手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

雨音止まず

 昨晩から降り続いた雨は、わずかな晴れ間を見せてまた雨に戻り、私のアトリエにあるデスクの窓の庇(ひさし)から、一滴(ひとしずく)、休符、一滴、ゆっくりと、正しくリズムを刻んでいます。テンポは遅く、調子は明るくも、暗くもなく、全く機械的に雫が落ちてきます。

 朝の4時です。昨晩ほどではありませんでしたが、今晩は5時間眠れました。帯状疱疹のことを思えば、もう少し寝ていたほうがいいのでしょうが、目が覚めては眠れません。一階のアトリエに入って、デスクに向かいます。このところ私のブログの読者が増えています。今の矛盾した社会から、何か光を求めて私のブログを読んでいるのでしょうか。もしそうなら、何か役に立つ話をしなければいけません。

 そう思いつつ、コーヒーを入れて、しばらく考えます。この間雨音は、無機質に、一滴、休符、一滴、を繰り返しています。2020年、5月20日、私はこんな風に雨音を聞きつつ生きているのだなぁ。と、わが身の置かれた位置に気づきます。

 

 これまでの私の人生は、何かに脅迫されているかのように、あれもしなければいけない。これもやらなければいけない。このことは自分が解決しておかなければいけない、あれも、これも、と必死に生きて来たのに、このところ、ぽっかりと何もせずにただ物を思うことが多くなりました。

 それでも心の内では、あと一つ、二つ、人のやらないような大きな仕事ができるに違いない。と考えています。それが何か。案外次の一手が、私と言うものが後世に評価される活動になるのかもしれません。と、己惚れつつ、その実、次の一手が見つからず、ボヤっとコーヒーを飲んでいます。

 

 私を10年以上にわたってマネージメントしてくれた、宮澤伊勢男さんはもともとは読売広告の専務さんでした。この人は、漬物の桃屋をヒットさせたり、バレンタインデーにチョコレートを配ろう、などと言う本来チョコレートとは何の関連もない行事を日本中に定着させて、お菓子業界を復活させたり、ものすごいアイディアマンでした。

 その名プロデューサーが、なぜか私の手妻を気に入ってくれて、読売広告退社後の晩年は、私を方々に売り込んでくれました。人生は優れた人に出会うとはっきり生き方が変わります。宮沢さんにはどれほど多くのことを教えていただいたことか、有難い人でした。

 その中で宮沢さんがよく言っていたことは、「藤山さん、イエスキリストさんと言う人はいくら調べても、晩年の3年間の記録しか見当たらないんですよ。それ以前に何をしていたか、全く謎です。でも、名前が知られてからの3年間はものすごい活動をしました。キリストさんの価値はこの3年間で決まったのです。ですからね、人は3年なんですよ。3年。3年本気で一つのことに打ち込めば、2000年たった後までも皆さんから信頼されて、世界でもっとも有名な人になれるんです。

 一つことを長く続けていることも大切ですが、ただ続けていても意味はありません。3年集中することが大切です。人は3年集中すればとんでもないことができるんです」。

 私の最も良き理解者であった宮沢さんは一昨年亡くなりました。私がイエスキリストさんにような大きな仕事を成していないことは明らかです。いろいろ工夫して、生きては来ても、その成果は微々たるものです。

 今私に何ができるのか、何とか工夫して、多くの人の役に立ったなら、私の生きてきたことは無駄ではありません。

 毎日、ニュースを見ていると、世界中のタレントが、替え歌を唄ったり、自分の曲でエクササイズをして見せて動画に投稿したりしています。それも表現の一つですから、それはそれでよいと思います。

 でも、もっと芸能、芸術家として生きることの苦悩を人に伝えるべきではありませんか。芸能、芸術に限らず、小売店も、飲食店も、みな生活が成り立たずに困っています。こうした人たちに成り代わって、芸術はもっと積極的に自己表現をしたほうがいいのではありませんか。

 

 ハイドンは宮廷の楽長を長く務め、そこで多くの曲を作曲しました。その中に、交響曲で「告別」と名付けた曲があります。これは、自分の主人が楽団を引き連れて、別荘に行き、何か月も逗留していたため、楽団員は家に帰ることもできず、家族に給金を渡すこともできず、困っていました。そこで、ハイドンは一計を案じ、一曲の交響曲を書きます。交響曲と言うのは最終楽章は、大概華やかに、軽快に終わるものですが、この曲は、しんみりした曲想で、しかも、はじめ全合奏で始まりますが、すぐに、あるパートの楽団員が、手元の蝋燭を消して、舞台を去ります。少しして、別のパートの楽団員が明かりを消して、舞台を去ります。どんどん人がいなくなり、お終いは、弦楽四重奏のように、4人だけになって、それもやがて消え入るようにして終わります。

 これを聞いた主人は、自分が長く別荘に楽団を引き留め続けたことを知り、城に戻る決意をします。ハイドンらしい洒落た抗議です。

 

 あの、ハイドンの告別を、国会議事堂の前か、都庁の前で演奏してみてはどうでしょう。国も、都庁も、芸術家に生活の保証をすると言っておきながら、いまだ一円の保証もしていません。そんな国や、地方自治体に対して、これでは芸術は死んでしまう。と言うことを、音楽で表現してみてはどうでしょう。

 マジシャンが困っているのと同様に、オーケストラなどは所帯が大きいだけに身動きが取れません、毎月何億もの赤字が出ています。誰も助けてはくれません。芝居も同じです。歌舞伎座も、帝国劇場も、国立劇場も、閉鎖されたままです。これも毎月億の単位の赤字です。このままでは松竹も東宝も倒産してしまいます。役者の給料も出ず、音響照明、裏方の給料も出ません。衣装屋さんも困っています。

 こうした人たちの保証はどうしますか。結局政治は無責任です。責任が散れないなら、非常事態宣言などしなければいいのです。ロックダウンもすべきではなかったのです。非常事態も、ロックダウンもなくても、暖かくなれば、ウイルスは退散するのです。現実にそうなっているではありませんか。都市封鎖、学校閉鎖は人の生活を荒廃させるだけです。むしろ病気よりも後遺症が残ります。こんなバカな政策をやめさせるためにも、みんなでハイドンの告別を聞きに行きましょう。

 

 昨日の、どうしたら指導ビデオで売り上げを作るかと言うお話はまた明日、

続く

 

 

 

雨音

 昨晩はよく寝られ、今朝は6時に起きました。6時間以上寝たのは久しぶりです。目を覚ますと窓の外は雨でした。いつもは窓から強い日差しがさして来るのですが、今朝は朝日はありません。と言って暗くもなく、しとしと雨は降っていますが、家の中にいる限り、不快なことはありません。ただ、昨晩からの帯状疱疹は、頭に移動し、頭の上が時折りチクチクと痛みます。とてもまだ回復した状況ではありません。体を起こし、もう少し寝るか、起きるか、考えていると、頭のチクチク以外は問題なさそうですし、よく寝たため体力も回復していそうです。それなら起きてブログを書こうと思います。

 

中古道具の販売

 このところ、生徒さんや知人から、昔買ったマジックの道具や、DVDを処分したいので興味の人に販売してくれないかと頼まれます。私はあまり販売には手を染めたくないのですが、縁の深い人ならやむを得ないと、道具類を引き取ります。幸い、私のところに来る人や、知人に紹介すると、ある程度は売れます。私が作った装置とかビデオなら、希望者は多く、大概はすぐに捌けますが、私の知らない道具はなかなか売れません。それでも、前田が半値くらいの定価をつけて、ネットに出すと。ぽつぽつ売れています。

 然し、昨日、段ボールに入ったグッズの定価をしみじみ眺めてみると、DVDの定価が3000円程度のものがほとんどです。それを半値で売って1500円。送料などの手数料を差し引くと、1200円程度にしかなりません。知人は金が必要だから私に道具を送って来るのでしょうから、なるべく5万円とか10万円にして渡してあげたいと思うのですが、中古のマジックグッズの売り上げで10万円と言う金額は夢のまた夢のようです。

 

なぜ売れないか

 特にDVDの値落ちは悲劇的です。どんな一流のマジシャンでも、3000円、4000円のプライスです。英語圏のビデオなら、日本語の数倍売れるでしょうから、総体の売り上げは大きくなると思います。日本の作品が百巻売れたとして、30万円、そこから作者への謝礼が40%として12万円。英語のものなら、500巻売れるとして。合計150万円、

40%の謝礼なら60万円。いずれもよく売れた部類のマジシャンの収入です。

 正直私はため息をついてしまいます。自分の作品集をレクチュアーすると言うことは、これまでの数年間のマジックの蓄積を、作品にまとめて、公開するわけです。言ってみればマジシャンが今まで努力をし、才能を結集させた成果であるはずです。

 それがめでたく全部売れたとして、マジシャンに入る収入は12万円から、60万円です。あぁ、何と小さな商いでしょう。12万円では一か月の生活も維持できません。60万円貰ったとしても2か月たったら一銭も残らないでしょう。そのあとはまた何年もかけて作品を作り溜めをするのでしょうか。

 それを良しと考えて活動している人に私は意見がましいことは言いません。ただ、この程度の収入にしかならないマジックの社会ではこの先有能な人材は集まらないでしょう。自分の作品集を出すのなら、自分のこれまでの工夫や、知識、才能を金に変えても十分見合うだけの金額を手に入れなければ行く末が不安のはずです。本来マジシャンは種を公開するものではありません。しかしどうしても公開しなければならない状況に至ったのなら、大きく稼がなければ意味がありません。稼ぐこともできず、才能を切り売りしてだらだら売り食いしていては次の世代の若者が憧れないでしょう。

 まず指導ビデオのクリエーターは、1000万円稼げる道を考えてください。実利で1000万円稼いだなら、周囲の若手マジシャンはクリエーターを追いかけるでしょう。実際私は、20代から30代に指導ビデオで2千万円稼ぎあげました。こう書くと、「まさか藤山が」、と信用しないかもしれません。あるいは、少し訳知りの人なら、「あいつは商売がうまいからなぁ。どうせまた、自慢話が鼻につく」。と思っているでしょう。然し、嘘ではありませんし、データーもあります。そして、どうやったら稼ぎを上げるのか、その方法もお話ししましょう。まずはお聞きください。

 

かつてビデオは流行の先端にあった

 昭和60年代に私はしきりに指導ビデオを出していました。当時アイビデオと言うマジック専門のビデオ屋さんがあって、そこからたくさんの指導ビデオが出ていました。私もその依頼を受けてビデオを出しました。第一号が12本リングでした。これはさほど売れませんでした。百巻までには届かなかったと思います。手順が難しいことと、12本のリングの入手が難しいこと、素人には広くは受け入れられなかったのです。

 そこで、アイビデオのオーナー白沢さんに尋ねました。「アマチュアはどんな指導ビデオを求めていますか」。「ごく簡単なものがいいみたいです。シルクとか、ロープとか、お金やお札を使ったものなんかがうけるみたいです」。「そうしたビデオはあるんですか」。「それがないんです。いくつか指導する作品の中に一つくらい、シルクや、ロープが入ったものならあるんですが、ロープだけでひとまとめになったような百科事典のような、ビデオが欲しいみたいですよ」。これはいいヒントでした。

 そこで、私が出したビデオは「シルク20」でした。通常のビデオは作品を5つくらい取り上げて、解説しますが、私はいきなり20作品を載せました。全部シルクマジックです。そしてかなり丁寧に指導をしました。これが大当たりをしました。3年間で1000巻売れました。国内のビデオで1000巻は記録です。これまで高木重朗先生のカードマジック全集がよく売れた作品だったのですが、それでも各100巻でした。一桁上がったわけです。シルク20は今も売れ続けています。通算2000巻は売れています。

 当時の私のビデオは一巻9800円です。千巻売れたなら、980万円です。その50%が私の利益ですから、約500万円の収入になりました。シルク20はすぐさま続編が出ました。これもよく売れました。シルク20の1を買った人は必ず2を買います。

 これに気を良くしたアイビデオは、ロープ20を出します。これも大ヒットです。ロープはその後、2,3と三種類出しました。シルクとロープを合わせてトータル2000巻達成しました。合計1000万円の収入です。

 このころは、マジックのビデオはなかなか売れず、有名な指導家でも、月に2巻3巻でしたから、二か月に一回白沢さんがダビングしたビデオを指導家の家に持参して、ビデオの裏に検印を押してもらっていました。判子を一つ押すと、一割支払ってくれます。しかし私の場合は、あまりに売れるので、毎月シルク20を10巻20巻持ってきます。他にもロープ20や、シンブルや6本リングなど、あらゆるビデオを持ってきます。そんなに一度に持って来られると、印を押す時間がありません。

 そこで白沢さんと話し合って、何百巻売れても私は関与しない。一巻50万円でアイビデオが権利を買い取る。という話し合いになりました。これによって、私は、年間に二巻新しいビデオを出せば、年額百万円、アイビデオから支払われることになりました。

 無論、私の仕事は舞台ですから、ビデオの収入は余禄です。でもこの収入は事務所の経費や人件費でずいぶん助かりました。

 

 ここで私の言いたいことは、金儲けの自慢ではありません。買い手が何を求めているかを知ることが大切だと言いたいのです。私のビデオはどれも昔からある基本ネタが半分です。目新しいものではないのです。然し、お客様はそれを覚えたいのです。

 ビデオを出す人の中には、自分の作品を世間に訴えたいと考えて出す人が多いようですが、結果として、30巻や50巻売れて、それで、自分の知名度が上がりますか。売り上げで大きな収入が得られますか。どちらも得られないなら、その仕事の仕方そのものが間違っています。自分の活動は、プロで生きて行くなら、しっかり収益を上げたかどうか見極めなくてはいけません。売れないものを並べて生きていても、活動が認められていることにはなりません。だめはいくら繰り返してもダメです。だめのスポイラルから脱却しない限り成功は来ないのです。

 

次回に続く

顔のしびれ

 ブログがなかなか書けずに済みません。実は、4日前から、顔の左側がしびれ始めたのです。初めは頬から額くらいがマヒしたような感じになって、手で触ると鈍い電気ショックのような反応がありました。気になります。その晩ベッドに入り、夜中に寝返りを打つと、左向きになった時に少し痛みがあります。結局寝ていられませんので、起きて、深夜にブログを書き初めました。

 翌日も顔の左側がしびれたように鈍い痛みを感じます。いろいろ作業をしていても気になります。おかしなこともあるものです。然し、病院は休みですので、いかんともしがたく、月曜まで我慢です。そして夜中に寝返りを打つとやはり痛いのです。また起きてブログを書きます。ブログを書いていてもわずかな痛みがありますから、気持ちが晴れません。

 三日目の晩もベッドに入ると、さすがに二日間寝ていませんでしたので、この晩はよく寝られました。ところが朝起きると、しびれの場所は頭の真上まで来ています。それまでは頬が痛かったのですが、その朝は顔の左半分から頭が半分まで痛いのです。チクチクと痛みます。これは何か神経障害の始まりかなぁ、と思いました。

 昔赤ん坊のころからお世話になっていたお医者さんが、顔面神経痛で、左の頬や瞼が、いつもぴくぴくと動くのが気になっていました。私もそういう症状が出ると、舞台に差し障るなぁ。と思い、とにかく整形外科に行ってみました。

 整形外科には週に一回、肩に注射をしてもらいに通っています。半年前くらいから右肩が痛く、手を上げると少し痛いのです。リングなどを持つと、痛みを感じます。特に、帯を結ぶときに、手を後ろに回し、ひねって、帯の端を引っ張りますが、この時が相当に痛いのです。

日常生活の普通の動きができないと言うのはつらいものです。この時はすぐに先生に診てもらいに行きました。

 「先生、どうしてこんなことになるんですか」。と先生に尋ねると、「年だね」。と、言われました。「え、年ですか」。「うん、年だ、しょうがないよね」。「いやいや、私はそれほどの年じゃざないですよ」。「でもねぇ、人は60を過ぎると、何らかの形で、腰だの、肩だの、腕だの痛みだすんだ。そういう人がいるからうちの病院なんかやっていけるわけ」。年と言うのは少なくとも70を過ぎた人のことかと思っていました。自分がこうも頻繁に病院の世話になるとは思ってもいませんでした。「でも、どうしたら治るんですか」。「注射だね。注射打っているうちによくなるよ」。そういわれて毎週右肩に注射を打ってもらいに通っています。最近は効果も出て来たらしく、前ほどには肩は痛くなりません。良かったと思っていた矢先の左の顔です。その病院で、今日は左の顔の痛みを先生に相談すると。

 「帯状疱疹(たいじょうほうしん)だな」。「帯状疱疹は聞いたことがある病名ですね」。「ウイルスだよ。感染したんなだな」。「でも、このところずっと家にこもっていてほとんど出歩かなかったですよ、感染するとは思えませんが」。「どこかで感染したんだな」。「治りますか」。「治る治る。今いい薬があるから、それ飲んだらすぐ直る」。「顔面神経痛なんかになりませんか」。「大丈夫。薬飲んで、一週間したらまたおいでよ」。とあっさり見たてをしてもらい。薬局で薬を買いました。

 この薬が14錠で6800円もしました。保険で3割負担をしてもらっているわけですから。正価で買ったなら2万円以上の薬です。二錠ずつ飲みますので、一回3千円です。ちょっと見た目が兎の糞のような小さな薬が二つで3000円です。

 3000円あればかなり立派なステーキセットが食べられます。鰺の叩きで、酒一合飲んでも3000円しないでしょう。ウニの小鉢くらいは追加できます。それを思えば、なんと薬は高価なことか。無論不満はありません。帯状疱疹が治ればそれで結構です。ウニの小鉢で帯状疱疹は治りませんから。

 薬局でその場で水を貰い、すぐに飲みました。今のところ効いているのかいないのかわかりません。ただ、晩になって、ブログを書こうかと思う気持ちになっただけ精神的には前進したと言えます。

 と言うわけで、私は帯状疱疹になってしまいました。今日は早く寝るようにします。もし寝られずに夜中に起き出したら、ブログを書くかもしれません。なるべくぐっすり寝ようとは思います。そうなったら、明日のブログは昼頃出せるでしょう。いずれにしても明日また書きますのでしばらくお待ちください。

 

続く

ロックダウンは悪手

 私は以前からコロナウイルスの対策は、スウェーデン方式でいかなければうまく行かない。と言っていました。スウェーデン方式と言うのは、コロナウイルスに感染する人をむしろ増やして行く方式です。ウイルスに罹った人は約二週間ほどで完治します。完治した後は抗体ができて、免疫力を見ちますので、コロナウイルスに対抗できます。そうした人を都市に増やして行くことで、コロナウイルスを抑えて行こうと言うのがスウェーデン方式です。

 このやり方ですと、初手に感染者を増やしますので、一時的には感染者が激増します。そして、死者も出ます。然し、コロナウイルスは極端に強いウイルスではありません、衰弱した老人、合併症の患者などが感染して危険な状態になりやすいのです。そうした中から重篤な人だけを入院させて、酸素呼吸などを施せばほとんどは助かります。現実に日本では死者は5か月間で700人です。このやり方で国民がコロナウイルスの抗体を持つ以外、解決はないはずなのです。実際、日本人は、すでに、抗体を持っている人が少なからずいたため、現在の死者数で収まっているわけです。

 

 方や、ロックダウン方式ではいたずらに今に状況を長引かせるだけなのです。コロナウイルスを撃退するには、特効薬か、ワクチンが開発されない限り、根絶は不可能です。それを、ロックダウン方式を採用すれば、一時的に国の機能を停止させてしまうわけですから、その後の経済の後遺症が大きくなります。機能停止中の一か月や二か月はウイルスは大きくは繁殖しません。然し同時に、免疫力を持った人も増加しませんから、いったん外出が解除されたなら、またコロナウイルスが繁殖し始めます。

 その時、再度ロックダウンをしたなら、今度は国が崩壊してしまいます。今まで耐えていた多くの企業が倒産します。ロックダウンは結局国民の仕事を奪い、体力を消耗させるだけなのです。

 ロックダウンが成功するのは、ウイルスの初期の段階だけです。特定の地域でウイルスが発生したとき(例えば、沖縄とか、北海道とか)、そうした地域のみでウイルスが発生した場合に、島全体をロックダウンするなら相当の効果を上げます。仮にロックダウンの期間が半年以上続いたとしても、封鎖地域が小さければ、日本本土が資金と医療と食料を支援し続けますから、封鎖地域の人々の生活の心配はありません。ウイルスは確実に根絶できます。然し、東京や、大阪、名古屋と言った主要都市がウイルスにかかってはロックダウンは解決しません。対象の地域が広すぎます。

 それでも、軍隊が出て、外出する国民を射殺するような国ならまだどうにかなるでしょう。それができない日本では完全なロックダウンは不可能です。

 結局、一時的に抑えたウイルスがこの先、何度も出て来ては感染者を増やして行きます。それでも、増やしつつ、免疫力を持った人も増えて行きますから、ウイルスは以前ほど猛威を振るわなくなります。然し、死者は相変わらず出ます。結局ロックダウンでの根絶は不可能なのです。しかもこの先、もう一度ロックダウンは使えないのです。

 と言うことは、結果において初めからスウェーデン方式を採用しておけば、何ら経済には問題なかったのです。無論、有効な薬が出たならそれが最善の解決策です。何にしてもロックダウンは悪手です。決してやってはいけない政策です。それをしたことで人類は1930年に戻ってしまっています。この先に大きな不況が来ることに多くの人はまだ気づいていません。

 日本にいると、まだ何とかこの程度の不況なら乗り切れそうに思う人がいると思いますが、それには大事なことを二つ忘れています。一つは、この先新たなウイルスが出なければ、と言う条件と、もう一つは、地震が来なければ、と言う二つの条件が満たされたなら、日本の回復は早いでしょう。しかしそのどちらも希望的観測に過ぎませんから、やはりこの先は日本も危険です。

 アメリカ、欧州を見ると、大きな大戦を一つやってしまったような取り返しのつかないような経済の混乱が起きています。またこの先、中国と韓国、ロシアが大きく経済を悪化させるでしょう。そうなると、ほとんどの国の経済が落ち込みます。

 

 思い出してください、私がコロナウイルスを書き始めた4か月前、そこに第一次大戦の話を書きました。私は子供のころから歴史書を読むのが好きで、第一次大戦に関しては特に興味で随分いろいろな本を読み漁りました。第一次世界大戦の何が、私にとって興味だったのかと言うなら、第一次大戦と言うものは当時、誰も予測していなかった戦争です。事件のその日まで、ヨーロッパは好景気で、平和だったのです。決して起こるはずのない戦争だったのです。

 1914年、バルカン半島サラエボと言う町で、オーストリアの皇太子が狙撃されました。首謀者はすぐにつかまり処刑されました。サラエボオーストリアの植民地ですから、国内問題です。誰もがこの問題はこれで解決されるものと考えていたのです。

 パリでも、ウィーンでも、ロンドンでも、ベルリンでも、当時、ヨーロッパの文化が花開いて、誰もが豊かさを享受していました。それがたちまちヨーロッパ中に大戦が広がって、5年に及ぶ戦争の末、ヨーロッパ全土が灰になり、とてつもない戦費を使ってヨーロッパ全体が衰退しました。

 戦争が済んでみれば、大きなスカートをはいた女性はいなくなり、燕尾服にシルクハットをかぶった男性もいなくなりました。馬車に乗って舞踏会に行く貴族もいなくなりました。大きな戦争は、営々と築いて来た伝統文化を消し去ってしまったのです。ヨーロッパの社会から、これぞヨーロッパ文化だと言う生活様式が消えて行ったのです。

 それから25年後、もう起こらないだろうと言う戦争が再度起こります。第二次世界大戦です。そして今、我々はもう世界大戦のような戦争は起きないだろうと考えていました。実際戦争は起きません。然し、ウイルスが人類を疲弊させています。これからウイルス対策による罪のなすり合いが始まるかもしれません。それが戦争につながるかもしれません。戦争は起こらないまでも、このままでは大恐慌が起きます。

 そんな中で我々は自分の生きる道を探らなければならないのです。

八景とはなに

 日本の芸能は、見立て(みたて、何かに見立てて表現する)を頻繁に行います。景色、情景を、一瞬切り取って、その世界を真似て見せる芸能は多々あります。日本舞踊などは言ってしまえば見立てのオンパレードです。落語にも、ストーリーを補助するために舟の船頭を演じて見せたり、駕籠かきを演じて見せたり、扇子一本で色々な世界を見立てています。

 手妻にも見立ては頻繁に出て来ます。金輪の曲などは全編見立てで構成されていますし、南京玉すだれなどもまさに見立ての世界です。すだれで釣竿を作って浦島太郎。後光を作って阿弥陀如来。など、それぞれ見立てが付きます。金輪で言うなら、兜をこしらえて、勇ましい侍を演じたり、金輪で笠をこしらえて頭からかぶって、花笠音頭を踊ったり、手提げ灯篭を作って娘が夜桜見物に出かけたり、それぞれ情景を、振りや表情で表現します。

 蝶も、表現する世界は多分に見立てです。扇を畳んで横にして、横笛を表現し、横笛にとまる蝶を見せたり。扇を広げて、左に持てば、遠い山並みを表現し、蝶の上からゆらゆらかざせば陽炎(かげろう)を表現します。

 こうした芸能に子供のころから接している日本人は見立てを普通に受け入れますが、欧米で見立てはあまり見かけません。欧米のリングにも造形はありますが、極く大雑把なもので、具体的な形はほとんどありません。従って、そこからイメージする世界はなく、造形で手順を作ると言う発想はありません。

 

 日本人が見立てや造形を愛した理由は、絵画の影響が大きいと思います。掛け軸の絵などで、風景描写があって、人物が働いている姿が描かれています。これがのちに様式化されて、型が生まれて定着します。掛け軸の中の型が人に理解されるようになって、それを真似る文化が発達してきます。更には、中国の宋代に瀟湘(しょうしょう=中国の中南部にある風光明媚な町)八景と言う絵が出ます。瀟湘の美しい風景を四季を通して褒めたものが八景です。この絵が有名になって、中国各地に、○○八景と言う景色を描いた絵が生まれます。それがやがて朝鮮や、ベトナム、日本にわたり、日本でも○○八景が全国に誕生します。

 近江八景厳島八景、博多八景、松島八景、金沢八景(神奈川県)、巽(たつみ)八景、今でも地名は数多く残っています。

 この八景と言うものが何を意味しているものなのでしょうか。中国で八景が生まれた時に、瀟湘と言う土地の、八つの景色を定めて、それをほめて絵にして、八景としたのです。その八つの景色とは、

 1、晴嵐せいらん)嵐と書きますが、雨風のことではなく、春や秋の霞が立つ風景を指します。

 2、晩鐘(ばんしょう)、夕暮れ時に山寺の鐘楼から聞こえる鐘の音。

 3、夜雨(よう)、夜中の雨の景色。

 4、夕照(せきしょう)夕日を映した赤い水面、

 5、帰帆(きはん)夕暮れに船が港に戻ってくる姿。

 6、秋月、夜の月、海に映る月。

 7、落雁(らくがん)夕暮れ時に雁の群れが空を飛ぶさま。

 8、暮雪(ぼせつ)夕暮れ時に遠くの山に積もった雪。

 

  つまり、中国的な美意識と言うのは、そこに山があって、湖があればそれでいいと言うのではなく、春、秋にはもうろうと霞が立たなければならず、夕暮れには赤い夕陽が湖を映さなければならず、時には雁が群れを成して飛んでいなければならず、夕方には船が港に帰って来なければならず、山には寺があって、そこから鐘の音がしなければならないわけです。それらがすべてなされて八景となるわけです。

 この八つの風景が美しいと決められると、人は型で景色を眺めるようになり、美の基準が固定されます。そして、その風景に似た地域を探し、型の美意識をその地に映して、○○八景と名付けることが流行します。すると○○八景は一躍観光地となり、多くの人が訪れるようになります。これがやがて江戸の末期に、浮世絵師が、盛んに地方の八景を浮世絵にして売り出します。八景と名付けたために、作品は同地域で複数の景色が売り出され、続き物として、雨の風景、雪の風景、晩鐘などとこぞって買い集める人が多く、八景物はよく売れたわけです。

 安藤広重などは随分八景物を書いています。「江戸近郊八景」と言うシリーズに羽田の落雁飛鳥山の暮雪とともに、池上本門寺の晩鐘が描かれています。私は池上の生まれですから、子供のころからこの絵はくずもちの箱の表紙に使われていたものをよく覚えています。

 但し、羽田の落雁にしろ、池上の晩鐘にしろ、現代の人が見たなら、単に田舎臭い風景画で、少しも面白みを感じない浮世絵ではないかと思います。なぜこれをあえて浮世絵にして売り出したのか、見当もつかないでしょう。それにしても池上の町並みは、藁ぶき屋根が瓦屋根に変わったほかは、全く何一つ変わっていません。200年間進歩をしていない街並みです。この広重が腰を掛けて、本門寺の絵をかいていた場所、ちょうどそこで私は生まれています。今は道路拡張で家はありませんが、あのアングルで私は生まれたのです。

 

 八景と言う形式が定着すると、例えば蝶のような、見立ての芸は八景をなぞるようになります。例えば、近江八景になぞらえて、蝶の飛ぶさまを語って行くならば、京では若い公家の奏でる横笛にしばしとどまり、笛の音を楽しみます。そこから山を越えて蝶が下って来るのは、石山寺の秋月、旅路を急ぐさ中に三井寺の晩鐘が聞こえ、琵琶湖を超える途中、羽を休めるために帆掛け船の、帆の天辺に停まって、しばし休む姿が矢橋の帰帆などと、様々な琵琶湖畔の景色を見せつつ、蝶は家路に急ぎます。こうした情景を一つ一つ想像してゆくと、見立てが単なる模写ではなく、一つの世界を作り上げていることがわかります。

 そのあたりがわかって来ると、芸能、芸術が何を語ろうとしているものであるかが見えてきます。例えば、南京玉すだれでも、蕎麦屋の看板だの、炭焼き小屋だの、ただそれだけを語っているのでは、単なる見立てであり、そこから先を感じさせる世界はありません。

 もう少し芝居心を働かせて、浦島太郎が釣り竿を水面に垂らし、座っている時に、三井寺の梵鐘が聞こえて来るしぐさが付けば、「あぁ、もうこんな時間か、さて、そろそろ家に帰ろうか」。と考え、糸を撒きつつ、家で待っている女房のことをしばし思う、などと言った思いを入れを表現したなら、浦島太郎の人生がほの見えてドラマが発生します。そうした情景を語ってこそすだれが一芸になってゆきます。残念ながら、玉すだれからドラマや人生を感じさせてくれるような芸を見せてくれる人はいまだ出会っていません。

 

 昨日前田将太が、金輪は自分の演じる演目の中で唯一芸能と感じさせるものだ。と言っていました。彼も、手妻をするまでは、マジックは不思議であればいい、種がわからなければそれでいいと思っていた一人なのですが、ここへ来て、本当にやらなければいけないことが種を隠すことではないと気づいたようです。それは大きな成長ではありますが、それをどのように本当の芸能に作ってゆくかはまだまだ先の話です。修行の道は遠いのです。

 

続く

 

世界同時不況が来る

 多くのマジシャンは、コロナウイルスでスケジュールはズタズタにされ、次なる舞台の仕事のチャンスも見つからず、こんな時代にどう生きたらいいかは大変に難しい問題を突きつけられています。これまで、ちゃんと勉強して、たくさん知識を身につけたマジシャンでも、現実に、この先どう生きたらいいかと言う問題に直面したなら、みんな悩みます。

 勿論それが人生ですから、頭がよかろうが、専門知識があろうが、次に起こる問題に関しては誰もが白紙状態で、一から考えなければいけません。ただ、不幸中の幸いは、今回のコロナウイルスは、世界中みんな平等に苦しんでいます。知識のある人もない人も、貧しい人も豊かな人も、地位の低い人も高い人も、同時スタートなのです。

 そこからどう抜け出すかは、個人個人の才能にかかっています。それなら、自分の才能や、運や、人脈を利用して、何とか活動してみる価値はあります。

 

 但し覚悟しなければなりません。これから来る不況は、単なる不況ではありません。世界同時不況です。いわば昭和3年世界恐慌と同じ規模の不況が来るでしょう。なぜならば、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアと言う先進国が軒並みロックダウンをして、自国の経済を疲弊させてしまったからです。そうした先進国に引っ張られて、韓国、中国、ロシアと言った中進国は簡単に自力では経済復活できないでしょう。更には、まだコロナウイルスが広がっていないアフリカ地域で大きな感染が起きないとも限りません。

 言ってみれば世界の先進国中で日本だけがコロナウイルスの被害を大した受けなかったのです。それでも現状を見ればズタズタの経済です。ズタズタにしてしまったのはロックダウンを受け入れたからです。ロックダウンは決してやってはいけない悪手なのです。これをすると国の経済が破綻します。「それほどのことにはならないだろう」。と思っている人がありますが、とんでもない。

 前回書きましたように、網の目のように組まれた人々の生き方をひとたび切り取ってしまうと容易な事では繋がらなくなります。その危険に気づいていないのです。この先、ロックダウンをしたイギリスもアメリカも、国としての活力を失ってゆきます。

 コロナウイルスを広がらないようにするなら、具合の悪くなった人を病院に送ればいいだけの話です。全く健全に働く人すべてに、「仕事をするな」、「店を開くな」、「家で寝ていろ」、そんなことを要求する政府がありますか。

 それがために休養保証をする。と言って、せっかく集めた税金を再度ばらまき始めています。それも10万円。10万円が何の役に立ちますか。せっかく集めた税金をばらまくのは愚策です。何もするな、金は払う。と言うのは、国を上げて国民をニートに育て上げることにしかなりません。

 おまけにルールを守らない人をやり玉に挙げて、攻め立てます。外出するな、と言うのは自粛であって、法律ではないはずです。パチンコをしようが、河原でバーべキューをしようが、個人の勝手のはずです。人が自分の金でパチンコをして何がいけませんか。それを自警団のような連中がパチンコ屋にまで入り込んで、お楽しみの中のお客様をやめろと言う理由はどこにありますか。それをまたマスコミはニュースに流して悪者に仕立てる理由がどこにありますか。河原でのバーべキューがなぜいけないのですか。50人以下の集会なら問題ないでしょうし、しかも河原です。誰にも迷惑はかけていないでしょう。

 あんな姿を見ると、日本は村社会です。自分が正しい道を行くために自らを律して生きるのは美しいことです。然しそれを第三者に押し付けて、こう生きろと命令することは誤謬(ごびゅう)です。昔、昭和19年ごろ、私の親父が、楽器を持って慰問の興行に行こうとしたときに、国防婦人会に囲まれて、「この戦時の時に、楽器をもって歌を歌っているとは何事か」。と攻め立てられたのと同じことです。戦時であろうが、平和な時期であろうが、芸人は、面白いことを言って、歌を歌って人を慰めるものなのです。それを第三者からとやかく言われる筋合いなどないのです。「これが俺の仕事だ」、と、いくら言っても、「不謹慎だ」、と言って聞き入れようとしない戦時下の人に親父は悔しい思いをしたでしょう。然しそれと同じことをいま日本人はバーベキューをする人に罵声を浴びせています。コロナウイルスのニュースを見て、「あぁ、結局、日本人の頭の中は昭和19年以来全く成長していないのだなぁ」。と思いました。自粛自粛と言いながらも、人は人を強制しているのです。

 

 ロックダウンのお陰で、子供はいまだいつ学校に行ったらいいのかもわかりません。デパートとも、ホテルも自警団のような連中が鵜の目鷹の目で見ています。人の批判を受けるといけないため、おっかなびっくりで再開もできません。人の生活を邪魔して何が楽しいのでしょう。

 それでも海外から比べたら日本の現状はまだましな方なのです。つまり海外はもっとひどい状況なのです。これまでマジシャンは、例えば、ヨーロッパが不況だったら、アメリカに行ったり、アジアで稼いだり、あの手この手で世界を回っているうちに何とかなりましたが、この先はどこも不況です。そんな中で多少経済の回復が早くなりそうなのは日本でしょう。でもその日本がいまだ混沌としています。

 

 私自身も責任を感じていますが、5月9日に地震が来ると以前に書きました。多くの人は11日が危ないと書きました。しかしどちらも地震は来ませんでした。良かったと思います。これで地震が来ていたなら、日本は壊滅的な打撃を受けたでしょう。

 しかし、だからと言って、もう地震は来ないのかと言うとそうではないでしょう。いつとは区切れないまでも、大きな地震が来る可能性は消えてはいません。但し、今を天から与えられたチャンスだと思うことです。今こそ地震の対策をしておくべきです。古い橋や、古いトンネルは点検しておいたほうがいいでしょうし、古い建造物も対処しなければならないでしょう。今、地震災害が起こらなかったことを幸いとして、補修や、整備に費用をかけたなら、めぐりめぐって経済もよくなってゆくでしょう。

 

続く

行く川の流れは

 仮にコロナウイルスがひとまず終息したとして、この先多くの職業が三か月、半年先に平常に戻るでしょうか。実はこれが大変難しいことだと思います。これまで営々と築いて来た人と人との関係を、今回のコロナウイルスが大きく破壊してしまいました。

 

 例えばレストランで、夕方から深夜までクロースアップマジックを見せていたマジシャンが、週三日間、月12日間見せていたとして、これが、6月から全く前の通り再開するか、となるとどうでしょうか。

 もし私がレストランのオーナーだったなら、このコロナウイルスの騒動で、相当に考え方が変わると思います。5か月間ほぼ無収入を経験したオーナーは、このロックダウンで目が覚めると思います。つまり、

 1、来年、また新型のウイルスが来たならどうするか。

 2、コロナの赤字が解決しないまま、レストランの経営がやって行けるかどうか。

 3、マジックと言うサービスを続けて、店に意味があるのかどうか。マジックにかける分、料理の値段を値下げしたほうが、店にはメリットではないか。

 オーナーの頭の中でこんな悩みが出ているとしたなら、マジシャンはそれに対して、一つ一つ論破して、マジックを見せることの優位性を語れるでしょうか。

 オーナーはロックダウンを支持する人々の脅威を見てしまいました。ひとたびコロナウイルスが流行れば、数十年かけて営々として築いた自分の仕事など簡単に否定してしまいます。味も、歴史も味方をしてくれないのです。オーナーはすっかり怯えています。それに対して、マジシャンが、「大丈夫ですよ。僕らが面白いものを見せて、またお客さんを呼びますよ」。と能天気なことを言って、それでオーナーを安心させられるでしょうか。

 

 コロナウイルスが、単に5か月間の休業だけの被害なら、大した問題ではないのです。問題は被害日数ではありません。ロックダウンをしたことによって、人の心が変わってしまったことが恐ろしいのです。私がたびたび言う、一度破壊された個所が、糸を紡ぐことすらできなくなるほど、ぽっかり大きな穴が開いてしまったのです。

 

 そのことは私の仕事の状況も同じです。コロナ以来、今年に受けていた仕事はすべてキャンセルになりました。そしてその後にスケジュールで新たに来た舞台はありません。と言うことは、私は年内一本の仕事もありません。全くないと言うと嘘になります。私が主宰している公演は(マジックセッションやマジックマイスター)などは、何とかしていたしますし、前々からやろうとしていた、自主の舞台は開催できるかも知れません。人形町玉ひでも月に一回開催します。毎月5,6本の舞台は再開できるでしょう。然し、それらは私のチームを維持するほどの収入には至りません。それでも私を求めて来てくださるお客様と舞台でお会いできることは幸せです。

 問題は、私のイベントや、パーティーを買ってくださっていた、企業や、ホテル、プロダクションの人たちが、いつまた私を使ってくださるか、それが読めないのです。企業も、イベント会社も、今回の件で相当に被害を被っています。すぐには再開しずらいと思います。「マジックショウでもやろう」。などと前向きに考えてくれる会社は少ないと思います。そんな中で、昨年までの舞台の本数が、復活するのはいつのことかと考えると、案外5年6年かかるのではないかと思います。

 つまり、ロックダウンは修復に6年かかると言うことです。とりあえずウイルスを押さえ込むために大騒ぎをして、多くの人々の生活を6年も乱すことがよい事だったか否かと言うなら、明らかに間違った選択だったはずです。

 

 自粛で舞台ができなくなったり、不況で仕事が減った経験は、これまで何度か私も体験しました。昭和の天皇陛下の病気の時もそうでしたし。阪神淡路大震災や、東日本大震災リーマンショック、古くはオイルショックもそうでした。ひどい不況が来て、その不況がひとしきり去ると、すぐにイベントが復活するかと言うとそうはなりません。仮に景気が戻ったとして、その不況の前と後とでは、はっきりイベントのマネージャー達はショウを見る目が厳しくなります。そして、いつまでも古いこと、センスのないことをしているマジシャンはその都度仕事を失ってゆきました。そうしたマジシャンが仕事を失ってゆくのはやむを得ないことです。

 今回も同様です。未熟なマジシャン、下手なマジシャン、センスのないマジシャンは、コロナの大きな流れで、一気に押し流されて、失業してゆく可能性があります。こう書くと多くのマジック愛好家は、「下手なマジシャンならやめて行ったっていいよ、そんな連中はいなくなったってどうと言うことはない」。と冷淡に言う人がありますが、そうではないのです。

 どんな芸能も初めから上手い人はいません。初めはみんなどうしようもないマジシャンばかりです。しかしそこから多くを学んでうまくなってゆくのです。そのうまくなる可能性のある人たちまでも押し流してしまって、そのあとどうやって人が育ちますか。

 全ての芸能に言えることですが、名人とか優秀な人材は、今いる人たちの中から育つのです。決してほかの世界から、まるで天から降りてくるように名人が現れるわけではないのです。長い事、下手だのセンスがないだのと言われていた人が、何年かすると、信じられないくらいうまくなります。本当のだめと、可能性のあるだめを見分けるのは難しいことですが、それでも、何とか一生懸命続けている人たちまで一掃してしまうと次の人材が枯渇してしまうのです。

 

 大学でマジックを趣味としている人はたくさんいます。そうなら毎年10人くらいはそこからプロマジシャンが生まれてもよさそうなものですが、現実にはそうはなりません。彼らがプロを宣言しても数年のうちに消えてしまう人がほとんどです。実際には生きにくい世界なのです。そんな世界でもなんとか残って活動していたマジシャンが、このウイルス騒ぎで一遍にいなくなる可能性があります。それを私は危惧します。

 このことはそっくり海外のマジシャンにも当てはまります。アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、或いは中国、韓国当たりの経済の落ち込みはこれから重くのしかかってきます。そうなればマジシャンの生活は維持できません。マジックショウも、コンベンションも、数年は復活しない可能性があります。その間に有能な人材が消えて行きます。

 いずれにしても、ロックダウンで修復不可能なほど途切れてしまった世界はこの先5年10年は混乱し、簡単には修復しないでしょう。

 

続く、