手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ショウほど素敵なものはない

 昨日(30日)は、座高円寺でヤングマジシャンズセッションを開催しました。継続は力と言いますが、今回で5回目の開催です。楽屋で聞いて知ったことですが、

 出演者の白菜さんが、1回目のセッションに裏方で参加していて、その時は高校生だったそうです。その時見た伝々さんの舞台に感動したそうです。そして、今回、楽屋で伝々さんに会うことが出来ました。再び感動したそうです。

 白菜さんは早稲田大学マジッククラブに入って、こうしてゲストで出演しているのですから、セッションの功績は小さくはなかったと実感します。白菜さんには、玄関に飾ったセッションの大きなポスターを差し上げました。

 

出演者の演技

 一本目の濱中友彰さんは、早稲田大学マジッククラブ。仕掛けのセットが複雑なため、急遽、一本目に出演してもらいました。絵画とお化け屋敷を組み合わせたストーリー仕立て。個性的で、よく計算された演技でした。但し、舞台が薄暗く、話もお化けネタで暗いため、3本目くらいに出てもらったほうが、効果は大きかったでしょう。

 二本目は白菜さん。四つ玉を主とした演技、おもちゃの人形が夜な夜な動き出してマジックをします。四つ玉はよく練られた演技でした。全体は黒川智紀さんに似ている点が気になります。

 三本目は。慶応卒の井上孟人(たけひと)さん。昔からゴムバトを使った鳩の演技。お終いに本物の鳩に変わるところが趣向。長く続けていると、演技にうまみが増してゆく見本のような演技。確かにうまくなりました。

 四本目は、前田将太。紙片の曲。袋卵から、テープ切り、紙卵とつながります。藤山流の定番の演技です。一つ一つ確実にものにして行ってもらいたいと思います。私の弟子である限り、年間10本や20本は大きな舞台を踏むことになります。責任ある舞台を演じているうちには自然と大きなマジシャンになって行きます。大樹がそうでした。前田もきっとそうなります。

 5本目は司会のザッキーさんによるカメレオンハンカチ。まじめな性格で、一生懸命演じる司会と、マジックは、お客様に好意的に受け取られているようです。この先プロになるなら並みの技を超えた、芸の充実が必要でしょう。と、言うのは簡単ですが、並を超えることに苦労は大抵の努力では超えられません。ご精進ください。

 対談。藤山、峯村健二、伝々の三人でよもやまばなし。コロナ禍の影響で、マジシャンの生活も一変しています。伝々さんは二か月沖縄にあるショウパブに出演していたそうです。手品屋さんが出した新店舗で、連日地元のお客さんで満員だそうです。ここでも伝々さんの人気はすさまじく、沖縄でいいお客様が出来たようです。

 峯村さんは、UGMが店舗移転になり、これまでの指導や、毎月のミニシアターショウが出来なくなり、対策に苦慮しています。近々に自主公演や、レッスン指導を定着させるそうです。

 私は、峯村さんの名古屋での活動も必要ではありますが、東京に出て来て、定期的に指導してはどうかと話しました。東京なら峯村さんから習いたい人も多いのではないかと思います。早速、来春から企画をして見ようと思います。

 アメリカでもヨーロッパでも、マジシャンが生活の場を奪われ苦労しているようです。冷静に見ればアメリカよりはまだ日本のマジシャンのほうが恵まれているように思えます。国からの補助ばかりを当てにせず。何とか我々の努力で活路を見出してゆきたいと思います。

 

 休憩後は私の傘出し手順。ここで痛恨のミス。途中のシルクの仕掛けがばらけてしまいました。然し、何とか続けて引出しに繋げました。傘のお終いは、人力車での引っ込み。そのあとおわんと玉。いつもの流れで終わりました。

 伝々さん、いつものアクトです。見るたび彼の演技の完成度に感心させられます。日頃の酒飲みの姿から、この人がどうしてこうも精緻なアクトを作り上げられるのか不思議です。舞台センスがいい人なのです。

 峯村健二さん、彼のFISMのアクトです。これが発表されたのは2000年です。もうあれから20年です。しかし演技は少しも古くなってはいません。いまだにここまで作り込まれた演技をするマジシャンはせかいじゅうを見渡しても、出て来てはいないのではないでしょうか。

 彼は、ポルトガルリスボンで開かれたFISMのコンテストのマニュピレーション部門の第1位に選ばれました。この時私もFISMのゲストで、蝶を演じています。初めて客席から彼の演技を見た時には、次々に起こる不思議を目で追うので精一杯でした。よく考えられた手順です。デリケートな性格で、演技に対する集中力は人並を超えています。今回あえて20年前のアクトを注文しました。それは正解でした。彼の生の演技を知らない20代の学生がみんな感心していました。

 その後縁あって、私と峯村さんは柳ケ瀬で毎月酒を飲むほどの仲間になりました。人の縁は分かりませんが、でも、才能ある人といつも会って話ができることは幸せです。

 

 こうして第五回のヤングマジシャンズセッションは終了しました。次回もきっとたくさんお客様が集まるでしょう。何とかこの面白さを多くのお客様に提供したいと思います。そして、今、東京と大阪で開催しているこの企画を、名古屋や、福岡、仙台、札幌など、日本各地で開催したいと思います。

 私の作る全国ツアーだけでも年間、20本、30本とあれば、マジックの公演が日本中に知れ渡り、多くのお客様を作ることになります。今までマジックのお客様と言うのは、アマチュアマジシャンとして演じる人たちばかりでした。そうした人たちも必要なことではありますが、これからは見ることを楽しみとするお客様を育てて行くことが必要だと思います。そのための手始めとして、来年は名古屋の開催を考えています。

 

 うまくすると、1月に、東京、名古屋大阪のマジックセッションの開催ができる可能性があります。その時にはまたブログや東京イリュージョンの広報でお知らせいたします。どうぞ皆様もご参加くださるよう偏(ひとえ)にお願いいたします。

続く

 

 

第5回 ヤングマジシャンズセッション

 すみません、今、ヤングマジシャンズセッションを終えて戻ってきました。多くの皆様が期待してブログを覗きに来てくださって、何も書かれていなくて失礼いたしました。

 ショウは無事終わりました。お客様もほぼ満席の状況で、演じるほうも、張り合いがありました。学生もプロと一緒の舞台を踏むことに喜びを感じていました。

峯村さんも伝々さんも、このショウを楽しみにしていたようです。この企画がもっともっと定着して、多くのお客様を集められるようになればいいと考えています。

どうぞご支援ください。

 詳細はまた明日書くようにします。

続く

下津井港(しもついみなと)

 明日はヤングマジシャンズセッションです。昨日稽古をしました。稽古は毎回発見があります。自分自身が日頃、流れで演じていたことが、もう少し気持ちを入れなければいけない箇所が見つかったりします。そんなところが見つかると妙にうれしく感じます。その後、ホルダーのほつれなどを弟子と一緒に修繕直しました。

 と、こう書くとのどかな秋の一日に思えますが、実は、来年1月のショウの企画が舞い込んできたために、急ぎ企画書を出さねばならず、会場を押さえ、あちこちのマジシャンに電話をして出演の意向を聞き、予算を計算して、それを前田がパソコンで企画書にして作成しなければなりません。稽古の途中も電話がかかってきて、なかなかじっくり稽古のできる状態ではありませんでした。久々忙しい一日でした。うまくこの話がまとまるといいと思います。

 

 今日はテレビ局のプロデューサーが訪ねて来ます。二本の番組の打ち合わせを同時にします。それが済んでから、中目黒の床屋さんに行ってきます。私の髪の毛は40年来、緒方さんに刈ってもらっています。尾形さんは初めは六本木でヘアサロンをしていて、そこには当時の映画スターや、歌手がたくさん来ていたのです。今でも美川憲一さんのお宅まで行って、整髪しているようです。

 中目黒でマーシャル緒方と言う店を経営していたのですが、子育ても終わり、年齢もあってか、店を閉め、近くのマンションを借りて、看板も出さずに、今までのお付き合いのある人だけ整髪するようになりました。

 私もその一人です。床屋さんはあまたありますが、やはり長くやってくれていた人でなければとても髪の毛は任せられません。毎月一度、それほど多くない髪の毛を刈ってもらいに中目黒に行っています。

 マーシャルを終えてすぐに事務所に戻り、今日中に企画書を完成させて、提出します。うまく行くと、来年正月早々、大きな仕事ができます。有難いと思います。

 

下津井港

 手妻の研究家で山本慶一先生(故人)が、長らく下津井と言う町に住んでいらして、20代だった私は、ずいぶん何度も山本先生のお宅に伺い、泊めて頂いて、古い資料を見せていただきました。当時手妻の研究家はごくわずかで、東京では平岩白風先生。関西では藪晴夫先生。そして岡山の山本慶一先生。他にも小倉の中野金一先生など、数えるほどで、私はつてを頼って片端から訪ねて行き、昔の資料を見せていただきました。

 その中でも資料の数の多さと言い、研究の量と言い、断然抜きんでていたのが山本先生でした。山本先生は、下津井小学校の校長先生をしておられて、その後定年退職されて倉敷市の図書館の館長をされていました。晩年は、下津井の町の、昔の回船問屋を改装して博物館を作り、そこの館長を務める予定だったようですが、私の知るところでは、博物館の完成を待たずに途中で亡くなられました。

 生涯教育者として働き、マジックは全くの趣味でしたが、ボランティア活動などもされていたようです。小学校の教え子の中でマジックの好きな少年(末原さん)がいて、その子を三代目帰天斎正一に紹介し、弟子にしてもらいました。後の六代目帰天斎正一です。研究の多くは、古書集めと、小道具集めでした。写し絵(幻灯機)の種板や、機械などを所有していました。

 私が初めにご縁を持ったのは、私が初めて芸術祭に参加して、100年前のマジックショウと言うタイトルで、古い手妻を再演した時でした。その時私は27歳、今から39年前のことです。「一里四方取り寄せの術」と言うものを復活させたくて、実物を山本先生が所有していると聞いて、その前年に下津井を尋ねました。道具は帰天斎の物でした。立派な木製の箱で、中が銅張の流しになっていて。お客様の注文で、例えば隅田川の水、バケツに30杯などと言う無理な注文も、瞬時に水を出して見せたのです。そのための銅張でしたが、見事な細工でした。これを基に製作させていただき、芸術祭参加公演で演じてに大いに話題を集めました。

 

 下津井は、町ごとそっくり歴史のかなたに置き去りにされたような街で、岡山県の南端、瀬戸内海に面して、小さな入り江があって、その周りに迷路のような細い道が出来ていて、そこに木造の家がひしめくように並んでいました。どこもかしこも古く、その昔は賑わっていたのかもしれませんが、今では日中でもひっそりと静まり返っていて、よく言えば静かですが、何ともさびれています。江戸時代は風待ち、台風除けの避難をする港で、入り江に回船問屋が立ち並び、裕福な町だったようです。

 この時期私は、九州、中国、四国のマジッククラブを指導して廻っていて、広島、岡山と車で指導をして回り、その晩に下津井まで行って山本先生宅に泊まり、手妻の話をするコースが出来上がっていました。

 先生はいつでも私が来ることを心待ちにしていて、酒と、肴を用意してくれていて、夜遅くまで話をしました。朝には下津井の港から四国の多度津の港までカーフェリーが出ていましたので、フェリーに車を載せて四国に渡りました。

「もうじきなぁ、ここから橋が出来て、四国までつながるんじゃぁ。うちのすぐそばに今、橋げたが出来ている。そうなれば、四国と岡山がつながって便利になるが、下津井の町はますます忘れられて行くじゃろう」。と寂しげに言っていました。

 私が船に乗っても去らずに、下津井の港で防波堤に立って、私の乘っているフェリーに向かっていつまでも手を振って見送ってくれました。

 山本先生は、私のショウを東京まで見に来てくれまして、私の演じるものはどれもとても喜んで見て下さり、「あぁ、実際資料で見るのと、演技を見るのはこうも違うんじゃなぁ」と感心しておられました。毎年行き来は盛んにいたしました。私が下津井に伺うのも、もう何十回にもなりました。

 体を悪くされてから、私に「必要な資料なら何でも上げるから持って行きなさい」。と言ってくれましたが、当時、私はマンション住まいでしたので、荷物を増やすことが出来ません。一里取り寄せの箱や、写し絵のからくりなどは欲しかったのですが、やむを得ずお断りしました。

 その後山本先生は国立劇場の資料館に道具と書籍を寄贈しました。今思えば何が何でも貰っておくべきでした。それでもいくつかの物は頂きました。天勝の資料、帰天斎の資料など、どれも二つとないものばかりです。今も宝物として大事にしまってあります。私が今日あるのも山本先生のお陰なのです。

続く

日が差してきたか

 30日のヤングマジシャンズセッションはほぼ完売です。後は当日分の5席くらいを残すのみです。

 

 来月、14日、15日の猿ヶ京合宿は今のところ参加者は8名です。気分転換に温泉につかって、マジックのレッスンは如何でしょう。参加してみませんか。

 

 まだはっきりとは言えませんが、1月に東京と大阪、(ひょっとして名古屋)でマジックショウが開催される可能性があります。子供を対象とした企画で、子供は無料で公演を見ることが出来ます。無論、我々の出演料は支援してもらえます。有り難い企画です。

 この企画が通るなら、私の好きなメンバーを組んで、ショウの構成を考えてみようと思います。何とか若手もベテランも、みんなが舞台に上がれるように工夫します、ようやくいい流れになってきました。

 

人力車の笈(おい=竹で編んで作った背負い箱)

 今日は傘手順の稽古です。このところ傘を出す機会が増えて来ました。それは傘のエンディングに人力車を作って、私が人力車に乗って引っ込むと言うアイディアを考えたところ、予想以上に好評で、最近はこれを頻繁に演じています。

 松旭斎天一先生の明治時代のポスターに、七変化を演じている絵柄が描かれています。そこに、傘を利用して、人力車に見立て、支那人になって引っ込んで行く絵柄があります。「これは面白い、早速真似してみよう」と、傘を二つ車輪にして、梶棒を二本、弟子と私で電車ごっこのように互いに棒を持って、私は中腰になってしゃがんで引っ張られて行きます。これなら確かに人力車に見えるのですが。先ず私が中腰で移動することが苦痛です。傘を二本しっかり押さえて、なおかつ梶棒まで手に持って、しゃがんで歩くのはいきなり腰を刺激します。足はよちよち歩きをしなければいけません。ほとんど拷問に近い動きです。

 そこで新規に捨て箱を作り、あらかじめ上手に置いておき、その捨て箱に出した傘を飾り立て、演技が終わった後に、その箱に私が座って引っ込んでゆくと言う工夫を考えてみました。結構いい具合です。いろいろ苦労の末、2年前に完成しました。そして職人に注文し、一年半後に黒漆の笈(おい)が完成しました。

 いい出来です。舞台に置いてあってもこれが人力車になるとは誰も思いません。と言うのも、飾りつけの際に、人力車になる、と気づかれないように、車輪の部分は少し高めに飾っておきます。初めから人力車に見えては趣向が生きないからです。私が箱に乗る段になって、車輪が下がるようになっていて、初めて全貌が現れます。幸いどこで演じても好評で、あちこちで使っています。

 人力車で引っ込むことで傘も傘手順の小道具も、全て舞台から消え去って、舞台が素の状態に戻ります。これが私の望んでいた舞台です。道具をたくさん飾り立てても、終わった後に道具が残らない。次の背景に速やかに移行できる。これが私の意図する構成です。結果としてとてもいい効果を生んでいます。30日にヤングマジシャンズセッションでこれを演じますので、ご期待ください。

 

この先コロナはどうなるか

 日本やアジア諸国ではコロナが収まりつつありますが、アメリカ、イギリス、フランスは依然としてコロナが収まる気配がありません。ラスベガスのショウはいまだに全部中止です。マジックキャッスルも店を閉鎖しています。ニューヨークの42番街も軒並み劇場は閉鎖です。アメリカの芸能人はどうやって生活しているのでしょうか。

 来年の秋までに、マジックキャッスルが再開されるなら、私も出演したいと思いますが。どうもその可能性は薄いように思います。今度の騒動で、アメリカのマジック界が完全に崩壊しないことを願います。何とかマジシャンも生き延びて、来年秋頃には再会できれば幸いです。と、よその国を心配するほど私にゆとりがあるわけではありません。このままでは私もどうなってしまうのか予想もつきません。

 誰もがワクチン待ちの状況でしょうが、ワクチンはそう簡単には作れません。来年夏でもできるかどうか。そうなればオリンピックの開催も厳しいかもしれません。何かと言うと世間の話題に乗っかってくる、小池都知事が、一切オリンピックの話をしないところを見ると、政治の世界ではオリンピック中止は既成事実なのかもしれません。

 オリンピックを当て込んでホテルを建設した企業は倒産の可能性があります。旅行会社、航空会社も危険です。えらい時代になりました。コロナはいずれ解決するに違いありませんが、今は神頼みの状況です。

 ただ、救いはあります。みんなが手洗いマスク、うがいをするために、今年はインフルエンザがほとんど出て来ません。インフルエンザだけでなく、風邪の類の伝染病がことごとく収まっています。今頃ならあちこちでコホコホ咳をしている人がいるものですが、今年はなかなかそうした人を見ません。手洗いマスクうがいは、大きな効果があるのでしょう。そうなら毎日マスクをすべきですが、この先、日常生活にマスクが定着して行くのはどんなものでしょうか。とても重苦しく、息苦しい生活です。

 

 どうも気持ちが晴れません。こんな時には、ぱっと頭を切り替えて、ハワイや、沖縄に行って、海を見ながらハイボールでも飲んで寝そべっていたいものです。

 ハイボールと言えば、このところ缶のハイボールが流行っていますが、缶のハイボールウイスキーの香りが立ちません。ウイスキー本来の味わいに欠けます。私が好きなハイボールはバーボンのハイボールです。

 以前はバーなどでは普通にバーボンのハイボールが飲めたのですが、今はバーボンウイスキーそのものをあまり見かけなくなりました。味が濃くて、癖の強い酒ですが、炭酸で割ることで実に穏やかな味わいになります。しかもいい香りが立ちます。如何にも大人が飲む酒です。あれが私の好みなのですが、たまにはバーボンウイスキーを脇に置いて、肴はからすみを軽くあぶったものか、福井のへしこ、或いは焼いた塩鯖で酒が飲めたなら最高です。

 ウイスキーと塩気の魚と言う取り合わせは、私に取っては体に悪いものばかりですが、バーボンの癖の強い味わいは、塩気を呼びます。へしこのような、強烈な塩気でバーボンを呑むと、「ああ、いい人生を過ごしているなぁ」。と実感します。まぁ、何のかんのと能書きを垂れてもただ酒が飲みたいだけなのです。

 コロナからへしこに話が飛びましたが、気持ちを切り替えることは大切です。同じ悩みを持ち続けていると顔つきが悪くなります。やはり芸人はいつでも呆気羅漢と生きて行きたいものです。

続く

 

 

 

グランドデザインを考える

 昨日(26日)は、和田奈月と、その仲間がやってきて、水芸の稽古をしました。来月のテレビ出演のために、藤山流の水芸をいたします。以前にも奈月は度々私の型で水芸を演じています。然し何年も経つと、振りも甘くなります。そこで、昨日お浚いをしました。また、今回手伝う新しい仲間も稽古をしました。この出演で、奈月の水芸の仕事が増えることを願っています。

 どうも私は今週は忙しく、今日(27日)は、朝から舞台公演の件で打ち合わせがあり、午後からは生徒さんが2人習いに来まます。明日(28日)は、一日中、30日のヤングマジシャンズセッションの稽古。明後日(29日)はテレビ局との打ち合わせ。午後からは道具の荷物まとめ。そして30日はヤングマジシャンズセッションです。コロナ禍の中、毎日忙しいのは結構です。

 

ミスターマジシャン待望論を書き終えて

 昨日まではミスターマジシャン待望論を書きました。これは、マジック界の各セクションに手本となるマジシャンがいて、若手の指針となるような生き方をしてもらいたいと言う思いから書きました。随分反応が良く、900人くらいの反応がありました。

 マジシャンはいかにして、マジックで稼いでゆくかについてお話ししました。今、演じている演技がお客様の求めている演技でない限り、収入にはなり得ません。そのため何を演じるかについてお話ししました。

 その話の流れの中で、コンテストの評価を当てにするなと申し上げました。コンベンションに擦り寄って生きることも、必ずしも成功につながらないと書きました。

 更には、演技そのものを見直す必要があることを書き、絵コンテを描いてみてはどうかと提案しました。その例として、私の手順。大樹の手順を紹介しました。書けばまだまだ色々なことが書けます。然し、ミスターマジシャンはここまでとしました。

 

 コンベンションの問題点

 ところで私がブログを書き始めた時に、一番書きたかったことは、コンベンションについてです。私自身20数年前に日本国内でSAMの組織を立ち上げ、プロもアマチュアも含めて700人の組織を立ち上げました。そして、機関誌を発行し、年次開催で日本各地で世界大会を運営しました。日本で一番大きなマジック団体だったのです。

 しかし私は途中、SAMから離れました。それはコンベンションを運営することの間違いに気付いたためです。そのことは同時に私の人生の失敗でもありました。私が関わったSAMジャパンの10年間は私の人生の成功を遅らせました。

 無論、多くのプロ、アマチュアの皆さんから絶大な信頼を集め、SAMは活動しましたし、今でもあの組織が良かった、楽しかったと言ってくださる愛好家はたくさんいます。然し、私にとってSAMに関わったことは私と私の事務所を疲弊させました。もし、私がコンベンションに関わることなく、別の形でマジック界を支援していたなら、マジック界はもっともっと洗練された社会になっていたでしょう。

 同時に、もし、SAMに関わっていなかったなら、私はもっと大きな活動をしていたでしょう。現実に、SAM立ち上げ後の10年目に、SAMの実務を他の会員有志に任せた時、私はそこでできた時間で手妻の道具製作と、手順作りに没頭し、先にお話しした赤と白の手順を拵え上げ、その年の秋の芸術祭の大賞がとれたのです。私に1年時間があれば、それなりに大きな仕事はできるのです。

 そうならコンベンションに関わったことの何が問題だったか、そのことを書きたいとは思いますが、まだ書けません。余りに人に話せない問題がたくさんあるのです。もう少し時期を待たないと差し障りがあります。数年後に真実をお話ししましょう。

 

グランドデザインを考える

 絵コンテだの、グランドデザインだのと言う話をすると、マジシャンの中には、「それなら誰かに自分の演技のグランドデザインを頼もうか」。と考える人が出るでしょう。当然です。確かに一度自分の手順を第三者に客観的に見てもらって、どうしたらよりよくなるのか、を尋ねることは有意義です。

 然し、自身のメイン手順と言うのは、自身の人生に匹敵するくらいの宝物です。よくよく人を見てアドバイスを求めなければいけません。自分のメイン手順を、演出する、グランドデザインを描いてもらう。となったら、決して、身近な友人や、芸能界での実績を持たないような人に演出を頼んではいけません。

 実績と言っても、マジック界の中での実績ではなく、少なくとも、東宝や、松竹などの舞台で演出を手掛けている先生方に話を持ってゆくべきことなのです。それを恐れて、手近な仲間で間に合わせようとするから、芸能人として大きく扱われないのです。

 

 以前私が、キョードー大阪の社長、橋本福治氏にリサイタルの件で相談したところ、氏はその場で、東京のパルコシアターで一週間くらい公演してはどうかと言うアイディアを出してくれました。そしてすぐにパルコシアターに電話をしてくれました。

 その上で、「演出は誰にお願いしますか」。と聞かれ、咄嗟に人の名前が出ないで躊躇していたら、「三谷幸喜さんでいいですか」。と逆に名前を出されました。びっくりです。「いや、三谷さんなら申し分ありませんが、三谷さんが手妻の演出をしてくれるでしょうか」。「頼んでみましょう、三谷さんは初物には大変興味のある人です。手妻の演出と言うのは日本でまだ誰も手掛けていないでしょうから、日本初と言えば興味を持つと思います」。そう言ってすぐに三谷さんの事務所に電話をしてくれました。

 この時私は、つくづく相談する人は頼れる人に話さなければだめだと知りました。頭の上に重くのしかかっていた黒い雲が一気に晴れたような気がしました。初めから、「無理だ、きっとやってくれない」、と思っていては何もできません。人を介してでも、もっともっと前に出て、能力ある人に接して行かなければ本当の意味でプロではないんだと知りました。三谷幸喜さんは有難いと思うと同時に、自分がその人と話ができる立場になったことを嬉しく感じました。自分が一生をかけて作り上げた手順なら、決して責任のない人に演出を頼むことなどしてはいけないのです。

 プロと言うのは、外の世界のプロと対等に話ができる人のことです。テーブル一つ作るのでも、プロの職人に頼まなければだめです。初作はベニヤ作りでもいいですが、2,3年たって手順がまとまったのなら、プロに本物を依頼しなければいけません。プラスチック製のワゴンに風呂敷を巻いて、ガムテープで止めたような道具を使っていて、プロと称しても誰も信用しません。

 同様に、自分の演技の演出を人に依頼するなら、目いっぱい無理してでも本当の演出家を頼むべきです。そこに予算を投資できないなら、自分自身の芸術性を磨いて、自分で何とかすることです。本当の本物になってください。人は本物を求めているのです。

 

 ちなみにパルコシアターはその後、改修することになり、更にコロナの問題で出演は止まっています。でも、時期を見てチャレンジしてみようと考えています。

続く

 

ミスターマジシャン待望論 8

 大樹が私の所を卒業した後も、彼の活動は決して順風なものではありませんでした。何のかんのとその後3年くらい、私の仕事を手伝いつつ、自分の仕事をしていました。

 大樹は浅草にあった婦志多(ふじた=高級お座敷、今はありません)で、月に一回、自分の会を催していました。口コミでお客様を集め、一回5人とか10人と言った、いたって小さな会を開いていたのです。ところがここに、加山雄三さんが、裏道を散歩するテレビ番組で偶然訪ねて来ました。加山雄三さんはえらく大樹の手妻を気に入り、その番組の大半を大樹の演技に紹介してくれました。この番組に他局が刺激されて、テレビ番組で大樹を使うようになり、大樹は少しテレビで顔を売るようになりました。

 いい流れです。私も何度か座敷で手妻をしていて、テレビに撮ってもらった経験があります。ただ、私が座敷で手妻をするのでは寸法が収まり過ぎていて、当然なのかもしれません。やはりここは、古い料亭で、20代の若いマジシャンが活動していると言うところがテレビ局にとっては新鮮な話題になったのでしょう。

 その後、大樹はマスコミに露出したお陰で仕事も増え、ようやく自活して行けるようになりました。そうした中、2018年にアメリカのペン&テラーが企画している、フールアスと言うテレビ番組に出演して、「七変化」を披露し、そこでペン&テラーに絶賛され、人気に火が付いてきました。その映像は無断使用でSNSで流されたにもかかわらず、1000万回以上の再生を記録し、たちまち海外から仕事の依頼が殺到しました。コロナさえなければ今も海外を飛び回っていたはずです。

 

 この大樹の活動こそがマジック界に大きな成果をもたらしました。今までコンベンションのコンテストに出場して、タイトルを取ることがマジシャンの成功の道だと思っていた若手に、いきなり、マジシャンにとってコンテストは必ずしも成功の道ではないことを実践して見せたのです。もっと外に出て、外の観客を相手にしない限り、本当のチャンスは来ないんだ。と言うことを身を持って示したのです。

 大樹の成功は、近年のマジック界の活動がともすると先行きが見えなくなり、全体に閉塞感が漂っていたいたことに対する打開策であったと思います。彼の活動にすぐ反応して、片山幸宏さんは同じくフールアスにチャレンジして、そこで優勝をしています。片山さんはFISMで第三位を受賞していますが、その後どう活動してよいのか悩んでいたようです。思い切ってアメリカのテレビに出て行ったのは成功です。

 無論、外に目を向けているのは、大樹だけではありません。タンバさんのように、海外の劇場のオーディションに積極的に申し込んで、そこで出演を勝ち取っている人もいます。彼のしている活動こそが、本来多くの芸人が生きて行く方法なのです。とてもいい流れです。もっともっと多くのマジシャンが、マジックの組織や、アマチュアの活動に頼ることなく、外に外に出て行ってくれたらいいと思います。

 

 ただし一つ申し上げておきます。大樹の成功からアメリカやヨーロッパのテレビ番組を狙うマジシャンは増えてはいます。それは間違いではありませんが、大樹の根本の成功はそこにはありません。彼が5人10人と言う小さな会を毎月続けていたことにこそ成功のカギがあります。

 彼は婦志多から頼まれて手妻の会をしていたのではありません。大樹自らが頼み込んで座敷を借りて会を始めたのです。店は別段自分のお客様をそこに呼んでくれるわけでもなく、全く大樹が料金を支払って、自前で座敷を借て会を催していたのです。

 そんな状況ですから、一回一回の公演は利益が出るどころではありません。毎回維持して行くのがやっとだったでしょう。然し、毎回会を開催すると言うことが大きな成功につながります。

 それは、私が今も人形町玉ひでで、20人程度のお客様の前で毎月手妻を見せていることと同じです。それ自体は利益は出ません。しかしそこで会を催していると、例えば、テレビ局が、取材したいとか、私の番組を作りたい、などと言う話が来た時に、

 「藤山さんは今どこに出演していますか」。と問われて、別件で頼まれた会社のイベントのパーティー会場等をテレビ局に紹介することはできません。とは言え、「いえ、どこにも出演していないんです」。と言ったら話は前に進みません。出演している場所がないと言うことは売れていないことになってしまいます。そこで、「毎月玉ひでの座敷で手妻を見せています」。と言えば、テレビ局は「そこを取材させていただいてもいいですか」。と話がつながって来ます。

 これが大きなチャンスなのです。毎月必ず出演している場所がある。しかもそこはレストランや、酒を提供する場ではなく。純粋に「藤山新太郎を見る会」がある。と言うことが、テレビ局の信用を大きくします。多くのマジシャンはそこの価値に気づいていません。「少人数の公演なんかしたって手間ばかりかかって全然儲からない」。と思っています。それは目先の数字でしかものを見ていないのです。

 大樹は私のところで学んでいますから、会の大切さを知っています。小なりと言えども、自分の支持者を集めた場所で手妻を見せる。それが毎月開催されている。これがどれほど大きなチャンスを生み出すかを知っているのです。

 小さな会でも毎月開いて、自分のお客様を作って行くのです。そして、そこで、日頃演じないような珍しい演目を見せて行くのです。毎月のことですから、レパートリーはたくさん必要です。たくさんの演技を持っていれば、あらゆる仕事に対応できます。日頃の努力を惜しんで何もしなければ何も生まれないのです。

 大きな収入を生むためには小さな投資を繰り返さなければいけません。そこを怠るとマジックの活動は急にさび付いてきます。と、私が日ごろ弟子や若手に言っていることではあっても、言葉だけでなく、実践して成功したマジシャンが出て来ると、私の発言も価値を持って来ます。これは私の自慢ではありません。どうしたらいいマジシャンが育つかと言うノウハウを皆さんにお伝えしているのです。

 漠然と将来を悩んでいたり、コンベンションに寄りかかって生きていても、可能性はわずかです。もう少し広く物を見てください。プロになる方法、プロとして生きる道はもっともっと他にあるのです。

ミスターマジシャン待望論 終わり

 

ミスターマジシャン待望論 7

 さて、大樹は、「七変化」の手順ができると、それをFISMのコンテストに出したいと言い出しました。大樹のこれまでの行動を思えばそれも理解できます。然し、私は正直な気持ちで言うなら、コンテストに出ることは無意味であると思いました。

 ここまでの手順を作り上げたのなら、もうコンテストの評価を求めるレベルではないと考えていたからです。多くの若いマジシャンにとっては、FISMに出て、そこでチャンピオンになることがマジシャンとしてトップになる道だと考えています。しかしそうでしょうか。

 私の経験で言うなら、これまで三度FISMのゲストに出演しました。(横浜大会、リスボン大会、北京大会)そこで、リスボンでは蝶を演じました。北京では水芸を演じました。日本のマジシャンで三度FISMのゲストに招かれたのは私だけです。然し、私自身は少しも満足のゆく演技はできませんでした。恐らく私の演技を見た多くのFISMの参加者も、私を高く評価をしてはいなかったように思います。

 無論、終演後は多くの海外の愛好家がが寄って来てくれて喜んではくれました。そもそも私の演技は世界的にも珍しいものですから、面白がってはくれます。然し、それは私の意図する評価ではありません。世界大会であるなら、着物を着たマジシャンと、中国服を着たマジシャンと、頭にターバンを巻いたマジシャンがいれば、見た目に世界大会に見えるから呼ばれたような気がします。どうも、マジック大会の中の色物のような扱いです。私自身、毎回、演じた後に違和感を感じました。一言で言うなら私が求めている世界とは違うのです。

 FISMの観客も、FISMの審査員も、役員も、彼らが求めているものは、簡単に言えば、指の間に物を挟んで、その物が増えるマジックが好きなのです。それが次々、現象がかぶさって、どんどん不思議が生まれてくるようなものに熱狂し、そこに理由なんて求めないのです。因果関係の全くない、ただただ不思議な現象が続いて行く演技が好きなのです。それは私から見たなら、芸能芸術とは程遠く、ただただ順番にびっくり箱の蓋を開けていくような、こけおどしにしか見えないのです。

 もし、そうした演技を私が納得できるものなら、私もこの世界に残って、彼らを追いかけて、少しでも彼らに近づこうと努力をします。然し、どう見ても彼らのしていることは一般の芸能の世界では食べて行ける代物ではないように見えます。「あんなことをしていたら、仕事にならないだろうなぁ」。と思うような演技ばかりなのです。

 それはFISMに限らず、IBMでもSAMでも、コンベンションの中で催されるコンテストは、見るたび疑問を感じます。中には優れたマジシャンもいますが、どうしてもコンテストで評価されると、コンベンション的なものの考え方が育って、一般の舞台仕事と違和感を感じるような演技が出来てしまいがちです。

 

 私が育てたいと思うマジシャンは、狭い世界のヒーローではなくて、どんな舞台に出しても喜ばれるようなマジシャンなのです。他のジャンルの芸能人に混ざって光り輝いているようなマジシャンを育てたいのです。

 そうした芸能人にするにはどうしたらいいか、そう考えて新しい手順のコンセプトを立ち上げたわけです。然し出来上がった作品でFISMに出て、評価を求めると言うのは私から見たなら逆走しているとしか思えないのです。

 FISMの審査には10年ほど前から芸術点と言う点数が加味されました。然し、審査員の中で芸術を理解している人がどれだけいるのでしょうか。何を芸術と心得ているのでしょう、そして、どんな点数をコンテスタントに下すのでしょうか。審査基準にも、何が芸術なのかと言う基準が示されていません。曖昧なままに審査がなされています。

 私は大樹に、もっと大きな世界に出て、自身の演技を訴えたほうがいいと言いました。少なくともコンベンションでの評価よりも、マスコミや劇場などで、一般の観客を対象とした評価のほうが大切だと思います。実際、私自身そうした場所で評価を得て、今日まで活動してきたわけです。

 

 然し、大樹はコンテストに出て見たかったのでしょう。結果は、アジア代表には選ばれました。然し、本選での入賞はありませんでした。

 FISMの審査員には、親狐が子を思う情も、お寺の鐘のゴンも響かなかったのです。この時のアジア予選は香港で開催され、私も参加しました。然し向こうに行ってみると、大方の流れは韓国にあって、ユ・ホジン、やルーカスの人気がコンテスト前から高く、実際のコンテストの演技も素晴らしいものでした。

 かつて、日本のSAMのコンベンションにやってきていた韓国人を思えば、彼らのレベルは数段成長していました。個々のマジシャンの実力も上がっていました。

 然し、それはコンテストの中で見た評価に過ぎません。彼らがしている演技でマジシャンとして生きて行けるかどうかと考えると、疑問だらけの演技です。

 

 かつて、彼らは日本に来た時に、みんなマーカテンドーに会いたがりました。マーカテンドーはスライハンドで海外で評価を受け、FISMで入賞し、マニュピレーションを目指す若者のスターでした。然しその彼がスライハンドでは生活が出来ず、常にそれほど売れるとも思えないようなグッズをブースに並べて、道具販売をしていました。

 彼を追いかける世界中の若者が、彼を尊敬するのは素晴らしいことですが、なぜ、彼の姿を見て、食べて行けるスライハンド演技を模索しないのか、私には常に疑問でした。そして、マーカテンドーの生き方はそっくり韓国のマジック界に継承されました、韓国の若手は必死になってスライハンドを稽古して、FISMを目指しました。そして彼らはチャンピオンを獲得しました。素晴らしいことです。

 然し、いかにしてスライハンドで生きて行くかについての答えを出してはいません。マーカテンドーの苦悩をそっくり受け継いでしまっています。いや、マーカテンドーより始末の悪い結果です。彼らは、糸ネタを使い、黒ネタを使い、角度の浅い手順を平気で作りました。そして入賞しました。然し、その手順をどこの仕事場で見せるのでしょう。一度こっきりのコンテストなら、どんな手段を使っても何とかなるかもしれません。然しその先どうやって生きて行きますか。

 結局、苦労して作った種を売り、ビデオを売って生活するしかないのですか。それではマーカテンドーと同じです。マーカテンドーに憧れて、生活まで真似てそれで満足ですか。彼らは次の時代のスライハンドマジシャンの生き方を示していないのです。

 そんな相手と大樹は戦わなければならなかったのです。然し、大樹は、FISM本選に出てわかったようです。私が、「もうこの先はプロとして生きて行きなさい。特定のアマチュアを相手にするのではなく、マジックを自分自身の仕事とするには、どんな場所でも、どんなお客様にも喜んでもらわなければ生きては行けない。自ら条件を付けずに、みんなが喜ぶ演技をしなければだめだ」。大樹は私の言うことがわかったようです。

続く