手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

チャニング ポロックの思いで

 チャニングポロックと出会えたきっかけは全く偶然でした。今から40年前、当時私は毎年アメリカに行き、必ず一週間マジックキャッスルに出演し、その後は決まって、マネージャーのアーノルドファーストさんとレクチュアー旅行に出ていました。

 マジックキャッスルのギャラは日本でいえば寄席並みのギャラですので、生活してゆけるほどのものではありません。これは名誉で出演しているのです。しかしそのあとファーストさんが作ったレクチュアー旅行はずいぶん儲かりました。

 アメリカに行くときには20万円程度の小遣いしか持ってゆきませんでしたが、帰ってくるときには100万円を軽く超えていました。今から40年も前の100万円です。当時、ステージマジックのレクチュアーをする人はアメリカでも珍しく、しかも日本のマジックと言うのは見たことがない人が多く、地方に行くと面白いようにアメリカのアマチュアが集まってくるのです。

 アーノルド ファーストさんからすれば私は思いがけない金の卵を産む鶏であったらしく、彼は毎年、せっせとレクチュアーツアーを組み、彼の持っているダットサンブルーバードに乗って、北はポートランド、南はサンディエゴ。西はチューサン、ラスベガスなどあちこちを回りました。

 私は、こうして毎年アメリカに来ているのだから、何とか会ってみたいと思っていたマジシャンが何人かいました。一人はダイバーノン。この人はマジックキャッスルに毎晩来ていましたので、すぐに会えました。次にチャニングポロック、マジック界の大スターです。師はマジックキャッスルにほど近いビバリーヒルズに住んでいましたから、お客様として、キャッスルに遊びに来るのではないかと期待していました。マークウイルソン、ダグヘニング、ジークフリード&ロイにも会いたいと思いました。

 

 その会いたいマジシャンの筆頭がチャニングポロックなのですが、ポロックは戦後欧米で低迷していたスライハンドマジックの救世主でした。彼の前と後ではマジックの内容がすっかり変わってしまったのです。

 スライハンドとは、スレイト(熟練)オブ ハンド(手わざ)すなわち、手練マジックのことで、マジックの中で一分野を持っていました。スライハンドの全盛期は、1900年代から、1970年くらいまでで、特に1900年から50年くらいまでは世界中の町と言う町にはボードビル(寄席、演芸)があり、そこでは連日連夜ショウが催されていました。欧米でもまだ自動車が普及していなかった時代は、そのショウに出演するために、マジシャンは、もっぱら汽車移動をしていました。そんな時、道具の少なくて済むスライハンドは移動が手軽で、もてはやされたのです。

 しかし1930年代以降、映画館が普及してくるとボードビルが徐々に下火になります。それと入れ替わるように、ナイトクラブが増えて行き、マジシャンはナイトクラブに出演場所を変えてゆきます。しかし、ナイトクラブのお客様はアルコールを飲み、女性のホステスとダンスをしたり会話するのがメインの場所ですから、純粋に芸能を楽しむボードビルとは勝手が違います。指の先に赤いボールを挟んで増える、消える、カードが手先から出て来る。そうしたマジックは地味な芸能に見えました。当初、ナイトクラブのタレントランクではマジシャンは最下位に近いものでした。もっと刺激の強い芸能が求られていたのです。

 

 そこに突如現れたのがチャニングポロックでした。師は米軍の兵士として戦線に出て、その後退役してから、職業訓練を受けることになります。当時のアメリカ政府は、あらゆる職種の訓練所を用意していて、兵士は無料で仕事の技術が習えたのです。マジシャンと言う選択までありました。チャベツスクールと言うのがそれで、当初は、ベン チャベツと言うマジシャンが開いていた個人スクールだったのですが、アメリカ政府とうまいコネクションを持って、退役軍人に指導をする学校の資格を得たのです。お陰でチャベツはマジック学校として大きな収益を上げ、毎年100人以上の生徒を受入れ、数多くのマジシャンを輩出しました。卒業生にはノーム ニールセンがいます。

 ポロックは190センチ以上の身長と、ローマの彫刻のような彫りの深い容貌、そして鳩出しマジックの技術をもってナイトクラブの世界にデビューします。師の得意とする鳩出しは、当時としては斬新で。一躍注目を浴びます。もちろん鳩を出すマジックは、ベンチャベツもしていましたから珍しいものではありません。その当時は、演技のフィナーレにハンカチーフの束の中から一羽鳩が出ると言った現象で、一羽出せば御の字と言ったおとなしい芸だったのです。

ところがポロックは、何気なく舞台に出て来て、一枚のハンカチを出し、そこからいきなり白い鳩を出しました、それを美人のアシスタントに渡し、入れ替わりに別色のシルクのハンカチを受け取り、そこからすぐに鳩を出す、と言った、殆ど思い入せず、サラリサラリと不思議を起こし、8羽の鳩を次々に出していったのです。

 間にカードプロダンクションを加え、わずか8分の演技を仕上げました。おしまいは、鳩の入った大きな鳥籠に布をかけ、布を持ち上げ、空中に放ると鳩も篭も一瞬に消え、何もなくなって、今やったことはすべて夢だよと言った表情で去ってゆきます。

 師の成功は、その手順を映画会社が撮って、「ヨーロッパの夜」と言うタイトルで世界中に配給したことです。この映画はヨーロッパのナイトクラブで演じられていた優れた芸の数々を並べて見せたもので、中でもポロックはダントツに人気が高く、大きく注目されました。昭和35年のことです。

 

 ポロックは演技の斬新さと、映画の話題で、世界中どこへ行っても話題で、ナイトクラブでもスペシャルAのランクをもらい。最高ギャラを取ったそうです。世界中のマジシャンは、映画に出演する師を見て初めて鳩出しを知り、そこから鳩出しの方法を解明し始めます。巧く解明したマジシャンは、その国ではトップマジシャンとなり、高い収入を得るようになります。こうして、ポロックをまねるマジシャンは世界中に何千人も生まれ、師はマジック界の頂点に立ちます。その後、アクションスターとなっていくつかの映画も撮ったようですが、映画スターとしての人気はいま一歩だったらしく、もっぱらナイトクラブで収入を得ていたようです。しかし、40歳になった時に突然引退をします。

 その理由は全く謎です。その後、師はスーパーマーケットを経営をする中国系の女性社長と結婚をし、ビバリーヒルズに住みます。それからは全く芸能界から離れ、静かな暮らしを始めます。しかし時折マジックキャッスルに遊びに来るらしく、私は師と会う機会を心待ちにしていました。

 

 さて、私は、キャッスル出演中、キャッスルのオーナーのビル ラーセンさんから午後のお茶会のお誘いがありました。場所はラーセンさんの家の庭、行ってみると三人のマジック愛好家とラーセン夫妻。それに私とファーストさんです。なぜ私が招かれたのかはわかりません。そこに突然チャニングポロックが現れました。大きな人です。思っていた以上に物静かな人です。師は椅子に腰を掛けて、背筋を伸ばし、コーヒーを飲み始めます。

一時間くらいするとラーセンさんが急な用事のために退出します。友人三人は帰ってしまいます。庭には私とポロック師だけです。私はこの時人生のめぐりあわせに感謝しました。映画でしか見たことになかったポロック師が目の前にいて、しかもわずかな時間でも独占して話ができる。なんと幸せなことか。私はいくつかの質問をしました。

「なぜマジシャンをやめてしまったのですか。」

「あるとき、天から啓示が下りてきて、やめたほうがいいと悟ったのです。」

「でも、年齢としては早すぎませんか。」

「舞台を降りると言うことに早いも遅いもありません。長く続けることがいいのか、今やめることがいいのかは全くマジシャンの判断です。」

こう聞くと、師は、いいイメージを残して辞めたいと思っていたように聞こえます。

「それが40歳の時だと言うことですか。やめるきっかけはありましたか。」

「理由はいろいろありましたが、今考えてもあの時の選択は正解だったと思います。」

 私の推測では、映画に出て以来、ポロックのコピーがたくさん出て、コピーマジシャンが下手な鳩出しでナイトクラブの仕事を荒らしまくります。ポロックスペシャルAランクのギャラを取ったのですが、その何十分の一のギャラで鳩を出すマジシャンが続出します。やがてこの業界で鳩出しは珍しい芸能ではなくなってゆきます。そうしたマジシャンと戦ってゆかなければならない現状に嫌気がさしたのではないかと思います。

 当然ギャラは下がり、出演の機会は少なくなり、ナイトクラブに出ても、鳩出しは珍しいものではなくなり。いくら巧さが違うと言っても、そのうまさの判断できる観客はわずかで、所詮ナイトクラブの酒のつまみに演じる芸能であることに変わりはなく、いつしかパイオニアであるが故に大きな枷を背負うこととなり、苦悩するようになったのでしょう。そして、周囲のマジシャンと争うよりも、身を引くことのほうが価値があると結論を出したのではないかと思います。

 師にとっての幸運は、資産のある彼女と一緒になり、生活の不安のない人生がついて回ったことでしょう。私が様々な質問をすると、師は徐々に打ち解けて来て、いろいろなことを話してくれるようになりました。

 私は、常にマジシャンと話すときに心がけていることは、トリックの話を一切しないことです。それは失礼なことだからです。きっとポロックほどに人なら、鳩の出し方をぶしつけに質問してくる人は大勢いたと思います。そうした人たちにはきっと嫌悪感すら感じていたのではないかと思います。私はそんなことは一切聞きません。

 私には師の芸能人としての生き方に興味があります。実は、これまで私が多くのマジシャンから信頼を得て、いろいろな話が聞けたのは、私がトリックの話をしないからです。そのことは後年気づきました。そして、トリック以外の話が、かなり知的なものと思ってくれたらしく、多くの名人たちは親しくなるとかなり秘密の部分まで話してくれるようになったのです。この日のポロックも、

「あなたの質問にはとても知性を感じます。そしてトリックの興味で話をしないのがよくわかります。だからあえて話しましょう。」

 などと言って、いろいろな話をしてくれたのです。師は、今でも毎朝一時間だけカードや四つ玉の練習をする。と言っていました。それは、舞台に立つためではなく、自身がマジシャンであることのあかしとして練習をしている。と言いました。

 師はこの間、ずっと背筋を伸ばしたまま、話方はわかりやすい簡単な英語を選んで話してくれました。イタリア系アメリカ人と聞いていますが、決してチャラチャラした人ではなく、むしろ、地方都市に住む素封家のドイツ人のような、安定した地味な生活をしている人のイメージでした。何にしてもどこからどこまで一流の人でした。

 師はこの後、すすんでカードや四つ玉の工夫を自ら話してくれましたが、これは師との約束のため、口外しないことにします。私が最晩年になったら、公表します。