでは喋りで演じ、音楽は使いません。

 後半は音楽を使って、造形つくりを2分30秒で演じるようにしました。造形は、形の説明を前半の喋りの部分で語ってしまい、音楽が流れたら一切喋らないようにしました。こうすることで、前半と後半に変化を作ったのです。

 この判断は正解でした。その後12本リングはずっと私の得意芸になりましたし、今も若い人から指導を求められます。

 

 この改良の仕方を基にして、今度は手妻の本質から探って、手妻に大胆なアレンジを加えて行こうと考えました。改良は多種にわたりました。「おわんと玉」「夫婦引き出し」「蒸籠(せいろう)」「真田紐の焼き継ぎ」「卵の袋」「紙卵」「蝶」など、どれも数か月から作品によっては5年以上かけてアレンジして行きました。

 始めに手掛けたのは「お椀と玉」でした。とても魅力的な演技です。第1弾の、三つの椀にそれぞれ玉を入れ、玉が真ん中の椀に集まる「中寄せ」の段などはどこの国のカップ&ボールにもない優れ物の手順です。

 またラストの、椀に入れた玉が椀の上に上がってくる「登り玉」の段とそれに続く「大玉」の段も、個性的で、ネタ取りはカップ&ボールよりも優れたハンドリングだと思います。

 にもかかわらず、お椀と玉を演じる若者が殆どいません。なぜか。それは、途中の手順にあります。すべてパーム(握り渡し)とバニッシュ(消失)の繰り返しなのです。すべてが右手に持った玉を左手に渡す動作で玉を消します。椀も玉も3つありますから、一段演じるたびにすべて同じ動作のパームを3回繰り返します。

 演技は全部で6段、乃至は8段ありますから、パームが実に14回くらい繰り返されるのです。5分から8分かかる手順がほぼ一つの技法で進行しています。これではマジックとしての限界が見えてしまいます。

 なぜこんな手順が今まで継承されていたのでしょう。実際、江戸時代にお椀と玉を演じていた手妻師はたくさんいたのです。彼らは本当にこんな手順を演じていたのでしょうか。

 いや、そうではなかったのです。伝授本などを見るともっともっとバラエティに富んだ手順を見せていました。それがどうしてこうした手順が残ったかと言うなら、恐らく伝授屋(個人指導家)の出現によって、お椀と玉が形骸化して行ったからだろうと思います。

 素人さんに教えるためには、技法はなるべく易しく、手順は簡易に演じることが求められたのでしょう。つまり今に残るお椀と玉は、祭りの屋台などで見せていた技巧的なプロの演技ではなく、素人向けにアレンジされたお椀と玉だったと考えられるのです。(当時のプロは指導をしませんでしたから)。

 

 そこで改良が始まりました。まず。取りネタの大玉をどこに隠しておくかが問題です。当時はテーブルの類を使いませんし、ポケットから持ってくることもありません。さてどこにしまっておきますか。

 私は、お椀を入れる木箱を作りました。その木箱を金襴の布地で包んで、房紐で縛りました。こうすると、宝の袋にようになりました。お客様の前で房紐をほどくと、金襴の布は自然に広がり、金襴の裏地にはビロードが貼ってあるために、そのままテーブルマットになります。つまりあえてテーブルマットを別に持って行くことをしないで、マットを敷く方法を考えたのです。

 しかもこのマットが大玉をしまう仕掛けになっていますし、小玉を途中で処理する落としの仕掛けにもなっています。これは我ながらいい工夫だと自負しています。つまりこれがあれば座敷であろうと、クロースアップ会場であろうと、どこでもセットなしでお椀と玉が演じられるのです。

 無論、パームの回数は極力減らし、まったく新しいハンドリングも加えました。この手順は好評で、アメリカでも、韓国でも、香港でも依頼があり、随分世界各地で演じました。今ではその後にバリエーションも生まれ、私の一門では頻繁に演じられています。

続く

流れをつかむ 3

流れをつかむ 3

 バブルがはじけると、日本人は急に自信を無くし、経済も低迷を続けます。このころを後に「失われた10年」と呼びました。でも決して無駄な10年ではありませんでした。

 バブルは狂乱の時代でした。例えば保険会社などは毎月日本中の支店に勤める社員を集めて大きなホテルで食事会をしていました。東京や大阪、京都のホテルに地域ごとに社員を呼んで表彰式などを行います。

 その際のアトラクションにイリュージョンや水芸が呼ばれるのです。それが、自動車会社であったり、建設会社であったり、あらゆる会社がパーティーをしていたのです。

 当時はどこの会社も儲かっていましたので、会社も税金を支払う金額が大きかったのです。そこで、社員のために頻繁に食事会やイベントを行い、福利厚生費と言う名目で経費を作れば、利益から必要経費を差し引けたのです。

 儲かった利益をそっくり税金で払うか、社員のために飲食で還元するかと言うなら、誰でも飲食を選ぶでしょう。それがあらゆる会社がパーティーを開くものですから、マジックショウも、歌謡ショウも、ミュージシャンのコンサートなども大忙しだったわけです。

 会社にすれば、どうせ税金で取られてしまう金ですから少しも経費を心配しません。むしろ主催者は「みんながびっくりするような大きなショウをやってほしい」。と言って、派手な上にも派手なショウを求めました。通常のイリュージョンプラス、水芸も一緒にやってほしい。などと言う企画が頻繁にあったのです。両方を同じパーティーで演じるとなると、出演料は100万円を超えます。

 ある地方のホテルのオープン記念パーティーの時は、イリュージョンと水芸のショウを一日2回演じてくれないかと言われました。ギャラは二倍出すと言われて、女房は喜んで引き受けてしまいました。

 ところが、招待客をやりくりしてゆくうちに、2回のショウでは入りきれないことがわかり、3回にしてくれと言う話になりました。それを女房は大喜びで引き受けたのですが、私はその話を後で知りました。当然無理な企画なので怒りました。女房は、「二回が三回になっただけなんだから大した問題じゃないでしょ」。と言いますが、大した問題なのです。ホテルの仮設舞台に、和と洋の大道具を乗せ換えるだけでも大仕事です。それを三回公演して、合計6回道具を差し替えるのは至難です。しかも、間の休憩が50分しかない状態で、90分のフルショウを3回演じるというのは実際不可能です。女房は喜んでも私のチームの体がもちません。

 それでも演じましたが、3回目のショウに出たときに、建物全体が大きく揺れているのがわかりました。「地震だ」。と思ったのですが、お客様はまったく騒いでいません。「なぜだろう」と思って、自分の膝を見ると、ひざが大きく痙攣(けいれん)していました。つまり地震ではなく、私があまりに疲れてしまい体が痙攣していたのでした。まったく立っているのがやっとで舞台をしました。ショウが終わった後は、全員楽屋でぐったり倒れてしまいました。そんな無謀な舞台が頻繁にあったのです。

 

 ところがバブルがはじけると、景気のいい話はパッタリなくなります。但し、まったく仕事が来ないわけではありません。小さなパーティーや、地方公共団体の催しは健在だったのです。長く舞台活動をしてきたおかげで、人とのご縁は随分残っていました。

 私が良く言う、人との縁は大切にしなければいけないというのはこのことです。私が後輩などによく言う言葉ですが、300人の顧客があればマジシャンは生きて行けるという話もこの時の経験からです。

 顧客の一人が3年に一回私に仕事をくれれば、仮に300人の顧客がいたなら、年間100本の仕事がいただけます。それが一本20万円の仕事であったなら、年間2000万円の収入が3年続くことになります。それならぜいたくをしなければ、チームを維持して家族を養うことができます。

 こうして考えてみたなら、「仕事がない、ショウの依頼が来ない」、とただ漠然と不安がっていたり、悩んでいても意味がないことがわかります。

 要するに、自分に300人の顧客があるかどうかと言う、現実の数字を見ないで、ただ仕事がないことを悩んでいるだけでは問題解決はしないのです。

 最も手堅い顧客の数をしっかり把握して、そのお客様がどんなショウを望んでいるのかを知ることが解決の道なのです。過去のスケジュール帳と、顧客の名刺を引っ張り出して、整理を付ければ必ず打つ手が見えるのです。

 

 平成6年に二度目の芸術祭賞が取れたときに、一回目の受賞の時のように、ものすごい数の仕事依頼が来るかと期待していたのですが、大したことはありませんでした。時代が変わったのです。更に、平成7年、8年と経って行くと、もう派手な大きな舞台の注文は少なくなりました。ギャラを落とさなければいけません。と言って私一人でカード奇術をするわけにもいきません。

 時代は古典芸能に評価が高まっています。私のチームには水芸があります。然し、水芸は金額が高すぎて、なかなか簡単には売れません。また、できない場所も多いのです。もう少し簡易に手妻の面白さを伝える方法はないかと考えました。そこで、これまでの手妻の作品をそっくり作り替えることにしました。

 蒸籠(せいろう)、夫婦引き出し、蝶、真田紐の焼き継ぎ、袖卵、と言った古くからある手妻を、もっと大胆に仕掛けを変えたり、演じ方を変えてみようと考えたのです。

 古い演技を見直してみると、手妻はやたら同じ動作の繰り返しをしたり、口上で演技を引き延ばしていたり、今となってはマジックとは思えないような安易なトリックでマジックをしていたりと、手妻自体に随分問題が山積していたのです。

 こうした手妻をいくら古典だから、きれいだからと言って演じていても、若い人が飛びついてくることはあり得ないのです。当時の若者が面白い、この世界はトレンドになる。と判断して、目を輝かせて飛びついて来るような世界を演じて見せなければ、手妻の生き残りはないのです。

 手妻の様式美や、形式の面白さを壊さずに、むしろ一層美的に昇華させて、マジックとしての不思議を加味して再構築する。それを一般の仕事先に売り込んで行く。言うは易く行うは難しです。これは相当に手妻に精通したものでないと答えを出すことはできません。演者の審美眼が問われる活動です。

 然しやるとしたならこの時をおいて他にはありません。何しろ、バブルがはじけたお陰で、時間は有り余るほどあります。しかも世の中の流れは古典を求めています。うまく改良ができたなら、テレビ局や、地方公共団体は面白がって買ってくれます。ここから私の孤独な研究が始まります。

続く

KSMC

KSMC

 本当は今日は、「流れをつかむ」と題して、なぜ私がマジックの方向をイリュージョンから、手妻に切り替えたのか、その理由を細かく書こうと考えていたのですが、それは明日にします。

 実は昨晩、KSMC(関東ステージマジックサークル)の発表会があり、そのショウがとても素晴らしかったのでその感想を書きます。

 KSMCはこれまでも何度か拝見しています。マジックの好きなマジッククラブのOBが、スポンサーなしで自力でマジックショウを開催しています。まずその気持ちが素晴らしいと思います。

 かねがね私は、大学のマジックサークルに所属する人たちが大学を卒業すると、マジックをする機会がなくなることを残念に思っていました。何とか、その後の人生でマジックが生かされたなら、ご当人のためにもなるでしょうし、マジック界にも優れた人材が残り、有益ではないか。と考えていました。

 そこで私は、マジック愛好家を側面支援すべく、マジックセッションと言う企画を立てて、技量のある学生さんや、OBに声をかけて、ご出演願おうと毎年東京と大阪でステージショウを開催しています。

 そのステージに招くゲストを選定したいのですが、このところ、大学のマジックサークルの発表会が軒並み不開催ですので、マジックショウを見る機会がありません。それどころかこの先を思うと、マジッククラブが存続できるかどうかもわかりません。

 何とか催しがあるなら、拝見したいと思っていたので、今回の公演は期待しました。場所は、赤羽会館。17時40分開始。以下その感想。

 

 コロナの影響で、学生のいつもの熱狂的な声援は禁止です。おとなしい開催になりました。席も一つ置きになっています。

 

 1本目の「ちゃぶる」さんは、今年の会長さんのようです。シンブルをカラーチェンジまで持って行き、両手のカラーチェンジの色変わりを不思議に演じました。途中、蝶ネクタイや、ネクタイが何度も出たり消えたりして、アクセントを付けました。私は、学生の演じるシンブルや、ウォンドはマニアックな攻め口が好きではないのですが、この手順はまとまりが良く、一般客が見ても楽しめる内容になっていたと思います。ちゃぶるさんの登場で、この晩のショウに期待が持てました。

 

 2本目の「石油王」さんは、着物に羽織を着て、その襟は明治時代の学生のようにシャツが見えていて、明治調の服装が期待を膨らませました。少なくとも、こうした格好で手妻をするプロマジシャンはいません。動物の進化の過程で、時々変種が出るように、異端な新種を見る思いで拝見。

 内容は、手妻ではなく、風車(かざぐるま)をテーマに、それが紙に変化し、カードになり、カードプロダクションに移行します。全く手妻の要素がないのが残念です。もう少し、和服に必然性が欲しいところです。和服姿が粋に見えたなら、随分多くの人を引き寄せられる内容になると思います。

 

 3本目は「こばちお」さんのリング。互いにマジックを知っている人にリングを見せるのはリングの種が一つであるがゆえにとても難しいと思いますが、何もない状況からリングが1本ずつ増えて行き、最終的にトリプルプラスキーの4本のひし形を、更にもうワンセットの4本を出現させ、それを重ねて8本にするのは独創的でした。学生の世界でなければ見られないアイディアです。

 顔が大変二枚目でしたが、リングをするのにここまで二枚目である必要はないと思います。無駄に二枚目でした。

 

 4本目は中園鈴奈さんと山岡はるかさんのレズビアンショウ。久々レズビアンのショウを見ました。浅草のロック座などで昔出ていたのを見ています。しかも赤羽会館で、いいですねぇ。その外れた道こそ芸術です。

 内容が奇抜なのに、花が出る手順が大人しすぎて、どんなマジックをしたのか思い出せません。素材にロープや蝋燭などを使えばよりイメージにマッチしたのではないかと思います。そうなればまた別の熱烈な観客を集めることも可能です。

 

 5本目は「小松真也」さん、前に私の会に出てもらっています。ウォンド、四ツ玉、ボールは8つになってカラーチェンジまで。手順もよくできていますし、マジックが好きであることが伝わってくる手順です。

 

 6本目は「鬼頭登」さんの仮面。私の会にゲストで出てもらっていますし、私の主催する猿ヶ京の合宿にも来ています。ただ、この内容は何度見てもよくわかりません。奇妙な内容です。これもやはり学生の世界でしか見ることのできないマジックです。これはこれでありでしょう。

 

 ここで休憩。間間に司会者が出てきますが、セリフを言うことで精いっぱいで、がちがちに上がっています。こういう人が出てくるところがまた学生っぽくっていいのでしょう。冴えない司会が逆に演者を引き立てています。

 

 7本目は「諭吉」さん。以前にどこかで見ています。世の中を肯定して見ていて、常にハッピーな芸です。CDアクトですが、ネタ物をふんだんに入れたり、踊りを取り入れたり、コントのような芝居があったり、いいとか悪いとかではなくて、この人がやれば何でも許されます。この晩の出演者の中で唯一、プロの芸人になったら何とか生きて行けるかもしれないと思わせる人でした。但し保障はできません。でも見た人を幸せにするマジシャンです。

 

 8本目、「松野正和」さん、諭吉さんとは対照に、コツコツと地味なマジックをまとめ上げています。シガレット、シンブル、ウォンド、どれもうまく演じています。こうしたまじめな人が日本を支えているのです。でも照明が暗くて、顔がよくわかりませんでした。もっと彼を日の当たる場所に出してあげたいと思いました。

 

 9本目、「おぶち」さん。中国服を着て、岡持ちを持って出てきて、箱積の曲芸。まず中国服を着ている中華屋さんを見ることがありません。昭和の時代ですらいませんでした。恰好も発想も異次元の世界です。奇抜な出であったにもかかわらず曲芸は下手でした。その下手の度合いがMaxでした。でも、彼の性格がいいのでしょう。皆さん彼を愛情をもって見ています。得な人です。

 

 10本目、「若林克弥」さん。この人はよく知っています。以前落語を話しながらマジックをしていました。落語も手品も大したことはありませんでした。この晩はマスクと光る羽根を演じていました。落語手品よりも、数段工夫されたマジックです。何よりまとまった手順でした。顔もメークをしたのか、いい男に見えました。マジックへの愛情はひしひしと伝わります。今後のご精進に期待します。

 

 11本目、「茶嶋良介」さん。芸人のような名前です。一度聴いたら忘れられません。種目はCD。余計なことをせずに、白と赤のCDアクトが続きます。私はこうしたシンプルな手順が好きです。やがて青や、黄色のCDに変わって行き、カラーCDを両手に出して終わり。うまいと思いました。周囲の人に、「うまいねぇ」、とほめると、「今の学生の世界ではCDは相当に研究されていますので、これくらいの人は何人かいますよ」。と言われてしまいました。

 然し、手順がすっきりしていますし、よくまとまっています。こうした人はきっとこの先伸びるでしょう。何とか、引っ張り上げたい人だと思いました。

 

 12本目は「ダンク」さん。ウォンドの手順。ウォンドこそ、一般客には何をしているのか伝わらない演技です。事前にウォンドが何であるのか、どこかで伝えておく必要があります。

 然し、演技は細かな工夫がなされていて、うまく盛り上がった手順になっていました。芝居は素人っぽかったのですが、これが学生の良さかも知れません。スゥイングジャズでクラシックなタキシードで、世界もまとまっていました。とてもいい出来です。

 

 13本目は「綾鷹」さんのカード。カードも学生の世界でどんどん進化して、もはや形がカードなだけで、ゲームすらできない素材に変化しています。然しそのシンプルさと、独特な演技が凝縮されて、独自の世界ができています。

 ただし、綾鷹さんのオリジナルなのか、学生の世界の集積なのか、部外者の私には判然としません。面白い世界ですし、とてもよくできたアクトです。プロでない人がここまでの手順をこしらえあげて、独自の不思議を見せるというのはものすごいことです。これはどこかで評価しなければいけません。

 

 と言うわけで、昨晩はとても良いショウを見ました。たまに人のショウを見ることはすごい刺激になります。赤羽も数年ぶりに行きました。帰りに何か食べて帰りたいと考えていたのですが、店が閉店間際で、仕方なく何も食べずに帰りました。いやな時代です。せめて10時までは飲食店が営業できるように工夫すべきです。空腹でしたが心の満たされた晩でした。

続く

 

 

 

 

流れをつかむ 2

流れをつかむ 2

 

 バブルがはじけたと感じたのは平成5年の5月からでした。5月6月7月と。事務所にいて一本もイリュージョンの仕事がかかってきませんでした。昔からのお付き合いの小さな仕事は時々来ます。しかしそれではチームを維持することはできません。当時男2人女性2人を給料で抱えていました。他に女房の給料も出さなければいけません。然し全く仕事が来ないのです。

 「まぁ、夏になれば大きなイベントも来るだろう」。と高をくくっていたのですが、大した本数が来なかったのです。

 バブルは平成元年からはじけていたのですが、当初はまったく他人事でした。と言うのも、芸能の世界では仕事はまったく減ってはいなかったからです。なぜ芸能の世界だけが無事だったのかと言うなら、バブル時代に企画した、会社の本社社屋や、市民会館などが平成になってからどんどん完成していったからです。

 新しい建物ができたなら、記念式典をします。どんな小さな会社でもホテルを借りて記念パーティーをします。そこにタレントが出かけてショウをします。まだまだホテルも、タレントも仕事をたくさん抱えていたのです。

 怪しくなりだしたのは平成4年の中ごろからでした。徐々に仕事の量が減ってきました。それでも多くの芸能プロダクションは、まだなんとか生きてゆけると考えていたのです。

 

 この時期に私の会社は3つの大きな出費をしていました。一つは、会社の維持費です。アシスタントを社員にして、毎月給料を支払っていたのですが、これが年額で1500万円ほどあったのです。仕事が減ったために、これが支払えなくなりました。

 二つ目は、SAMの日本地域局を維持していたことです。SAMとはマジックの世界的な団体です。平成2年に日本の地域局を設立して、日本中のアマチュアさんやプロに声をかけて、700人の会員を集めました。

 年間1万円の会費を集めて年に一回世界大会を開催し、年に6回雑誌を発行していました。大会は毎年別の都市で開催していたのですが、これが大きな出費を余儀なくされました。全くマジックの世界大会を知らない地域でいきなり300人以上の大会を開催するわけですから、実際人が集まるかどうかもわかりません。まるでギャンブルのような企画です。当然赤字も出ます。

 それでも景気のいいときには、私が個人的に100万円とか150万円くらいまでは補填していました。それがバブルがはじけると、補填ができなくなりました。SAMをどうするかは喫緊の課題となりました。

 

 もう一つは、リサイタル公演です。毎年「しんたろうのマジック」と題して自主公演を続けてきました。さらに若手のための公演もしてきました。その公演の経費はまったく私の自費で行ってきました。18回目の「しんたろうのマジック」は昭和63年に公演し文化庁の芸術祭賞をもらったのです。そこに行くまでに18回の公演をしていたことになります。

 然し、公演は費用がかかります。新作のマジックを作る。アシスタントの衣装を作る、会場費、宣伝費、色々合わせると一回に200万円かかります。

 SAMの赤字、リサイタルの出費、アシスタントの給料。どれも私の会社を大きく圧迫していました。何とかしなければなりません。当の私は、「何とかなるさ」。と思っていました。毎日娘がシャボン玉をやりたがって、事務所に降りてきます。その娘と4階に上がって、シャボン玉をします。これが気晴らしになって結構楽しいのですが、のんびりしていては間違いなく倒産です。

 このとき、赤坂の事務所の社長の姿が自分と重なって見えました。あんなに立派な容姿をした人だったのに、最後に見たときには見る影もありませんでした。誰も好き好んでああなったわけではありません。

 何を間違えたのでしょうか。世の中の大きな流れが変わったことに気付かなかったのでしょう。もう昭和は終わったのです。平成5年に至っても昭和を引きずっていたのです。社長に言って聞かせているのではありません。私自身が気付かなければいけないのです。何とかしなければなりません。

 結局、アシスタントは仕事のたびごとにパートとして支払うように切り替えました。SAMは赤字分を雑誌の発行を減らすことで切り抜けました。リサイタルは、新たな道具製作を減らし、リサイタルのみ年に一回公演することにしました。これで何とか会社を維持してゆけるようになりました。

 

 そして翌年平成6年に25回目のリサイタル公演をしました。新宿の107スタジオで二日間公演しました。二日間満席になりました。内容は、スペースイリュージョンと、和は水芸まで演じました。これが幸いにも二度目の芸術祭賞受賞につながりました。私にとっては有り難かったのですが、どうも素直に喜べませんでした。

 と言うのも、今の不況を経費削減しただけで本当に乗り切ってゆけるだろうか、と疑問が生まれたのです。確かに赤字は止まりました。然し、将来何をしていったらいいのかが見えません。今の内容を続けて行っていいなら簡単なことです。でも、仕事の本数が減っている本当の理由は私のショウ自体に問題があるからではないかと気付いたのです。

 

 この時期、芸能界に不況が吹き荒れていたにもかかわらず、狂言から泉元彌さんが出て来たり、雅楽から東儀秀樹さんが出て来たり、これまでおよそ注目されることのなかった和の世界からスターが出てきています。この人たちは、本来の古典芸能を継承しつつ新しい活動をしています。平成の芸能はある意味古典に回帰していました。

 翻って、手妻を見ると、手妻はまだまだ古典芸能として認知されていません。何が手妻なのか、何を残し演じてゆくべきなのか、曖昧模糊としていました。もっともっと手妻をきっちり伝えることが私の役目なのではないかと思うようになりました。無論、芸術祭参加公演で水芸や蝶などを演じて来たことはその一環なのですが、もっともっと和の本質を語るべきなのではないかと思うようになったのです。ここから手妻の研究が始まりました。

続く 明日はブログはお休みです。

 

流れをつかむ 1

流れをつかむ 1

 

 長くマジックの活動をしているといいときもあれば、うまくゆかないときも何度もありました。昭和57年に、オイルショックの影響で会社の接待費が大きく削られたときに、日本中に3万件もあったキャバレーが1,2年のうちにすっかり消えてしまいました。キャバレーを根城にして活動していたタレントはたくさんいたのですが、大半は廃業しました。

 マジシャンはホテルのフロアショウに移ったり、イベントの仕事に移ったりして行きました。この先20年30年は安泰だと思っていたキャバレーが、ある日影も形も亡くなったのです。キャバレーには独特の文化がありました。今思うとキャバレーはキャバレーでしか見ることのなかった芸がたくさんありました。

 体中に金粉を塗って、怪しげな踊りを踊る「金粉ショー」とか、男女がアクロバチックなダンスをする「アダジオ」、「セミヌードショウ」も随分一緒に仕事をしました。ハツカネズミをたくさん持ってきて、長い樋の中を走らせて、実況をしながら一位を決める「チュウ-レース」。お客様にはネズミの券を買ってもらい、当たると記念品などを渡していました。お客様の似顔絵を描く「似顔絵漫談」、インド人の格好をして笛を吹くと、偽物の蛇が出てくる「東京コミックショー」などは、キャバレーでは大スターでした。キャバレーがなくなるとそうした人たちも見ることはなくなりました。

 何より、生演奏をしていたジャズバンドがキャバレーがなくなることでそっくり廃業してしまい、ミュージシャンは随分生活に困ったようです。

 私は幸運にも、数年前にキャバレーに見切りをつけてイベントに乗り換えたお陰でその後の仕事は順調でした。時はちょうどバブルに差し掛かったところで、依頼される仕事の内容も、大きな話が次々に来ました。「とんでもない時代になったなぁ」、と思いました。付き合う仕事先もしっかりしたところが多く、安定して活動ができました。

 ところが、その仕事の絶頂期の昭和63年に昭和の天皇陛下が倒れられて、8月から翌年1月前半までの半年間、全くイベントが来なくなってしまいました。

 祝い事の自粛です。戦前までは「歌舞音曲停止(かぶおんぎょくちょうじ)」と言い、時の天皇陛下が倒れられたり亡くなったりすると、警察官などが街に触れて回って、芝居小屋や寄席などは数日間営業を停止したそうです。

 まさか昭和63年に歌舞音曲停止が起こるとは思ってもいませんでした。しかも強制ではなく自粛です。その自粛が何か月続くかもわかりません。これには正直頭を抱えてしまいました。でもどうにもなりません。何とか耐えるしかありません。

 この時、私は「あぁ、今私は天に試されているんだなぁ」、と思いました。「お前は本当にマジックが好きなのか」、「一生マジックをやり遂げる覚悟があるのか」、「その覚悟があるなら、今の活動休止に耐えられるか」。と職業としてのマジック活動を問われているんだと思いました。

 昭和63年から翌(あく)る平成元年一月半ばまで、貴重な年末正月のパーティーがすっかり飛んでしまいました。あてにしていた収入がなくなり苦しい日々でしたが、天皇陛下が亡くなったあとには、堰を切ったように山ほどパーティーの依頼が来ました。「耐えたお陰で何とかなった」。と一安心でした。今考えると、昭和の自粛の半年間などは、コロナから思えばかわいいものでした。

 平成になってもバブルはまだまだ続き、イベント会社も、仕事先の企業も業績が好調で浮かれていました。ある会社の忘年会では、社員一同がじゃんけん大会をして、一等の商品がイギリス製の自動車ミニクーパーがもらえました。本物の自動車が宴会場に飾られていました。二等はグァムの旅行券でした。あのころはみんなが笑顔で楽しそうでした。

 

 それから5年後、バブルがはじけて、またまた仕事が一本も来なくなりました。やむなく事務所周りをして仕事を掘り起こそうと考えましたが、肝心のイベント会社がどんどん倒産してしまい、出かけて行っても会社がありませんでした。

 あるイベント会社は、一時は従業員を40人も50人も使って、赤坂の一等地のビルで活動していたものが、私のチームの出演料が振り込まれず、どうしたのかと訪ねてゆくと、以前伺った所は別の企業になっていました。然し、年賀状などは、届いているようですので、受付嬢にイベント会社を尋ねると、「その会社は今は21階にあります」。と言います。奇妙です、このビルは20階建てなのです。教えてもらったままに20階から非常階段を上って行くと、屋上に出ました、そこに勉強部屋ほどのプレハブの建物がありました。中へ入ると、かつてお世話になった社長がいました。

 社員が50人もいたところの社長を初めて見たときは颯爽としていて、「あぁ、赤坂の大きなビルのワンフロアをそっくり使って会社を経営する人と言うのは押し出しが良くて立派だなぁ」。と思いました。

 然し、バブルがはじけてビルの屋上にあるプレハブの中で会った社長は、同一人物とは思えないほどやつれていました。もし道ですれ違ったなら気付かなかったかもしれません。影が薄く、目は伏し目がちで、体も小さくなっていました。金がない、自信がないは人を変えるのでしょう。

 そして恐らく最盛期は何十億円もの金を動かしていた社長が、私のわずかなギャラの支払いのめどが立たずに、ちまちまと言い訳をするのです。その言い訳は、私が聞いても、「あぁ、これは取れないなぁ」。と気付くような嘘ばかりでした。

 この時私は、帰り道、赤坂の砂場でざるそばを注文して、一箸一箸すすりながらしみじみ思いました。「あぁ、昭和は終わったんだなぁ。いくらこれまでよかったからと言っても、この先、昭和の仕事の仕方を繰り返していては、生きてはいけないんだなぁ」。と諦観しました。

 

 この先、もうイベント会社は頼れないと知りました。そうならどうすべきか、私は、企業や、地方自治体から直接仕事をもらって活動して行くようになりました。然し新たな流れを考えつくまでにはずいぶん紆余曲折がありました。何でもかでも、「これがだめなら、今度はこれ」と言うように簡単には次の仕事には進めません。新たな仕事場を掴むには、今、自分のしているマジックを変えなければならないのです。それが簡単ではないのは誰でもおわかりのことと思います。

続く