手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ビゥレットトレイン(弾丸列車)3

 今日(17日)は人形町玉ひででの公演です。毎月一回若手マジシャンと一緒にショウをしています。ただ、いつもの演技をするだけではマンネリになってしまいますので、半分は内容を変えてご覧頂いています。今回は、袖卵と五色の砂を出します。

 「袖卵」は過去には随分される方がいらしたのですが、最近はあまり演じる方を見なくなりました。私自身は、若いころに覚えはしましたが、およそ舞台に掛けることはありませんでした。たまに自分の会で演じる程度のものでした。

 実際演じてみると、道中のハンドリングは面白いのですが、卵が一つずつ出るだけの手順で、どうにも盛り上がりに欠けます。5分程度かかる手順を実際演じてみると、どこに演技の重点を置いていいのか、ちょっと困ってしまうような演目です。

 その昔なら日がな一日のどかに手妻を見て楽しむお客様を相手に、演じるほうも、のどかに演じて、それでよしとされたのかもしれません。然し今の若い人が見たならあまり面白いものとは思わないかもしれません。そのため私は、もっぱら袋卵の方を良く演じていました。

 それが数年前、帰天斎正華師匠から帰天斎流の袖卵を習い、面白いと思いました。袖の表からも裏からも卵が出て来ます。いちいち裏と表を二回ずつ改める必要がない分スピーディーです。更に私なりに袖卵に改良を加えました。その上で演じてみると、結構面白い作品になったので、今では時々演じています。

 さて、その袖卵を昨日、久々に稽古をしました。やってみるとうまく行きません。結構難しいのです。このところの私自身の物忘れもあって、手順が止まること度々です。

 結局半日、袖卵に関わってしまいました。でもやっているうちに、「あぁ、いい手妻だなぁ」。と改めて思いました。全く演じないのは勿体ないなと思いました。そこで今日演じてみます。

 五色の砂は、大本は中国の奇術だと思います。19世紀ごろ西洋に渡り、西洋でも時々演じられています。日本にも江戸時代初期に入ってきたようで、よく演じられていました。私は口上を手直しして喋りながら演じています。この口上は、20代半ばに作ったもので、基本的にはそのころから変わっていません。

 砂を説明して行く前半が、話術の能力を必要とします。後半は、砂が出て来る面白さと、水の色変わりで変化を見せますので、マジック的にも受けのいい作品です。もっともっと頻繁に演じられていい作品だと思います。

 このほかに、柱抜き(サムタイ)金輪、蝶、を演じます。30日には、ヤングマジシャンズセッションがありますので、演技が重ならないよう、配慮しています。

 

ビゥレットトレイン(弾丸列車)3

 結局私は50年間新幹線に乗り続けています。新幹線が日本の経済に果たした役割は計り知れないくらい大きなものだと思います。古くは明治政府が、いの一番に手掛けた仕事は、郵便、電信、そして東京大阪間に鉄道を敷くことでした。

 

 東京、大阪、神戸間の600㎞がつながったのは明治22年です。当初は20時間かかりました。それでも歩くことを思えば大変に便利だったのです。新幹線ができる前の東京大阪間は、特急こだま号が走っていました(今のこだまとは全く違う列車です)。こだま号に乗って大阪に行くのに、約7時間かかりました。子供のころの絵本には、こだまが颯爽と走る絵が載っていました。これが当時の日本では最速の列車だったのです。

 今から考えると550kmの距離を7時間で移動すると言うのはずいぶん遅く感じますが、未だに世界の国々の大都市間を結んでいる列車と言うのは、これくらいの時間をかけて移動するのは普通です。

 東京大阪間の移動に7時間かかると言うのはビジネスに生かすには難しい時間です。往復14時間かけて、大阪に行き、そこで8時間用事をするのはかなり無理があります。往きか帰りのどちらかを夜行列車にしなければ無理でしょう。然し、夜行を使うと翌日の仕事に響きますから、結局一晩大阪に泊まって翌日帰るようなスケジュールになるのでしょう。かつては大阪出張も一泊させてくれたのでしょう。

 これが3時間になれば、多くのビジネスマンは日帰りで仕事ができます。実際吉本の芸人は新幹線が出来たことで、毎日のように、東京大阪間の新幹線に乗って、テレビやイベントの仕事をこなしています。私でも毎月数回新幹線を利用しています。

 新幹線が出来た当初、東京大阪間は3時間10分かかっていましたが、今は2時間30分で行けるようになりました。この2時間30分と言う時間はいろいろと便利です。マジックのアイディアを考えたり、手紙を書いたり、パソコンを出して企画書を書いたり、ブログを書いたり、このブログも多くは新幹線の中で書き溜めています。少し疲れると、焼売弁当を食べたり、コーヒーを呑んだりしています。何にしても軽いデスクワークができると言うのは幸いなことです。

 もちろん飛行機も利用しますが、東京から西に行くことを考えた場合。四国は飛行機を利用します。山陽線は、広島までは新幹線を使います。広島より西は飛行機を使います。九州は無論飛行機です。北は、大概新幹線を使います。八戸、青森は飛行機も使います。北海道は飛行機です。金沢はかつては飛行機を使いましたが、今は新幹線です。

 天一祭で毎年伺う福井は通常は、新幹線で米原まで行って、そこから特急に乗り換えます。この乗り換えがいつもせわしなく、道具を持っていると、階段の上がり降りに苦労します。これが数年のうちに金沢から福井まで延びるそうですが、新幹線でつながったらマジシャンにとっては大変便利です。早くそうなることを願っています。

 今現在でも、朝、東京を立って、昼前に福井に入り、天一祭を済ませて夕方6時くらいに福井を立ち、10時過ぎに東京に戻っていますから、新幹線が出来れば、往復で2時間くらいゆとりができるでしょう。早くそうなると有難いと思います。

ビゥレットトレイン終わり

 

ビゥレットトレイン(弾丸列車)2

 12月4日の鎌倉芸術館小ホールでの落語会は、柳家三三師匠が二席落語を演じます。間に私が入って手妻をいたします。どうぞご参加ください。

 

第六十一回 鎌倉はなし会

柳家三三独演会 

演題:「御神酒徳利」他一席

 

日時:12月4日(金) 18時半開場 19時開演 

 

場所:鎌倉芸術館小ホール

主催: 鎌倉はなし会 

木戸銭:4000円(全席指定)

出演:柳家三三  藤山新太郎 桂宮治

 

お申し込みは、m-aki@df7.so-net.ne.jpまで

電話でのお申し込みは 0467-23-0992(秋山)まで

 

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ビゥレットトレイン(弾丸列車)2

 昨日は、新幹線の企画が実は戦前の昭和14年から考えられていたと言う話をしました。現代人から考えると、戦前と戦後の時代は別物と考えがちですが、色々な本を読んだりして行くと、戦前も戦後もほとんど違いがなかったことがわかります。

 私の母親に聞いた話では、戦後にあって戦前になかったのはテレビくらいなもので、戦前にはすでに何でもあったと言います。

 新幹線が完成した昭和39年と言う時代は、まだ日本は貧しく、随分明治以来の質素な生活をしていました。私の家には火鉢がありましたし、こたつの火は炭をおこしていました。親父は部屋着に丹前を着ていましたし、爺さんは煙草を煙管で吸っていました。

 そんな時代に新幹線を走らせたのですから、当時の日本人はびっくりしました。私が初めて新幹線に乗ったのは15歳の時で、新幹線が出来て5年目のことです。それは驚きの世界でした。

 先ず、ドアのあく音からして宇宙的でした。ピュウと言う音がして、すぐにシュッと空気の抜ける音がして、ドアが静かに開きます。これがまさに宇宙船に乗り込むような感覚でした。車内は、日頃狭軌の電車に乗り慣れていた者からすると、広々としていて開放感がありました。照明もいきなり天井に蛍光灯が嵌めてあるような無粋なことがなく、間接照明だけで照らされています。吊るしの広告もなくすっきりしています。

 当初の新幹線の顔つきは弾丸列車そのものでした。顔の先端は丸く突き出ていて、ライフル銃の玉にようでした。この時代にこんな顔をした列車は他にありませんでした。この顔でなければスピードが出ないんだろうと勝手に得心していました。

 私が30代までは、車両の真ん中には食堂車があり、ハンバーグやビーフシチューが食べられました。値段もそう高いものではなかったと思います。私は新幹線から景色を眺めながら食事をするのが楽しみでした。こんな体験はここでしかできません。大人になってからはビールやウイスキーを頼むようになり、シチューを肴に、ちびちびウイスキーを飲みながら車窓から景色を眺めるのは幸せでした。

 ただし、いつのころからか、随分揺れがひどくなりました。レールにゆるみが出たのか、車両のサスペンションが古くなったのか。テーブルに置いたグラスがガタガタ、ずれて行き、床に落ちそうになります。この揺れが改善されないものかと思っているうちに、やがて食堂車が廃止されてしまいました。やむなくワゴンを運ぶお姉さんから缶ビールとナッツなどを買って車窓から眺めるようになりましたが、何とも寂しい思いを感じます。世界に冠たる新幹線なら、効率ばかりでなく、食にこだわってほしいと思います。やはり出来立ての熱々の食事が食べたいのです。

 大阪からの帰りには、551の肉まんを買って帰ります。家には6個買い、自分の晩飯用に別に2個買います。ついでに太巻き寿司を買って、これが私の車中の晩飯です。551は蒸し立てで熱々です。但しニンニクが入っていますので、周りのお客様に匂いが漂って迷惑がかかります。周りに断ってから食べています。肉まんをトリスのハイボールと共に食べるのは、指導の疲れも忘れて至福のひと時です。

 

 逆に東京を立つときには、崎陽軒の焼売弁当を買って車中で食べます。これは私が子供のころ食べた味と変わらない味です。内容も、焼売が5個、卵焼き、かまぼこ、唐揚げ、焼き魚、支那竹の甘い煮物、生姜と昆布の佃煮、飯と、中央に小さな梅干し、それに杏子です。昔と同じです。唯一違うのは醤油入れが陶器の瓢箪からビニール製に変わったことだけです。

 食べる前にしきたりがあり、まず、5つの焼売に洋辛子を塗ります。そして醤油をかけて、余った分はかまぼこにもかけます。これで準備完了です。飯は俵型に8っつに区切られています。この8っつの俵をどう配分しておかずを食べて行くかが工夫です。

 私はまず俵の一つを箸で摘み取り、半分食べます。そして焼売を一つ食べます。残った半分で支那竹を三つほおばり食べます。同じことを五回繰り返して、焼売と俵が5つなくなります。梅干しは合間に頂き、次にかまぼこで俵を半分食べます。昆布の佃煮で残り半分。更に、卵で半分食べ、昆布で半分。焼き魚で半分食べ、唐揚げで半分食べます。これでおかずも飯もすべてが消えます。お終いにデザートの杏子を頂きます。

 初めからお終いまで全部おいしいおかずです。いつも残さず食べています。焼売のきゅっと締まった肉は味がしっかりしていていくら食べても飽きません。ホタテの貝柱が隠し味になっているそうですが、この味の発見は大したものです。香港や台湾の本場の中華料理屋で焼売を食べてもこれほどの味わいは経験したことがありません。冷めた焼売でここまで納得させる力があるのはすごいことです。駅弁でうまいものはたくさんありますが、私は焼売弁当を一番に推します。

 と熱弁をふるっているうちに、新幹線のことを書くのを忘れていました。

 

 先ほど新幹線が揺れると書きましたが、その後、サスペンションが改良されたのか、今の新幹線はほとんど揺れなくなりました。室内の音も静かです。その上、新幹線の顔つきが変わってしまいました。かつての弾丸の面影はなく、今の新幹線は、南米の淡水魚のピラルクのような顔をしています。よくこんなデザインを考え出すものだと思います。異常に鼻が長く、滑(ぬめ)っとした顔でホームに入ってくる姿は、まるで宇宙基地に異星人のロケットが入って来たかのようです。我々日本人は見慣れていますから、それを普通に受け止めますが、海外の人が初めてこの光景を見たなら、日本の科学技術に震えが来るでしょう。

 私は、富士に指導に行くときには、東京からこだまに乗ります。1時間10分で富士に着きますが、その間、何度か停車中にのぞみと行きかいます。この行きかう時の音が実に未来的です。初めに対向車がホームに近づくと、小さくガーと音がします。すぐにグワンと大きな音がしてものすごい風圧がきます。先頭車と行きかう瞬間乗っている車体が左右に揺れます。そして、シュシュシュシュと16回音がします。これは16両編成を意味します。一両毎にシュと音がして、16両が過ぎると音は遥か彼方に消えて行きます。

 日本人にとっては日常のことですが、こんな音が聞けるのは、未来の世界にいるからこそで、メキシコでもポーランドでも、世界中のどの国でもこんな音は聞いたことがないはずです。外国人が新幹線に乗りたがる理由がよくわかります。私はいつも焼売弁当を食べながら、停車した車内で、行きかう新幹線の音を聞きつつ、「すごい国に生まれたなぁ」。と、新幹線の科学技術に感動しています。

続く

 

ビゥレットトレイン(弾丸列車)

 17日は人形町玉ひでで公演します。若手マジシャン4本と、私の手妻です。11時30分オープン、12時から食事、12時30分から若手マジックショウです。

 30日は、高円寺、座高円寺でヤングマジシャンズセッションの公演です。峯村健二、伝々、他若手マジシャンです。真ん中に峯村、伝々、私の対談を挟みます。6時オープン。6時30分開演です。席数わずかです、お早めにお申し込みください。

 12月4日、鎌倉芸術文化会館での落語会、柳家三三師匠の落語、長講「芝浜」が聞けます。そこに私の手妻があります。神奈川県のお客様、たまにじっくり落語と手妻は如何でしょう。どうぞお越しください。

 

 ビゥレットトレイン(弾丸列車)

 新幹線のことを海外ではビゥレットトレイン(bullet train=弾丸列車)と呼びます。今でこそ新幹線は海外でも、「シンカンセン」で、通用しますが、それでもビゥレットトレインと呼ぶ人もたくさんいます。

 実はこの呼び名は、昭和14年に当時の鉄道省が弾丸列車計画と言うものを立案した時の名称で、東京から、大阪、下関を経て、海底トンネルで釜山に上がり、そこからソウル、平壌を経て、満州鉄道とつなげ、奉天長春、新京とつなげて、さらに先のシベリア鉄道とつないで、モスクワ、ベルリン、パリまで伸ばそうと言う遠大な計画があったのです。これが弾丸列車計画です。

 当時の日本は、朝鮮半島も、満州も自国の領土であったため、満州の首都、新京と、朝鮮の首都、ソウル(当時は京城=けいじょう)、そして東京、の三都を最短で結ぶ鉄道網を必要としていたのです。現実には昭和初年でも、東京から東海道線山陽線、フェリーに乗って、朝鮮鉄道と、満州鉄道を乗り継げば、約3日間で新京まで行けたのです。これを一気に同じ鉄道でつなごうとする計画です。当時の蒸気機関車(満鉄には世界に冠たる蒸気機関車亜細亜号が時速130キロで走っていたのです)。これと、一部電化された鉄道を併用して、二日間で新京まで行くと言う企画です。

 実際、昭和初年の東京駅では、満州奉天でも、北京でも、ベルリンでも切符を買うことが出来たのです。但し日にちがかかります。それを満鉄の亜細亜号を改良して、時速200キロまで性能を上げたなら、東京新京間は2日間で移動できます。朝6時に東京を立てば、夕方4時に下関に付きます。そこから地下トンネルを通って、釜山に着くのは深夜11時です。そして早朝6時にはソウルに着きます。ソウルまではわずか24時間で到着します。そこから北に上って、満州に入り、新京まではさらに24時間で行けます。当時の世界の鉄道と比較しても驚異的な速さです。

 

 さてそれを実現させるためには、日本の鉄道に大きな問題がありました。日本の鉄道は、狭軌と言って、車軸の幅が狭かったのです。満鉄の亜細亜号は、広軌(1435㎜)の車軸幅の列車ですから、日本国内の鉄道では使えません。地形の複雑な日本で列車を通すには狭軌で作ることのほうが経費が罹らず、簡単だったのです。それを広軌にすればカーブもゆるく作らなければなりません。そのため在来線を広軌に変えて使うことは不可能です。結局新たに、東海道線山陽線をもう一つ作らなければならないのです。

 そこで鉄道省は早速用地買収に取りかかります。かなりの部分、在来線に並列に進みますが、ところどころ時速200㎞の列車が通すために、緩いカーブにするための用地買収をしました。日本坂トンネルは設計上やむを得ず新規に作らなければならず、実際掘削が始められました。昭和16年のことです。今は新幹線が利用しています。

 結局弾丸列車計画は、太平洋戦争のために中断し、戦後は、満州国は崩壊し、朝鮮も独立したため、アジアへの野望はついえました。然し、弾丸列車計画は消えたわけではありません。当初、蒸気機関車で走らせようとしていた列車は、電化に変わり、弾丸列車は新幹線と名前を変えました。スピードも、200㎞から300㎞と機能をアップさせ、東京大阪間を当初は3時間10分で結ぶ企画が作られました。

 新幹線が考えたプランで今日までも世界が称賛するアイディアがあります。それは、新幹線は一か所も地面の上を走っていないのです。新幹線のレールを見たらわかりますが、殆どの区間は、橋脚を建ててその上にコンクリート製の大きな樋(とい)を作り、その樋の中を新幹線が走っています。そのため、新幹線には踏切がありませんし、在来線とも交差しませんから、人とも、自動車とも、在来線とも接触しません、当然、事故も起こらないわけです。これはとても費用の掛かるやり方ですが、これによって格段に安全は守られます。また、台風や、地震津波災害からも守られています。地震によって、レール幅が広がり、列車が脱線すると言うことがないのです。災害の多い日本ではこうする以外に安全を確保することはできないわけです。

 

 私が初めて生の新幹線を見たのは小学校4年生の時でした。昭和39年。オリンピック開催に合わせて新幹線が出来ました。ニュースなどでは度々走る姿を見ていましたが、実物はまだ見ていなかったのです。

 それがあるとき、友達が、「近所に新幹線が走っているよ」。と教えてくれたのです。そこで数人の仲間と歩いて、新幹線の走っているところまで行きました。当時私は池上に住んでいました。そこから20分くらい歩いたと思います。そこは住宅街で、馬込と言うところでした。こんなところに新幹線が走っているとは思えません。半ばあきらめかけた時に、友達が「この下だ」。と言いました。私は、てっきり高い橋げたの上で悠々と新幹線が走っているのを期待していましたが、橋の上から眺めると、そこはまるで川底のように、低く彫り込んである溝の中でした。

 然し、間違いなく新幹線は走っていました。シュウシュウシュウと音を立てて新幹線が走り抜けて行きます。子供たちはしばらく走る新幹線を黙って見続けていました。「これはすごい、池上線とは大違いだ、ガッタンゴットンなどと言う音とは違う。まるで宇宙船を見るようだ」。私は呆気にとられました。子供心にも、周囲の世界とあまりに違い過ぎる世界がそこにあったのです。

 そうなると、今度は何とか新幹線に乗って、その速さを体感してみたい。と考えました。然しそれを実現させるのは容易ではありませんでした。私が舞台でマジックをするようになって、15歳で名古屋に行ったときに、その目的は達成できました。

続く

 

ああしてこうすりゃこうなるものを

 私は2月のブログで「ロックダウンは意味がない」と書きました。仮にロックダウンをして、一時的にコロナの感染が収まったとしても、ロックダウンを解除すればまた感染者数が増加して、ロックダウンの意味がなくなるからです。

 3月に学校閉鎖をしたときには、「元々若年層に感染しにくいコロナウイルスを抑制するために学校閉鎖をするのは意味がない」。と書きました。今では学校閉鎖は間違っていたと言うのは誰もが理解していることです。間違っていたなら、さっさと学校を再開させるべきですが、大学などの授業再開は遅れたままです。

 学校閉鎖はスポーツ界に暗い影を落としています。学校の施設が使えない。生徒を集められない。観客が集められない。多くの問題を抱えて維持が難しくなっています。それでも仲間を集めて練習すると、クラスターなどと言って、集団感染をマスコミにリークされます。何人感染しようと、それで重症になった若者はいないのです。みんな完治しているのです、そうなら風邪をひいたことと同じことです。それを針小棒大にマスコミが騒ぎます。お陰で練習再開が思うに任せない状況です。

 馬鹿な騒動はおやめなさい。コロナが大したウイルスでないことはみんな気づいているはずです。それを大袈裟にして、騒いでいるのはマスコミです。そして都知事や府知事です。お陰で人は出歩かなくなり、経済はどんどん委縮しています。

 

 今は一生懸命、コロナの責任を感染者にかぶせています。感染者の名前を出して大騒ぎをして、自分たちは逃げ隠れしています。逃げる理由もなければ隠れる理由もありません。感染者を悪人に仕立てて騒げば、全てが丸く収まりますか。被害者を加害者のように扱って魔女狩りをすることが楽しいですか。そこに何の意味がありますか。

 毎日のように芸能人が感染者として、ニュースに写真入りで載っています。彼らがテレビに顔を晒すほど悪いことをしましたか。なんの罪あって報道するのですか。

 また、毎日マスコミが感染者の数を公表することに何の意味がありますか。「東京の感染者は200人です」。と報道されて、誰がその情報をメリットとしますか。知っても意味のない情報ではありませんか。それよりも連日の企業の倒産件数のほうが生活に重要ではありませんか。経営者の自殺のほうが深刻な問題ではありませんか。

 

 焼鳥屋や、飲み屋の親父が廃業することは、焼鳥屋一軒が倒産することではありません。焼鳥屋が廃業すれば、店を貸していたビルのオーナーの経営が危うくなります。それがやがてビルに金を貸していた銀行が傾いてきます。そうなると、銀行の支店長が買おうとしていたクラウンが売れなくなり、ビルのオーナーが買おうとしていたレクサスが売れなくなります。焼鳥屋の親父が買おうとしたミラも売れません。クラウンもレクサスもミラも売れなくなるのです。焼鳥屋の廃業が自動車産業を脅かします。それが地域社会の不況につながって行きます。

 マスコミも、政治も、視聴者も、すべて、コロナを他人事に考えて、感染者を加害者に仕立てて、全ては自分が関与しないところの話だと、逃げて隠れているうちに日本の景気は悪化します。コロナを常に被害者意識からしか見ようとしない意識から早くに脱却して、感染を恐れるのではなく、普通の生活に戻らなければいけません。それには無用な煽りをする人たちを抑えなければ、この先の生活が成り立たなくなります。

 いくらGOTOキャンペーンで割引制度を取り入れても、マスコミが感染者を煽っている限り、マッチポンプの関係は変わらないのです。煽りを止めさせない限りGOTOキャンペーンの税金は垂れ流されます。

 私は3月に、スゥエーデン方式が正しいと書きました。今もそう考えています。結局ロックダウンをしようと、非常事態宣言をしようと、感染者の数は変わりません。それはロックダウン以降の感染者の数を見たなら明らかでしょう。ワクチンも特効薬もできていない状況で感染を抑えることは不可能なのです。

 確かに、手洗いとマスクは効果的です。然し根本的な解決ではありません。幾らマスクと手洗いを勧めても、現実に山手線や中央線にラッシュ時間に電車に乗っていれば感染者は確実に増えます。にもかかわらず日本でそれほど感染者が爆発的に増えないのはコロナウイルスがそもそも感染力の弱いウイルスだからです。また感染しても、重い持病のある人か、衰弱した年寄りでもない限り、重症にはならないのです。そうであるなら、あまり神経質になる必要もないはずです。

 衛生面に気を付けて、手洗いマスクをして、極端に密な接触を避けて、日常生活を送っていれば、別段危険な状況には至らないのです。そうなら、スゥエーデンが初めからやっている方式と何ら違いがないのです。

 

 ところで、表題の、ああしてこうすりゃこうなるものを、と言う言葉は、昔、松鶴家千代若千代菊師匠と言う漫才さんが、舞台でやっていた都都逸(どどいつ=7775の洒落唄)で、その唄は、「ああしてこうすりゃこうなるものを、知りつうこうしてこうなった」。と言う、恋の唄です。一連のコロナの騒動を見ていると、どう考えても、知りつつこうしてこうなるにきまっているのに、誰も責任を取らず、まだ大騒ぎを続けて、誰か犯人を捜して、自分だけ逃れようとしています。

続く 

 

お茶漬け

 今週末は、玉ひでがあります。若いマジシャン4組が出て、私が出ます。私も、毎回必ずめったにかけない作品を1,2作出しています。当然、余り演じない作品は練り込みが足らないのですが、こうしたものをやらないままにしていると、結局自身のレパートリーを狭くしてしまいます。私の会であれば理解者も多くご覧になっていますので、こんな時こそ以前の作品を出してもう一度、細部を考えるようにしています。

 17日、11時30分からオープンします。詳細は東京イリュージョンまで。

 

 30日のヤングマジシャンズセッションは、残り20席です。まだ今なら間に合います。いいメンバーですからぜひお越し下さい。座高円寺、6時開場、6時半開演です。

 

お茶漬け

 昨日は卵かけごはんが出たので、今日はお茶漬けを書きます。私はそれほどお茶漬けが好きなわけではないのですが、それでも人生で食べた食事の中からベストテンを選べと言われると、お茶漬けが3っつ入ります。

 一つは京都貴船の鮎茶漬け。二つ目は、松江の料亭、皆美の鯛茶漬け。三つめは博多の鯛茶漬け。この三つは、甲乙つけがたいほどうまいと思いました。

 貴船の鮎茶漬け、これを食べたのは後にも先にも一回きりで、しかも学生の時でした。貴船に遊びに出かけた時に、川沿いの料理屋に入ろうとしましたが、値段が高くて入れません。

 うろうろしているうちに茶漬けの店を見つけ、入ってみました。店の作りは大したものではありません。出てきたものは、蓋つきの茶碗と柴漬けです。蓋を開けると、飯の上に鮎の甘露煮が乗っています。鮎は小さく、見かけは黒くておよそ冴えません。これにお茶をかけて、蓋をして、3分待ちます。蓋を取って、鮎を箸で押すと簡単に崩れます。鮎を小さくほぐしてして、その上に柴漬けを散らばせて、飯と一緒に頂きます。

 これが絶品です。甘露煮の甘みがお茶によって沈められ、鮎のわずかな脂身が飯と合わさって飯の旨味を引き立てます。元々鮎は淡い味ですが、ところどころ甘露煮の醤油がしみ込んでいて味を引き締めます。しかも沈んだ醤油味がいいだしのつゆに飯を入れたようになります。わずか一膳の飯ですが、食べた後うなってしまいました。茶漬けを旨いと思った初めての体験でした。

 

 松江の鯛茶漬けは、宝屋さんというショッピングセンターにマジックショウで出演した折、専務の西川さんが車を飛ばして、中心街の料亭まで連れて来てくれました。ここは宍道湖を一望に臨める好立地に日本庭園を構え、大きな店を構えている皆美と言う料亭です。ここは入るだけでも躊躇してしまうような立派な店です。とてもショウの出演の合間に食べに行くようなところではありません。

 ここのお店で、宍道湖を眺めながら、お茶漬けでもとなります。然し、簡単な料理ではありません。何品も並んだ膳が出て来ました。刺身や、なますが出て、そして、いよいよ鯛茶漬けが出ました。

 茶碗にはご飯が盛られています。別の皿に、そぼろの鯛の身と、卵の白身のそぼろ、黄身のそぼろ、それに刻んだ海苔が並んでいます。それらを適当に飯にかけ、だしをかけて食べます。鯛の身は噛むとわずかな脂味を感じます。卵は甘く作ってあります。これが飯と、だしとに合わさって、今まで体験したことのない旨さでした。

 松江では何かと不昧(ふまい)公好み、と呼ばれる独自の価値観があります。不昧公とは江戸時代の松江の名君と言われた殿様で、茶道に精通していて、松江の今日の文化を形作った人です。この殿様の審美眼が、不昧公好みと呼ばれるもので、掛け軸から、茶室の拵えから、服装、食事に至るまで、不昧公好みと言うと高級品、レベルの高い文化を意味します。

 このお茶漬けもまさに不昧公好みで、卵の甘み、鯛のこく、だしの香り、米の甘み、が混ざって巧さが重層的に迫ってきます。

 さらにこれに、カレイのから揚げが付きます。カレイはお客様が来てすぐに揚げ始め、じっくり30分かけて揚げます。身は小さいものですが、揚がったカレイは、頭から尻尾まで全て食べられます。鰭などは煎餅のようにぱりぱりしています。骨まできっちり上がっていて残すところがありません。朝、宍道湖で上がったカレイだそうで、小さくても、十分満足する味わいです。刺身から生ものから、カレイのから揚げ、そして鯛の茶漬けでフルセットです。このお茶漬けが一番贅沢な一品でしょう。

 

 博多の鯛茶漬けは松江のものとは違います。これは飯の上に鯛の刺身を乗せて、そこにゴマダレを掛けます。それにだしをかけて食べるものです。鯛の身のほのかな脂の乘りに、ゴマダレを加えることで、味が強まります。そこへだしをかけて食べるわけです。味はさっぱりとしています。この茶漬けは鯛の刺身の良し悪しで味が決まります。脂の乘りの良い、だしをかけるとほんのり脂が浮いてくるような鯛ならうまいことは間違いありません。

 その鯛に、熱いだしを掛けて、蓋をして少し置き、レア状態になった鯛の刺身を口にほおばります。しまった鯛は、味が凝縮して、噛むといい味が出ます。これと飯とだしが合わさることで美味と感じます。

 弟子の大樹や、前田が大好きな一品です。但し、いつも酒を飲んだ仕上げに食べますので、私は小料理屋の鯛茶漬けしか知りません。ここの鯛茶漬け、と決定できる店をいまだ知らないのです。いづれ博多のどこかいい料理屋に入ったおりに決定的な茶漬けを知ることになるでしょう。その折またご報告します。

続く

 

 

 

 

岐阜 徳専の卵かけごはん

  昨日(11日)は、名古屋の指導から帰って、片づけをしているうちにくたびれてしまい、すぐに寝てしまいました。私のブログを期待してくださっていた皆様には失礼いたしました。

 10日の朝は台風で新幹線が止まるのではないかと心配し、いつもは朝10時に家を出るのですが、この日は朝7時半に家を出ました。前田は7時半前に来ています。私が一人で指導に出かけるときは、荷物が重いため、いつも中野駅まで前田が運転をします。富士は、通常は1時から指導をしますが、台風のため、前日に10時から指導をしますと伝えました。そして8時半に東京駅着、新幹線を見ると、間引き運転もありません。

 「あぁ、これなら通常に出かけてもよかったかな」。と思いましたが、それは結果論です。台風が少し本州に寄って進んでいたなら今頃突風が吹いて、木が倒れたりして事故が連発していたでしょう。

 と言うわけで富士の指導は、10時から、午後3時半まで致しました。基礎指導プラス個人指導ですので、5時間くらいかかります。富士は皆さん熱心です。四つ玉をする人、リングをする人、お椀と玉をする人、みんな少しづつですが上達しています。

 さて、指導を終えてから新幹線に乗り名古屋へ、さらに在来線で岐阜へ向かいま

す。辻井さんには、いつもの時間を早めて、7時集合にしてもらいました。無論、峯村さんも一緒です。行く先は岐阜一番と噂の料理屋、徳専です。1年前にも伺いましたが、忘れられない店です。私はいきなり常温の三千盛りを頂きました。飲み口のいい酒で、うっかり気を抜くと幾らでも入ります。

 料理は、何品目かに北海道産のシシャモが焼かれて出て来ました。長さ10センチ、皿に一匹盛られてちょこんと出ました。見かけは何とも寂しいのですが、頭からかじりつくと適度に脂がのっていて、しかも軽い塩けが合わさって実にいい味です。始めはなんだこんなものと思いましたが、このサイズが、酒飲みにとっては、腹に邪魔にならず、酒を引き立てるつまみとしては最高です。

 シマアジとマグロの刺身が出ましたが、これも量がわずかです。然し、素材がいいせいか、これで十分に楽しめます。お終いの方に松茸が天ぷらではなく、フライで出て来ました。噛むと中は温かく、松茸の香りが漂います。これこれ、この香りです。この香りを楽しみながら、「今年ももう10月になったんだなぁ」。としみじみ思います。先週は、岡山まで行きながら松茸にお目にかかれませんでしたが、岐阜で再開できたことは喜びです。岡山の高上社長もいい人ですが、辻井さんはとてもいい人です。

 と、話はここで終わるはずなのですが、締めにおじゃこごはんが出て来ました。そうです、徳専噂の卵かけごはんの第二段。おじゃこご飯です。先ず茶碗に温かい飯が出て来ます。通常の半分の量の飯ですが、私としてはいつもの糖尿患者の晩飯の量です。然し、飯が少し違います。キラキラ輝いています。

 少し箸でつまんで食べてみました。甘みがほのかに感じます。いい米です。ここにおじゃこを二種類かけます。通常の塩で炊いたおじゃこと、山椒と一緒に醤油で炊いた茶色いおじゃこです。これが料理人の魔法です。塩で炊いたおじゃこの塩味、醤油で炊いたおじゃこの醤油味と山椒味、これが飯に混ざって異なる塩気が交互に出て来ては飯を引き立たせます。「うまい、飯のおかずは、飯を引き立たせるものでなければいけない」。こんな基本的なことを、私は忘れていました。

 たらこでも、塩鮭でも、飯を引き立たせるからうまいのです。と、感想を話すと、峯村さんが、「こないだ食べたからすみもそうですねぇ」、と未練たっぷりにからすみの話を持ち出しました。すると、辻井さんは、「それなら来月は八祥でからすみを食べますか」。と言うと、みるみる峯村さんが笑みを浮かべました。私が、「峯村さん、おじゃこ飯を食べながら、からすみの話をするのは浮気ですよ」。と言うと、その言葉に恥じらいも見せずに、「さっきから噂していた、卵かけごはんも食べてみたいですねぇ」。と、浮気の二股話です。言われて私も急に卵かけごはんが食べたくなりました。

 然し、飯を半分にして終わるところが会席膳の余韻なのでしょう。それを腹いっぱい食べるのはまるで大衆食堂の労働者のようで失礼かと思いましたが、食べたい欲求は収まりません。そこで、おじゃこ飯を食べながら、卵かけごはんを注文しました。傍から見たなら無粋で間抜けな男供です。

 そして飯が出て、生卵が出て来ました。「ご飯はこれですべて終わりですので」と、くぎを刺されました。馬鹿な客が三杯目を注文されたらどうしよう。と、牽制球を投げてきたのでしょう。そう言われると悔しいので、三杯目を頼んでレトルトカレーでもかけてやりたいと思いましたが、一流料理屋で馬鹿な争いをしても意味がありません。

 さて、この卵は、奥美濃地鶏と言う種類だそうで、最高級の卵だそうです。つるんと丸い黄身が白身の上で盛り上がっています。醤油をかけて、飯にかけ、混ぜて食べますと、確かに卵の黄身の味わいに、ほのかに脂身のようなこくを感じさせます。「あぁ、いい卵は脂みのこくを感じるものなんだ」。改めて納得です。飯との相性も抜群です。あまりにうまくて、前に出て来た料理を忘れてしまいます。こうして、三人は食事に満足して、柳ケ瀬のグレイスに向かいました。

 グレイスはロシア女性はいませんでした。チーママは淡い水色の単衣の着物で迎えてくれました。ママは濃い目の単衣です。帯には厚い刺繍でウサギが描かれています。お月見に合わせたそうです。いい趣味です。ここでまたばかばかしい話をして、11時。ホテルに行きました。さすがに私は早朝から起きていたので、少し疲れました。このまま部屋に入って休みました。

 翌朝は峯村さんと食事をして、名古屋駅まで一緒に行き、そこでお別れしました。指導会場に行き、半日指導をしました。指導を終えて、少し時間があるので、その周辺を歩いてみました。

 円頓寺と言う古いお寺があり、大きなアーケードがありました。昔栄えた地域なのでしょうか、何十年も名古屋に来ていながらこの町は初めて来ました。周囲に立派な倉造りの家が並んでいます。一度寂れた地域が、再度見直されて、若い人が集まってきているようです。名古屋にこうした古い美観地区があるとは知りませんでした。この町は名古屋の新たな核になるやもしれません。来月又散策してみます。

続く

台北の福建炒飯

 今日(10日)は富士の指導です。然し、今日は簡単には行けないかもしれません。日中は台風が一番激しい時間だと思います。新幹線が動いてくれることを願っています。余裕を見て、2時間ほど早く東京駅に行くようにします。

 晩には岐阜に行き、柳ケ瀬で食事をします。このところこのスケジュールが定着しました。月に一度、辻井さんと峯村さんとの飲食会が楽しみです。

 明日は名古屋の指導です。今回は大阪には行かず、名古屋から帰ります。

 

台北の福建炒飯(たいぺいのふっけんちゃーはん)

 もう20年以上前のことですが、台北でレクチュアーをしに行ったおりに、時間を作ってあちこち食事をしました。台北はどこで食事をしてもおいしい店が多く、朝昼晩の食事たびに新しい店を探すのが楽しみでした。

 朝は屋台でお粥を食べました。お粥の中に油で揚げた細長いパンが入っています。何でもない食事ですが、このお粥のスープと塩加減が絶品です。そして揚げパンをお粥につけながら食べるのですが、この味が忘れられません。結局台北にいる間は毎朝屋台のお粥を食べました。

 昼はヤオハンデパートの近くの食堂で、ビーフンを食べました。ビーフンは既に炒めてある真っ白な麺に、お好みでトッピングを乗せます。私は肉野菜炒めを乗せて食べました。サービスにスープが付きました。肉野菜炒めの乘ったビーフンは、東京の台湾料理屋で食べたものとそう違わない味でした。

 驚いたのはおまけに付いてきたスープです。白湯(ぱいたん)スープに小さな白身の魚が一切れ入っています。魚はほんの3㎝角ほどのもので、大したものではないのですが、素晴らしかったのは白湯スープです。薄い塩味で、それでいてコクがあり、私の知る限り、おまけで付いてきたスープの中で、これ以上旨いスープは後にも先にも飲んだことがありません。これを只で飲ませる料理人の技は大したものです。

 数年後台湾でマジックコンベンションが開催され、私は蝶と水芸を演じました。その時に母親を連れて行きました。

 晩に、新市街の方にある香港飯店と言う大きな店に行きました。生のエビを是非食べてくれと店が勧めますので、エビとビールを頼みました。生のエビが深い皿に入っていてそれを剥いて、たれをつけて食べる料理が出ました。一度に20匹くらい生きたエビが出てきて、それを手で剥いて食べるのですが、いちいち殻を剥かなければいけません。手間がかかるのでなかなか食べきれません。それでもビールのつまみには最高です。残しては勿体ないので全部食べました。

 さて、その後で、何か炒め物を2,3品食べたいのですが、エビをたくさん食べたため、あまり多くは食べられません。何か適当に腹にたまって、量の少ないものはないかとメニューを見ていると、福建炒飯(ふっけんちゃーはん)と書かれたものが目に留まりました。炒飯の上にあんかけの炒め物が乗っています。「これなら量も少なくて、炒め物と一緒に飯が食べられるからちょうどいい」。早速福建炒飯を頼みました。

 炒飯は珍しくはありませんが、福建炒飯と言うのは初めてです。出てきたものは、大きな皿に、かなり立派な炒め物がどっさりかかっています。肉と野菜の中に袋茸(ふくろたけ)と言うウズラの卵くらいのサイズのキノコがたくさん入っていました。キノコの味はあまりはっきりしたものではなかったのですが、触感が素晴らしく、肉や野菜と併せて食べると旨さを感じました。炒めものは醤油味で炒めてありますが、ほのかに甘みがあり、それぞれの野菜がシャキシャキしています。

 少し食べて行くと炒飯が出て来ました。炒飯は卵と一緒に炒めてあり、飯が卵で黄色くコーティングされています。飯自体には具がなく、唯一卵が合わせてあるだけです。この炒飯とあんかけの炒めものを口に含んだ時の相性が絶品で、

 「あぁ、世の中にこんな食べ物があることを知らなかった。もし今晩ここにきてこれを食べなかったら、一生この味を知らずに終わっていただろう。そうなら人生で大きな損をしたことになる。今日、福建炒飯を知ったことは何て幸せなことだろう」。

 と、正直思いました。たかが炒めものの乘った炒飯です。然し、今も忘れられないほど見事な味でした。

 

 その後、日本に戻ってから福建炒飯を探しましたが、なかなか見当たりません。たまにあっても食べてみるとがっかりです。台北で食べたあの味わいはどこにも見当たらないのです。いつしか私は日本で福建炒飯を食べることを諦めました。

 

 落語に目黒のサンマと言う話があります。将軍様が今の目黒のあたりで鷹狩りをして、昼に百姓家によって飯を所望します。百姓は、飯だけでは失礼と、焼き立てのサンマを添えて出します。鷹狩をした後の将軍様は空腹で、その上焼き立てのサンマですから、旨い、旨いと腹いっぱい食べます。

 城に戻ってもサンマの味が忘れられません。そこで料理人にサンマを所望します。江戸時代は脂の多い魚は傷みが早いため、身分の高い人は食べなかったのです。そこで料理人は、サンマを仕入れて、油抜きをし、味を加えて煮魚にして出します。それを一口食べて、あの時の百姓家で食べたサンマとあまりに味が違うため、料理人を呼んで、「何だこのサンマは、どこのサンマか」、と尋ねると、「銚子沖で取れたものでございます」。すると将軍様は、「何、銚子、銚子はいかん、サンマは目黒に限る」。

 あの落語と同じです。福建炒飯は台北の香港飯店に限る。お後が宜しいようで。

続く