手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

手妻が語る世界

 明日、人形町玉ひでで公演があります。毎月一回の公演が定着してきて、このところ観覧希望者が増えています。有難いことです。玉ひではご存知と思いますが、軍鶏鍋(しゃもなべ)の専門店です。260年間同じ場所で、ずっと軍鶏鍋を出してきました。

 それが、明治時代の頃、料理人のまかないとして作っていた親子丼をお客様に出したところ、大人気となりました。然し、玉ひでとしては、あくまでお店は軍鶏鍋がメインですので、親子丼は昼の内だけ出しています。

 その親子丼を食べようとお客様は長蛇の列を作ります。時には2時間待ちと言う状況になります。確かに、玉ひでの親子丼は、味のしっかりした軍鶏肉が濃い目のだしで味付けされ、ふわっと柔らかい卵と合わさって独特の親子丼に仕上がっています。

 然し、いくら美味いと言っても、これ一杯を食べるために2時間並ぶと言うのは、人生の選択の分かれ道と思います。そこで、待たずに食べられる方法として、私の手妻を見ることでゆっくり、座敷の雰囲気を楽しんで、江戸の芸能を見ながら親子丼を食すのはいかがかと、手妻と親子丼の企画を考えたのです。幸いこれは当たっています。

 どうぞ、ご覧になりたい方は、お申し込みください。今日夕方6時まででしたら、予約を受け付けます。当日申し込みは、お食事は付きません。また、満席の際は入場できない場合もあります。悪しからずご了解ください。ご予約は、03-5378-2882

 

手妻が語る世界

 手妻が、或いは、手妻師が手妻を演じることで、どんな世界を作り上げようとしているのか。いわば手妻の本質について少しお話ししましょう。

 手妻は、古くは散楽(奈良時代以前からある芸能集団)から始まり、放下(ほうか、地方を回って芸能を見せる集団、または個人)。その後江戸時代に手妻、手品、となって興行してゆく一座になり、大きく発展をします。

 時代、時代によって、演じられていた場所や、見せ方も違いますので、手妻の全てが同じテーマで語られるわけではありません。奈良、平安の頃の手妻は、手妻とは言わず、目くらましと呼ばれ、多分に呪術的な要素の強いものでした。代表作は、

 植瓜術(しょっかじつ、土に種を植えると、すぐ芽が出て、弦が伸びて、大きな瓜

     がたくさん生る)

 式神(紙でこしらえた人形がひとりでに歩き出す。縄の切れ端や、箸がひとりでに歩

     き出す。)

 変獣化魚術(へんじゅうかぎょじつ、変化術の総称で、草鞋を笊に入れると、子犬に

     変わる。鉢に水を張り、笹の葉を何枚か撒いて布を掛けると、笹が小鮒に代

     わる。等)

 総体にこの時代は、超能力のような演出をして、生命のないものに生命を与えるような芸能を演じていました。また、演者自身も超人であるように見せるために、

 火食い(燃えた紙を食べる)

 火渡り(焚火の上を素足で歩いてゆく)

 刃渡り(刀の刃の上を素足で歩いて見せる)

 等の超人技を見せたりもしました。この時代は、危険術も、マジックも一緒くたで、人にできないことイコール目くらまし(マジック)だったようです。超人技を見せるというのは、そこでお札を売ったり、祈祷をしたりするためであり、狐落としの呪いが目的で、呪い師の実力を見せるために超能力を見せて信用させて呪いにつなげたわけです。危険術は、手妻がエンターティナーになったのちもずっと続いてゆきます。

 

 そのうち、手妻には種も仕掛けもあるのだと開き直って、不思議をショウとして演出する芸人が現れます。ここからマジックのエンターティナーが始まります。それが室町末期の頃で、演技に囃子が付いたり、囃子に合わせて振りが付いたり、ストーリーが付いたりするようになります。

 考えてみれば、不思議を演じるために、音楽を流すというのはおかしなことで、曲に合わせて踊りながら不思議を見せるなどと言う行為は、それだけで超能力者ではないと公言しているようなものです。超能力者が音感がいい必要はなく、カウントに合わせて踊れることが超能力者の条件ではないはずなのです。ましてや、演技の途中にギャグを挟むなどと言うことはあってはならないことで、ギャグなど言ったら不思議の要素が薄れてしまいます。しかしこうした矛盾が、矛盾とは言われなくなる時代がきたのです。

 それが室町時代で、この時代から人々は、嘘を嘘と知りつつ芸能として楽しむ人が増えて来たのです。それは一つは貨幣の普及が大きかったと思います。人が普通に貨幣を使うようになると、街中に銭を払うことで芸能を見せる場所が出来て来ます。銭で芸能が売り買いされれば、そこに質を求められるようになります。観客の見る目が育ってきて、同じ不思議でも、観客はギャグの多いほうを喜んだりするようになります。

 またもう一つは、宗教からの解放です。宗教と言うものがどうも妖しいもので、堕落した坊さんの生活などを見ているうちに、必ずしも、宗教が幸せを約束してくれるものではないのではないか。と言う疑問が生じると、来世の幸せを願うよりも、現世の快楽を持求める人が出てきます。すなわちこれが興行の始まりです。

 室町末期ごろから、エンターティナー的な手妻の道具が普及し始めます。緒小桶(をごけ)、などと言う、3本の筒から物の出て来る道具などはこの時期から流行ってきます。その演技は正に後世のマジックそのものです。

 江戸時代の初期に、縄抜けの名人の興行と言うものが出て来ます。縄で手妻師をがんじがらめに縛るのですが、簡単にほどいて抜け出して見せます。これだけなら10分とかからない見世物ですが、縄抜け名人は、ここにストーリーを作ります。取り手に追われた盗人が、取り手に囲まれ大立ち回りをした末に捕まって、縄で縛られてしまいます。そこからまんまと抜け出して逃げて行くストーリーですが、これが受けて、京の四条河原でロングランのヒットをします。

 ストーリーのあるマジックは今日では珍しくはないのですが、1600年代にストーリーを作って、入場料を取って興行していたというのは世界的にも珍しく、ヨーロッパでは19世紀に至っても、マジシャンは呪術から抜け出せず。ショウとしてのマジックが発展していなかったことを思うと、日本のエンターティナーは相当に早くから発展していたことになります。

続く

 

 

大腸検査説明会

 今日16日は大腸検査の説明会に行ってきました。高円寺から梅が丘の世田谷健康センターに行くのですが、1時間もあれば確実に行けるものと持っていましたが、とんでもない。ラッシュ時間の過ぎた後の小田急線は急行と各駅の接続に時間がかかり、10時5分に新宿に着いたにもかかわらず、梅が丘の駅に着いたのが10時30分。

 定刻の10時45分には間に合うと思っていましたが、地図には徒歩5分と書いてありましたが、これがまったく当てにならず、しかも図が間違っていて、あたりをぐるぐる回ってしまいました。なぜこんな間違った地図を役所が平気で使っているのでしょう。結局、徒歩5分が17分かかりました。遅刻です。

 さて、大腸内視鏡検査と言うのは、実は親父が同じ検査をしていて、漫談のネタにしていましたから、おおよそのことは分かっています。親父いわくは前日にバリウムを呑むと言っていましたが、説明会ではニフレックと言う薬品を呑むようです。

 しかもそれを呑む前がややこしく、前日の朝食、昼食、夕食がすべて決まっていて、特定の食事をとります。その食事は全てレトルトで、袋にはシチューや、ハンバーグの絵が描いてあります。旨そうです。然し期待はできません。それ以外のものは食べてはいけないようです。

 その上で、夜にマグコロールと言う下剤を呑みます。体内の腸にこびりついた食べかすをすべて出してしまうのです。坊さんが断食をするのは、こうした体内にある宿便を一度出して身を清めるためです。これは興味があります。その上でニフレックと言う薬を水で溶いて2リットルも飲みます。どうやらこれが親父の言っていたバリウムのようです。白い粉を2リットルの水に溶いて、ひたすら飲むのです。多分飲みにくいでしょう。そこまでの作業をして、翌日の内視鏡の検査に行きます。

 当日は朝食も昼食も食べられません。しかも下剤を呑んで体を空っぽにして健康センターに行くことになります。そこで、肛門から内視鏡を入れて、大腸の内部を検査します。これがどうも抵抗がありますが、なかなか珍しい経験ですから、興味があります。カメラを入れると、すぐに画像が映し出され、内部の様子が見えるようです。便利です。2時30分に始めて、全てが終わるのは4時30分だそうです。

 何も食べずに検査をしますので、その日はゆっくり休むのがいいそうです。私は前後にNHKに撮影があり、場合によっては当日も撮影を考えていましたが、バリウムを呑んだ日は撮影時間を取らずによかったと思います。

 

 いずれにしても、話はこれで終わり。健康センターを後にしたのは12時ちょうどでした。梅が丘から小田急線から地下鉄に乗り換えて、中心街まで出ようと思いました。然し、夕方の踊りまでには時間があります。そうなら途中、表参道に出て、この日は原宿を散策してみようと思いました。

 表参道の並木道を歩くと、鬱蒼と葉が茂り、気分は爽快です。このところ熱さもさほどではなく、いい季節になりました。しばらく歩くとかつての同潤会アパートにつきました。戦前に建てたアパートで、かつての日本人はここに住むことが憧れだったところです。しかし今は建物が古すぎて住むには適しません。

 同潤会は建て替えてファッションの店とレストランが入っています。私は建て替え以来初めて入ります。中は中心が大きならせん状になっていて、3階から歩いてショッピングをしながら、徐々に一階まで下りて行けるように作られています。

 ここまで来たなら食事を奮発します、しかし昨日予定していた鰻屋は見当たりません。原宿でうなぎ屋を探すのは間違いでしょう。3階に広く店を取っているローストビーフのレストランその名も37ローストビーフに入ることにしました。100gのローストビーフと、ランチディナーのセットです。昼ですが、ハイボールも頼みました。内視鏡の話を早く忘れたいと思います。験直しです。

 サラダは丁寧な作りでしたが、スープはまぁまぁです。ローストビーフはわずか100グラムでしたが、肉は柔らかく、適度に脂が乗っていていい出来です。むしろ200グラムを頼んでいたら、胃の負担が重くなって、この後の散歩がしずらくなったでしょう。

 小さくて四角いパンが切り餅のようです。触感ももちもちしています。米粉でも入っているのでしょうか。小麦の味わいを確かめようと、オリーブオイルを頼みました。バターで食べるとバターに味のほうが強くなってしまいます。パンにオリーブオイルをつけて食べるのはイタリアではよくあるやり方です。

 こうして食べると小麦の味わいが強く感じて、パンを楽しめます。素朴でいい味わいです。肉についているソースもパンにつけて食べると、結構満足しました。

 食後に紅茶と、デザートにマンゴーのジェラートが付きました。ジェラートは、フランス料理のソルベよりもアイスクリームに近く、アイスクリームよりも果物の味わいが強いもので、肉食の後のデザートには最適です。

 3000円のセットでしたが、ハイボールを付けましたし、税金がかかりますから、5000円でした。ランチの5000円は高価ですが、窓辺から表参道の並木の緑を眺めながら、ゆっくりイタリア料理が楽しめたのですから満足です。

 

 表通りは、混雑はしていませんでしたが、それでも結構人通りがありました。私の散歩にはちょうどいい混雑です。表参道駅のわき道を歩くとパンケーキの店がありました。ランチを食べてまだ二時間しかたっていませんが、人気のパンケーキを食べてみようと中に入りました、店は「幸せのパンケーキ」名前からして俗っぽいのですが、まぁ良しとします。入り口は狭い地下の店ですが、中は広くきれいです。ベーシックなパンケーキと蜂蜜の入った生クリームの乘ったものを頼みました。

 10代二十代の女性が八組入っていました、一人だけ私と同じ年配の黒い服を着た女性がいました。何とも顔立ちがよく、上品です。指輪やブレスレッドがものすごく高価なものをしています。高円寺の純情商店街にはいないタイプの人です。

 ここのパンケーキは、シンプルなもので1100円。飲み物が500円くらい。税金が付いて1800円くらいでしょうか。十代の女性にはちょっと贅沢な店です。しかしここまで来たのなら値段を惜しまず食べたいのでしょう。

 さてパンケーキは、かつて私が子供の頃に食べたホットケーキとはまるで違う触感です。ホイップされたクリーム状の生地を低温で焼きますのでふかふかです。触感で一番近いのははんぺんです。実際はんぺんのように分厚く、ナイフで切ると多少餅っとします。生地にチーズが溶け込んでいるのでしょうか。味はほの甘く、これは女性に受けます。生クリームには蜂蜜が入っていて甘く、その上にメープルシロップをかけますから、甘い上に甘くなります。私には生クリームはラードを食べているようで、少しくどく感じました。でも、これをブランチ代わりに食すならちょうどいいのでしょう。ふかふかのパンが三枚付いてきてたっぷり甘みが堪能できるのら女性は満足でしょう。

 ガースーさんがパンケーキのファンだと聞きました。その求める好みは分かりました。日中の原宿の散策は楽しいひと時でした。

続く

 

 

病院通い 

 今年はどうしたものか病院通いが多くなりました。糖尿病は毎月一回、十五年間、検査に通っています。糖尿と言うものは全く自覚症状がありません。甘いものや酒を飲み続けていると自然自然に体が悪くなります。しかしそうなるまでには時間がかかります。血糖値を守って食事をしていれば問題なく生活ができます。

 尤も、血糖値を維持することが難しく、酒、炭水化物を減らして、甘いものもなるべく食べずに、一日1800キロカロリーを維持しなければいけません。これが簡単ではありません。マクドナルドのビックマックはそれ一つで1200キロカロリーあります。カレーも、かつ丼も、1000キロカロリーです。それを一回食べてしまうと、後の二食はキャベツと、キュウリのサラダで暮らさないといけません。これが辛いのです。

 糖尿病になるような人は、高カロリーで甘い食事が好きなのです。それを抑えて生活することが難しいのです。ご飯などは、一回がお茶碗半分までです。これに耐えることが修行です。但し私は、糖尿病以外、今まで他に病気らしきものが何もなかったのです。ところが、今年になって色々問題が起きました。

 まず浅草で転びました。初めは大したことではないと思っていたものが、左足がどうにも痛くて、舞台で正座がしにくいのです。そこで整形外科に行きました。別にに大したことではありませんでしたが、これが週に一回。病院通いです。そのうち手首が痛くなりました。手首から先が鈍く痛くなって、うまく動きません。これも同じ整形外科のお医者さんに診てもらって注射してもらいました。これは正直困りました。

 すると今度は顔に帯状疱疹が出来ました。これは結構目立ちます。顔の左側、額から左目にかけて水ぶくれが連なってきました。すぐに皮膚科に行き、薬を貰い、約二週間かけて治しました。

 然し、疱疹が左目近くにまで来ていましたので。念のため、眼科に行き、状況を見てもらいました。このため眼科にも何度か通いました。

 帯状疱疹は多分にメンタルな問題から始まったと思います。なんせ、舞台の仕事の依頼が全く来なくなったのですから、どうしていいかわからず、毎日模索する日々でした。こんな大変な時代が来るとは思いませんでした。心の病が顔に出たのです。

 手首の痛みは幸い治ってきたのですが、今度は右肩が痛くなりました。毎日パソコンに向かって書き物をしていますので、右手右肩を酷使しています。腱鞘炎なのでしょう。このため肩にも注射をしてもらうようになりました。こうなると、手首、左肩、左足の関節と、調子の悪い所が続々出て来ました。

 関節注射と言うのは、機械部品に油を指すようなもので、間接に注射をするとすぐに痛みが嘘のように消えます。こんなことならさっさと病院に行くべきだった。と、思うのですが、然し、一週間、10日とするとまた元の状況に戻ります。結局毎週一回通うようになります。どうも医者は、患者を生かさぬよう、殺さぬよう、細く長く年貢を取り立てようとしているのかもしれません。

 

 そして今回は大腸の検査です。いきなり胃カメラを呑むのではなく、今日は説明会だそうです。来週カメラを呑みます。実は私の父親は、65歳の時に大腸癌に罹っています。大手術の末に大腸を三分の一摘出しています。

私が今65ですから、どうも、もしかすると親父と同じ道を行く可能性があります。但し親父は相当調子が悪くなってから入院しましたので、65歳だと言っても、癌は相当早くにあったはずです。私の場合は早期発見の可能性があります。今回のことは、糖尿病で定期検査をしている時に大腸に問題があるかもしれないと知らされて、検診に行くことになりました。

 ものは考えようですが、糖尿病も、こうして毎月一回検査をしていると、他の病気が早期にわかる可能性が高く、それはそれで体の維持に役に立っているのでしょう。これぞ一病息災と言えるかもしれません。

 

 と、ずらずらと病気の記録を書いてしまいましたが、ほとんど病院に行ったことのなかった私が、新しい病院に行くことは楽しみでもあります。何か面白い話があれば、話を膨らませて、皆さんにお話しします。

 

 今日は午前中に検診をして、午後には踊りの稽古に行きます。明日は朝に鼓の稽古。NHKさんのカメラが入ります。そのあと前田の稽古を見て、午後から玉ひでさんのために私の稽古をします。明日は一日中アトリエから出ることはないでしょう。

 明後日は踊りの稽古、そのあと玉ひでさんの荷作り。19日は玉ひでさんでの公演。そしてNHKのテレビ撮りです。毎日用事が多いのは疲れますが、それでも私を求めてくれる人がいるのは幸いです。

 とにかくこれから大腸の検査に行ってきます。検査と踊りの間に時間がありますので、なにかいいものを食べようと考えています。胃カメラの通りを良くしておくために、鰻はどうかなと思います。鰻の油でカメラの通りを良くする。これはいいアイディアだと思います。然し、カロリーが気になります。でもたまには食べたいと思います。

 もしも、仮に、来週、緊急入院などと言うようなことになれば、「あの時鰻を食べておけばよかった」。などと後悔することもあり得ます。そうならないように。鰻の選択は正解かもしれません。まぁ、菅さんも総裁就任したことですし、ガースーの就任祝いと言うことで(何のことだ)。今日は鰻で軽く一杯やります。あぁ、こんなことを考えているから糖尿病になるのです。

続く

コロナは人災

 昨日は大阪の指導の後、千房さんにお伺いして、10月3日のマジックセッションにスポンサーになっていただいたお礼を申し上げました。実を言うなら千房さんは今大変な状況です。全国に70店あるチェーン店が、コロナによる売り上げダウンで苦戦しています。本来なら、マジックショウの支援など問題外なはずです。然し、快く引き受けてくれました。感謝です。人の情けは苦しい時に身に沁みます。

 今こそどんな状況でもショウを開催しなければいけません。先ず、ZAZAが劇場借り入れ予約ががら空きです。このままではZAZAそのものが倒産です。私にできることはわずかでも、何とか支援しなければいけません。

 セッションの出演者も、若手ばかりで、コロナの影響で出演の場がありません。こんな時こそ出演の場を作ってやらなければいけません。お客様も、年に一度のマジックショウを楽しみにしています。そうであるなら、国の支援を貰取り付けるなどして、方々にお声がけして、ショウを開催しなければ、誰も何もできない状況を打破できません。これこそ私の仕事と、毎日動き回っています。閑散とした道頓堀の繁華街を見るにつけ、私一人でもこの流れを変えなければいけないと思いました。

 

 人形町玉ひでは、今週19日(土)に開催されます。19日から、劇場の人数制限がなくなるようですから、40人までは入場可能になるようです。そうなら少しでも人を入れて、活気を取り戻さなければいけません。と言うわけで、玉ひではまだ席に余裕があります。どうぞお申し込みください。東京イリュージョンまで、03-5378-2882

 

 10月3日(土)道頓堀ZAZAで開催される大阪マジックセッションも座席に余裕が出来ました。どうぞお申し込みください。峯村健二さんの秘蔵の作品が見られます。黒川智紀さんもプロ活動をして一層磨きがかかっています。

 10月30日(金)座・高円寺でのヤングマジシャンズセッションも席にゆとりが出来ました。今回は、峯村健二さんと、伝々さんの顔合わせです。間に対談を挟みます。学生さんのレベルも素晴らしく優秀です。充実の舞台であることをお約束します。どうぞお越しください。いずれも東京イリュージョンまで。

 

コロナは人災

 日本の経済が30%以上のダウンだそうです。これは太平洋戦争以来の打撃です。アメリカと戦っていた時には、B29がやってきて、爆弾を空中から落として行きましたが、飛行機が去れば、1時間後には市電は動き出し、会社も工場もすぐに稼働を始めていました。戦時下であっても、空襲があっても日本の経済は停滞していなかったのです。

 それが今回のコロナはどうしたことでしょう。大学はいまだ休校です。今年二月に受験した学生は、未だに学校に行くことなく、クラスメートと顔を合わせることなく自宅待機しています。こんなことをしていて教育が成り立つのでしょうか、人材が育つのでしょうか。クラスターを恐れて、責任逃れしているとしか思えません。大学の運営をしている人たちの姿勢にこそ問題があります。これは人災です。

 日本中でクラスターを問題視していますが、感染することはさほどに恐ろしいことではありません。コロナは風邪と同じです。「いや、そうは言っても死者が出る」。と言いますが、2月から9月まで、政治もマスコミも大騒ぎして、その結果、死者の数は1200人です。1億3000万人の人口を擁する日本では、毎日何万人もの日本人が必ず死んでいます。その中で1200人と言う数字は取り立てて大騒ぎする数ではありません。

 毎年正月に餅をのどに詰まらせてなくなる人が年間、約1500人います。コロナウイルスは、餅をのどに詰まらせた人ほどにも至っていないのです。餅で死んだ人を騒ぎ立てないように、コロナで学校を休むことに何の意味がありますか。毎日マスコミが放送するほどの騒ぎですか。

 クラスターで100人が感染した学校の生徒の話が話題になりましたが、その後は全員完治しています。誰も重症化していないのです。それなら風邪と同じです。なぜ騒ぐのですか。「もしも重症化したら怖い」。と、言いますが、重症化したらどんな病気も怖いのです。

 元々病気を抱えていた人にとって、風邪や、肺炎は死病につながります。インフルエンザが流行したときでもどれほどの死者が出たかをごらんなさい、コロナの比ではありません。コロナはおとなしいウイルスです。インフルエンザが流行っていた数年前には何万人もの死者を出しながらも誰も騒がなかったではありませんか。今大騒ぎをする理由がどこにありますか。

 いま世界中では、みんなコロナワクチンを期待していますが、でもよく考えてみて下さい。ワクチンなんてなくてもみんな治っているではありませんか。コロナは駅前の薬局で風邪薬を買って飲んでれば治る病気です。そうなら風邪じゃぁないですか。

 

 レストランや、ホテルがどんどん倒産しています。政府はGOTOキャンペーンをしきりに行っています。ぜひ旅行に行くべきです。町の商店街で食事をすべきです。ここらで出不精を改めるべきです。

 危険を煽るテレビ番組は無責任です。百害あって一利ありません。眉に唾をつけてみることです。都知事も府知事も、感染者の数を数えることはおやめなさい、みな完治しています。めでたい話ではありませんか。風邪をひいた人の数を数えて何になりますか。あの人たちが世間を煽って国の経済を回らなくしています。彼らには目的意識が欠けているのです。あれこそ人災です。

 健康優先か、経済優先かと議論している学者がいましたが、馬鹿な話です。経済優先に決まっているではありませんか。家族みんなが働くからこそ病気になっても病院に行けるのです。健康保険で安価に治療を受けられるのは、みんなが働いて税金を支払っているからです。保険も使えず、治療費も払えなくなったら健康の維持もできないのです。人はまず働かなければいけないのです。働くからこそ健康が手に入るのです。人が仕事や学業を放棄してしまえば、その国は滅びてしまうのです。

 感染者は被害者です、クラスターだの、何だのと言って、感染者を騒ぎ立て、コロナの問題を個人に押し付けるのはおやめなさい。そんな無責任な態度でいるから経済が回らなくなるのです。レストランの倒産は他人ごとではないのです。やがては全ての人に不況が回ってきて、日本は破綻してしまいます。そうならないためにもコロナで大騒ぎするのはやめることです。みんなが早く去年の生活に戻ることです。

続く

 

母親のこと 14

 このところ「母親のこと」を早くにまとめたいと思うあまり、日常のことが記録から漏れています。実は今、大阪のホテルでブログを書いています。毎月の関西の指導の3日目です。

 12日は、富士の指導。このところ参加者も少ないのですが、来る会員さんはとにかく熱心です。富士では先週発表会を終え、弟子の前田がゲスト出演しました。前田は年上の女性に受けがいいため、富士の中ではアイドルです。皆さんの評判は良かったのでまず安心しました。

 その晩は8時に岐阜駅で、峯村さんと、辻井さんと待ち合わせです。いつもの通り、柳ケ瀬の料理屋へ、この晩は「DEE胡麻」と言う店で、名前も風変りなら、出す料理も独創的です。ここの亭主が変人で知られていて、お客様の好みもはっきり分かれるそうです。然し、こだわり抜いた料理は食べる価値は十分にあります。実は私はここは2度目です。今回は前日に亭主が富山まで買い出しに行ってたそうで、富山の海産物をふんだんに使った料理でした。まるで懐石料理にように小さく持った品々は酒好きにはちょうど良く、サバ、ぶり、タイ、の刺身は身はわずかですが、絶品にいい素材でした。

 なんと言ってもラストに出てきたハマグリの雑炊が忘れられないほどいい味でした。大きなハマグリと、ぐつぐつに煮た米と、縁に固まったおこげのバランスが良く、それらがほのかな塩味でまとまっていて、何のことはない粥なのですが、出汁をすすりながら三千盛りを呑むと、こんな幸せがあるかと思わせるような深みがあとから上がってきて、亭主が偏屈であろうと何だろうとまた来たくなりました。

 そのあとはお決まりのグレイスです。この晩は、ママは黒を基調にした単衣の着物、チーママは卵色に秋草をあしらった明るい単衣、いつもいいセンスです。大垣弁のロシア人はいませんでした。いないと寂しい人です。いつもならわんさかお客様で賑わっているお店も、このところのコロナの影響で、ようやく半分ほど、それでも知られた店ですから、お客様は途切れません。

 しっかり飲んでホテルに、このまま寝るのも寂しいと、峯村氏と部屋で一杯。くだらない話が思いのほか盛り上がって、ゲラの峯村氏は深夜に笑いっぱなし。こんな晩があるのも楽しい人生です。

 辻井さんは翌日、峯村氏から昨晩に盛り上がった話を聞いて、悔しがることしきり、一緒にいたかった、と後悔しましたが、ご心配なく、また来月にはとびっきりくだらない話を用意しておきます。私は辻井さんは本当にいい人だと思います。

 

 翌日13日は名古屋の指導。夕方に新幹線で大阪へ、そして今は、14日の明け方、こうしてブログを書いています。今日は大阪の指導です。そして、10月3日のマジックセッションのために、指導終了後にスポンサーへの挨拶まわりに出かけます。今日も一日中休みがありません。でも充実の日々です。

 

 母親のこと14

 母は、三郷と言う新興住宅街にある老人介護のマンションに入って、4階の日当たりのいい広い部屋に収まり、毎日何の不自由もなく生活していました。恐らく母の人生の中で最も快適な住まいだったと思います。高円寺から三郷はかなり離れていますが、週に一回出かけて、車椅子を押しながら近くのスーパーマーケットまで行き、母の食べたい果物やお菓子を買いに行きます。これが母の楽しみでした。私は無論スーツ姿です。

 別にここで果物を買わなくても幾らでも施設で食べられるのですが、母は80を過ぎてから、糖尿病のことを忘れて、お菓子や果物を食べまくりました。「もう80を過ぎたから、食べたいものを食べるよ」。と言いました。兄も、「食べたいならそうさせたほうがいいだろう」。と言いますので、好きなように食べさせました。母はそれらをとてもうまそうに食べます。年取った体ですから、いくら食べても1000円分も食べられませんが、「あぁ、おいしい、なんておいしいんだろう」。と言って喜んでいます。

 

 窓辺に椅子を置いて、日向ぼっこをさせていると、昔、母が話していた蓮月のお婆さんが、廊下で日向ぼっこをしている姿を見て、「自分にあんな幸せそうな人生が来るのだろうか」、と言っていたのを思い出しました。母に、「どう、昔言っていた蓮月のお婆さんのような気持になれた」。と聞くと。「お前はよく覚えているねぇ。そうそう、あの気持ち、自分がそうなってみるとやはり気持ちいいよ」。と満足していました。

 私は母に、「今までで一番楽しかったことは何」。と尋ねました。私は家を買ったこととか、親父が出版してパーティーをしたこととか、私が芸術祭に受賞してパーティーを開いたこととか、ハワイに一緒に行ったこととか、私が世界大会を開催して、高円宮(たかまどのみや)殿下、妃殿下をお迎えして、マジックを観劇したときに、殿下の脇に両親を座らせたこととか。そんなことを言いだすのかと思ったら。

 「お前が幼稚園の時に、あたしが編み物をしている脇で、歌を歌ってくれたこと」。と言いました。確かに幼稚園でお母さんの歌を習って、家に帰ってすぐに母親の前で歌を歌ったことは覚えています。

 「お母さん、お母さん、お母さんたらお母さん、何にもご用はないけれど、なぜだか呼びたいお母さん」。他愛もない歌ですが、私が一生懸命になって歌う姿が忘れられないと言いました。

 「それだけ?他には」。「初めて家でとんかつを揚げた時に、兄とお前が本当喜んでとんかつを食べている姿を眺めていた時」。何のことはない、日常の生活の一コマを何十年も自分の気持ちの中で思い続けていたのです。

 生涯、芸人の父親と私を支え続けて、表に出ることのなかった人でしたが、良く面倒を見てくれました。然し、この時、一つ気がかりなことがありました。兄が、

 「来年には私は70だし、お前も63だろう。母親は体が丈夫だよ。この先母親が10年も20年も長生きしたときに、我々は支え続けられるだろうか。自分の体さえどうなるかわからなくなるのに、母親の面倒はどうしたらいいのか」。

 言われてみると、自分が徐々に年を取ってきていることに気付きませんでした。確かに今は何とか面倒を見ることはできても、10年先のことはどうなるか分かりません。これは大変な時代になったと自覚しました。

 丈夫な母でしたが、何でもかんでも完璧に面倒を見てくれる施設と言うのは結構体には良くないのかもしれません。入居して8か月で、急に母の体が衰え始めました。そして一か月して亡くなってしまいました。随分呆気ない終わり方でした。89歳の死ですから、涙を流す者もなく、親戚だけでつつましく葬儀をして済ませました。

 先月墓参りをして、塔婆を立てました。できることはわずかですが、感謝を忘れないことが私の務めと思っています。

終わり

母親のこと 13

 話が弾んでたけちゃんの登場になってしまいましたが、たけちゃんことは、論創社から、「たけちゃん金返せ」。と言う本を2018年に出しました。結構評判よかったので、よろしかったらそちらをご覧ください。

 ここでは母のその後について書きます。私は舞台に立ちながらも日本大学に進みます。正直私は大学に行きたいとは考えてはいませんでした。然し、母は何としても私を大学に行かせたかったようです。7つ年上の兄は明治大学商学部に行きました。そして私は日大の商学部です。母にすれば、大学に行かせて、簿記の資格でも持てば何とか生きては行けると考えていたようです。親心は有り難いとは思っていても、実際マジックで身を立てようと考えている身としてはどうでもいい話です。

 とにかく大学には行きましたが、当時は、キャバレーの仕事が忙しく、朝学校を出る前に、道具と衣装を新宿のロッカーに入れて、鳩6羽を入れたバスケットだけ持って学校の授業を受けました。鳩は昼過ぎになると部屋が暖かくなって気持ちがいいらしく、大きな声でクックルーと、鳴きます。すると教授が、天井あたりを見て、「どこかに鳥が巣を作ったのかなぁ」。とつぶやきます。私はずっと知らん顔をしています。

 授業が終わると、キャバレーに直行します。このころの出演料は一日2回出演して8000円くらいでした。事務所に所属していましたから、毎月、7日分とか10日分、月末に貰いに行きます。勤め人の月給が3万円くらいの頃でしたから、8万円は学生にとっては十分すぎるくらいの収入です。このほかに、演芸場に出演したり、仲間から依頼されたパーティーや、小さな仕事が幾つもありましたから、毎月15万円近い収入になりました。全く昭和40年代のマジシャンは、生活不安のない時代でした。仕事のほうが多くて、芸人の数が足らない時代でしたから。

 そんな仕事をしていては、会社勤めをして簿記をしようとは考えません。マジシャンを捨てる気持ちは全くなかったのです。しかし母は、わずかな希望を持ってそれを見ていました。そこで、私ははっきり母親を諦めさせようと考え、東京の松竹演芸場と、名古屋の大須演芸場で、20日間かけて、親父の芸能生活35周年記念と、私の改名披露をしようと考えます。

 それまでジュニア南だった名前を、手妻で生きて行けるように藤山新太郎と改名しました。芸能事務所の関係者や、お客様を招いて披露目をしたのです。昭和52年。大学4年のことです。

 これで母親はすっかり私を勤め人にすることを諦めました。既に兄が三菱系の会社に勤めていましたので、あわよくば私もどこかいい会社に入れたいと考えていたようです。しかし、私と親父は幼い時から仲が良かったものですから、芸能に行くのは自然の流れでした。

 この時すでに、後の女房になる和子さんと付き合っていました。和子さんは早稲田大学の露文科に行っていました。いつかは結婚しようと考えていましたが、そのためには、マジックの世界でどうにかならなければ無理だと考えていました。仕事は恵まれていましたが、キャバレー仕事が忙しいというのは自慢にはなりません。何か形ある成果をつかみたいと考えていました。

 そんな中、毎年、ロサンゼルスのマジックキャッスルに出演していたのですが、そこでマジックオブザイヤーのビジティングマジシャンと言うショウを貰います。毎年マジックキャッスルに出演した外国のマジシャンの中で一番良かったマジシャンを投票します。それに選ばれたのです。1981年と、翌年の82年、二度の受賞です。

 この賞状が届いたときに、「あぁ、これで何とか生きて行ける」。と実感しました。そこでその年に結婚をしました。私の仲間のマジック関係者、親父の仲間のお笑い芸人を集めて、赤坂ヒルトンで300人を集めて式を行いました。媒酌人は鎌倉井上蒲鉾の社長、牧田高明氏。乾杯は当時の参議院議員コロムビアトップ師匠。祝辞はたまたま日本に来ていたジョニートムソーニ氏を小野坂東さんが連れて来てくれました。仲間のマギー司郎ナポレオンズ、先輩の北見マキ師、松旭斎すみえ師、皆さん来てくださってとても賑やかなパーティーでした。母も、とても喜んでいました。

 

 私は上板橋の近く、常盤台にマンションを買います。上板橋の家は親父と母の二人だけになってしまいました。然し二人は幸せだったようです。母はその後も、私の舞台があるときは欠かさず見に来てくれました。なんのかのと言っても私の舞台を応援してくれていたのです。

 親父が平成9年に癌でなくなります。母は8年間看病していました。看病と言っても、その間、親父は癌漫談と言うものを始めて、結構忙しく活動していました。講演先に母が付き添っていました。私が仕事が開いているときは私が車で送迎していました。

 私が付き添った時には、親父は高円寺の私の家に泊まります。そこには幼稚園に行っている孫のすみれがいます。親父にとってすみれは恋人でした。土産の名探偵コナンの単行本を買って渡すときにも、孫の顔を見ないで渡します。孫が本を見て喜ぶ姿を、時々ちらりと様子見して、それで満足しています。孫に「ありがとう」、と言われると、下を向いてにやにやしています。この時の親父は人生で最高に幸せな時だったと思います。すみれと一緒に寝るのが何よりも幸せだったようです。

 その親父が亡くなり、母は、長らく看病をしていたため、何とか世の中のために役に立とうと考えたようで、今度は区役所のボランティア活動をするようになります。病人を病院まで送り迎えをしたり、知的障害の児童を学校まで送り迎えをしたり。それはそれで充実した日々だったのだと思います。

 然し平成27年くらいから、母は奇妙な行動をするようになります。夜中に冷房が利かないと言って、警察を呼んだり、呼吸が苦しいと言って救急車を呼んだりしました。

 病院で調べても呼吸に何ら問題はないのです。何かあるたびに私は舞台の現場から飛んでゆきます。パーティーや座敷の仕事のさ中でも病院まで直行し、そのあと上板橋の交番に謝りにゆきました。舞台の帰りですから、着物に袴姿のこともありました。そんな恰好で上板橋を歩いている人はいません。正装で謝りに来た私に対して、警察官は恐縮していました。上板橋の駅前の警察官とは馴染みになってしまい、申し訳なくて、その都度、たい焼きや、饅頭を買ってゆきました。

 このころ私は、毎週二回上板橋に行っては昼めしを作り、母と話をしていました。高円寺と上板橋は車で15分です。食事を作って、一緒に食べて、3時間で帰ることが出来ます。母は私の作った食事を喜んで食べていました。いつも、「あたしが長年教えた味をお前はよく受け継いでいる」。とか何とか言って、食べています。鍋などを食べても、「うん、このつゆの味は私の味だ」。等と勝手なことを言っていました。

 しかし、余りに奇行が続くために、このままでは周囲の者が疲れてしまいます。私は兄と相談をして、老人施設のマンションに入ってもらうことにしました。母は初めは上板橋から離れることを嫌がっていましたが、いよいよ自分で身の回りのことが出来なくなると、素直に従ってマンションに入りました。

続く

母親のこと 12

 話は少し戻りますが、私が高校に入ったくらいになると、それなりに舞台でまとまった収入を得るようになります。そんな時には母親を誘って外で食事をご馳走したりしました。母はそれを素直に喜びました。寿司のときもありましたし、洋食のときもありました。私も高校に入ってから背が高くなり、スーツを着て、母と一緒に銀座などを歩くと、母はまるでデートをするような気持で喜んでいました。

 私の舞台も、頻繁に見に来ていました。その際に母の友人もつれてくることがありましたが、私がスーツ姿でロビーに顔を出して、母の友人に挨拶をすると、母はとても自慢顔でした。話はずっと下って、晩年に母が入院するようなときも、私は必ずスーツにネクタイで見舞いに行きました。それは母の希望だったのです。看護婦さんや、病室の患者さんが、相当事前に母に吹き込まれていたと見え、「まぁ、立派な息子さんだこと」。と言って寄ってきました。むしろ私が恐縮してしまいます。

 母が年を取って病院の車いすを利用するようになっても、私はスーツを着て、母の車いすを押して、病院内を歩きました。これが母には得も言われぬ快感だったようです。特に私がテレビ出演したすぐ後などに車いすを押していると、看護婦さんなどが集まってきて、あいさつをされます。それを見て母はますます嬉しそうにしていました。

 私にすればめんどくさい仕事ではありますが、これも親孝行と割り切ってそのようにしました。

 

 但し、私が結婚をする時には少し難しい問題が起きました。日頃は物静かな母なのですが、私の女房とはあまり折り合いがよくないようでした。そこで、当初は上板橋の家に同居する考えでいたのですが、これでは無理と考え、マンションを買うことにしました。金があってしたことではありません。万やむを得ずしたことです。当初はローンの支払いで毎月苦労しましたが、結果はそれが後々人生のチャンスを作りました。

 

 私は子供のころから舞台に出ていましたが、高校に入ってすぐ位に仕事が途絶えました。それまでロープやハンカチのマジックで舞台に出ていたのですが、大人になって来ると、もっとインパクトのある物でないと受けないと知ります。勿論ロープやハンカチ物が悪いわけではありません。私のやっているマジックがデパートのマジック売り場の道具ばかりで内容が月並みだったのです。もっと突っ込んで深みのある手順を持たなければ仕事につながらないのです。

 これまでは松旭斎清子から習っていたのですが、清子のレパートリーは数が少なく、高校に入るともう習う芸がなくなっていました。そこで、あちこちの名人を尋ねて、習いに出かけるようになります。

 良く教えてくれたのはダーク大和師でした。それから渚晴彦師、喋りを習ったのはアダチ龍光師。アマチュアで奇術研究家の高木重朗先生。この先生には格別に面倒を見てもらいました。今思えばどなたも当時の一流マジシャンでした。お陰でマジシャンとは何をするものなのかがわかってきました。そして、あれこれ習ううちに何となく自分の型も出来て来ました。

 

 ところで、親父は、私がギターを隠して以来、自分自身も、喋りに主力を置こうと考えるようになりました。然し、そうは言ってもまだ時々ギターを出して営業に出かけていました。そんなときも私が、ギターをやめろとやかましく言いました。やがて親父はギターを諦めるようになります。親父は、毎月、浅草松竹演芸場と名古屋の大須演芸場に出演していました。もうすでにイベントに仕事はかかって来ません。ひたすら、浅草と名古屋で漫談のネタを固めていたのです。幸い、親父の喋りは仲間内で評判になり、それなりに贔屓が付くようになりました。その時点で親父は既に50を過ぎていました。自分の芸を見つけるには随分寄り道をしたことになります。

 やがて私が大学に入るようになり、松竹演芸場に出演していた時に、ツービートの北野武さんが演芸場に出るようになります。この人の演芸場の初舞台を見ています。とにかく面白くて面白くてびっくりでした。すぐに楽屋に行って仲間になりました。そして初日に喫茶店に行って長々話をしました。以来5年間。私とたけちゃんはいつも一緒に喫茶店に行ったり、舞台が終わると一杯飲みに出かけるようになりました。

 たけちゃんは私の親父に興味を持ちました。筋を振ったかと思うといきなり落としてしまう親父の漫談はスピーディーで、たけちゃんの好みにあったのでしょう。親父もたけちゃんを良く可愛がりました。3人で一杯飲みに行くことも頻繁にありました。

 但したけちゃんは普段は地味な人で、分かり合った仲間と話をするときはめちゃくちゃ面白いのですが、バーで知り合った初対面のお客様の前では全く話ができませんでした。当人も何か面白いことを言おうとは思っていても、気持ちばかりが先に立って、言葉が出ません。肩をひくひくさせるばかりで、全くしゃべることが出来ないのです。

そんな時に親父は、「全くたけしは根暗だなぁ。そんなことじゃぁいいお客さんはつかめないぞ。もっと自分が心を開いて、陽気にならなけりゃぁ、お客さんは少しも楽しめないじゃないか」。と説教します。それをたけちゃんは、、はい、はい、と頭を掻きながら聞いていますが、いくら陽気になれと言っても、元が陰気な人が、いきなり陽気になれるわけがないのです。言われれば言われるほど、たけちゃんは下を向いて縮こまってしまいます。随分シャイな人なんだなぁと思いました。

続く