手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

年寄りの愚痴

年寄りの愚痴

 

 時々昔の仲間のマジシャンから電話が来ます。彼はもう殆ど仕事をしていないようです。二か月に一回くらい朝電話がかかって来て、短いときで20分。長ければ40分くらい話をします。話の内容は、「テレビが悪い。番組の作り方が悪い」。「今のマジシャンは駄目だ」。と言うもので、若いマジシャン一人一人を延々否定し続けます。

 私はなるべくその話に乗らないように心がけています。若いマジシャンについて、何かを言っても仕方のないことで、この社会で若いものを黙らせようと思えば、自らが圧倒的なマジックをして見せる以外ないのです。それが出来ずに、若いものを批判しても、それは愚痴に過ぎません。

 いくら若い者が駄目だと言っても意味はありません。私も経験のあることですが、若いうちはものが分からないのです。ものが分からないまま、ただただ突っ走っているのです。詳細に物事を理解して、注意深く生きている若者なんてそもそもいないのです。

 物が分からないから若いのです。そうした人が演じるマジックに可不足があるのは当然で、へたもまた当然なのです。個々を否定しても無意味です。

 いつの時代でもそうですが、芸能は、今、見せている演技が全ての評価につながります。かつて、どこそこで優勝した。とか、かつてどこそこの劇場で半年間も公演した。とか、そんな話をいくらしても、今現実が恵まれた活動をしていなければ人は寄っては来ません。年寄りの自慢話は犬の遠吠えに同じです。

 昔の仲間のマジシャンは、ひたすら私に「ねぇ、藤山さん、今の若いマジシャンはどうしようもないと思わない。あんなのマジックじゃないよねぇ」。と同調を求めて来ます。そんな話は正直聞きたくもないのです。ならなぜ彼の愚痴を聴くのかと言うと、年を取ったマジシャンがどういうものの考え方をするのかが興味で聞いています。

 彼が、私の他に何人か、話し相手を見つけて、ひたすら、若い者の否定をしているであろうことはわかります。そうだとしたら、彼はそうした話をして何が手に入るのか。何も手に入らないとしても、何らかのストレスのはけ口になっているのか。

 愚痴を言って、その後、頭の中がすっきりとして、自分の将来を考えようとしているのなら、愚痴も何かの役には立つと思います。がしかしそうはならないのでしょう。考えが前に向かないから人の欠点が見えるのでしょう。

 実は、その人が、3月に催されたヤングマジシャンズセッションを見に来て、終演後、私が多くのお客様と話をしている姿をロビーでじっと見ていました。たぶん人の切れ間を見計らって私と少し話をしたかったのでしょう。

 ところが人の流れは途切れることはありませんでした。次から次と若い人や、マジック愛好家と話をしている私の姿を見て、脇でずっと待っていたのに、観客が去った後には、いつの間にか諦めていなくなっていました。

 私は正直「少し話がしたかったなぁ」。と、思いました。いつもいつも電話で、人を否定してばかりいるのではなく、なるべく若い人は肯定して見てあげるのが、先輩マジシャンのなすべき行動です。何でもかでも褒め上げる必要はありませんし、へたを巧いと言う必要もありません。

 然し、若い人は、先輩に認めてもらいたいのです。認めること、それだけで人を育てることにつながります。私でも経験がありますが、先輩や優れたマジシャンから、「あなたのここが良かった、ここの工夫が人を超えている」。などと言われると、若いころは励みになるのです。

 先ず先輩にしっかり見られていることが嬉しいですし、考え方の本質まで理解されて、認めてもらえると、その先の生きる方向性まで見えて行きます。何気ない感想なりアドバイスなりは何にも代えがたく、先輩の言葉によって、曖昧模糊としていた生き方に道筋が見えて来るのです。

 それを伝えてあげられるのが、私のような年齢になったマジシャンの立場なのだろうと思います。プロとして50年以上生きて来たと言うことは、仮に何もタイトルを持っていないとしても、生きてきたことそのものが実績であり、勲章なのです。

 その実績を持ったマジシャンが、若い人の工夫を認めて話をしてあげることはとっても大きなアドバイスを与えたことになります。だから、若い人をなるべく多く認めてあげなければいけません。

 と、言うようなことを、仲間のマジシャンに話そうと思っていたのに、彼はいつの間にかいなくなってしまいました。残念でした。彼がロビーにいても、ほとんどのお客様は彼を知らないようでした。かつては活躍したマジシャンなのに、もう今となっては知る人も少ないのです。

 でも、年を取って知名度を失って行くことは当たり前のことなのです。そんなことを気にしていてはいけません。むしろ、今から積極的に仲間を作って行くべきなのです。昔の栄光にしがみついていないで、今、自分が何が出来るか、自分の何が人の役に立つのかを考えて、人と接して行かなければならないのです。

 年を取って来ると、生きる道はますます細く狭くなってゆきます。然しそんな中でも自分のなすべきことはあります。長く生きて来たなら、知識も、生き方もたくさんの蓄積があるはずです。それを何とか、若い人と縁を作って、伝えて行く努力をしなければいけません。

 長く一つことを続けて来たのに、それでは生きて行けないと思うのは間違いです。それは蓄積を生かしていないのです。スタイルや、考えが古くなることは当たり前のことです、でも本質は決して古くはなっていないのです。古いものでもせっせと埃を落として、きれいに磨いてやれば、周囲の人は欲しがりますし、教えを乞うようになります。

 長く生きてくれば自然と人は認めてくれて、生かしてくれます。長く生きて来たことに自信を持つことです。そして、求められれば惜しげなく次の時代の人に技術や、知識を教えて行くことです。そして、人の努力を認めることです。

 近頃私の昔からの仲間が、やたらと愚痴を言う人が多くなったのを見て、残念に思います。まだやるべきことは多いのに、どうしてそこで止まってしまうのだろう。本当はこれからが面白い人生なのに。

続く