手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

深井志道軒 2

深井志道軒 2 

 

 志道軒と言う人は、40代の半ばで頼りにしていた隆光大僧正が没落し、しかも、自身が妻帯していたことがばれて、寺を追われ、更には、何ら不自由のなかった暮らしから女房に逃げられ、金を持ち逃げされ、乞食にまで身を落としました。

 ところが、そこから這い上がり、講釈師として名を挙げて、多くの支持者を得て、最晩年に至るまで講釈を語り、86歳、明和2(1765)年3月7日に亡くなるまで人々から愛され続けました。

 強運と言えば強運ですが、人生を眺めてみると、一貫していることはこの人は才能の塊のような人です。晩年に至って僧をしていた時の修業が生きて、漢文から、孔孟の教え、故事来歴、徒然草などの古書に通じ、そこから独特の読み解きをして人気を博して行きます。

 若いころは自らの才能を自分の出世のために使っていたのでしょうが、転落してからは、人生のすべてを諦めて、欲を捨てて、世の中を底辺から眺めて生きるようになります。志道軒の顔は本の挿絵などに載っていて、いくつも描かれていますが、共通していることは、

 丸顔で、坊主頭、顔は皴くちゃで、口は歯が抜けているせいか口元に皴が寄り、全体は梅干しのような顔。目立つのは目がたれ目で、少し上目使い、口は締まりがなくへらへらした感じ。なんとも助平ったらしい表情で、それでいて愛嬌があるために憎めない顔をしています。

 なるほどこの顔は得です。人に警戒心を持たれません。恐らく若いころはものすごい知恵者で、見るからに才気ある顔をしていたのでしょう。ところが、乞食生活以降は、すべての才能が隠れてしまい、人間と言うよりも、動物の本能だけが残ったような顔になっています。

 

 その芸とはどんなものかと見てみますと、無論、講釈師ですから、戦記物を読んで聞かせるのですが、始めに世相を語ります。これが坊主の矛盾、女の矛盾、金持ち、侍の矛盾を突いて笑い飛ばします。時に政治批判になり、将軍までも批判をします。

 今と違って政治批判は重い罪になりますが、こと志道軒に関しては誰も咎め立てをしなかったようです。役人でさえ、「あいつは気違いだからしようがない」。と言って言わせるままだったようです。

 

 人前に現れるときには右手に一尺ほどの擂粉木(すりこぎ)のような棒を持っていて、そこには男根が彫り込んであって、磨き込んであり、黒光りしていたそうです。それを釈台の上で、とんとんと叩きつつ調子を取りながら太平記物や難波戦記物などの戦(いくさ)の物語を語って行きます。

 時には徒然草を読み解いたりもしますが、そんなときでもとんでもない解釈をして、話がエロネタになります。興が乗ってくると体を使って男女の交わりをして見せて、男根を生かして女の勘所を如何に攻めるかを語り、様々な体位を解説します。

 60過ぎた年寄りが何の恥じらいもなくスケベを語って、その行為をして見せる姿に人は喝采します。

 然しその語りは格調高く、「およそ男女の交わりは、天地既に分かれ、天神七代の御神を、イザナギイザナミノミコトと申し奉る。この御神、おのころ島に天下りまして、交合したまいて、あぁうれしや、あぁこころよしやと訳もないことをのたまいしより、淡路島を生み始め給い、(略)、わが日ノ本はもとより、唐土(もろこし))の大聖人、孔子も、父母のより生じる。三世了達(さんぜりょうだつ=悟りを開いた)の釈尊(お釈迦様)も浄飯大王の御子にて、摩耶夫人の胎内より生じる。仏も元は凡夫なり。」

 と、古事記から話を引っ張り出し、孔子やお釈迦様も、みんな男女の交わりから生まれていると語ります。時には仏教の教えを説き始め、「山高きがゆえに貴からず。樹あるをもって貴きとなす。人肥えたるがゆえに貴からず。智あるをもって貴きとなす」。と言う教えをパロって、

 「それ大聖の釈尊曰く、頭禿げたるがゆえに貴しからず、髭あるをもって毛虫とす。娘肥えたるがゆえに美しからず。えくぼあるをもって取り得とす。

この心は、頭が禿げても、智恵のないものは役には立たず、また、髭が多いだけなら毛虫と同じと言う心でござる。さてまた、娘子は、少し超えたるはよけれども、横へ尻の出っ張ったのは格好の悪いものじゃによって、あまりに肥えた娘は、ちと労咳(肺結核)でも病ませて、やせるようにしたがよし」。

 こんな漫談を江戸時代にしていたなら、人気の出るのも納得がゆきます。始めはくだらない世間話が続きますが、太平記などを語るうちに、エロ話に発展し、しまいには、孔子の教え、お釈迦様の教えを説き、聞き込んでゆくうちにお客様は志道軒が大変な知識人であることに気付いて行きます。

 しかも、人の道を説くにも、坊さんのように高所からものを言うのでなく、始めから人生を諦めていて、世の中の底辺に立ち、まるで猫の視線のような低い位置から人間社会を観察する姿が、人の警戒感を解き、長く愛されるゆえんだったのでしょう。このため、庶民から知識人まで幅広く愛され、太田南畝や、平賀源内などが熱狂的なファンになりました。高貴も下品も、俗も非凡も一緒くたで、何でもありの芸が、そのまま志道軒の魅力だったのです。

 

 

 ところで、この本の著者は斎田作楽(さいたさくら)さんと言い、本来が漢詩の研究家だそうです。本の内容は、小説ではなく、江戸期から明治までに書かれた、志道軒の資料を基に、順に詳しく解説しているもので、著者は演芸や、講釈に取り立てて造詣が深いわけでもないようです。

 したがって、文章はところどころ難解で、およそギャグもなく、大学教授の研究発表のような内容です。これが面白い楽しいと思う人はよほどに古文漢文に精通した人か、物好きな人ではないかと思います。

 然し、私にとっては貴重な資料で、ところどころ文章をお読みになればお分かりと思いますが、七五調の調子のよい語り口で、男根をトントンと叩きながら語ってゆく姿が目に浮かぶようで、江戸の芸能を知る得難い資料です。

 江戸名物となって、連日人が押し掛け、粗末な小屋で朝から夕方まで語り続けていた志道軒の姿が3Dのごとく浮かび上がってきます。

 今、令和に生きる芸能人が、出演場所が限られて、生活もままならない中、いかにして生きなければならないかは、江戸の志道軒を見たなら、答えが見出せるのではないかと思います。すべての欲を捨てて、自分の持っている才能をフル回転させて、真っ向からお客様にぶつかって行けば、どこで演じようとも、お客様に来て下さいと言わなくても勝手に詰め掛けて、押すな押すなの盛況になるのではないかと思います。

 頭白くなった手妻師が貴きとは言えず。芸があるをもって貴しとなす。

志道軒終わり。