手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

お地蔵様 若狭通いの水

お地蔵様 若狭通いの水

 

 私の散歩コースにお地蔵様の小さなお堂があります。お堂と言っても四本柱に屋根が乗っていると言う至ってシンプルなもので、歩いて1分のところに建っています。江戸時代中頃に彫られたお地蔵様が4体。きれいに並んでいます。このお堂は住宅街の道路に面して建っています。

 道そのものは南北に伸びていて、相当に古い道なのでしょう。ゆるく曲がりくねっています。道幅は6mくらいでしょうか。田んぼや畑ばかりだけだった時代を考えたなら、かなり幅の広い道で、昔から重要な道だったのでしょう。江戸時代はもう少し細かったのかも知れません。この一帯は、関東大震災以降に整地された住宅地で、恐らく高円寺界隈では最も古い分譲住宅だと思われます。

 大正末期から昭和初年にかけて販売された土地で、周囲は田んぼや畑だらけだったでしょう。それを一軒70坪くらいに区画され、販売されたようです。当時その土地がいくらしたのかはわかりませんが、上野や、日本橋あたりで、狭い家屋を借りて住んでいた人にとって、関東大震災を機会に高円寺の分譲住宅を買おうとする発想は、一大転換だったはずです。

 結果は中心街から離れて広々とした家を建てて住んだことは大正解だったでしょう。但し、中央線が今ほどには頻繁に走っていなくて、恐らく1時間に二三本だったのではないかと思います。

 お地蔵さまから北を眺めると、今は中央線の高架が見えますが、昭和初年なら、直接中央線が地面を走っているのが見えたでしょう。当時は中央線ではなく、甲武線でしょうか。チョコレート色をした電車です。その電車が住宅街の間を縫って見えたはずです。踏切もあったのでしょうか。自動踏切などなかった時代ですから、踏切はなかったかもしれません。

 さてその広々とした住宅街が、このところ頻繁に取り壊されています。その家の住人が亡くなって、家族が財産を分け合うときに、多くは土地を売ってしまいます。売られた土地は、二軒、三軒の建売住宅になって販売されます。家は綺麗に作られていますが、以前の松の枝が玄関から生えていて、広い庭があって、古風な日本建築だったことを思うと、どれもせせこましく見えます。

 話は長くなりましたが、このお地蔵さんのある土地に長くお爺さんが住んでいました。家は古かったのですが、庭木も塀の草刈りも丁寧にされていて、更に塀を回り込んだ先にあるお地蔵さんまで毎日掃き清められていました。

 お堂も恐らくお爺さんが建てられたのでしょう。4体あるお地蔵さんは、この近辺の道に建てられていた野仏をお爺さんが引き取って、一か所にまとめられたのかも知れません。つまりお爺さんの献身的な努力がお地蔵さんを残したのでしょう。

 数年前にお堂も建て替えられています。お爺さんは将来的に自分がいなくなった後にお地蔵さんの面倒を見てくれる人がいなくなるのを心配して、自身の生前にお堂を建て替えたのでしょう。小さなお堂ですが、檜の柱で出来ていて、屋根は銅葺きになっています。相当に高価なお堂であることは分かります。

 今は、お爺さんの家はなくなり、整地されて、敷地の隅にお堂だけがぽつんと残されています。お堂がこの先にどうなるのかはわかりません。それでも取り壊されることなく残っているところを見ると、お堂は残されるのでしょう。しかし誰がメンテナンスをするのか、少し心配になります。頻繁に散歩に出かけて、その都度、お地蔵さんに挨拶する身としては、身より頼りのなくなった4体のお地蔵さんの行方が気になります。

 

若狭通いの水

 昨日(12日)は、午前中は朗磨君と入也君の指導。毎月一回群馬から習いに来ています。10時の稽古に間に合わせるには朝7時代に自宅を出なければ間に合わないでしょう。然し、一度も遅刻をすることなくやって来ます。楽しくて仕方がないようです。

 彼らは午後もそのまま残り、大成が来た後に、引継ぎの仕事を覚えます。

その間、午後からはザッキーさん、早稲田さん、小林さん、の3人が来て指導。この日は若狭通いの水を指導。若狭通いなどと言うと、マニアは「素人の宴会芸だ」。と天から馬鹿にして、軽く見ようとしますが、それは大間違いです。

 明治になって西洋から入ってきた若狭通いの水は、筒ネタや、お盆に水を流す仕掛けなど、道具物を使って、水の移動を演じますが、江戸時代のそれは一切仕掛けらしい仕掛けを使いません。徳利が二本、割りばし、扇子、御幣に見立てた半紙など、ごくありふれた道具だけで水の移動を演じます。但し、少しタネがあって、そこに昔からの工夫があります。

 今から20年前、私は必死になって、昔の文献から手妻の作品を復活させるべく様々に工夫していました。私の目から見ると、今では演じなくなった作品は、古いから、レベルが低いから演じないのではなく、ほんの少しアイディアを加えたなら十分今でも通用するような作品がたくさんありました。

 但し、そのほんの少しのアイディアを生み出すまでが苦しいのです。でも、ようやくそれが出来て改案をし、そこに口上を加え、ギャグを加えて完成させたのが20年前です。ところが改案した若狭が出来た後に新たなアイディアが生まれました。こちらの方がよりオリジナリティがあるため、気持ちが移ってしまいました。

 結果としてオリジナル作品の方を採用して、私の若狭通いは完成しました。然し、発表の場のなかった改案の方が残されてしまったままです。それを何とか世に出そうと考えて、20年ぶりに、昨日指導してみました。結果は好評で、彼らは素直に昔の口上まで覚えてくれました。

 「はぁ、ここまで古典の手妻が理解されるようになったんだなぁ」。と、むしろ驚きました。かつては手妻と言うと「古臭い」。と一言でかたずけられていた時代があったことを思うと、隔世の感があります。和服を一度も来たことのないマジックマニアが進んで手妻を覚えたいと思うのは大きな時代の変化です。

 手妻和妻は着物を着て演じる必要はありません。無論、着物を着て、伝統を尊重して演じることは素晴らしいことです。でも、そこから外れた手妻があってもいいのです。洋服を着て手妻を演じてもいいのです。何を手妻と考えるかは当人のセンスなのです。 

 蕎麦屋さんでも伝統的なそば屋があるかと思えば、駅の立ち食い蕎麦のような店もあります。既に茹でてあるビニールに入った麵をつゆに入れて、コロッケを載せる、空揚げを載せる。そんな蕎麦もあります。そんな蕎麦は老舗の蕎麦屋さんから見たら邪道でしょう。でもそれも蕎麦です。

 どんな蕎麦があってもいいのです。そこにお客様がいる限り、それは人に認められた蕎麦なのです。手妻も同じです。指導したものが変化して伝わって行ったとしても、それは習った人の判断なのです。私が追いかけて文句を言う話ではありません。要は、演者もお客様も手妻を愛してくれて、残って行けばそれでいいのです。

続く