手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昔の名人

 台風一過、過ぎてしまえば嘘のように快晴です。でもまだまだ、北関東や、東北では被害に苦しむ人がたくさんいるようです。私の生徒さんにも、足利に住む人がいて、ニュースで渡良瀬川が決壊したと言う情報を聞いて、心配で朝方電話をしました。幸い何事もなかったようです。

 

 私の家は無事でしたが、一階のアトリエが、元々はガレージだったものを、稽古場に改装したもので、予算をかけなかったため、簡単な壁で囲っただけのために、台風の時には隙間から水が染みだして、床が水浸しになります。昨日は水の染み出たところにタオルを置き、水がたまるとタオルを絞っていました。バケツ4杯も水が出て、二時間に一度ずつバケツの水を外に捨てていました。

 このために、オーディオセットの下段にある、昔から集めていたレコードをわずかに濡らしてしまいました。今どきレコードで音楽を聴く人も珍しいでしょうが、子供のころから集めていたレコードですので私にとっては貴重品ばかりです。

 

 レコードの陰干しついでに久々、コレクションを聞いてみました。クラシック音楽の名指揮者、メンゲルベルクや、ムラビンスキー、ピアニストのホロビッツやバイオリニストのクライスラーなど、いいですねぇ、どれもが録音した時代の雰囲気と香りを漂わせます。私は居ながらにして1941年のアムステルダムコンセルトヘボウの中央席に座っています。当時はオランダはナチスに占領され、過酷な支配を受けていたのですが、音楽はそんなことは全く関係なく、透明で力強いベートーベンが流れてきます。

 長唄松永和楓の大正期のSPレコードも素晴らしいです。志ん生の昭和30年代の録音も面白い。大正末期に録音された、大阪の初代桂春団治も大正期の雰囲気濃厚で面白い落語です。私はこれらの録音を聞くことで何となくその時代の雰囲気をつかみ、自身の舞台に生かしてきました。

 

 その名人たちの演技や作品ですが、私が宝物のように有難がる過去の名人たちも、私の弟子に聞かせると、少しも感動しません。私が素晴らしいと言うから素直に聞いてはいますが、後になって、もう一度聞きたいとは言いません。

 一体、過去の名人が演じた作品の、どこが今の人に受け入れられないのか、ここを私なりに考えてみると、大正期や戦前(昭和20年以前)の名人達は、総体に濃厚な味付けをします。現代の人がそれを聞くと、くどさや、しょっ辛さを感じるようです。それは、落語でも、長唄でも、クラシック音楽でも共通してそうです。そもそも語り口はゆっくりで、なおかつ肝心なところに来るともっとゆっくり語ったり、強いアクセントをつけたりします。

 なぜそんなことをするのかと言えば、当時は家庭に録音する装置がありませんから、落語は寄席に行き、長唄は芝居小屋に行き、クラシックは音楽ホールに行かなければ聞くことができなかったのです。実際の劇場に行って芸能に接する機会と言うのは今よりずっと限られていますから、今日の我々ならば、好きな音楽を一日100回でも聞ことができますが、昔はできません。ベートーベンの第9シンフォニーなどはほとんどの人は生涯に一度聞くか聞かないかだったでしょう。

 そんな希少なチャンスに対して、わかりやすく、丁寧な演奏をすることは重要なことだったと思います。いいメロディーが来る前になると指揮者は、「いいか、この先に有名なメロディーが来るぞ」と観客に知らせるために、わざと長い休符をした上で、テンポを落としゆっくり朗々とメロディーを演奏します。こうすることで、多くの聴衆は、指揮者のサインを感じ取り、複雑怪奇なシンフォニーを、一度聞いただけで何とか概略を理解したのでしょう。

 

 私はここでクラシック音楽の演奏法を語ろうとは思いません。私にそんな資格はありません。時代によって表現は変わると言うことをお話したいのです。録音技術が発達した今となっては、過度な思い入れや恣意的な表現法は流行らなくなっているのでしょう。それよりも原曲に忠実に、自然な演奏が好まれるのだと思います。このことは演劇でも、落語でも、手妻でも、曲芸でも共通の考え方のようで、古典を演じる人は心しなければならないことだと思います。

 もう一点は、昔の観客と、今の観客では知的水準が違いすぎます。私の子供の頃、年寄と言うと皆明治生まれでした。明治の老人たちは、みんな小学校出でした。義務教育が小学校までですから、小学校卒業と言うのはそれで十分学問を習得したことになったのです。しかし実際、小学校を出ただけでは知識に限りがあります。新聞を読むにも漢字は半分くらいしか理解できなかったでしょうし、単語も何を意味しているものかは理解できないものが多かったでしょう。私は楽屋にいて、よく年寄の芸人から漢字の読みや、言葉の意味を聞かれました。日常の話の中で、私が「対照的」などと言うと、「まぁこの子はなんて難しい言葉を知っているんだろう」などと言って驚かれました。

対照的は難しい単語だったのです。

 楽屋で森鴎外の単行本などを読んでいると、「この子はこんな漢字の多い本を読んでいるよ」。と言って、芸人がめずらすがって寄ってきたものです。今なら当たり前のことがわずか50年前の日本では特別なことだったのです。

 昔の芸能、特に話芸は、実にゆっくりとした語り方をします。実はあのスピードで話さないと、当時の多くの観客は内容を理解できなかったのでしょう。難しい単語などが出て来ても、自分の知る限りの言葉に置き換えて考えていたのでしょう。今のテレビで毎日見るようなスピードの話し方では、明治の人には半分も理解できなかったのです。

 現代の古典を演じる人たちは、ここのところを理解すべきです。昔のスピードのままで演技をしていると、現代の観客にはまだるっこしさを感じさせてしまいます。その結果が徐々に新しい観客を失っているのではないかと思います。

 

 さらにもう一点、このことを多くの実演家が見落としているのですが、戦前と今では日本人の所得が違いすぎるのです。所得が違うと言うことは、必然的に好みも、夢も、憧れも、違ったものになってゆきます。

 例えば今、習い事の先生と言うのは極めて難しい立場に置かれています。琴、長唄、清元、ピアノ、バイオリン、日本舞踊、バレエなど、そうした師匠になかなか生徒が集まらなくなっています。週に一二度お稽古に通って、お稽古の成果を年に一度、三越劇場や、厚生年金会館などで発表会をすると言った習い事がはやらなくなってきているようです。

 かつて庶民の子供は長唄や三味線の稽古、お嬢様は琴のお稽古。などと言う区別は通用しなくなってきています。私が子供の頃、近所のお金持ちのお嬢さんが、着物を着飾って、家族と一緒に三越劇場で舞踊をしに行く姿を見て、とてもうらやましく思ったものです。恐らく親も、子供を目いっぱい着飾らせて三越で踊らせることにステータスを感じて、大金を惜しげもなく日本舞踊のお師匠さんに渡していたのでしょう。しかし、今となってはそうした親もそう多くはいなくなってしまったようです。

 何が変かわったのか言うなら日本人自身の所得が変わったのです。所得が変わることで何を夢とするか、憧れとするかの価値観が変わったのです。結果、かつて、町の路地裏に住んでいた踊りの師匠が持っていたステータスは徐々に失われて行ったのです。

 今、生活にゆとりのある人たちが、余った金を何に使いたいのか、を真剣に考えれば、芸能の生きる道はあるはずです。

 結局、習い事は、海外旅行にその地位を奪われてしまったのでしょう。踊りの発表会に何百万もお金をかけるなら、その分お小遣いをちょうだい。と言って、娘たちは海外に行ってしまうのです。かつてならよほどの資産家でなければ海外には出かけられなかったことが、今では手頃に出かけられるようになり、習い事の興味は薄れたのです。

 このため、古典芸能の中で仕事が成り立たなくなっていった師匠連がたくさん失業しています。これは日本文化の危機と言えます。ただ、だからだめだ、もう先がないと言うのは間違いだと私は思います。

 今の古典芸能の状況は、かつて昭和40年代の手妻の置かれた状況によく似ています。支持者をなくし、西洋奇術(マジック)に押され、世間からは古臭いと言われ、後継者もできず、ただ消えて行く運命にあった手妻です。

 それがどうして今日残り得たか、それは西洋奇術にはない哲学や、背景、市井風俗など様々なものが残されていたからです。私はそこを面白いと思い、この芸は何としても残したいと考えました。しかし20歳初めの私には手妻を芸能として表現する力がなかったのです。いろいろ悪戦苦闘するうちに、曲がりなりにも私の手妻が認められ、それを支持してくださるお客様も増え、弟子や生徒さんが集まるようになって、手妻は息を吹き返しました。

 それはとても良かったと思っています。なぜ手妻がこうして生き残れたのかと言うなら、それは、本質を残しつつ、その時その時で常にマイナーチェンジを繰り返してきたからです。徐々に生活が豊かになってゆく日本人に、手妻が何を提供できるか、どうしたらこちらに振り向いてくれるか、そんなことばかりを考えて手妻をしてきました。

 今、ここにいるお客様が見て下さって、価値を感じてくれる芸能でなければ、仕事の電話はかかってこないのです。古典だからと言って世間の人が有難がって使ってはくれないのです。いつでもお客様の夢や憧れを、半歩先に、演者が手に入れていなければ次の仕事は来ないのです。ごちゃごちゃ生きていきながらも50年以上手妻をしてきました。幸い、それを受け入れてくれるお客様のいることを幸せに思います。

 お稽古事も、かつてのように、町内の金持ちから、高い費用を取って、個人の満足を満たすような指導の仕方では、今の生徒さんは集まりません。もっと別の価値観を提供しない限り、生き残ることは難しいと思います。でも道はきっとあります。

 

 台風の後かたづけをしながら、話は芸談になり、手妻の話になってしまいました。次回は私が影響を受けた海外のマジシャンのお話をしましょう。