手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

九奇連物語

 さて、50人でスタートした九州奇術連合会(当初は九州地区マジック懇親会という名称でした)は、翌年には80人、更に翌年には120人と、順調に会員を増やし、3年目に九州奇術連合会として発足しました。会長はそれまで世話役をしていた原田栄次氏、副会長は、西日本奇術クラブ(福岡)の会長、深見陽一氏、都城奇術クラブ会長の、井上博水氏、北と南が副会長で、中心の熊本が会長です。私は、一回目こそゲストで、指導と販売と何でもしましたが、二回目からは、セオマジックや、マジカルアートなどのマジックショップを入れて、販売には一切関与しないことを決めました。

 勿論、私がショップを出すことは何ら問題はないのですが、私が少しでも既得権を握れば、組織は大きくなりません。私は、ショップからもレクチュアーからも出演からも手を引くことにしました。しかし、原田氏は私のそうした姿勢を見て、私が九奇連から離れて行くのではないかと心配して、顧問になってほしいと頼まれました。

 正直言ってこうした肩書も私にとっては興味がありません。再三断りました。しかし、原田氏は、こまめに手紙をくださいます。果たして、昨年、原田氏が亡くなるまで、私と原田氏の手紙の交換は、年間で6通くらい、40年間で200通以上に上りました。私の父親と同年齢の原田氏が、私に熱心に手紙を送って下さり、私も手紙を返しているうちに、互いの心の奥がわかるようになりました。マジッククラブのこと、九奇連のこと、会社の経営のこと。事細かに話を聞いていると、親子に近い関係が生まれました。年間3回ほど熊本に指導に行くほかは、ほとんどが手紙のやり取りだけの、淡々としたお付き合いでしたが、私の人生で決して忘れられない人となりました。

 

 その原田氏の再々手紙で顧問を依頼され、出演も頼まれて、結局、私はその後35年間、九奇連の顧問をし、舞台に出続けることになりました。この間に私はいくつか、九奇連の運営を変えたい考えがありました。その骨子は3つあります。

 

 一つは、会長の任期です。九奇連の会長は、一年ないしは二年とし、どんどん次の若い人に変えていったらいいと言うのが私の考えでした。会長が変わらないと、集まってくる参加者の年齢も会長と同年代の人ばかりが集まってきます。日本中のマジッククラブが高齢化してしまったのは、30代でマジッククラブを起こした会長が、40年たっても会長を続け、そこに集まってくる会員がみな70代ばかりだからです。なぜそうなるのかは明らかで、会長が変わらないからです。

 会長は一年か二年すればよく、会長を終えた人は、今度は会の運営の担当をしてもらうようにすれば、実際に動いてくれる人が毎年増えてきます。会は、実際に活動に携わってくれる人が増えない限り先細りになります。そのためにも、会長職は、一、二年にしたいと言うのが私の考えでした。しかしこれは原田氏の反対でまとまりませんでした。以後30年間、原田氏は会長職を維持しました。その結果、九奇連はものの見事に老人の会になってしまいました。

 

 二つ目に、コンテストを開催したい。若い人を集めるには、賞金を出してコンテストを開催するに限る。と提案しました。しかし、今以上に雑用が増え、事務も煩雑になると言って、反対されました。そこで、九奇連の10周年大会を、SAMの3回目の大会との合同大会にすると言うプランを立てました。こうすることで、九州でコンテストを開催して、東京や、大阪の若手を呼び込み、若い参加者を定着させたいと考えたのです。

 参加者は400人近くになり、恐らく九州で開催したマジック大会では最大規模のものになったろうと思います。大変な人気で盛り上がりました。その翌年、私は役員会で、九奇連にコンテストを定着させようと、必死にコンテストの重要性を説きましたが、役員は乗ってきません。コンテストをすればその分有志のマジックショウの時間が少なくなり、酒を飲みながらショウを見ることができなくなる。と言って反対されました。以来、九州でコンテストをすることはありませんでした。

 それが、4年前になって九奇連もようやく若手の参加者が少ないことに不安を抱くようになり、コンテストが始まりました。しかし、既に会員が減ってからでは、賞金も、企画費用も、足らなすぎます。もう10年も前にこれをしておけばと悔やまれます。

 

 3つ目は、アジアの海外ゲストと仲良くなって、九奇連がアジアとの窓口になればよいと考えました。台湾、香港、韓国、中国、当たりのマジック関係者と仲間になって、各国から数人ずつ参加者があれば、それだけでも30人程度の参加者を増やすことができます。そうして親密の度合いを深めて、海外の若手を育てて、ゲスト出演もしてもらえば、日本国内でも、アジアのマジシャンを見るなら九奇連だ、と評価され、東京から大阪から、たくさんの若手が参加するようになるでしょう。そうなれば九奇連が若返ることは明らかです。私はこの件を力説しましたが、役員会で理解が得られません。

 

 ここから私は九奇連への意欲が失われてゆきました。もう、役員会に参加して何かを言うことはよそうと考えました。以来私は九奇連の役員会には参加しませんでした。私にすれば、九奇連はせっかく発展する要素を持ちながら、すべて対策を立てずに今日まで来てしまったと言えます。

 5年前から、LILLIPUTの綿田氏が、実行委員になるに及んで、コンテストや、アジアとの交流が始まりました。若い参加者も増えました。いい流れになったと思います。ただし、参加者の高齢化はここへきて急激に進んでいます。もう来年は参加者が200名を切ることは確実です。うまく次の世代地に引き継げるかどうか、今以て危険な状態が続いています。

 何より私が、いつまで顧問を続けて行くべきかに思案しています。来年の大会までは何とか続けて行こうと考えてはいますが、その先はどうなるかはわかりません。

 

 九奇連で忘れられない思い出は、SAMとの合同大会です。アメリカから、島田晴夫師、ジョナサンニールブラウン氏、国内は、酒匂正文氏など、豪華メンバーで開催される予定だったものが、東京が大雪で、飛行機が飛びません。さて一体どうなるかと言うひやひやの大会でしたが、この話はまた明日。