手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

松旭斎すみえを偲ぶ会

松旭斎すみえを偲ぶ会

 

 昨日18時から、浅草ビューホテル日本奇術協会主催で「松旭斎すみえ」を偲ぶ会が催されました。若くして奇術師としてテレビ出演をして、人気を集め、長らく日本奇術協会の会長を務め、女性でありながら、奇術界のまとめ役として活動されて来ました。

 ある時期、すみえ会長、北見マキ副会長、藤山新太郎が理事で、10年間以上に渡って協会の活動をしてきました。

 そうした縁で、毎月理事会で顔を併せることが多かったのです。その仕事の内容は、種明かし問題が起こると、その都度テレビ局に出掛けて行って抗議をしに行ったりといったものでしたが、そのときは決まって、この三人で抗議に出かけていました。

 テレビ局の帰りには必ず喫茶店に入って、三人で話し合いました。言葉数が少ない北見マキ師に対して、すみえ師はいつでも積極的にものを言う人で、二人は全く好対照でした。すみえ氏が1938(昭和13)年生まれ。北見氏が1940(昭和15)年生まれ。私は昭和29年生まれですから、15以上も年が離れていました。

 すみえ、北見と言う流れの中に私がいると言うこと自体が不自然なのですが、どうしたわけか私が加わって、様々な活動を手伝うことが多かったのです。然し、私自身は若いうちから奇術協会の活動などしていていいのか。先ず自分自身がどうにかならなければいけないのじゃぁないか。そんなことを常に思っていました。

 

 また協会の活動が、当時は、自主公演を打って、積極的に自分たちの演技を外の人にアピールしようなどとと言う考えがなかったのです。また、海外とのつながりなどにも消極的で、国内の狭い範疇で仲間が集まって新年会をしたり、芸団協主催の演芸祭りに参加するのがせいぜいだったのです。

 私はそうした活動に不満を感じ、積極的な提案をしました。「協会主催の世界大会を開催してはどうか」。とか、「アマチュア会員を入れて会員を増やしてはどうか」。とか「雑誌を発行して全国にマジックの情報を伝え、協会主催の事業に愛好家が集まりやすくしてはどうか」。とか。「一流劇場を借りて協会の主催公演をしてはどうか」。とか。いろいろ提案するのですが、どれも却下です。

 そもそも北見副会長は、事務的な立場でことごとく反対しました。元々が、経理や、事務が向いている人のようでした。

 三人で会議をすると、すみえ会長は、私と北見師の言うことをじっと聞いていますが、内容を理解しているわけではなく、バランスで判断して、多くの場合は北見師の言うことに賛成をします。

 私が、「プロマジシャンの協会でありながら、年に一度でも一流劇場を借りて、自主公演も出来ないようでは、一般のアマチュアや、お客様に対して、少しもアピールできません。こんなことを毎年繰り返していても、若い熱のあるマジシャンは協会に入っては来ませんし、お客様も増えません。だから、年に一度、銀座の博品館を借りるなどして、しっかりとした公演をして行きましょう」。

 こう言うと、すみえ会長は、面白がって賛成をしますが、北見師が、「費用はどうする、赤字になったらどうする、誰がその催しの責任者になるのだ」。と言って反対します。自らが責任者となって活動する気がないのです。それを感じたすみえ師は、北見師の顔色を見て、「そうねぇ、協会にお金がないんじゃ無理よね。それじゃぁ新ちゃんあなたが自分でお金出してやったら」。と言って笑います。私がする活動なら協会の理事会で話し合う必要はありません。協会主催でやるべき仕事を話しているのに、私に押しつけて、責任から逃れて笑い話で終わらせようとします。

 この姿を見て、私は失望する以外ありませんでした。私は、テレビ局の種明かしに抗議に行く仕事もうんざりですし、全く自主公演をしない協会の姿勢にも失望しました。私は、協会に見切りを付けます。

 1991年に、SAM(アメリカ奇術協会)の代表支部を作って、日本中に30の支部を起こし、700人の会員を集めました。そして1992年に板橋文化会館の全施設を使って、SAMの世界大会を開催しました。以後毎年日本各地で世界大会を開催し、年に4回機関誌を発行し、各地でレクチュアーなどを開催しました。

 世界大会は以後毎年日本各地で開催することにしました。これは何を意味しているのかと言うなら、協会がなすべきことを、SAMの組織を借りて実践したのです。もし協会が私の意見を取り入れていたならSAMは存在しなかったでしょう。そして、今の協会は随分違ったものになっていたでしょう。

 実際、すみえ師も北見師もSAMが出来て慌てました。慌てて、賛助会員制度を作り、アマチュアを協会に取り入れるようになりました。雑記も発行しました。さすがに世界大会は出来ませんでしたが、折から風路田さん(FISMの日本窓口)が、FISMの開催権を手に入れていながら、バブルが弾けて、開催不能になり、開催権を手放そうとしていました。

 それをすみえ師、北見師が引き受けると言い出し、金銭的な裏付けも考えずに、FISMを協会主催で開催することになりました。機関紙を出すことも、アマチュアを会員に取り入れることも、世界大会を開催することも、やればできるのです。何のかのと理屈をつけてやろうとしなかったのは、怠け癖から抜け出せなかっただけなのです。それでも協会が少し、外に向かって目を向け始めたのは一歩前進でした。

 

 私の家には「青年の木」と言う観葉植物が4鉢あります。これは、30数年前に、家を建てたときに、すみえ師が送って下さったものでした。然し、残念ながら2年で枯れてしまいました。たぶん水をやり過ぎたからだと思います。鉢はそのまま外に出しっぱなしで、丸一年放っておきました。ある時、もうとっくに枯れたと思っていた木をよく見ると、根元から芽が出ていました。

 この時、バブルがはじけて、家のローンが払えず、家を手放そうかと考えていたのです。然し、「待てよ。もう少し頑張ればなんとかなる」。と思い直しました。その後、木はどんどん伸び、やがて株分けをして、今では4鉢になり、家の各階に置いてあります。

 枯れて見放された木でも必死に生きようとしています。人一人が頑張れば大概のことは出来るはずです。青年の木からそう習いました。この木を下さったのはすみえ師です。人としては接し方の難しい人でしたが、青年の木を頂いたことは忘れません。そう思うゆえに昨晩の偲ぶ会に参加しました。心よりご冥福をお祈りします。

続く