手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

付和雷同す

付和雷同

 

 コロナの後遺症は依然として続いています。多くの高齢者は外に出歩かなくなり、芸能を見ること、飲酒をすること、食事をすることなどを手控えるようになってしまいました。それはコロナの時に余りに恐怖を植え付けたことが、多くの人を閉鎖的にしてしまったようです。

 コロナの時には、毎日毎晩感染者を東京都知事がテレビで発表していましたが、そんなことをする理由があったのでしょうか。なぜ都知事がそんなことをしなければならなかったのでしょうか。大騒ぎをすれば、高齢者は感染を恐れ、外出を手控えるようになるのは当然です。

 そうなれば多くのサービス業は立ち行かなくなります。実際、レストラン、バー、料亭など、3年間のコロナ騒動に中で店を畳んだところは多いのです。

 そうした飲食店を仕事場としていた、芸能関係者も同様に廃業した人もたくさんいました。毎晩テレビで「不要不急の外出は控えて下さい」。と言っていました。然し、お客様のレジャーを頼りに、仕事が成り立っていた人にとっては不要でもなければ不急でもなく、それはとても重要な仕事場だったのです。

 

 一見どうでもいいようなことでも、そこに仕事として成り立っている人たちがいると言うことは、それはどうでもいいことではなく、世の中に役立っていることなのです。そうしたサービスをする人がいたからこそ、町に潤いがあったのです。それが連日テレビで「外出をするな」。と言われては、人は出歩かなくなってしまいます。そうした人たちを諸悪の根源のように押しつぶしてしまうことは、結果として国の文化が失われ、人々に潤いのない生活を強制することになります。

 「酒は家で缶ビールを飲めばいい」。「食事はコンビニの冷凍食品を食べればいい」。「映画はテレビを見ればいい」。「演芸はテレビでいくらでも芸人が出ているから何も劇場に行かなくてもいい」。仰る通りです。

 かくして人は金を使わなくなり、外出をしなくなりました。それにつれて、人は人との付き合いが減って行きました。昨年のクリスマスや、今年の正月などは、商店街の飾りつけも例年になく地味なものでした。クリスマスのベントや、正月のイベントもほとんどありません。そうなると、殆ど正月だけで稼いでいた、クールポコの餅つきコントなども随分困っただろうと思います。

 それだけでなく、コロナによってあらゆるイベントが消えました。花火大会なども軒並み中止になっています。「クールポコなんかいらない、花火なんかあってもなくてもいい」。そう仰る人もあるでしょう。でも花火大会は日本の文化です。数百年続いてきた催しが、消えてしまっては勿体ないでしょう。クールポコさんだって貴重なコントです。是非とも残したい日本の文化です。

 感染病の対策を立てる事は大切ですが、それは健常者の生活を妨げない程度にしなければなりません。そうでないと、国や経済の活動が機能しなくなります。アメリカでもイギリスでも、過剰な防衛はほとんどなかったのです、日本だけが異常な反応をしたことで、その後遺症が今なお残っているのです。

 

 正月に、能登半島地震があり、被災者は今も仮設の避難所で生活を余儀なくされています。人口の少ない地域のためか、水道などの復旧に手間取っているようです。タレントの中には、自費で支援金を送る人もいます。それは善意の行いですから、素晴らしいことだと思います。

 ところが、ところがネット民の中には、「誰それが支援をしたから、誰それも支払うべきだ」。とか、「支援金を払わずに、舞台公演をしているミュージシャンがいる」。などと批判する人がいます。そんなことは大きなお世話なのです。舞台人が舞台をするのは生活のためです。遊びでしているわけではありません。それを、「こんな時に歌っている場合か」。と言うのはとんでもない話です。ミュージシャンはいつの場合でも歌っていいのです。それがミュージシャンの仕事だからです。

 個人が支援金を支払うのは良いことですが、周囲に同調を求めてはいけません、同様に市町村に支援を要求してはいけません。支援は強要するものではないのです。

 そもそも、支援をするタレントは、黙って支援をすべきです。いくら払ったと言う話は禁句です。支援の輪が市町村に広がることはよいことですが、その先に必ず例年の市のイベントが中止になります。夏祭りが中止、市の体育祭が中止、海外との交流基金が半減、などなど、文化の費用がどんどん失われて行きます。

 始めはタレントが善意でしたことが、周囲が煽って行くうちに、どんどん市町村のイベントが中止になったり、様々な催しが消えて行きます。そのために日ごろスポーツを練習していた人が出番を失ったり、芸能を披露する機会が無くなったりします。それでもあえてイベントをすると、「今そんなことをしている時か」。などと批判する人が出て来ます。

 これは今まで私が何度も話してきたことです。私の親父が、太平洋戦争のさなか、演芸一座を率いて、ギターを持って農村を慰問していた時に、朝、家を出て電車に乗ろうとした親父を、憲兵や国防婦人会のメンバーが取り囲んで、「この非常事態の時に、何を遊んでいるのか」。と攻め立てたのです。

 親父は、「遊んでいるわけではない。これが私の仕事だ」。と言っても誰も聞こうとしません。ギターケースを持って歩いていること、すなわち遊びなのです。でも娯楽を提供して何がいけないのでしょうか。親父は随分悔しい思いをしたようです。

 然し、この事は現代においても変わりません。地震が起きようと、火事が起きようと、空襲があろうと、芸人は芸をし続けてよいのです。それは勤め人が会社に行くのと同じことで、仕事なのです。

 たまたま金沢などでコンサートをするミュージシャンがいたとしても、中止を呼び掛ける行為は間違っています。聞きたい人がいて、ミュージシャンが来ると言うなら、コンサートはすべきです。地震に遠慮する理由はないのです。

 そして支援金も、それぞれのミュージシャンが個人の判断ですることであって、外から何かを言うことではありません。ネットは何かと圧力をかけようとしますが、それは間違いです。先ず普通に生活をする。誰も普通に生きている人を邪魔してはいけません。その上で被災者をおもんばかる。これが先進国の国民の生き方です。

 善意を盾に人の批判をする人は妖しい人です。大多数の人が付和雷同するのは程度の低い国民のすることです。支援をするもしないも静かにやって下さい。寄付を自慢する人に立派な人はいません。ネットの善意にご注意。

続く