手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

お金持ち

お金持ち

 

 こうしてマジックを続けていると、とんでもないお金持ちがご贔屓になってくれて、私の芸能活動を支援してくれたりします。私はこれまで毎年毎年自主公演をしてきて、その都度、チケットを手売りして、お客様を集めて来ました。

 何が大変と言って、自身の公演のチケットを売るくらい大変なことはありません。およそ芸能に縁もゆかりもない人をその気にさせて、マジックショウのチケットを買ってもらうのですから苦労します。

 それはちょうど政治家が選挙のたびに街頭に立って、一人一人選挙民に語り掛けるのと同じことで、マジシャンも、地道な活動を続けて行くことで、観客を集め、理解者を作り、結果、舞台の上で気持ちよくマジックが出来るわけです。そんな時でも、あるお金持ちのお客様は、

「藤山さん、100枚チケットを預かりましょう」。と言って、一枚5千円のチケットを100枚買ってくれました。そして、その100枚は、お客様が販売することなく、知人や、教え子にプレゼントしてしまい、全くの自前で負担をしてくれたのです。

 私の芸を信じてそこまで投資をしてくれる人がいると言うのは有り難いことですが、実際そうしたお客様と縁が出来ても、その関係がいつまで続くか心配です。100枚のチケットを軽く買ってくれるお客様が、次の年もチケットを買ってくれるわけではありません。2年目になると、チケットは義理で10枚買ってくれる程度になり、3年目には、チケットの話をするだけでもいい顔はしません。

 1回善意で買ってくれても、2回目はまずないのです。相手のお客様は私が3年のうちに、実力がついて、稼げるマジシャンになることを期待しているのです。その期待に応えてこそ、お金持ちのお客様と付き合って行けるマジシャンになって行くのです。

 

 それは分かっていますが、芸能はそう簡単には大きくなりません。何年経っても地味な活動を繰り返さねばなりません。話は長くなりましたが、そうした活動をする中でも、多湖輝先生は随分長く私の手妻を支援してくれました。

 公演には毎回見に来てくれましたし、折に触れて他のお客様も紹介してくれました。この先生は、タレント教授の草分けのような人で、頭の体操と言う本が400万部も売れて一躍ベストセラー作家となります。それからはテレビのクイズ番組の解説者になったり、人生相談をしたり、大企業の顧問を数多く務めたり、晩年は、レイトン教授の監修などを務め、生涯お金に苦労しない人生を歩んできた人でした。

 とんでもない収入のある人でしたし、子供さんのいない人でしたから、そのお金の使い方が独特で、軽井沢と箱根と千葉の外房に別荘を持っていて、年に一回行くか行かないかの別荘に、多額の維持費を払い続けたり、最晩年には、石垣島を気に入って、本気で別荘を買おうとしたり、(これは私が、どうせ買っても行かないんだからやめた方がいいですよ、と反対しました)。

 そもそも自宅も、中野に百坪もの家を建てて、昭和30年当時で全室セントラルヒーティングにしました。然し、そのため、電気代が月15万円もかかり(昭和30年代の15万円です)、ついに値を上げて引っ越しましたが、家はそのまま持っていて、従兄弟さんに貸しました。ところが、親戚は勤め人のため、そんな電気代はが払えず、多湖先生が固定資産税から電気代からすべて支払って、従兄弟を只で住まわせていました。全く何のためにそんな家を建てたのか謎です。

 その後、ご当人は、マンションの一階に住むことを考え、東北沢にこれからできるマンションを購入しようとします。マンションは、天井が低いからと、設計の段階で、自分の部屋だけ天井を高くしてもらい(簡単なようですがこれはとんでもなく費用が掛かります)。

 特にリビングは天井を欧米風のアーチ型にして、シャンデリアが飾れるように設計し、そのリビングにふさわしいような、カウンターテーブルを、イタリアから、長さ6mもある大理石のカウンターを買いました。

 そして、壊れないように船で輸送をしてもらい、家に入れようとしたら、ドアが狭くて入れないことに気付き、一度ドアを壊し、カウンターを中に入れ。めでたく当人の希望する、お城のようなリビングを作ったまではよかったのですが、多湖先生は、5年もするとこの特注マンションに飽きてしまいます。

 ご当人は、新しいアイディアを考えるために、これまでも度々引っ越しをしたり、事務所を変えたりするのが趣味なのです。そこで今度は、月島あたりにできた高層マンションのペントハウスに住みたくなります。ところが、東北沢のマンションを売ろうとしたのですが、余りに個性的な部屋のために買い手が付きません。

 ようやくある有名人が買ってくれることになったのですが、その条件として、6mの大理石のカウンターを撤去してほしいと言うものでした。そこで多湖先生は私に電話をしてきました。「藤山さん、大理石のカウンター、いらない?」。と言うのです。

 私は少し興味がありましたから、お宅に伺いましたが、見てびっくりです。6mのカウンターなんて私の家には入りません。仮に半分に切断したとしても、八畳の部屋ではいっぱいいっぱいです。カウンターだけが異常に目立ちます。部屋の中の移動が、日々、カウンターに遠慮して生活しなければなりません。そんな大理石のカウンターに私と女房と娘がおでんを温めて食べていても格好がつきません。大理石は一体何百万円したのか知りませんが、私の家には釣り合いが取れないのです。

 「先生、これは無理です。とても私の部屋では釣り合いません。これはトータルコーディネートした部屋でないと格好がつきません」。と言うと、奥さんが、「それじゃぁ、藤山さんこの家に住まない?。藤山さんはお仲間も多いことだし、これくらい広い家に住んでもいいんじゃないかしら」。

 すると多湖先生が、「あぁ、そうだよね、藤山さんが住んだらちょうどいいかもね。それなら仲介の不動産屋に安くするように言うから、住んだらどうだろう」。その時、私は高円寺に建てた家のローンを銀行から6000万円借りて、毎月42万円も支払わなければならない立場で、毎日毎日月末にどう返済しようか。と頭を悩ませていた時でした。

 多湖先生のマンションは、恐らく売却価格は2億はするでしょう。私が買えるわけがないのです。

 その頃の私は、散歩をするたびに道端に段ボール箱に入った現金でも落ちていないか、と、当たりを見渡して歩いていたのです。そんなマジシャンに、ご夫婦揃って、「そうだ藤山さんが買ったらいいよ」。と話が盛り上がっています。「あぁ、いいなぁ、お金の悩みなどなく、自分の気持ちだけで生きて行ける人たちは、どんなに幸せだろう」。と思いました。

 結局カウンターは壊して、有名人に部屋を売却し、ご当人は月島のペントハウスに引っ越しました。その多湖先生も今はなく、あの呆気羅漢とした陽気な生き方だけが時折、思い出に浮かんできます。

続く