手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ナチズム 4

ナチズム 4

 

 ヒトラーアーリア人の優秀性を訴えて、ドイツ人のプライドをくすぐりつつ、同時に敗戦に打ちひしがれ、賠償金に苦しむドイツ人に勇気を与えようと奮闘していたころ、ムッソリーニファシズムによってイタリアの統一を図り、農業や産業の活性化で成功を果たします。

 今日では、ファシズムと言えば右翼的、独裁政治と決めつけられてしまいますが、ムッソリーニが唱えていたファシズムは、右翼でも左翼でもなく、単なるイタリアの結束でした。初め、ムッソリーニ社会党に属し、自ら左翼系の新聞社を起こして執筆活動をしていたのです。然し、一方的に労働者の立場に立って左翼思想を押し進めて行くことに限界を感じて行きます。労働者はストライキを繰り返し、その都度国が疲弊して行きます。労働者のみの権利を守っているだけでは、国は富まないのです。

 イタリアには、労働者だけでなく、バチカンの支持者も、王制の支持者もいました。何より産業を発展させたいと願っている経営者にとって社会主義の支持は得られませんでした。あらゆる階級のあらゆる考えをまとめるには、ファッショ(束ねると言う意味)が必要であり、そこには左翼も右翼もなかったのです。

 結果、ムッソリーニは、社会主義を捨てたことで多くの支持を得ました。ムッソリーニを後世、風見鶏とか、優柔不断とか、無定見とか言う人がありますが、彼の生き方は彼の苦悩の末の答えであり、それはそっくりイタリアと言う国の生きてきた姿だったのです。

 そのムッソリーニは、全体主義が定着した1935年頃からムッソリーニの政治家としての限界が見えて行きます。

 1935年にエチオピア侵攻を始めます。エチオピアはイタリアにとっては鬼門と言うべき地域で、かつて1889(明治21)年に一度植民地にしていながら、その後手痛い敗北を喫し、植民地を失っています。その失地回復ともいうべき戦いをムッソリーニが1935年に起こし、植民地化に成功します。更に同年、アルバニア(イタリアの右側、海を隔てたバルカン半島にある小国)を侵略し、植民地化します。

 但し、エチオピアも、アルバニアも、産業はほとんどなく、生産力も低く、戦って手に入れても、どれほどイタリアに利益をもたらす植民地なのか疑問です。実際この戦争でイタリアの経済は悪化し、エチオピアから国連(国際連盟)に提訴され、世界から非難されます。

 どうもムッソリーニと言う人は調整役の政治家で、国内をまとめるのは上手いのですが、グローバルなビジョンがなく、第二次大戦では常にセンスのない行動をとります。

 

 ヒトラーが、最終的に狙っていた侵略地がロシアの大平原だったと言う話は以前お話ししました。ヒトラーは、ポーランドを攻め取ると、返す刀で電撃的にオランダベルギーを侵略し、フランス領内に入り、あっという間にフランスを占領します。然し、彼にとってはフランスを占領することも、オランダベルギーを占領することも本来の目的ではありませんでした。

 西ヨーロッパは、人口が多く、新たな耕作地がありません。ドイツ人はこの先産業が発展するに及んで、人口が増えて行きます。その時、増えたドイツ人の生活を満たすために、麦と肉が必要です。それを西ヨーロッパでは補いきれないのです。そこでロシアに狙いを定めます。ドイツが発展するためにはロシア南部の穀倉地帯が必要だったのです。

 英国の学者ハルフォード・マッキンダーが1990年に唱えた「優秀な民族が、ハートランドを支配することで世界の覇者となる」。と言う考えは、やがて地政学となって、ドイツではナチスの侵略を肯定する学問になります。

 ハーランドとは、ロシアの穀倉地帯のことを言い、今回のウクライナ紛争の地域がそれにあたります。私が長々ナチズムを書いている理由もそこにあります。

 1941年6月にドイツは、独ソ不可侵条約を破って、突如ソ連を侵略します。世界はあっと驚き「ヒトラーは気が狂ったのか」と思いました。然し、気が狂ったわけではなく、ヒトラーは始めからソ連を侵略したかったのです。このことは昨日、今日、思いついたことではなく、1925年に出した「我が闘争」に既に、「ロシア領を攻め取ってドイツの食料を満たすべき」、と書かれています。ナチスに政権を渡せば、独ソ戦は避けられないものだったのです。

 

 ムッソリーニは、ヒトラーが次々にヨーロッパの国々を侵略して行く姿を見て、勝ち馬に乗ろうと三国同盟を結びます。そしてムッソリーニは1940年、なぜかギリシャを侵略します。なぜここでギリシャと戦わなければならないのか、ドイツも世界も首をかしげます。

 仮にギリシャに勝ったとして、ギリシャには広い穀倉地帯があるわけでなく、石油が出るわけでなく、およそ領土としての価値はありません。しかも、イタリアはギリシャと戦ってぼろ負けをします。ギリシャの背後にイギリス軍の支援があったのです。恐らく、イタリアはギリシャなら勝てると思って戦いを挑んだのでしょう。それが予想に反して大敗です 

 1941年再度イタリアはギリシャを攻めます。然し勝てません。困ったムッソリーニはドイツに応援を頼みます。その頃ドイツはソ連の侵攻を計画中で、ギリシャにかまっている時間はありませんでしたが、盟友の頼みを断れず、戦力を割いてギリシャに兵を送ります。イタリアが数か月戦って勝てなかったギリシャが、ドイツ軍が来ると25日で陥落します。

 然し、ドイツにすれば一刻も早くソ連に攻め込みたいのに、無駄な労力を使ってしまいました。この時、ドイツは、イタリアと同盟を組んだことを後悔します。そして、それまでヒトラーにとっては憧れの存在だったムッソリーニが、ただの役立たずな無能政治家と扱われるようになります。ムッソリーニヒトラーははっきり立場が入れ替わったのです。実際、大戦中のイタリアはずっとドイツの足を引っ張り続けます。

 

 今から45年前、私が20代でヨーロッパに行った時に、私が日本人であると知ると、ドイツ人が親しげに話しかけて来て、「今度戦うときはイタリア抜きでやろう」。と言って来たのを聞いて驚いたことがあります。ドイツ人は凝りていないのです。

続く

 

 明日は12時から、アゴラカフェに出演します。

ブログはお休みします。