手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

福井の三日間 2

福井の三日間 2

 

 翌朝(6月2日)私は三国の町を見下ろす丘の上にあるオーシャンビューホテルに泊まっています。このホテルは、私がショウをする龍翔博物館の真向かいにあり、場所も建物も、素晴らしいホテルです。

 朝7時に朝食。この朝食ですが実にバラエティに飛んでいました。、へしこ(鯖の干物をほぐしたもの)とか、ブリのとろりとした刺身の和え物とか、イクラとか、とろろなど、飯に乗せたら旨いおかずがずらりと並んでいました。とろろにしても、摺ってあるのですが、すり身がねっちりと引き締まっていて、見るからに旨そうです。私は毎回朝食は飯を一膳と決めています。そのため、こんなにたくさんのおかずが並んでしまうと、実に酷です。仕方なく少しずつおかずを飯を三分の一だけ残して、へしこを乗せ、出汁をかけて茶漬けにしました。へしこは塩がきついため、食べ過ぎは禁物ですが、これが実に麻薬で、何度も悪の道に誘惑します。然し、飯のお替りを押さえて、茶碗の底にへばりついた飯粒を出汁ごとすすり、満足したと言い聞かせて朝食を終えます。

 丘の上から、朗磨と一緒に歩いて町に出ます。眺めの良い散歩コースです。眼下は遠く九頭竜川が見え、川の水が美しく、岸辺には漁を済ませた小船がたくさん並んでいました。朝7時50分。ほぼ10分歩いて三国の駅に到着します。

 九頭竜川の川岸に平行に続く道が三国の旧道です。今は、川と町の間にバイパスが出来て、車は旧道を通らずに移動が出来ますが、昔は、川筋に道はなく、直接蔵が並んでいて、船を岸に付けて蔵の中に荷物を運び入れていたのでしょう。瀬戸内や、日本海側の港はどこもそうですが、その昔は岸沿いに蔵が整然と並んでいたのです。そして、蔵から街道までは鰻の寝床のような細長い民家が続いていて、旧道沿いの表通りは商店になっていたのです。つまり商店、自宅、蔵の三つの建物が一軒の敷地でつながっていて、これで家族や奉公人を養い、一つの企業を成していたのです。

 私の好きな、岡山の下津井の町も全くそうした鰻の寝床のような家が続いています。海運で栄えた町は、鞆(とも)、若狭の小浜、三国、酒田、などなど、どこも川筋に蔵が並び、豊かな町だったのです。

 日本海の海運業は、日本の細長い地形を生かすことで大きく発展を遂げました。何しろ沖縄(当時は琉球)から北海道(当時は蝦夷)まで3000㎞あり、欧州各国と比べてもその距離は一国では最長の長さです。そして、北から南までの特産物はそれだけで一つの世界を作っています。

 蝦夷地では、鰊(にしん)が大量に採れました。余りに取れ過ぎて蝦夷だけで消費しきれなかったため、塩漬けにしたり、鰊を絞って、油を取りました。油は日常の灯りに使います。搾りかすは天日で乾かして、干鰯(ほしか)と言う肥料にします。搾りかすとは言いながら、栄養価の高い干鰯は江戸時代の貴重な肥料で、特に木綿の栽培には欠かせない肥料で、雨の少ない温暖な瀬戸内地方では木綿の栽培が盛んでしたから、いくらでも干鰯が売れたのです。

 さて、瀬戸内で栽培された木綿は機織りをして、京や大坂に持って行くと、色柄がデザインされて美しい着物に変身します。当時は着物は高価でしたから、古くなると古着屋に出します。この古着を蝦夷の人たちは欲しがりました。古いと言っても木綿は丈夫ですし、長く着た生地の方が肌に柔らかく、使い勝手が良かったのです。大坂で古着を大量に仕入れて、千石船に載せ、米、酒、塩、醤油、味噌、などを積んで船は瀬戸内を西に進み、下関からは日本海に入って、東北に進路を勧めます。そして三国や酒田に泊って、蝦夷松前まで行きます。

 蝦夷では、先の干鰯の他に、昆布、毛皮、塩漬けの鰊、干鱈(ひだら)などを積んでまた大坂に向かいます。つまり江戸時代には広域の商業取引が完成していて、日本海側の港は、北から西からやって来る船で大繁盛したのです。

 特に三国の港は、北前船で大きな稼ぎを上げ、更に九頭竜川の川船で、福井の城下町まで荷物を運び、千石船と川船の両方で大きな稼ぎを上げたために町は潤ったのです。

 その情報を昔本で読んでいた私は、以前から三国を訪れたく、今回念願かなって朝の散歩に出たわけです。然し、時間は1時間しかありません。街並みを散策して、森田銀行と言う明治に建てられた銀行を見て、旅籠屋(はたごや=旅館)を見て、遊郭のあった花街を歩き、湊座と言う芝居小屋(今は残っていません)の跡地を見て、昔の繁栄を偲びました。然し今でもお宝が随所に残っていて、民家であるのに銅葺きの屋根であったり、金飾りがうだつの柱に施されていたりと、かつてはよほど豊かだったことがよくわかりました。福井市が空襲や、大地震で壊滅的な打撃を受けたために、現在では古い建物がほとんど残っていません。それに比べ、三国の町の豊かさは貴重な文化遺産です。

 松旭斎天一は、明治20~30年頃、金沢の福助座で5日から7日間興行を済ませると、翌日定期船に大道具を乗せて三国に入ります。恐らく湊座で2日から3日間興行をして、その翌日には川船に荷物を載せて、福井の昇平座に入ります。そして福井で7日間から10日間興行をします。時には一か月も興行したときもあったようです。福井は天一の生まれ故郷ですから、天一の興行はいつも大入りだったそうです。

 岸辺から九頭竜川の流れを見ていると、明治の町の繁栄や、天一の福井への思いが伝わってきます。

 その後、タクシーで急ぎホテルに戻り、温泉に浸かり、荷物を持って10時に龍翔博物館に入りました。13時半と16時の二回、それぞれ一時間の公演をします。

 一時間の公演となると道具の数もたくさん必要です。セットアップに2時間くらいかかります。ここから本気を出して仕込みをします。

 演目は傘出しから人力車の引っ込みまで、サムタイ、お椀と玉、朗磨が袋玉子と紙片の曲。そして蝶。蝶は客席を廻って、江戸時代さながらにお客様の頭の上を飛ばしました。二回公演をして二回とも満席でした。皆さんが喜んで帰られるのを見て、安心しました。教育長さんや坂井市の市長さんも見え、熱心に見て下さいました。感謝です。

 舞台上で、「三国の街に何とか湊座を復活させませんか」。と訴えると、市長さんは「工夫をして見ます」。と仰って下さいました。

 公演を終えて、サイキックKさんの車で福井駅まで送ってもらいました。朗磨はここで東京に戻ります。私は明日、天一祭のために福井で打ち合わせをするため福井で一泊します。Kさんには毎回お世話になっていますので、居酒屋に行って、刺身とおろし蕎麦で一杯やりました。仕事を終えて、ほっと安心をして、いい具合に酒が回りました。どんなに忙しくても、人に求められて生きている私は幸せ者です。

続く