手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

九奇連物語2

 

 九奇連の発足当時、私は27歳でした。毎年海外に行き、コンベンションにゲスト出演していました。いずれは日本でコンベンションを立ち上げ、運営できたらいいと思っていましたので、九奇連は組織を作る意味で、随分いい勉強をさせていただきました。

 これまで東京では、小野坂東さんがコンベンションを度々開催していましたが、ほぼ毎回赤字を出している姿を見て、なぜ赤字になるのか、どうしたら黒字運営ができるのか。自分なりに考えていたのです。九州でコンベンションを実行に移してみると、コンベンションを黒字にするための方法が見えてきました。コンベンションを黒字にするには5つのことをきちんと計画しなければいけません。

 

 1つは、ゲストの数を絞る

 ゲストは、交通費から、宿泊費、ギャラを含めると、一本呼んでも総費用が40万円から50万円かかります。参加者を数多く集めたければ、いいタレントをたくさん呼べば人は集まるのですが、経費が際限なくかかります。何人来るともわからない参加者を当て込んで、ゲストを呼ぶことは、よほどの工夫が必要になります。まずゲストの数を絞ることが大会の成否を決定します。

 

 2、組織を起こす

 参加者の実数が読めないまま大会を運営することは無謀です。まず組織を起こして、200人、300人と言った、手堅く集まる人員を読んで、その範疇で大会費用を見積もることを考えないと、赤字ばかりが増えて行きます。九州はその点、団結が早く、九州山口県地区の17のマジッククラブが組織を起こして、固く参加者が集まったため、今日までうまく行きました。

 

 3、出演者には敬意をもって接する

 アマチュアが主導権をもって大会を運営してゆくと、プロを軽んじる組織が出てきます。プロに対して呼び捨てにしたり、安請け合いをして、「来年、うちの大会に出してやる」などと横柄な態度でプロにものを言ったり、そうしたことを聞くと、私は常に陰で注意していました。「50人で発足した時のことを思い出してほしい。今こうして組織が大きくなっても、九州にプロが来てくれることに感謝がなくなれば、必ず組織はつぶれて行きますよ」。と申し上げました。

 その道で名前を維持して生きて行くことは簡単ではないのです。そこをコンベンションが認めてあげないと、プロの立つ場がありません。認めたくないようなゲストなら、初めから呼ばなければいいわけで、呼んだ以上は、敬意をもって接するのはマジックを趣味とする人の最低守るべきマナーなのです。プロには必ず、先生であるとか、師匠と言う敬称をつけて呼ぶようにと、申し上げました。

 

 4、ディーラーを儲けさせる

 九州のように、中心都市から離れた地域では、マジックショップがたくさん出ることは、アマチュア最大の魅力です。出店は多ければ多いほど参加者は喜びます。しかし同時に、ショップは相当に大きな交通費を負担して参加しますので、それに見合う売り上げがなければ、やがてショップは減少してゆきます。

 そこで、私の提案は、ショップ一軒につき参加者30人を設定するように話しました。

300人の参加者なら、店の数は10軒です。参加者が一人2万円使うと仮定して、一軒の収入が平均して、60万円になるなら、交通費を使って出店しても見合うでしょう。これを固く守って、ショップが来る以上、ショップが儲かるように考えてやってほしいと提案しました。実際には、九州の参加者は購買欲が高く、ショップは随分儲かったようです。しかしそうなると、新規出店希望がたくさん集まります。そこで、九奇連では、毎年、出店者を入れ替えて、出店件数を維持しています。ただし、第二回から参加していた、セオマジックと、マジカルアートは毎年出店してもらい、ディラーの管理をしてもらっています。

 

 5、外の大会に参加する

 九州がまとまったなら、外のコンベンションに参加して、もっともっと交流を深めて行こう。と話しました。ある部分でこれは成功しました。7年後、SAMジャパンが発足したときに、真っ先に参加してくれたのは九州でした。SAMの成功は、九州が熱く支持してくれたからこそうまくいったわけです。

 

 SAMの話は別項で述べますが、1991年に発足した全国組織のSAMは700人の会員を集め、毎年世界大会を運営しました。その時、初めの2年間は立ち上げのため、私が会長を務めましたが、翌年から会長任期は1年と定めました。そして、二代目会長は原田栄次さんを推薦しました。

 1994(平成6)年に、日本はFISMを招致しました。関東で、SAMとFISMが同時開催してはうまくありません。そこで、SAMは、九奇連と合同することで大会を2月に移しました。私が原田氏にSAMの会長を譲った理由は、3つありました。1つは、出来ることなら九奇連も会長職を毎年変えてほしいからでした。然しそれは果たせませんでした。

2つ目は、コンテストを定着させてほしいことでした。実際コンテストをやれば若い人がたくさん集まってきます。そして、舞台も熱気を帯びてきます。そこを九州のアマチュアに感じ取ってほしかったのです。しかしこれも果たせませんでした。

3つ目は海外に目を向けて、もっと優れたマジシャンに接してほしかったのです。ジョナサンニールブラウン師と、島田晴夫師は素晴らしい演技をしました。これも予想以上に九州の参加者は喜びました。然し経費を考えると、以後は海外ゲストは呼べないと、断られました。

 

 さて大会当日。コンテストの参加者と、ゲスト、マジックショップの出店者、総勢20人は、朝7時30分に羽田に集まりました。ところが、集合してすぐに、雪が降り始めました。やがて雪は積もり始め、滑走路に除雪車を出しても、らちが明かない状況になりました。それでも昼になれば日が差して、雪は解けるだろうと楽観していましたが、空は曇り始め、雪はやみません。そこで、情報収集をすると、新幹線ののぞみだけは走っていると言うので、急遽、飛行機をキャンセルし、東京駅まで行き、新幹線に乗りました。この時の判断は正解で、乗った新幹線の後の新幹線は、運航停止になりました。

 新幹線に乗ったのはいいのですが、スピードが出ません。それでも、みんなでビールを飲んで、弁当を食べて盛り上がりました。一行20人は、午後13時に東京を出発して、大阪に着いたのは18時でした。これからまだ博多までは同じくらい時間を要します。この間、九州とは連絡を取り合って、スケジュールを組みなおしました。とにかく、出来る催しを先にしてもらおうと、有志のマジックショウや、レクチュアー、ディーラーショウなど片端からやってもらいました。

 関西以西は雪はありませんでした。然しスピードが出ません。30分に一回九州に電話をして、日程を決めましたが、しまいには、「新太郎さん、もうやる物がありません」。と言われました。私は「何としても明け方までにはそちらに行きます。コンテストを早朝にやって、ジョナサンのレクチュアーをそのあとにやって、昼食後にゲストショウをして、大会をまとめましょう」。と言いました。

 

 しかし、仮に博多についたとしても、そこから先の列車がありません。どうしたものかと考えていると、マーカテンドーさんの奥さんが博多の中州でバーをしています。バーのお客さんで、建設会社の社長がいて、社長はマイクロバスを持っています。社長に話して、博多から菊池温泉までバスを出してくれないかと言うと、社長は中洲で飲んでいるにも関わらず、了解してくれました。

 博多に着いたのは深夜12時近くでした。新幹線は時間オーバーですから、全額払い戻しをしてくれました。この金でバスの経費は出ました。バスには、中洲で飲んでいた社長が運転していました。「こんな時間だから、社員は誰も来れないよ」。と言いました。心配でしたが、この際社長に頼るほかはありません。

 菊池についたのは明け方4時でした。九奇連の幹部はみんな起きていて、酒盛りをしていました。誰一人苦情を言う人はありません。みんな再会できたことを喜んでいます。前日乗り込みをしていた、ショップの部屋に行くと、ショップの皆さんは崩れるようにして眠っていました。「どうでしたか、ショップの方は」「企画がなくなってからは、みんながショップに群がって、ものすごい勢いで商品が売れました。品物はなくなり、体はくたくたです」「それは大変でしたね」。「えぇ、人生でこんなにマジックの売れたことはありませんでした。有難うございました」。と感謝されました。

 それから酒盛りに参加して、朝方温泉に入り、9時からのコンテスト、11時からのレクチュアー、午後のゲスト出演を済ませて、結局すべての企画をこなして終了しました。奇跡です。

この時の感動のステージの演技はまた明日お話しします。