吉田菊五郎
横田大輔さんと言うマジックの研究家が、私の「天一一代(NTT出版)」を気に入って下さり、写真による松旭斎天一の足跡をまとめた冊子を出されました。内容は私が書いた文章を要領よくまとめていて、そこに当時の写真がたくさん入っています。私が知らなかった写真もたくさんあって、見ていてとても興味深いものです。
その中にたまたま三代目吉田菊五郎の写真が入っていました。またそれに付随して、三代の菊五郎のことが書かれています。これが私にとっては大変に興味です。
手妻の世界だと柳川一蝶斎、明治になって西洋奇術が入って来ると松旭斎天一。この二つの名前があまりに大き過ぎて、ついつい同時期に生きて活躍した手妻師や奇術師の印象が薄れてしまいます。
当然のごとく時代と共に資料も失われて行き、今となってはなかなか奇術師の足跡も、その人となりもよくわからない。と言うことになってしまいます。
大坂の吉田菊五郎、と言う手妻師は、江戸の末期から、水芸や衣装替わり、様々な大道具を駆使したイリュージョンショウを構成していて、大きな芝居小屋に出続けて、人気のあった人でした。晩年に宙乗りから落下して、片腕を失いましたが、それでも舞台に立ち続け。片腕で早変わりから水芸までしました。
その芸(明治40年頃)を道頓堀で、若いころの松旭斎天洋師は見ています。師の記憶では、片腕ながら、動きが素早くて、小柄で愛嬌があって、とても人気があったと私に話してくれました。この初代の菊五郎には実子があって、明治末年に二代目菊五郎を継承します。そして二代目の子供が昭和10年に三代目を継承し、昭和40年代初めに亡くなります。
芸能の世界にあっては珍しく、親子、孫と三代、血がつながって継承されています。この初代が江戸末期の大坂の手妻界をリードした手妻師で、幕末期には、養老瀧五郎(ようろうたきごろう=後の養老瀧翁齋、ここでは瀧五郎と言う名称で通します)、と言う、大看板がいて、この人は、江戸の安政の大地震で江戸の仕事が少なくなった時に、大坂に出て活動するうちに、そのまま大坂に住み着いて、大坂で手妻師の大看板になった人です。
この瀧五郎による水芸は、江戸の鈴川流の水芸を継承していて、いわば水芸の原点ともいうべき基本的な内容のものでした。大坂に住み着いたのちに、大坂の派手な水芸の影響を受けて、あちこちから水が出る、大きな装置になって行きます。
養老に対して、大坂には、吉田菊五郎と中村一登久言う別派があり、養老よりもっと派手で、芝居仕立てで、本水を使って舞台に拵えた池の中から濡れずに出てくる。と言った趣向を見せる大手妻を演じていました。瀧五郎、菊五郎、一登久の三人が幕末から明治にかけての大坂の看板手妻師だったわけです。
今回ここで紹介する吉田菊五郎は、若いころは吉田菊丸(菊麿?)と称して、四国や、瀬戸内あたりの祭礼などで興行していました。若いころの松旭斎天一が、これを見ていて、弟子入りを求めたそうですが、当時の菊丸は、人気手妻師で、得体の知れないものを雇い入れたりしません。けんもほろろに断られたようです。
その初代は、後に歌舞伎の五代目菊五郎に水芸を教えたことで義兄弟の盃をかわし、名前を貰って、以後菊五郎と名乗るようになったそうです。但しこの話は明治10年以降の事と思われます。何にしてもこの人の人気はすさまじく、大坂道頓堀に五座ある歌舞伎小屋に出演し、連日多くの観客を集め続けました。
初代の年齢はよく分かりませんが、天一が嘉永6(1853)年の生まれです。その天一が15の時に吉田菊五郎を見たとするなら、少なくとも菊五郎は、20歳かそれ以上でしょう。となると嘉永元(1848)年くらいでしょうか。亡くなったのは、明治44(1911)年くらいだと思います(天一の死亡年は明治45年)。ほぼ天一と同時代を生きて、尚且つ天一よりも数年長生きをしたことになります。
なんにしても、若き天一にとって菊五郎の活躍は羨ましかったようです。菊五郎も、瀧五郎も、天一がいくら追いかけても到底かなわない大スターだったのです。その後天一が大看板になってからも、菊五郎の舞台は何度も見に行ったようです。
ここでご記憶願いたいことは、養老瀧五郎、吉田菊五郎、中村一登久の水芸はどれも水芸ではありますが、それぞれ発展してきた流れが全く違います。
養老は、少し書きましたが、所謂手妻本来の不思議を見せる水芸で、一筋か二筋の水が桶の中の水から昇って行く、と言う、至ってシンプルな芸でした。これが伝統的な手妻の水芸です。これでも水が立ち上ると言うこと自体が当時の人には不思議だったのでしょう。
中村一登久の水芸は、曲独楽師の水芸を継承していて、絡繰り細工であることは勿論ですが、演技の中に独楽廻しの芸が入ります。独楽のフィナーレに、独楽の芯から水が吹き上げたり、刀の中心から水が上がります。今となっては曲芸の独楽が水芸を演じることはありませんが、水芸の歴史は、独楽の芸人たちによって発展していったと言っても過言柄はありません。この事はまたあとでお話ししましょう。
吉田流の水芸は、徹底した絡繰り装置です。初代は若いころから小道具をいじって新しい工夫を作り上げるのが好きな人だったようで、様々な工夫をしています。またそうした装置を形にしてくれる絡繰り職人が大坂にはいたのでしょう(竹田の人形絡繰りを継承する人たちがたくさんいたと思われます)。
菊五郎の巣血は大掛かりで、舞台で消えた菊五郎が、客席から宙乗りで出現したり、舞台中央の拵えた池にざぶんと飛び込んで、周囲にから何百もの噴水が上がり、観客があっと驚いている間に衣装を変えて花道から、濡れず衣装を替えて走って出て来たそうです。
更には、水芸に花火を取り入れたり、背景の黒幕を切って落とすと、そこには天女が何人も空中を浮遊しながら、両手に持つ花から水を噴き上げている。と言うのがフィナーレでした。これを明治20年代の見せていたのですから、これは壮大なイリュージョンショウです。
この吉田流の水芸がその後どういう理由で衰退して行ったのかはわかりませんが、少なくとも二代目までは活躍したようです。その二代目の活躍はまた明日お話ししましょう。
続く