手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

十牛図 3

 昨日猿ヶ京の合宿から帰宅しました。これを面白いと感じてくれる若い人がかなりいると言うことがまだ日本のマジック界に希望が持てます。今や、アメリカやヨーロッパが息切れし、韓国が発展先の見えない状況になってきて、私は、次の時代にマジック界を背負ってゆくのは日本だと確信しています。

 しかし、残念ながら現状は、駒が足りなすぎます。人を育てなければいけません。人を育てることは、私らの年代のマジシャンの使命なのです。今は種まきの時期です。しかしやがてそこから大きな実りが生まれると信じて活動を続けています。

 

 週末のスケジュールを間違えて書いてしまいました。関係される方はご確認ください。26日(金)、神田明神の公演、お弁当付きで5500円、12時から、神田明神伝承館、

観覧ご希望は東京イリュージョンへ5378-2882

指導、富士、27日(土)、名古屋、28日(日)、大阪、29日(月)、です。

 

十牛図 3

 第3段階で、自分のだめに気づくと、人は急に弱気になり縮こまります。しかしこれはとても重要なことなのです。それまで自分は世の中で一番うまいマジシャンだと思っていたものが、何かのきっかけで、全然ダメなマジシャンであることに気付きます。そして、弱い自分に気づいてから、これまで下手だと思っていた先輩、プロマジシャンを見ると、自分よりもはるかにうまい人だったことに気付きます。先輩どころか後輩を見てもうまいと思います。しかも、彼らは、うまいにもかかわらず、自分よりもずっと謙虚に生きていて、その姿に愕然とします。

 そうした先輩、プロを見て、これまでの自分がいかに尊大で、世間知らずだったかに気付きます。この時に、能力ある人に人に出会い、師となる人から生き方を学べば、その後大きな成長をします。それもこれも、人の大きさがわかり、人から素直に話を聞こうと思う気持ちになったたからこその出会いなのです。

 

 その師から基礎マジックを習います。本来なら、こんな初歩マジック、ばかばかしいと思っていたことが、改めて習うとそこは宝の山であることに気付きます。なぜ今までこれに気付かなかったのかと忸怩たる思いに駆られます。それは自分に対しての欲が消えたことで、初めて物が正しく見えるようになって来た証しです。

 

 然し、教える側からすると、この段階で若い人にものを教えることはまさに戦場なのです。彼らの心の奥にはまだ根深いプライドが隠れています。今は謙虚でも、少しうまくなれば、すぐにプライドが頭をもたげて来ます。そうなるといくら話をしても、話は自分に都合のいいように曲解されます。うまくなればなるほど人は曲がって育ちます。

 例えば、弟子の修行中に、テレビ局から、弟子にレギュラー番組の出演などが来たとして、それを私が、「まだ弟子の立場ですから、レギュラーは無理です」などと言って断ろうものなら、弟子は一生師匠を恨みます。今まで素直に学んでいた弟子が、レギュラー番組と聞いただけで急に欲をむき出しにして、仕事と師匠を天秤にかけて争いが始まります。師弟関係などと言うものは脆(もろ)く儚(はかな)いものなのです。

 修行と言うものは自分の欲や、虚飾をそぎ落として、素の自分を見ることなのです。然し、それは多分に弟子の反感を呼びます。自分の非を認めるよりも、師匠を恨んで悪口を言うことのほうが簡単なのです。しかし結果、それは自分の世界を小さくします。悪口は自分の修行の嘘を自分で公言することにほかならないのです。

 師弟の中には、そんな争いもなく、まるで友人のように仲良く生きている人もあります。しかしそれは修行ではないのです。互いが傷つかないように気を使いながら修行すると言うのは、修行ではなく、仲良しごっこなのです。

 そんな修業では、卒業しても、芸は少しも育たずに、年齢が行くにつれ精彩がなくなり、世間から少しも重きを置かれなくなります。芸の突き詰め方が甘いのです。

修行中は傍から見れば小さく縮こまって見えますが、この時期が最も大切なのです。

この先大きく羽ばたくには、まず屈して、その先に延びて行くしかないのです。

 

4、得牛(とくぎゅう)

 ここでようやく牛の全貌が見えます。紐でつないで、言うことを聞かせようとしますが、牛は暴れて言うことを聞きません。然し、ようやく手に入れた牛ですから、嬉しくて仕方がありません。苦労はしますが充実した日々です。

 

 マジックで言うなら、修行を終え、念願のプロ活動を始める時期です。まだそれほどうまくはないのですが、それでも知り合いや理解者を見つけて仕事を作って行きます。

毎日毎日が勉強で、うまく行かないことの連続ですが、不思議と日々充実しています。

 それまで自分のしていることで精いっぱいだったのですが、人前で演技を見せているうちに、物が複眼で見えてくるようになります。つまり観客の気持ちが少し見えて来るのです。自分の演技をしつつ観客の気持ちがわかってきますから、演技は格段にうまくなります。然し、それが必ずしも素直には育ちません。

 なまじお客様の気持ちが分かって来ると、妙に媚びたり、受けを狙ったりするようになります。マジックの合間にギャグが増えたり、ダジャレを連発したり、意味のない笑顔を作ったり、自分自身を妙に改造して表現したりと、余計なことばかりするようになります。まだ自分自身が何者であるかがわからないために、複眼が生かしきれないのです。せっかくマジックは上手くなってきているのですが、自らが品格を落としてしまって、収入が上がらず、生きては行けるようになっても、生活は苦労します。

 

 天一は、たまたま出合った西洋奇術師の手伝いをして、神戸や長崎で西洋人のパーティーに出演します。その間に西洋奇術を習い覚え、明治13(1881)年に大阪千日前で、西洋奇術と水芸で看板を張ります。当時珍しかった西洋奇術に観客が集まり大成功をします。

 当時の日本人の西洋奇術師は、衣装が満足に揃わずに、ズボンにシャツ姿で舞台に出たり、上着がないため陣羽織を着て出てきたり、ワイシャツを着て、下は袴だったりと、いい加減な服装で演じていた人が殆どだったのですが、天一は、フロックコートに山高帽、ステッキに手袋と、本式の衣装を一式買い込み、見るからに県知事や貴族のような服装で、千日前のみすぼらしい小屋掛けに出演したのです。

 まさかこんなところに、県知事のような格好をして堂々と演技をする奇術師が現れるとは誰も思っていませんから、話題は沸騰し、大人気になります。天一は、西洋人と一緒にいるうちに外国人のマナーを身につけ、それを舞台で演じることで当時の日本人を圧倒して見せたのです。マジックを身につけるだけでなく、西洋マナーを覚えたところが天一の慧眼で、これが世に出るきっかけとなったのです。

続く