手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

宝くじの音楽

宝くじの音楽

 

 ジャンボ宝くじが発売されると、タレントみんなでジャンボ、ジャンボと踊り出すコマーシャルが流れます。あの背景に流れている曲は、ベートーヴェンの第7交響曲です。9つあるベートーヴェン交響曲の中で、生前から最も人気が高かった曲が7番でした。少し意外です。現代なら、まずはじめに5番の運命、次が6番の田園、その次が9番の合唱、といった順でしょうが、200年前の評価は違っていたのです。

 まず7番がとにかく人気、次が3番の英雄だったのです。ベートーヴェンの作品は難解な曲が多く、決して一般的ではありません。そうした中で、7番はリズミカルで、メロディーも聴きやすく、一般大衆に受け入れやすい曲だったのでしょう。今でも7番が一番好きと言う人は多くいます。

 長くベートーヴェン交響曲の指揮者として尊敬され続けてきたのがフルトヴェングラーで、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者でした。この人が亡くなったのは1954年。奇しくも私が生まれた年でした。

 亡くなって以降もフルトヴェングラーのレコードは売れ続け、1980年代に至っても、東京のレコード店ではモノラール版のフルトヴェングラーによるベートーヴェンが堂々売られていたのです。言ってみればドイツ音楽の神様のような人だったわけです。私もわずかな小遣いを投資して何枚かのフルトヴェングラーのレコードを買いました。

 然し、私はどうしてもこの指揮者が好きになれませんでした。むしろ同じ時期に売っていたメンゲルベルクの演奏の方が面白く、私は熱狂して聞いていました。この当時、フルトヴェングラーメンゲルベルクとを同列に語ることなど無謀で、常識的なクラシックファンなら、10人が10人フルトヴェングラーを支持していました。然し、私にとっては、どうしてもフルトヴェングラーは好きになれなかったのです。

 その理由は、どの演奏も重たく、低く雲がかかっている欧州の空のように、何とも憂鬱で暗いのです。しかも、ベルリンフィルの音色がこれまた陰気臭いのです。カラヤンが指揮をするようになってからのベルリンフィルは幾分明るくなりはしましたが、フルトヴェングラーの時代の演奏は、お化け屋敷に足を踏み入れたかのような、暗く重たく怪しげなのです。その差は、同じ曲をウィーンフィルや、アムステルダムコンセルトヘボウと聴き比べると歴然です。

 但し、演奏家や作曲家が陰気で暗い性格をしているから悪いと言うものではありません。陰気でもチャイコフスキーブラームスはいい曲を残しました。ベルリンフィルも世界一流のオーケストラで、私がとやかく言う立場ではありません。ただ好みに合わないのです。

 本来、ベートーヴェンの第7番はさほどに陰影のある音楽ではないはずです。言って見れば、数人の仲間と町のビアホールに入って、ビールを飲み、歌を歌って帰ってくる。そんなひと時の情景を思わせるような陽気な曲です。

 ところが、フルトヴェングラーに掛かると、その陽気なメロディーの隙間に潜んでいる、人生の不幸や、悲しみを探し当てて陰影を刻みます。いやいや、ちょっと待って欲しい、ベートーヴェンはそこまでこの曲を深読みして欲しいとは望んでいないはずです。同様に6番の田園でも、のどかな田園風景を歌い上げる交響曲が、フルトヴェングラーが演奏すると、親の危篤に間に合わせようと急ぎ田舎に向かう倅の心境のように重たくなります。

 「どうしてこの人はこうも暗いものの考え方をするのだろう」。と思います。人間の苦悩を語る5番の運命や、部下の命を預かるナポレオンが様々に苦悩する3番の英雄ならば、思いっきり掘り下げて演奏するのは理解できますが、6番7番は違うだろう。と思います。そのため、フルトヴェングラーは好きになれなかったのです。ところが、1970年代80年代の日本では、この暗い演奏を神のように崇めるクラシック愛好家で溢れていたのです。

 

 と、前置きが長くなりましたが、このところ、パソコンで、古い演奏のレコードがたくさん聞けるようになりました、そこで、フルトヴェングラーの演奏したベートーヴェンの7番を違う年代順に、連日にわたって3枚聞いて見ました。こうした聴き方はかつてなら、金持ちの超マニアにしかできなかったことですが、今は私でも出来るようになったわけです。

 

 一枚目は1943年、敗戦が濃くなってきたベルリンでの演奏。二枚目が戦後、1950年のウィーンフィルを指揮した演奏。3枚目は1953年、晩年のベルリンフィルとの演奏。私が若いころ聞いていた演奏は、1943年の戦時下での演奏で、時代を反映したのかどうかはわかりませんが、指揮の仕方は激しく、暗く、すさまじいばかりに誇張された白熱した演奏でした。

 第4楽章などは通常、コーダー(終結部分)はどの指揮者も興に乗って来て、テンポを速めて華麗に終わるのですが、フルトヴェングラーのそれは、もう第4楽章の半ばで既にアッチェレランド(テンポアップ)をかけていて、既に暴走モードが始まっています。そのため、コーダーになるとオーケストラもついていけないくらいのスピードになってしまい、ここは今聞いても興奮します。

 

 ところが同じ指揮者でありながら、1950年のウィーンフィルの演奏は、解釈はほとんど同じでも曲の雰囲気が陽気なのです。ウィーンフィルの独特の明るい音色の管楽器などが自然に楽し気な雰囲気を作りだしています。1943年の極端な切迫感はありませんし、つんのめって演奏するコーダーもありませんが、全体を聴くとこちらの方がこの曲にはぴったり合っているように感じました。

 むしろ、この演奏を若いころに聴いていたなら、私はフルトヴェングラーの熱烈なファンになっていたでしょう。フルトヴェングラー最高の第7は1950年の演奏です。

 

 さらに1953年のベルリンフィルとの演奏は、かつての陰気臭い重たい演奏は影を潜めていて、現代の音色に近い演奏になっていました。しかし残念ながら、肝心のフルトヴェングラーに少し衰えが見られ、ここぞと言う時の迫力が薄れてしまいました。その分安定した演奏ではありますが。

 

 当然ですが、同じ指揮者でも指揮者の年齢、時代背景、オーケストラによって、演奏がかなり変わります。そんなことは当然なのですが、わずかな小遣いの中で高価なレコードを買っていた者としては、1943年のフルトヴェングラーこそが唯一と信じていました。それは結果として人を一面からしか見ていなかったわけで、今こうしていろいろ聞き分けられるのは幸せです。連夜の第7は私にとっては贅沢なひと時でした。

続く

鶏が卵を産まない

鶏が卵を産まない

 

 日本が明治維新になってすぐ、政府が日本中に鉄道を敷き始めた時に、当時の農家は鉄道という西洋文明が理解出来ずに、農地や家の前を鉄道が走ることに大反対をしました。反対の理由は、「汽車が通ると、その騒音で鶏(にわとり)が卵を産まなくなる」。と言うものでした。

 今では考えられない話ですが、当時は、機関車の音や、あの石炭の煙に驚いて、鶏が卵を産まなくなるから鉄道を敷かないでくれ、と沿線の農家は反対したのです。当時の農家の養鶏は、ほんの数羽の鶏を庭で飼っていたレベルで、一日二個、三個と言う、わずかな卵の収入と、鉄道を敷くと言う国家事業を天秤にかけて反対をしたのです。

 何てレベルの低い国民だろう。と現代人ならば思うでしょう。そんなのは明治時代のことで、さすがに現代にそんな人はいないだろう。と思っていると、いました。静岡県知事の川勝平太さんです。

 リニア新幹線が、静岡県の北部山間地をわずかにかすめて通過します。ここにリニア新幹線のトンネルを通すと、大井川の水質が落ち、水が流れにくくなる。だから工事に反対する。と言うもので、実際工事の不許可を続けました。

 JRが建設するトンネルでどれだけの水量が失われるのかはわかりません。然し、大井川のような裾野の広い川が、一つの水脈でいきなり水量が激減するとは考えられません。どう考えても言いがかりでしょう。

 JRとしては、周辺の地質を調査して、「もし水が不足するようなことがあれば、周辺の水脈から水を運んで流す方策を取る」。と提案したのですが、川勝知事はその考えを聞かず、ひたすら反対を続けました。

 それがためにほぼ10年、リニアの工事は遅れ、今年になって、2027年の東京名古屋間の開通には間に合わないと言う結論になりました。庭で鶏を飼っている農家が国の発展を遅らせたのです。然し、この間に多くの人から知事に対する批判が集中し、更には知事の日ごろの失言なども祟って、川勝知事は辞任することになりました。

 その席上で知事が周囲に漏らした発言が衝撃的で、「リニア新幹線を10年近く工事を遅らせたことで知事の目的を達成した」。と言ったのです。川勝知事の本当の狙いは、鶏が卵を産まないことの無知から出た話ではなったったことが見えてきました。

 つまり静岡県にすれば、リニア新幹線が開通しても、新駅も出来ず、列車が通過するのみですから、メリットがないのです。そればかりか日本の東西を走る新幹線が二本出来たなら、きっと従来の東海道新幹線の列車本数は少なくなると予測したのです。そうなると、そもそものぞみの停車しない静岡県は、こだまの本数が減って不便になる。結果、静岡の経済は大きく停滞する。だからリニア新幹線は反対だ。と言う理由になるようです。

 驚きです、地元のエゴのために国のプロジェクトを邪魔しようとしたのです。仮に、こだまの本数が減ることが事実だとしても、それで10年リニア新幹線の開業を遅らせることに何の意味がありますか。どっちにしろリニア新幹線を作らなければならないことを、ひたすら邪魔をする意味がありますか。嫌がらせをしただけではないですか。

 このことは、川勝知事とそれを支持した静岡県民が世の中の大きな流れに逆行していることを意味します。明治初期。かつて東海道線を引くときに、大井川に鉄橋を作ろうとすると、「鉄橋なんて作られたら我々が生活できなくなる」。と大井川の両岸にいる、旅人を背負って川を渡る人足達が大反対をしました。

 大井川は大昔から交通の要所で、ここに橋を作ると、もし、江戸を攻めに来る軍勢がやって来た時に、易々と通行してしまうため、江戸幕府は二百数十年間、大井川に橋を作らせなかったのです。橋がないため、旅人は人足に渡し賃を支払って背負ってもらい、大井川を渡る。という信じられないような不便を強いられたのです。

 結果として、橋を作らないことで、人を背負って暮らしている数十人の人足の生活は守られましたが、日本の経済は数百年間停滞しました。これと同じことを静岡県はやってのけたのです。

 川勝知事は、早稲田の大学院を出て、更にオックスフォード大学で博士号を取っている秀才です。それほどの人でありながら、物事の大小、軽重が分からずにしばしば意味不明な、歴史に逆行するような行動をとりました。

 更には、自身のプライドが邪魔をするのか、度々他人を差別する発言をして、数々の舌禍を生みました。頭がいい人が必ずしも正しい行いをするとは限らないようです。

 数日前の、自民党のバックリベート問題も同様で。やってはいけないことと知りつつ平気でやって、さてばれてしまったら、反省も謝罪もどこかにすっ飛んでしまい。もう頭の中は次の選挙のために如何に罪を軽くしてもらって、まるで今回のことが人生に降りかかった災難のような態度を見せています。国民に対して果たす責任はどこへ行ったのか。そんなことをいくら言っても無駄なのでしょう。頭のいい人は、その頭脳を自分のために使うのです。世のため、人のために生かそうなどと言う奇特な人はめったにいないのです。

 川勝知事は、案外静岡県民思いなのかもしれません。県民の経済発展を願って、ひたすらリニア新幹線を邪魔したのですから、十分静岡県民の役に立ったのでしょう。それゆえ、静岡県民はこの知事を支持し続けた?のでしょうか。

 いつの時代でも人は庭で鶏を飼う農家の親父にもなりますし、大井川の人足にもなります。まさか今どきこんな人はいないだろう。などと高をくくってはいけません。自分に不利益なことが起これば、人はいつでもどんな人にもなります。人だけではなく、狼にもなれば犬にもなります。オックスフォードを出ていても、狼にも犬にも、やくざにもゆすりにもなるのです。知性だの、理性なんて天から当てにはならないものなのでしょうか。

続く

寂しくて寂しくて

寂しくて寂しくて

 

 大谷選手と水原一平さんの問題は、未だ解決してはいませんが、世間の話題からは徐々に遠ざかりつつあります。然し、大谷選手の心のうちはまだ回復していないように思えます。毎日試合に出ている大谷選手を見ると、心なしか寂しげです。

 こと野球に関しては超人的な才能を持った人ではありますが、その分、全てのことを犠牲にして、野球のみに集中して生きてきました。そのため、大谷選手には付き人が必要なのです。

 通訳。自動車の運転。買い物。ファン対策。スケジュールの把握。スポンサーとの契約。パーティーへの出席。テレビ出演。インタビュー。日常の些細なことでも、大谷選手にとっては分からないことだらけです。そのため全てのことをやってのけるマネージャーが必要なのです。

 慈善団体から寄付の依頼の手紙などやたらと届くでしょう。それらをどう扱うのか、どれが正しくて、どれが詐欺なのか、恐らく大谷選手には調べるすべもないでしょう。その日にスーパーマーケットで買った野菜や肉も、本当に適正価格だったのかどうかもわからないのです。こうしたことは日頃他の店の商品と比較することで相場を見る目が養われて行くわけで、買い物をほとんどしない大谷選手には、レタスの価格も卵の価格もわからないのです。

 普通に社会に暮らす人からすれば、何でもない日常のルールを、大谷選手は何一つわかっていないのです。そのことで当人は、日々大きなプレッシャーを抱えているはずです。世の中の仕組みが分からない、とか、常識が分からないと言うことは、心の不安につながります。

 それらすべてのことを水原一平さんに任せていたため、いきなり一平さんがいなくなってしまうと、何から何までどうしていいのかわからず、不安が募るのでしょう。

 「それを奥さんに頼んだらいいじゃないか」。と思う人もあるでしょう。これは私の推測ですが、大谷選手は、奥さんを自分の仕事場に引き込むことを絶対にしたくないのでしょう。もしマネージャーの仕事を奥さんが引き受けてしまうと、大谷選手にすれば、プライベートな生活も、野球もみんな一つになってしまい、プライベートが無くなってしまいます。

 そうなると大谷選手は心休まる時がないのです。野球の時には野球に没頭して、いざ家に帰って夫婦で生活をするときには一切野球に関する話がない、そんな生活がしたいのでしょう。その気持ちはよくわかります。

 私事で恐縮ですが、私の家では、一階のアトリエと二階の事務所まではマジックの道具が置いてありますが、三階から上の自宅スペースには一切マジック道具はありません。あえて持って行かないようにしています。そうしないと、いつでもマジック漬けの生活になって心が休まらないのです。どこかで区切りを付けないと、気持ちの切り替えができません。

 大谷選手も同じなのでしょう。奥さんにマネージメントはさせられないのです。恐らく奥さんには野球の話をしないように求めているのでしょう。奥さんといる時だけは気分を変えたいのです。その気持ちはよくわかります。

 有名人は毎日たくさんの人と顏を合わせることで、知らない知識を身に着けている。と考えている人がいますが、実際、人とたくさん会うことはしても、ほとんどは挨拶をするのみで親しく話をすることはありません。むしろ有名になればなるほど人との付き合いは狭くなり、同じ業界の人とばかり話をすることになります。人間関係は物凄く狭くなります。そうした中、少しでも変わった考えの人と会いたい。別の知識を学びたい。と思う気持ちが強くなります。その時、せめて近しい人たちからでも、違う考えで生活している人と話がしたいのです。家庭を持つと言うことは全く違う生活をしている人と語り合うチャンスなのです。

 話を戻して、当面、一平さんに変わるマネージャーが至急必要になります。通訳とマネージャーが別の人でもいいでしょう、とにかく人が必要です。然し、これが簡単には見つからないのです。

 何しろ朝起きてから夜眠るまで、付きっ切りで大谷選手の面倒を見なければならないのです。一日の労働時間は15時間に及び、一週間の労働時間は100時間に及ぶでしょう。何から何まで先回りをして、仕事をしてくれる、そんな片腕が必要なのです。

 大谷選手にすれば、内心は、一平さんに対して、金を盗んだことはなかったことにして、明日からでもまた働いてもらいたいのでしょう。然し、それは許されません。

 世の中のことが何から何までうまくいって、全てを自身が手に入れることなどできないのです。奥さんを手に入れると、一平さんがいなくなってしまいます。両方いたならどれほど幸せだったことか、いなくなって一平さんのありがたみが分かります。

 

 同時に、一平さんにすれば、野球以外のことは何もわからなくて、それでいて、何十億もの金を簡単に稼いで見せるような怪物が自分の近くにいたのなら、世間知らずに付け込んで、少し横領したい気持ちになるのかも知れません。

 少しくらい廻してもらいたい。と思って使い込んでいくうちに、いつしか誰の金だかわからなくなって行きます。

 恐らく一平さんは、昨年の大谷選手の輝かし活躍の中で、「このままでは自分と大谷選手との関係も終わってしまう。どうしたらいいだろう」。と一人悩んでいたことでしょう。

 そんな時にギャンブルで一発逆転して、パッと借金が返せたなら、どれほど幸せだったことか。ところが世の中はそんな風に上手くは行きません。消えた金は戻らないのです。大谷選手が日々レジェンドの伝説になってゆく過程で、一平さんの人生は逆風が吹きまくり、ついに破局を迎えたのです。

 一平さんは大谷選手の数億円の金を溶かした男として、ラスベガス当たりのカジノの支配人でも引き受ければ、名物男として人気が集まるでしょう。大王製紙の井川さんじゃありませんが、居直って生きたなら生きて行く道はいくらでもあります。

 ただ、大谷選手は寂しげです。思っていた以上にメンタルの弱い人なのです。早く心を平常に維持して、野球にシフトして行ってください。

続く

足りない足りない

足りない足りない

 

「政治には金がかかる」。それはその通りでしょう。全く活動費用なくして政治活動は無理です。だから、国会で政治資金を助成して、活動費を国の予算から出すようにしたのではないですか。毎年各政党に相当な金額を支払っています。

 でもそれでは足らないようです。足らないならなんとか自分たちで資金を作ろうと、政治家は、政治パーティーを開いて、そのパーティー券から政治家個人にお金がキックバックするように、リベートを考え出しました。

 巧い方法です。これなら国民にばれずに、資金が集まり、政党助成金もそのままもらえて、まさに二重取りで、充分活動資金も潤うでしょう。それを長い間続けて来て、その間、キックバックの収入は所得に記載しませんでした。これが永久にばれなければよかったのでしょうが、ある日ばれてしまいました。

 一連の行為は脱税です。先ず政治家が活動資金を手に入れたのなら、資金を報告しなければいけません。報告もしない、税金も支払わない。これは犯罪です。国会議員が脱税したら、もう国の在り方の根本が問われてしまいます。国会議員だけが脱税が許されるのは不平等です。どうせならサラリーマンも、ラーメン屋も芸人も脱税していいことにして下さい。

 と、いくら言ってもそうはいかないでしょう。国会議員は立法府の政治家です。立法府とは自らが法律を作ることのできる人たちです。議員の年収ですら、自分たちで決められるのです。こんな有り難い特権はありません。言い放題のやり放題です。これまでも、議員歳費は勿論のこと、新幹線に乗ることもタダですし、海外視察に行くことも国費でできます。そうした特権を下々に手渡すことはあり得ないのです。

 然し、キックバックがばれてしまってはやむを得ません。自民党は、昨日(4月7日)バックマージンを企画した政治家、バックマージンを貰った政治家に処分を下しました。すると、政治家の間から、その処分の仕方が、岸田首相の一派には甘いだの、二階さんや、森さんには軽いだの。刑の軽重に不満を言う政治家が現れました。

 泥棒が一度に何十人も捕まって、その中で、「俺は大して盗んでいない」。とか「指示したのはあいつだ。俺はただついて行っただけだ」。と言っているのです。結局貰ったことは事実だし、脱税したことは事実です。

 こんなことで内紛を続けていたら、自民党の支持者は激減して、政権の座を失います。自民党が危機であることは誰が見てもわかります。でも、そうは言いながらも、自民党はたいして焦ってもいません。普通なら、自民党の体たらくは、野党のチャンスであるはずなのに、それじゃぁ、どの野党が自民党にとって代わって政権が取れるのかと言えば、どこも頼りないのです。

 一党で政権が取れる野党は一つもありません。全野党がまとまれば自民に対抗できますが、例えば、保守党や、維新の会や自由党共産党と組めますか。立憲民主党は、大きくまとまれますか。仮に自民党を追われてバックリベートを貰った政治家を野党に引き入れたとして、それで清く正しい政党が作れますか。

 うまく行かないですよね。上手く行かないことは国民も知っているのです。だからただただ失望しているのです。「自民党がだめでも、野党に任せるよりはましかなぁ」。そんな風に考えている人が大勢いるのです。

 「右も駄目なら左も駄目」。これでは閉塞状態です。こんな時こそ突然、パッと飛び出してきて、人をまとめて、希望を抱かせてくれるような政治家が現れませんか。国民に方向を示せる人は出ないものでしょうか。

 その昔は王様が権力を握っていて、個人の裁量でことが決まってしまうことに弊害がありました。そうならないために民主主義が生まれて、選挙によって代議士ができ、法律によって政治をして行くようになりました。然し、その代議士が結局仲間を募って自分たちに都合のいいシステムを作り合法的(あるいは非合法的)に犯罪を犯すようになりました。結局民主主義は役に立たないのでしょうか。でもそれに変わる政治手法が見つかりません。どうしたらいいのでしょうか。

 

 ところで、話は少しずれますが、これだけ災害の多い国なのですから、災害に備えるために、自衛の組織を各町内で作っては如何でしょう。いざと言う時の食料、飲料水の確保。仮設住宅を事前に用意して。何かの時に備えて、半ボランティア組織を作ってはどうでしょう。

 江戸の昔の町火消ではありませんが、各町がボランティア組織を持って、国や自衛隊にばかり頼るのではなく、日ごろから自分たちで自分たちの地域が守れるようにしなければ、実際の災害が起こったときに、食べるものも、住むところも無くなって、ただ人頼みでは情けないですね。

 中には災害省を作れ。と言う人もあります。でもどうでしょう。省を増やせば税金がかかります。災害省で、薬を調達したり、プレハブ住宅を購入すれば、そこにまた利権が絡んで、一儲けする政治家が現れます。仮に市町村にその業務を頼んでも結果は同じでしょう。担当職員を増やし、職員の給料から、ボーナスから、年金から定年後の再就職まで面倒みると言うのは、災害から町の人を守るのではなく、職員の生活を守る結果にしかならないのではないですか。

 一昔前なら、「国が何とかしろ」「市が何とかしろ」。と騒いだのですが、そうして何でもかでも市町村や国に頼ることが、逆に人々を食い物にして、国も、県も、市も、いらぬ箱モノを作って大赤字を抱えて、各市町村は瀕死の状態です。結果として税金の無駄遣いで、建築屋さんと市の職員は安定した生活ができましたが、その分市民の負担は大きくなって身動きできなくなっています。どうも政治に頼るのは危険です。

 どこの誰かもわからない人に投票することからしてそもそも危険な行為です。無駄に税金を使わず、天下り組織や職員を増やさないようにするには、目に見える範囲の町の有志、例えば50人程度の町内の人から有志を募って、自衛の活動をして行った方がいいのではないかと思います。

 政治家はそうした地域のボランティア活動を10年した実績の人が、地域の仲間の支援を得て、市会議員や、県会議員となり、更に地域ボランティアを10年して、国政に出てはどうですか。知らない人を政治家に選ぶのではなく、よく働いてくれる、見知った人を手堅く選ぶ基準を作りませんか。

 輪島や珠洲市の災害をニュースで見ていると、働いている人のほとんどが町の有志であり、市の職員です。「こんなときに人のために働いてくれる人が政治家になるべきだなぁ」。と思いました。

 続く

 

台湾のカオス 2

台湾のカオス 2

 

 台湾は、誰が台湾の原住民なのかを決め難い島です。これが台湾人と言う人種がいないのです。勿論、鄭成功が独立国を作ったのは事実ですが、それ以前にも台湾に住んでいた原住民はたくさんいました。が、国としてのまとまりはなかったのです。

 遥か昔から、南方から人が漂流して、台湾に住み着いた人はいたのですが、多くは海岸沿いの港で魚を取ったり、わずかな耕作をして暮らしていました。が、台湾が大きく発展しなかったのは、南部の平野にはマラリア蚊が生息していて、これが農耕を阻んでいました。広い平野はあっても人を寄せ付けなかったのです。

 このため、漂流した南方の部族民は標高1200mあたりの山岳地帯で暮らすようになります。この標高だとマラリア蚊が昇って来ないからです。然し、高地では耕作地が少ないため、多くの人を育てることは出来ません。

 しかも、漂流民が南方の部族である、と一括りに言っても、太平洋にはたくさんの島々があり、それぞれ異なった人種、異なった言語を話すため、言葉の障壁があって、部族同士の意思疎通ができなかったのです。山一つ違うとまったく言葉が通じず、隔絶された生活をしていたため、統一国家を作ることは不可能でした。

 一方、明時代末期になると、山東省あたりの中国人が台湾にやって来て、海岸沿いに住み着いて、商売をしたり、田畑を耕作するようになりました。

 ところが、こうした人々の活動を阻んだのは、倭寇と呼ばれる海賊でした。倭寇は全く無法者の集まりで、強盗、盗みは日常でした。倭寇と同居していてはまともに生活しては行けません。更に、スペイン人やオランダ人などの西洋人がやって来て、城や港を築きました。そして容赦なく現地人に過酷な税金を課して簒奪して行きました。多くのアジアがそうだったように、西洋人の過酷な植民地政策は、島の繁栄を奪うのみで、治安は維持されなかったのです。

 そうした点では鄭成功が台湾を統治した1860年代は、国を統一するチャンスだったのです。但し、統治時代が二十年しか続かず、清軍によって滅ぼされます。鄭成功は清軍と戦いながら、再三江戸幕府に支援の要請をしています。三代将軍家光の時代です。

 然し、幕府は既に鎖国を敷いていて、海外に軍を進める意思はありませんでした。もし、鄭成功を支援して、台湾にまで出兵していたら、中国の歴史も台湾の歴史も大きく変わっていたでしょう。日本はもっと早くに台湾を手に入れていたかも知れません。

 鄭成功以降は、清政府が台湾を統治しますが、そもそも清は台湾に対しての興味が薄く、未開の山に踏み込むことをせず、わずかな平地のみで税を取り立てて本国に送っています。その税は少しも台湾を潤すことがなかったのです。

 

 明治27(1895)年、日清戦争に勝利した日本は、台湾を領土としましたが、すんなりと日本に帰属したわけではなく、台湾在住の中国人は、日本への帰属を拒み、直ちに台湾民主国を建国します。

 これに対して日本政府は軍を引き連れ上陸し、たちまち台湾民主国を鎮圧します。さらには山岳地帯の各部族へも、日本への帰属を求めました。抵抗は小さなものでしたが、日本政府に対する反発は大正半ばまで続きます。

 台湾統治が飛躍的に発展するのは、1898年に、児玉源太郎が総督になり、副官として後藤新平を連れて来たことで台湾は大きく発展します。児玉源太郎は後に日露戦争旅順港攻撃で参謀となり大活躍します。

 後藤新平は、後に関東大震災の際に帝都復興総裁になって、東京市を災害に強い都市にすべく都市改造計画を立てた人です。その規模が余りに大きくて、世間からは「大風呂敷」と呼ばれたのですが、もし後藤新平のプランのままに東京市を改造していたなら、靖国通りも昭和通も100m幅の通りとなり。明治通り、山の手通り、環七通りなどの環状通りは昭和の早い時期に完成していたのです。

 後藤と言う人は、元々が医者で、日清戦争の際には負傷兵の治療していたのですが、そこで児玉源太郎と出会い、児玉は、てきぱきと治療を指揮する後藤の仕事ぶりに感心し、自身が台湾総督になったときに後藤を引き抜いたのです。

 医師である後藤を副官に据えた児玉の慧眼は大したもので、台湾に長くはびこるマラリアと、阿片(アヘン=麻薬)を撲滅するために後藤は多大な功績を残しました。後藤は台湾に到着後、ただちに、徹底した衛生管理を実施して、島民にも衛生観念を植え付けます。毎年何千人もマラリヤデング熱にかかって死亡していた島民を治療し、マラリア蚊を撲滅のために、下水や沼地などを殺菌し、瞬く間にマラリア蚊を撲滅し、台湾の耕作地が増えて、バナナや砂糖キビ、米の生産が上がって行きました。

 最も苦心したのは阿片でした。かつてイギリスが香港に阿片を持ち込んで売りつけ、中国を経済的にも身体的にも蝕んで行ったのは歴史の事実です。阿片の被害は対岸の台湾も同様で、多くの阿片の喫煙者がいました。日本が台湾を統治するとなったときに、多くの台湾人は日本人の統治に反対しました。その理由は、日本が阿片を禁止するのではないかと思ったからです。日本国内は阿片の販売は禁止ですから、日本を警戒したわけです。おかしな話ですが、阿片を取り締まる日本は中国人に嫌われたわけです。

 後藤は、阿片を禁止しようとはしませんでした。これは後藤の生涯を通しての考え方ですが、今あるものはなるべくそのまま認める。改めるものは旧弊を崩さないように行う。必要があるからそうしているのであって、安易に変えてはいけない。と言うのが後藤の根本的な考えでした。

 そのため、後藤は、先ず吸引を認めています。そして、阿片を政府の専売にして、阿片の販売をしたのです。同時に阿片の価格を上げて、買いにくくしました。更に、年々少しずつ、アヘンの濃度を薄くして、徐々に阿片中毒を押さえるようにしました。こうした政策が功を奏して、昭和の初年には台湾での阿片吸飲者は激減し、それに連れて販売を禁止したのです。見事と言う外はありません。

 後藤新平は人として面白い人で、そのエピソードは興味が尽きません。松旭斎天勝のファンで、随分天勝を応援しています。25歳で名古屋の医学学校の校長をしていた頃に、板垣退助が岐阜で演説中に暴漢に刺されました。その時急ぎ駆けつけて診察をしたのが若き後藤新平で、後藤は、血を流して苦しんでいる板垣に向かって、「さぞやご本懐でしょう」。と言ったそうです。それを聞いた板垣退助は「この男を医者にしておくのは勿体ない、何とか政治の世界に引き入れたい」。と思ったそうです。面白い話はたくさんありますが、ここは台湾の話をしなければならないので、後藤新平は別の機会にお話しします。

 と言いつつ紙面はもう終わりになりました。台湾のカオス(混沌)はまだ続きます。

続く

 

台湾のカオス 1

台湾のカオス 1

 

 現在の台湾はアジアの中でも急成長を遂げた、大きな経済力を持った国です。地政学的に見ても極めて重要な島で、共産主義の中国と、自由主義の日本、韓国に挟まれ、南はベトナム、フィリピン、インドネシアなどのASEAN各国にも近く、経済的にも、貿易上も、政治的にも最も重要な国と言えます。

 それでいながら、長く中国と対立する立場にいて、いつ中国軍が攻めて来るかも知れない緊張した状況にあります。無論、中国は、台湾を独立国として認めてはおらず、自国の領土の一部と宣言しています。そうした中国の圧力があるために、国連に加盟することも出来ませんし、ASEANに加盟することも出来ません。

 そうなら世界に与える影響力は小さいかと言えば、そのGDPは韓国を抜いて、アジアでは日本に次いで強い経済力を持っています。

 台湾島の国土は、日本の九州くらいしかありません。韓国が北海道くらいのサイズですから、韓国よりも小さいのです。そこに約2000万人が暮らしています。九州の人口が1500万人くらいですから、相当過密な地域です。然し、初めからこれほど人口の多い島だったわけではありません。

 

 台湾ははるか昔から様々な人が住んでいたのですが、都市が作られ、開発されるようになったのは、16世紀末、明(みん)時代の末期からになります。元々中国と言うのは内陸から発達した国で、船で海外に出て貿易することなどほとんどなかったのですが、明の皇帝は、頻繁にやってくるようになった南蛮(西洋)の貿易船に注目するようになります。

 インドに貿易拠点を持った、オランダや、フィリピンに港を持ったスペインなどが、頻繁に中国を訪れ、交易を求めて来るようになります。明は始めは積極的な付き合いを断っていて、限定的な貿易をしていたのですが、彼らはやがて日本の存在に気付きます。

 当時日本では金銀銅が豊富に採れ、陶器、刀、漆器など、西洋人が望む工芸品がたくさん作られていました。始めは明を通して日本の製品を買い求めていたのですが、明が貿易に積極的でないために、スペイン、オランダ、ポルトガルが、直接日本との交易を結ぼうと、船を北に進めます。

 我々が学校で種子島に鉄砲が伝来したと習った、1543年は実はこの南蛮貿易のさ中のことだったのです。別にポルトガル人が善意で鉄砲を日本人に伝えたわけではないのです。とにかく、西洋人は、日本との交易がしたいため、日本との中継地として台湾島に拠点を置くようになります。明も遅ればせながら、南蛮貿易の大きさに気付き、日本との交易に前向きになります。

 1500年代半ばになると、台湾島の北はスペインが占領し、南はオランダの東インド会社が占領するようになります。この時代の台湾は全く無秩序な島で、そもそも、台湾の港には早くから倭寇(わこう=海賊)が住み着いて、台湾を根城に、対岸の中国の港を襲って、金品を強奪していました。

 倭寇と言うと日本人の海賊だと思っている人が多いのですが、実は、日本人はわずかで、多くは中国人、朝鮮人が日本人を装って、日本刀を持って、月代(さかやき=頭の髪のてっぺん)を剃って日本人を装いました。この髪形を見ると、当時の中国人は恐れ慄いたそうですから、ニセ倭寇が常習化して海賊が増えて行きます。台湾島は、海賊と金儲けを狙った南蛮人が混在し、本来の台湾島民とは違った、ならず者やくざ者が跋扈(ばっこ)する無秩序な土地だったのです。

 1600年代になると、明の力が急激に衰え、明は北方民族の清(しん)に押されるようになります。こうした状況を救うため、明の忠臣、鄭成功(ていせいこう)が、自前の船を持って清と戦い、明を助けます。

 鄭成功とはこの時代を代表する軍人、政治家で、世界史の中でも特筆すべき英雄です。父は明の役人で同時に貿易商、鄭芝龍(ていしりゅう)と言い、父親は日本との交易を求めて平戸(長崎県)に行き、平戸の藩主と入魂になります。母親は平戸の生まれの日本人で、平戸で鄭成功は生まれます。日本と中国の混血です。幼いころから頭が良く、人をまとめる才能があって、勇敢で、貿易に長けていました。

 後に一家は中国に移り、成功は明の科挙の試験を受けて合格します。当時としては超エリートで、成功は安泰な一生が送れるかと思われましたが、時は明朝末期で、北方から清が攻め込んできます。

 成功は父親と共に、私設海軍を駆使して清に戦いを仕掛けます。その戦い方は天才的で、数倍の清の軍隊をたびたび破り、明の皇帝を助けます。

 然し、一度傾いた明を立て直すのは容易ではなく、やがて明の皇帝は投降します。その際に父親、鄭芝龍は皇帝に付き添い、皇帝の助命を願いますが、清はそれを許さず、皇帝も芝龍も処刑されます。

 鄭成功は残された父親の海軍をまとめて、台湾に拠点を移し、スペイン、オランダを撃破して、台湾に独立国を作ります。それまで貿易の中継地としてのみ利用していた台湾を、中国人を定着させ、倭寇を追い払い、秩序ある国にしたのは鄭成功の功績です。

 この鄭成功の一連の活躍は日本にも伝わり、鄭成功は日本でも英雄として扱われます。鄭成功亡き後、半世紀経って、近松門左衛門が「国姓爺合戦(こくせんやがっせん)」と言う芝居を書いて、大坂竹元座で空前の大当たりをします。内容は中国と日本をまたいで皇帝を助けるために大活躍する国姓爺(鄭成功)の一代記で、当時としては空前のスケールの芝居で、今でも歌舞伎で演じられます。

 

 さて、台湾ではこの鄭成功の時代に、政庁が作られ、治安維持がなされ、寺が建立され、都市としての景観が整います。然し、鄭成功の成功を清政府は喜ばず、やがて討伐軍がやって来て、鄭一族は皆殺しになります。

 

 さて、その後は清政府が台湾島を統治します。然し、元々交易の得意な政府ではないため、台湾は放置されたに等しく、産業も栄えず、貿易も振るわないまま月日が過ぎて行きます。

 それから再度台湾が注目されるようになったのは、明治維新以降で、日本が台湾に出兵して、占領しようとします。それまで何ら台湾に興味を示なかった清政府でしたが、日本が触手を伸ばすと、急遽台湾の防備を固め始めます。その後、日清戦争が起こり、日本が勝利して、賠償として台湾島を手に入れます。実は台湾の繁栄はここから始まります。その話はまた明日。

続く