手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

空襲

空襲

 

 昨晩は12時にベッドに入り、早めに眠ったのですが、深夜に右腕がかゆくなり、無意識に搔いていると、どうやら蚊に刺されたことを知ります。「まだ蚊がいるんだ」。もう11月だと言うのに、さてはこの数日暖かくて、しかも、湿気が多いため、蚊が最後の一戦に挑んで来たのでしょう。蚊としても、この先は寒くなるばかりで、今出撃しないと二度と人の生き血が吸えない。そう決心してやってきたのです。

 人の血を吸う蚊は雌だけだそうです。子孫を増やすためには栄養のある人の血を吸わなければならないのです。蚊も必死です。私としても、私のわずかな血によって、蚊から私の一門が増えて行くのはそう悪いことでもないかな。とも思いますが、蚊を藤山一門にしたところで、又刺しにやって来るだけですからいいことはありません。

 「どこかに停まったら手で叩いてやろう」そう思って構えていましたが、なんせ半分寝ながら、うつろな思いで蚊を防御しようと言うのですから、守る側の戦意は希薄です。しばらくして、首筋が痒くなりました。「いけない、首も刺された」。

 11月なら蚊の動きも緩慢だろう。と侮っていたのがいけませんでした。敵はやる気です。然し、二か所も刺したなら、もう蚊は満足して、多分引き揚げて、「末は子孫繁栄の蚊」となるのでは、と楽観していると、また、耳元で蚊の爆音が聞こえます。

 その音は、戦争物のドキュメント番組で聞くような、爆撃機のプロペラ音そっくりです。彼らは、一機、もしくは二機、連なって、敵地に攻め入って来ているのです。「どうせ頬あたりに停まるはずだ。そこを狙って叩いてやろう」。

 そう思って、じっと静かに待ちます。やがて再度爆音が聞こえて来て、右の耳近くまで来ました。無論深夜ですの何も見えませんが、音を頼りにパシッ、と自らの頬を打ちました。

 成果を探りましたが、たぶん外れでしょう。「仕方がない。眠ろうか」。と諦めかけると、またまた爆音が聞こえます。これが、全く戦闘機のようです。敵は諦めていないのです。

 「そうなら今度こそ」。と構えていると、さっきと同じように、右の耳元をかすめて行きます。「よし、どこでもいいから停まれ」。そう思っていると、さっきと同じように、右の頬まで来ました。「今だ」。と頬を打ちました。然し、全く戦果がありません。

 結局寝ていられないのです。私は起き上がって階下に降り、時刻を見ると三時半。起きるには少し早いですが、仕方ありません。一階のアトリエに入って蚊取り線香を探し、火をつけて、寝室に上がろうとしましたが、時間が中途半端です。それなら、毎日書いているブログを今書こうかと、パソコンを広げます。

 書きたいことはいろいろあります。イスラエルハマスの問題。ウクライナ問題。中国と台湾の問題。たまにはシトロエンのことも書きたい。ストラヴィンスキーの音楽のことも書きたい。12月の大阪セッションのことも書きたい。天一祭のことも書きたい。あれこれ考えているうちに椅子に座ったまま寝てしまったのです。起きると5時でした。

 「どうしようもないなぁ、それなら寝よう」。蚊取り線香を持って寝室に向かいます。今度は蚊取り線香があるから絶対大丈夫。安心してすぐに寝入ってしまいました。いつもは7時に起きるのですが、目が覚めると8時5分前です。

 「いけない寝過ごした」。急ぎ起き上がって洗面所に行き、顔を洗うと、もう8時です。このところ、NHKの朝ドラの「ブギウギ」を見ています。笠置シズ子の半生をドラマ化しています。笠置シズ子さんは戦前戦後、ジャズで大変売れた人です。その半生のドラマを毎朝見ています。危うく、蚊に邪魔されて見損なうところでした。

 

 今朝はジャズで華々しくデビューする回で、梅丸歌劇団松竹歌劇団のこと)の歌い手として初めてジャズを披露しました。時は昭和14年頃でしょうか。センセーショナルなデビューを果たします。

 この時代にどこまでの人がジャズを理解したのかは不明です。ドラマでは熱狂で迎えられています。いよいよ来週からは笠置シズ子の出世物語になるのでしょう。楽しみです。

 

 実は、その15年も前に、ジャズに注目して、ショウに取り入れたチームがあったのです。天勝一座です。松旭斎天勝は、大正12年関東大震災で被災して、多くの財産や、マジックの道具を失いました。関東一帯でも、被害を受けた劇場がたくさんあって、とてもマジックどころではありません。そこで、天勝はアメリカ公演を思い立ちます。20年前の明治34年、師匠の天一一座で天勝は、3年に渡ってアメリカや欧州各国を回っています。当時欧米では日本人自体が珍しく、どこも大盛況でした。

 それを思い出して、アメリカに行って、自分の技量を試してみようと考えたのです。興行自体は、ハワイや、カリフォルニアなどの日系人の多い地域は成功でしたが、東部に移ると雲行きが変わりました。

 天一の時代は、日露戦争さ中で、小国の日本が大国のロシアと戦っていると言うことで、日本を応援する雰囲気が世界各地で起こって、天一は戦争の追い風に乗って興行が大成功したのですが、20年経ったアメリカでは、日本人に対する風当たりが強く、低賃金で休みなく働く日本人の姿を見て西洋人は危機感を感じていました。

 折から「黄禍論(こうかろん=日本人、中国人はやがて西洋人の生活を脅かす存在になる)」。と言った考えが広まり、日本人の排斥運動が広まっていたのです。そんな中での天勝興行ですから、興行は苦難の連続です。とにかく天勝は興行を切り上げて帰国を決意します。大正14年に帰国。帝国劇場で帰朝公演をします。

 この時アメリカ人のジャズバンドを引き連れて来て、ショウの音楽をジャズでまとめて公演をしました。当時としては相当に前衛的な興行だったと思います。以後一年、日本各地の劇場で興行しますが、当時は、多くの観客にはジャズに馴染みがなく、聞いた人は、「何やら目まぐるしいばかりで、何を演奏しているのかさっぱりわからん」。と言う反応が多かったようです。結局天勝の思いは上滑りをして、マジックの受けは良かったのですが、音楽の評判は今一つだったようです。

 それが、昭和14年ごろには、少しずつジャズも受け入れられるようになったのでしょうか。まずはめでたしです。然しこのあと日本はアメリカと戦争をし、空襲の被害に遭います。さて、笠置シズ子の運命や如何に。私もさっき、蚊の空襲で睡眠を奪われました。げに恐ろしきは空襲なり。

続く