手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

王子様プロマジシャンになる 4

王子様プロマジシャンになる 4

 

 私は、自身でリサイタルをするぐらいのマジシャンなら、そのリサイタルをなぜ芸術祭参加で行わないのか、今も不思議に思います。

 芸術祭参加と言うのは、ある程度の年月、プロ活動をしてきた人で、ある程度の実績ある仕事をした人なら、参加できます。参加の許可を取り付ければ、チラシのタイトルに、「文化庁芸術祭参加公演」と言うタイトルを付けることが出来ます。

 別に参加公演をしたからと言って補助金など降りるわけではありません。然し、同時に、参加することに負担もないのです。参加公演をすれば、公演当日に、審査員が10人ほど見に来ます。そして後日内容が良かったなら、芸術祭賞を受賞します。仮に受賞しなかったからと言って、経歴に傷つくこともないのです。

 松竹や、東宝などは、毎年、10月の自社の劇場公演はほとんど無条件に芸術祭に参加しています。受賞してもしなくても参加公演は毎年続けています。無論、受賞したなら新聞などで宣伝して、その公演を再演したり、受賞した俳優を再度使って別の芝居をしたりして、観客動員に結び付けています。

 賞は、楯と賞状、賞金が後日、文化庁庁舎内で文部大臣から渡されます。受賞に至って初めて、実質のメリットが得られます。賞金は恐らく30万円から50万円程度でしょう。金額的にはそう大きなものではありません。

 然し、現実に日本で、芸能活動をしていて、国が賞金、賞状を出してくれる催しはほかにありませんので、日本政府が認めた賞をもらうことは芸能活動をするにおいて価値があります。活動にゆとりがあるなら、取っておいて損のない賞だと思います。

 

 ところが、マジシャンはなかなか芸術祭に参加しません。なぜかは知りません。マジックコンベンションのコンテストには熱心に参加するのに。どうも分り合った仲間内の評価ばかりを気にするようです。

 アマチュアが自分の演技を外部の人に認めてもらうためにコンテストに出るのはいいことだと思います。然し、プロマジシャンとして、社会に出て、他のジャンルの人たちと競って仕事を手に入れようとするなら、他のジャンルの人たちと競い合って、トロフィーを勝ち取ることはとても大切なことです。少なくとも日本国内ではマジックコンベンションでの優勝は、ほとんど舞台活動に生かすことはできないのです。

 

 私は昭和63年に芸術祭賞を受賞しました。すると、あくる年、平成になってすぐに、地方公共団体から様々な仕事の依頼が来るようになりました。その中で、板橋区が、市制40周年を迎えるにあたり、マジックの大会をやってみたいと言う依頼が来たのです。なぜ私にその話が来たかと言うなら、63年の芸術祭の会場が、板橋文化会館の小ホールだったからです。

 20代からほぼ毎年板橋文化会館を使ってリサイタル公演をしていましたので、文化会館とは顔見知りでした。そこで平成4年に大きな予算をもらってマジック大会をする企画を立てました。

 さて、ここで世界大会をどう言った名目で開催するか、はたと止まってしまいました。当時私は日本奇術協会(プロのマジック団体)の理事でしたから、奇術協会を冠にして、世界大会を開催すれば問題なくできます。然し、私は奇術協会主催にすることは躊躇しました。

 と言うのも、前々から日本のマジック組織を大きく改革したかったのです。これまでいくつかマジックの世界大会を手掛けた団体はありましたが、共通して言えるのは、マジックのメーカーかマジックショップが主宰するか、あるいはアマチュアマジッククラブが主体となって運営する大会でした。

 メーカーやアマチュアマジッククラブの意向で大会をするのではなく、参加者が組織を作って会員となって、大会を運営して行くような組織が欲しかったのです。そうなると、新規に起こすよりほかはありません。

 ただ、私の考えは、私が起こして私が運営するのでは私の組織になってしまいます。参加者が自主的に組織に加入して、そこから役員を出して、自主運営して行くようでなければ意味がないのです。

 私は自身の受賞を機会に、マジック界へのお礼の意味で、少しマジック界のために働いてみたいと考えていました。

 そこで小野坂東さん(マジックショップ、マジックランドのオーナー、マジックアドバイザー)と、連日のように打ち合わせをしました。その話の中で、「SAM(ソサエティーオブアメリカンマジシャンズ、現存する世界最古のマジック団体)。の東京支部がほとんど会員がいなくなって、活動もしていないようだから、SAMのアメリカ本部と話をして、日本の地域局を持ってきたらどうだろう」。という案が出て来ました。

 アメリカのマジック団体には、IBMとSAMがあります。互いに5000人以上の会員を集め、毎月機関誌を出し、毎年一回世界大会を開催しています。そのSAMの大会を平成3年に日本に誘致するのはどうかと考えました。

 早速東さんに交渉を依頼すると、SAMからの返事は、「五年先まで大会開催場所は決まっている。然し、支部が大会を開催することは構わない。SAMの役員や、出演者の協力はする」。と言うものでした。

 当初SAM本部側は私の申し出を、日本国内の新しい支部が2,3出来るくらいにしか考えていなかったようです。そこで私は、アメリカに、「東京支部とか横浜支部と言ったローカル支部を作ることが目的ではない。日本を統括するような、大きな地域局を作りたい。地域局を作るシステムを教えてほしい」。と連絡しました。

 するとアメリカから、「最低20支部作ってほしい。20支部の統括団体として、SAMジャパンリージョンを認める」。と言って来たのです。そうなら、日本中の仲間に連絡をして、会員を集め、20支部以上の組織を立ち上げようと、すぐさま手紙を書くことにしました。

 1990年、平成2年は、私のチームは殺人的な仕事の忙しさでしたが、新幹線の移動や、楽屋の合間にひたすら手紙を書いて、日本中のアマチュアやプロマジシャンに、まだ形すらないSAMの勧誘を始めました。その時私は35歳でした。

明日は、SAMの立ち上げの話をします。

続く