手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

付いている人

付いている人

 

 一概に人生で成功をしている人を「付いている人」と言ってしまうのは失礼な言い方です。ご当人は「付いているんじゃなくて努力をした結果だ」。と仰りたいでしょう。全くその通りです。然し、あえて申し上げます。世の中に「付いている人」と言うのは存在するのです。

 前にも書きましたが、私は親父を平成9年に亡くしました。その時、「もうこれからは相談する相手もいない、自分が柱となって生きて行かなければいけない」。と心に決めていました。しかし何をどうして行っていいのか、明確な将来が決まっていませんでした。

 ところが、それから一か月経った、平成10年の正月に、クロネコヤマトの元社長、都築幹彦さんが私に手妻を習いたいと尋ねて来ました。無論了解しました。すると2月になって、千葉大学の名誉教授、多湖輝さんが同じように習いたいとやって来ました。なぜこうも私のところにこうした人たちが習いに来るのかわかりません。

 求められるまま月二回の指導を致しました。それから約15年、お二人は熱心に手妻を練習されました。当時日本で最も成功された教授と経営者が私のところに習いに来て、食事をご馳走してくれたり、公演がある度に10枚も20枚もチケットを買ってくれました。また、いろいろな人を紹介してくださり、パーティーの仕事も随分世話をしてくれました。

 特に多湖先生は、お付き合いしている方々が超トップクラスの経営者が多くて、多湖先生の話は何でもツーカーで通ってしまうのでびっくりしました。

 多湖先生は戦時中に帝国大学に入り、心理学を学び、戦後卒業して、大学に残っていたようですが、ある時、出版社からクイズに関係する本を出したい、と言う依頼があって、いろいろ自分なりに考えて、「頭の体操」と言う本を出しました。昭和20年代末のことです。

 これは一つことを真っ向から考えるのではなく、少しひねって遊びを交えて考えると面白いアイディアが生まれる、と言うことを書いたもので、大ヒットしました。聞くところによると400万部出たと言います。日本の出版の歴史の中で最も売れた本です。

 日本人の真面目に物事に取り組む性格は長所ではありますが、いざ問題が発生したときに、一つことばかり考えすぎていると、たちまち行き詰ってしまい解決方法が見えなくなってしまいます。次善の策とか、他の価値観とか、逃げ場や回り道がないと、人間はもろいのです。

 そうした日本人のエリート層に対して、知識による遊びとか、別の解決法を提供すると言う本は当時は大変に珍しく、その後も続編が出続けて、結局、多湖先生の亡くなる間際まで、第40巻くらいまで出し続けたのです。

 

 つまり多湖先生は20代にして大ベストセラー作家となり、その後テレビのクイズ番組の解説者となって知名度を上げたり、ラジオ番組を持ったり、多忙を極めます。亡くなる間際にはコンピューターゲームレイトン教授のクイズを考案したりと、生涯仕事が付いて回り、売れまくった人です。

 多湖先生が出るまでの出版界は、出来た本を作家のところに届け、巻末に印鑑を押してもらい本屋に卸していたのです。夏目漱石も、芥川龍之介もそうして自らの本に判子を押していたのです。つまり、その昔に出版界と言うのは、売れる本でも、判子を押して間に合う程度の販売量だったのです。

 ところが多湖先生の本は毎週毎週何万部も売れるため、いくら判子を押しても間に合いません。そこで親戚の大学生にバイト料を支払って判子を押させることを考えます。然し、学生がホイホイと判子を押していると、ゴム印が一日ですり減ってしまいます。そこで多湖と書いた判子を何十個も作って押し続けますが、余りの単純作業にバイトの学生がみんな音を上げてしまいます。

 やむなく出版社と相談をして、互いの信用で判子なしで本を出すことにしました。以来、日本の出版社は本に判子を押すことをやめたそうです。

 多湖先生は、何軒もの家を持ち、別荘も、私が知っている限り3つお持ちで、運転手を雇ってベンツに乗り、虎ノ門に広い事務所を構えていました。文字通り成功した人の生き方をそのまま実践して見せた人です。恐らく昭和、平成で最も成功した大学教授でしょう。

 多湖先生と都築さんが習いに来てから、何やら私の周囲がパッと明るくなったような気がしました。私の活動には積極的に支援してくれました。私はかねがね、手妻の道具は昔のやり方で指物師に作ってもらい、漆を塗って、蒔絵で仕上げるような古風な道具を作りたいと思っていました。

 多湖先生に相談すると二つ返事で賛成してくれて、お二人は、出来る前からその費用を出してくれました。お陰で何の不安もなく次々に昔ながらの道具が出来て行きました。蒸籠も引き出しも、和のテーブルも、そうして作りました。

 道具がすっかり出来上がったころの秋に自主公演をして、芸術祭に参加しました。それが大賞受賞につながり、多湖先生も都築さんも大喜びで祝ってくれました。

 親父が亡くなったときにはこれからどうやって活動して行っていいものか、と悩んでいたことがわずか一年で嘘のように変わりました。然し、この時、私は何かある種の力に動かされているように感じました。人生うまく行きすぎています。

 

 多湖先生からはよく色々な話を聞きました。頻繁に言っていたことは、「いい人と付き合いなさい。いい人からいい話を聞いて、幸運を引き寄せなさい」。実際、先生の人生はそれを繰り返し実践していたようでした。

 然し、一つ疑問が生じます。そんな偉い先生がなぜ私のような手妻師を熱心に応援してくれるのか。いい人と付き合えと言うなら私と付き合うことは間違いではないか。私はあるときそのことを素直に尋ねました。すると、「藤山さんは一人ですよ。ほかにあなたのようなマジシャンはいませんよ。貴重な存在ですよ」。と仰ったのです。

 「いや、先生、確かに手妻はほかにはいないかも知れませんが、私はそんな優れた人間ではありませんよ」。「いや、手妻に限らず、マジックの世界でもほかの世界でも、あなたのような考え方をする人はいません。だから応援しているんです」。

 「いや、それを言うなら、先生こそ、あまた大学教授がいる中で貴重な存在ではないですか。ソニーの井深さんでも、政治の石原慎太郎さんでも、みんな先生の頭の体操の読者で、会社や官庁に顧問として迎えてくれて。こんな貴重な先生はいないでしょう」。「ある意味ではそうです。同じくクロネコの都築さんもそうです。それだから貴重なのです。でもねぇ、貴重だから成功して、みんなが認めてくれる人になれる。と言うものでもないのです。世の中には付いている人と付いていない人がいるんです」。「いや、それを詳しく聴かせてください。その違いはどこにあるんですか」。

続く