手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

舞台活動

舞台活動

 

 先週7日。博覧会協会の支援活動でいわきの市民会館で公演をしました。私と大成で60分の公演です。傘出しサムタイ、お終いが蝶ですが、真ん中に植瓜術(しょっかじつ)を入れました。大きな舞台で60分公演と言うのはなかなか大変です。それでも50年以上も長いこと舞台活動を続けて来ましたので、60分でも90分でもお客様を退屈させることなく出来ます。但しあまり長いと私が疲れます。

 そうした中でも植瓜はなかなか演じる機会が少なく、たまに演じると新鮮です。植瓜は手妻の中でも原点の作品で、恐らく1300年前からある手妻の中でいまだに通用する作品として、一番か二番目に古い作品です。太夫と才蔵による、掛け合いの芸で、今、まずマジシャンの中で掛け合いのできる人がいません。漫才の掛け合いとは少し違います。古い形式の太夫と才蔵の掛け合いで、これができる人はまずいないでしょう。私のところで残している貴重な芸です。

 始めは、うだうだと余計なことを喋りながら、少しずつ芸の本筋に入って行き、いつの間にか、蒔いた種から芽が出て、弦が伸びて、やがて瓜がたくさんなります。

 昔は大道でやっていたもので、直接地面に穴を堀って、種を蒔き水を撒いて周囲を筵(むしろ)などで囲い、お客様の見ている目の前で、瓜を作って行ったのです。私はこれを15分かけて演じます。

 正直、一作で15分と言うのは現代ではいっぱいいっぱいの時間です。これ以上長ければお客様は退屈してしまうでしょうし、ショウとしてみて盛り上がりに欠けます。でも昔は、30分から60分、じっくり時間をかけて、物を売りながら、のんびり見せていたようです。

 土を扱いわけですから、当然、手が汚れますし、あまり見た様、綺麗な芸ではありません。これを現代の舞台で表現するには、何とかして美しいものにしなければなりません。そうした点がアレンジして行く際のセンスを問われます。

 20年前に作り上げたのですが、幸いこの芸はどこで演じても好評ですし、芸能として、マジックの原点に位置する作品ですので、とても貴重です。今日のマジックとは随分考え方もやり方も違います。スチールも、パスも発達していなかった時代の実にシンプルなマジックです。然し、ここからマジックが発展してきたのだと言う、原点としての重みがあります。

 私は水芸や、蝶等様々な手妻を演じていますが、手妻の中で最も貴重な芸は何かと問われれば、即座に植瓜術と答えます。植瓜術と金輪の曲は日本が誇る価値ある手妻です。手妻をなさらない人でも、マジック愛好家なら必ず見ておかなければいけない芸です。

 そうした一連の手妻を先日の7日のいわきで公演しまして、全く同じ企画を、27日(金)、浅草公会堂で致します。時間は14時からです。浅草の職人による伝統工芸の実演がロビーで行われ、舞台では私の手妻が催されます。入場料は4000円です。もしお時間ございましたらお越しください。

 

 2月4日(土)は、12時から、日本橋テルマンダリン二階のアゴラカフェで、私と大成、穂積みゆきの3人による公演があります。こちらもほぼ同じ内容で致します。イタリアンのランチ付きで5000円です。アゴラカフェは浅草公会堂よりずっと小さな舞台ですので、じっくり細部まで楽しむには宜しいかと思います。お時間ございましたらどうぞお越しください。ご予約は、03-6262-6331 アゴラカフェ迄。

 

 昨日、電話で3本の舞台の依頼が来ました。勿論、別々の仕事先の舞台で、日時もバラバラです。少しずつ舞台活動は動いているようです。但し油断はできません。これまでも、環境が良くなりかけるとまた、コロナが流行り出し、決まっている舞台がキャンセルになることが多々ありました。

 どうしたってコロナには勝てません。それゆえに、かかってきた仕事に過度な期待はかけられません。私を忘れず舞台の依頼をしてくれるご贔屓様には感謝しても、それが無事公演できるかどうかは神のみぞ知る。と言うことですので、一本の公演が決まるかどうかは、受験の合格を待つ受験生のような心持です。長くコロナと付き合っていると、いちいち騒いでも仕方ない。と言う、諦めの気持ちが湧いてきます。

 こんな気持ちが日本中に伝わってしまうと、何となく人の活動が消極的になってしまいます。いやいや流されるばかりではいけません。諦めてはいけません。やはり自らの活動は自らの力で作って行かなければなりません。

 

 3月1日(水)2日(木)、19時から、座高円寺で、ヤングマジシャンズセッションを開催致します。メンバーは思いっきり豪華です。メイガス、内田貴光、十文字幻斎、SORA、藤山新太郎、橋本昌也、小網健義、日向大祐、いま日本で活躍している優れたマジシャンばかりを集めました。おすすめのマジックショウです。S席5500円、当日6000円、A席5000円、当日5500円。全席指定。お早めにご予約ください。メールまたはお電話にて。東京イリュージョン。

続く

 

 

 

便利の代償

便利の代償

 

 昨日、ニュースで、アメリカでは、半日コンピューターが作動せず、国内便の飛行機が全く稼働しなくなったそうです。便数にして1万機が動かなくなったそうです。アメリカは鉄道は全く寂れてしまって、人の足として機能していません。国内移動は、車か飛行機に頼る以外ないわけです。ニューヨークからボストンあたりに移動するには、車でも間に合いますが、ロサンゼルスからシカゴ、ニューヨークとなると、日数もかかりますので、車移動はほぼ無理です。

 何でも便利になることはいいのですが、一旦トラブルが発生すると、たちまちパニックになります。そうなったときにどうするか、いろいろ策を立てておかなければなりません。日本で交通トラブルが起こったときには、大概のことは、新幹線を飛行機に振り替えるなどとで対応が出来ます。私も何度か経験しています。

 そのどれもがだめとなると、例えば北海道や、九州へ行く場合は、カーフェリーで移動する手段もあります。一週間10日の仕事の場合、一日を犠牲にすれば、現地に行けます。何があっても何とか、国内移動は可能です。

 

 阪神大震災の際に神戸でショウをしていた人が、どうしても翌日には東京に戻らなければならないと言うときに、やむなくヘリコプターをチャーターして戻って来たと言う話を聞きました。随分費用が掛かったと思いますが、仕方ありません。無事に帰って来れただけでも幸いです。

 阪神大震災の折は、長い、神戸以西の新幹線が使えないことで苦労をしました。岡山、広島のショウの仕事は、新幹線が神戸で止まってしまっていますので、飛行機で岡山空港や、広島空港まで行きました。荷物は中国自動車道でトラック輸送です。飛行機は、東京~岡山、東京~広島と言う便は、距離が中と半端ですので、通常は利用客が少ないのですが、震災の時はいつも満席でした。

 但し、どちらも山中に飛行場があるために、飛行場から、市の中心部まで、バスで40分くらいかかりました。飛行機の移動時間は1時間くらいですが、羽田の待ち時間と、バス移動の時間を加えると、大体移動時間は、飛行機も新幹線も同じになりました。早いようで早くはなかったのです。

 それでも広島までダイレクトに行けるならよかったのですが、ある時、広島行きが満席で、岡山も満席、山口も満席でした。仕方なく北九州空港まで行き(北九州の飛行場は瀬戸内海側にあって、小倉へはかなり離れています)。飛行場から小倉までバスで行き、そこから新幹線で広島まで入りました(新幹線は博多~岡山間は運行していたのです)。これはくたびれました。

 阪神大震災の際には、新幹線の線路は壊れ、阪神高速道路の橋脚はそっくり倒れてしまい。神戸で交通は全く分断されました。ここは日本列島でも、平野が狭くなっていて、その狭い平野に東西の交通網が集中しています。地震でもあればいきなり日本の経済は大打撃を受けます。いや、地震だけでなく、外国が日本に攻めて来る際に、真っ先に攻撃すべきところは神戸でしょう。神戸にミサイルを落とせば、日本の経済活動は半分ストップします。

 日本政府もそのことを恐れたのでしょう。阪神大震災後、もう一つ、新幹線を作ろうと言う案が出て、北陸新幹線の工事が加速し、東京金沢は、東海道を利用しなくても新幹線で行けるようになりました。これが、福井、京都と伸びて行って、そこから山陰新幹線が出来て、鳥取、松江、下関まで行けば、山陰、山陽と、二本の新幹線が出来ます。これでかなり災害の時の対処が出来ます。

 但し、東京金沢はかろうじて乗り手がいても、鳥取、島根、太田、萩、など人の少ない地域に新幹線をつなげば、儲かっている新幹線の足を引っ張ることになりかねません。北陸新幹線でさえも、金沢、福井までは乗る人もいるでしょうが、そこから先、敦賀や、小浜までどれだけ人が乗るか。

 人によっては、京都に寄らずに、そのまま日本海の海岸を走らせて、丹後の宮津まで行き、そこから城前(きのさき)に行き、鳥取に入ったらどうかと言う人までいます。これだと一層人のいない土地ばかり縫って新幹線が行くことになります。こうなると新幹線は赤字垂れ流しになって、かつての国鉄の二の舞になってしまいます。国を守ることも大切ですが、その責任をすべてJRに押しつけるは問題です。

 

 話を戻して、何でもコンピューターに任せて、便利やスピードばかりを追求すると、今回のアメリカのように、全く機能しなくなったときにどうにもならなくなります。コンピューターもそうですが、お金のことも、今は、カードや携帯電話で決済する人が多いようですが、便利は便利ですが、これも危険です。

 観光に来る中国人や、韓国人は普通にカードで決済をしますが、自分のお金をカードにだけ任せるのは危険です。それは平和な時代だから成り立っていることで、いざ内戦や外国からの侵略などあれば、携帯に入っている現金など「絵に描いたインスタ」になってしまいます。

 

 数日前、浅草に行って、甘味処の梅園で粟(あわ)ぜんざいを食べました。この店はいまだに入り口で食券を買って、現金で支払いをします。その食券も、おばさんが一枚ずつ手渡しで販売しています。機械は一切使いません。私の前に並んでいた女性が、携帯を出して支払いをしようとすると、「現金だけです」。と言って断られました。

 いいですねぇ、いまだに昭和が生きています。何から何までアナログの世界です。カードが流行ろうと、スマホが流行ろうとこの店は関係ないのです。ぜんざい一杯は現金と交換するのです。それをかれこれ200年続けて来たのです。

 私はうっかり、ぜんざいの箸休めについている、小鉢に入った芥子の実の佃煮を、小鉢ごと落として割ってしまいました。すぐに店員さんが来て、「お怪我なかったですか」。と言って小鉢の破片を集めてくれました。そしてさりげなくもう一つ小鉢を持って来てくれました。それも何事もなかったかのように、そっと置いて行ってくれました。 いいですねぇ、何もかもアナログです。人も人情も。

続く

 

youtubeのブラームス

youtubeブラームス

 

 このところ、youtubeで、戦前の指揮者、フルトヴェングラーや、メンゲルベルクの今迄知らなかった録音のレコードが聴けるようになり、それに嵌って、夜な夜な同じ指揮者で、同じ曲で、録音年代、日時の違う演奏を聴き比べています。

 若いころから買い集めていたレコードの指揮者の、年代の違う演奏を聴くと、これが同じ指揮者かと思うほど演奏に仕方が違っています。無論、基本的な考え方は変わらないのですが、芸術とは微妙なもので、少しテンポが変わったり、ティンパニーが派手になったりするだけで随分違って聞こえます。

 私は、フルトヴェングラーと言う指揮者が昔からどうしても好きになれませんでした。無論偉大な指揮者ですし、音楽に異常な迫力があって、聞く者を圧倒させる力を持っていますが、何を演奏しても暗い。どんな曲も悲劇的に感じます。

 また、その手兵のベルリンフィルがこれまた暗い。何を演奏しても、音質が重たく、薄暗いのです。このコンビがブラームスの曲を演奏すると、もうそれは悲劇の始まりです。

 ブラームスと言う人が、言いたい事がはっきりしないで、常に音楽が、日が照ったり薄暗くなったりを繰り返して、結局何が言いたいのか理解しずらいのです。確実なことは悲観的なことです。ブラームスは晩年になるほど音楽が寂寥感を深め、自分の世界に閉じこもって行きます。すごいいい曲を作る人なのですが、どうも薄暗くて、私は苦手でした。もっとも、小中学生の子供が聴く音楽ではないのです。

 然し、私自身が年齢が進むにつれて、何かとブラームスが気になるようになり、60代に至って、ちょいちょい聴くようになりました。ブラームスは64歳で亡くなっています。今の私よりも4歳も若く寿命を終えたのです。それがこうも世の中を悟りきって、あきらめの境地で音楽を作っていたかと思うと、どうにもブラームスと言う人は陰気で、気難しい人に思います。

 ところが最近、それがいいと思えるようになりました。心境の変化です。陰気で気難しいブラームスの音楽の中でも、二番の交響曲などは、かなり明るい楽しい曲なのですが、フルトヴェングラー指揮のベルリンフィルで聴くと、何とも重く、薄暗いのです。しかもいたるところに過剰なドラマが付け加えられ、「こんなにはブラームスはドラマを望んでいるだろうか」、と訝しく思います。同じ曲をワルターウィーンフィルや、メンゲルベルクアムステルダムコンセルトヘボウで聞くと、実に晴れ晴れとして開放感を感じます。

 そのフルトヴェングラーは度々ウィーンフィルを指揮していて、その時の録音が残っています。それとベルリンフィルと比較して聞くと、新たなフルトヴェングラーの素晴らしさが今更ながら伝わって来ます。ウィーンフィルは伝統的に色調が明るく、柔らかいのです。過激で陰気なフルトヴェングラーの指揮を巧く包み込んでくれます。これが素晴らしくいいコンビになっています。長くクラシックを愛好して来て、なおかつyoutubeを利用できるようになったお陰で、こうした音楽の楽しみ方が出来るのを有難いと思っています。

 そうした中で、フルトヴェングラーブラームスの二番を5種類、年代順に、毎日一曲ずつ聞いてみると、これはこれで実に興味深いのです。どれがベストとは一概に言いにくいのですが、終戦間際にドイツから逃れて、オーストリアに行き、ウィーンフィルを指揮してすぐにスイスに亡命した、あの、戦前最後のウィーンフィルの演奏はその緊張した時代にもかかわらず、演奏は明るく、しかも適度に抑制が効いていて素晴らしい演奏です。これを聴いて、フルトヴェングラーが心底好きになりました。

 

 然し、ブラームスの演奏は、矢張りメンゲルベルクの方が一枚上手に感じます。何しろメンゲルベルクは、実際ブラームスと会って話をしていると言う強みがあります。同時代に生きた指揮者なのです。体に染みついて心からブラームスを愛しています。

 ブラームスは古典主義を標榜していますが、その心の奥はロマンチストです。メロディーは甘く、曲の展開は情緒たっぷりです。メンゲルベルクはそこを実に甘美に、ポルタメンとを随所に効かせて演奏します。甘美さと言う点では、ワルターもいいのですが、厳しさと甘さを硬軟使い分けて、自在にテンポを動かして聴かせるメンゲルベルクの方に私は軍配を上げます。

 

 youtubeでは若い指揮者もたくさん出ていて、アンドレス・オルザコ エストラーデ(多分そう読むのだろうと思います)指揮の、フランクフルト放送管弦楽団の、ブラームスの二番も出ていました。ラテン系の出身のようです。聞いてみるとこれがなかなかロマンチストで、粋な演奏です。フランクフルト放送管弦楽団も、今まで聞いたことはなかったのですが、矢張りドイツ物はお手の物のようで、いい演奏です。

 そこで、同じ指揮者、同じ楽団のブラームスの三番、四番もを聞いてみましたが、これがどうもいけません。今一つ深みが伝わって来ません。三番は元々、「悲劇と諦めの世界」、がテーマですが、三楽章に誰でも知っているロマンチックなメロディーが出て来て人気があります。でも、なかなかいい演奏に出会えません。

 曲全体が暗いのは致し方のないことですが、そんな中でもブラームスのロマンチシズムを聞かせてくれる指揮者が欲しいのですが、アンドレスさんは、決して深堀をしません。

 クナッパーズブッシュと言う古い指揮者の三番がダントツにいいのですが、あれを今の指揮者に求めることは出来ないでしょう。おどろおどろしくてお化け屋敷のような演奏です。ロマンチックと言うなら、メンゲルベルクの第三楽章のメロディーの歌わせ方などは涙がこぼれます。あんな演奏はもう聞けないのでしょう。

 アンドレスさんの四番もどうにもコクがありません。四番は特に年齢の行った、酸いも甘いもかみ分けた老齢な指揮者の演奏でなければ、観客は納得できないでしょう。四番に関してはフルトヴェングラーの、あの詠嘆調の出だしがいまだにベストでしょう。でも後半に及んで過剰なドラマの味付けがブラームスの晩年を邪魔しています。もっと静かにブラームスを年取らせてやるべきです。

 アンドレスさんは、きれいに面白く演奏していますが、ブラームスの語りたいこととはかなり離れているように思いました。二番は溌剌として良かったのですが、三番、四番は深みにかけて残念でした。と言うわけで、能書きをたれながら、毎晩ブラームスを聴くのが楽しみです。

続く

 

当たるも八卦 3

当たるも八卦 3

 

 信長と言う人は日本人には珍しいくらい、割り切った思考で行動する人です。予言者と言うものを、嘘か真か、その二択だけで決定したのです。そこにもしかして、と言う可能性など考えもしません。予言者の坊さんは、相手が悪かったのです。

 信長は本質を見抜く才能が人並みはずれて優れています。予知能力があるかないか、細かな詮索などしません。坊さんに命を賭けさせたのです。信長のブラフに対して、たちまち坊さんが慌てたため、それが嘘だとわかったわけです。役者の格が違うのです。

 坊さんの立場でありながら嘘を言い、世間の人を惑わせたならその罪は重い、と言うことでり、たちまち磔の刑に処せられました。信長は、本願寺と戦ったり、比叡山の焼き討ちなどをして、世間からは仏教そのものを嫌っていると思われがちですが、実際は仏教の否定をしたわけではないないのです。

 坊さんが真面目に仏教を信じることには何ら否定はしないのです。問題は、仏の力を借りて、権威を持ったり、政治に介入したり、金儲けに走ったりすることを嫌ったのです。

 この場合の予言者の坊さんも同様です。仏教の教えと関係のないところで嘘偽りを語って、庶民を惑わしたことに嫌悪感を抱いたのです。

 信長のような人が現代に現れたなら、宗教法人に対して、もっと明確な態度が取れるでしょう。少なくとも宗教法人にこびて票をもらおうなどという政治家は追放されるかもしれません。

 

 話を戻しましょう。信長のように即物的にものを判断できない人にとっては、予言や占いは、常に、もしかすると当たるかも知れないという、一抹の可能性、未知の部分を信じて、全面否定はしないものです。人には得体のしれない不思議な力があるのかも知れない。と信じている人はたくさんいます。予言者はそこに入り込んで怪しげな行動を取ります。

 

 世の中に予言者がいるとしたなら、その人は二つのタイプの人が存在するでしょう。一つ目は、百に一つの思い付きで言ったことが、たまたま初手で大当たりしたとき、恐らく予言者は言った後で人生の選択を迫られるのだと思います。つまり、まぐれで当たったことだけれども、世間が大騒ぎするから、このまま予言者になり切ってしまおうかどうしようか。迷った上で予言者になろう、と判断をした時、予言者が生まれるのではないかと思います。

 そうだとすれば、予知能力のない予言者の人生は常に不安です。当たる可能性も少ないのに、ひたすら予言者の風を装って、嘘八百を言って、虚勢を張って押し通して、うまく逃げ切ったなら成功と言う人生です。不安定と言えばこれほど不安定な人生もありません。

 かつて細木数子さんと言う人が、マスコミに頻繁に出ていて、ずばずば人の人生を断定して物を言っていましたが、長くマスコミに出演していると、だんだんと間違いが目立って来ます。それでも強気で押し通して、言いたい放題語っていると、もう気の毒なほど言っていることが破綻してきます。

 それに対してテレビカメラは容赦なく虚飾をはぎ取って行きます。身に着けている贅沢な宝石も、初めは権威者の象徴のように見えましたが、予言が次々外れるようになると、如何わしいものにしか見えなくなって行きます。

 密室で、自分を信じる人に対して個別に予言をしていたなら、まだごまかしようもあるかも知れませんが、テレビで予言が外れ始めると、取りつく島がありません。あの姿が予言者の末路なのかなぁ、と思わせます。

 

 そうではなくて、きっちり予知能力を持っている人もいるのかも知れません。でも、そうした予言者ですら確立の範疇の、百に十とか、二十くらいの予言が当たる人の事だと言うわけでしょう。例えば、確率10%以上当たる人を、予言者と何らかの協会が認定したとして、予言者の思考はどんなものなのでしょう。当たる人も当たらない人も五十歩百歩なのではないかと思います。いずれにしても、その人生は博打でしょう。

 予言者、占い師と称して、人の悩みなどを聞いて指針を示すことで生計を立てている人たちは、教えを乞いに来る人よりも不安定な人生なのではないかと思います。つまり予知能力があってもなくても、同じ人種なのではないかと思います。

 

 マジシャンの演技の中にも予言はたくさん出て来ます。ところが、多くのマジシャンが演じる予言者は、胸から封筒を取り出して、カードなり数字なりを一枚観客にひかせ、封筒の中身を取り出して、そのカードと一致していることを見せて、めでたしめでたしで終わります。

 そうした演技をするときに、当のマジシャンは、本当の予言者として予言者を演じているのか、はたまた予知能力など全く持ち合わせていないインチキ予言者が、虚勢を張って予言をしているのか、どっちの人格を演じているのか。つまり、予言を虚として演じているのか実として演じているのか、その演技の肚(原=基の考え方)など全然考えていないように思えます。

 演技の肚など考えずとも予言は当たるのですから、それでいいと思っているのでしょうが、それは予言者を巧く演じ切ってはいないと思います。実に勿体ない話です。つぶさに役を仕分けて見れば、予知能力のない予言者が、虚勢を張って、威嚇暗示をしつつ、予言を当ててゆく過程を見せたなら、こんな面白い人間模様はめったに見ることは出来ません。

 また、本当に予知能力のある予言者でも、その確率で、当たらないことも多々あるわけですから、能力のある人の差は実はごくわずかなはずです。それでも、何らかの才能があって、自身に予知能力があると自認しているなら、その根拠のある予言者と、全くあてずっぽうな予言者との差は何が違うのか、その人間の微妙な差を演じて見せたなら、実に面白い芸能が生まれるはずです。

たくさんの予言はいりません。ここだけ丁寧に演じただけでも立派な芸術になります。人間の強さ、弱さ、狡さ、間抜けさを面白く語って見せるマジシャンから生まれたなら、それは素晴らしい芸術家の誕生だと思うのです。ただの当て物マジックから脱却して、どなたか芸能芸術を演じて見ませんか。

続く

当たるも八卦 2

当たるも八卦 2

 

 間が空いてしまいましたが、先週、占いや予言について書きました。占いや予言は本当に当たるのか、いろいろ考えて見たいと思います。先ず、手相、人相に関しては、実際の成功者を見て、その実例から判断していることですから、ある程度の信頼性はあると思います。

 干支占いや星座占い、名前の字画数占いなどは、対象が広いところへ予知をかけるのために相当無理があります。ウサギ年生まれの人はこうなる。などと言うのは、何百万人もの人が同じ失敗をし、同じ幸運を手に入れることなどありえないのです。にもかかわらず、週刊誌にも、新聞にも、干支や星座の占いは出て来ます。人間の持つ非論理性を利用しているのです。

 

 予知や、預言はどうでしょう。結構、予知予言で稼いでいる予言者の噂は聞きます。本当に当たるんでしょうか。

 予言に関しては、預言者がどれだけ予言したのか、その数がはっきりしないと確率は分かりません。何百と予言したうちの一つ、二つが当たると言うなら、結構誰でも当たると思います。予言者がこれまで言ったことをすべて書きだして、その確率を確かめたなら、当たりの数は微々たるものなんじゃないかと思います。

 然し、そんな程度だとしたら、予言と言うのは虚構の世界です。そもそも予知能力があるのか、ないのか、どう見極めたらいいのかが曖昧です。なぜ当たるのか、なぜ当たらないのか。その理由が見あたりません。「ただ何となく」。とか、「多分」、と言う感覚だけで発言しているなら、それは余りに無責任です。一つでも二つでも根拠が欲しいところです。然し予知予言に根拠を求めても無理でしょう。

 

 私もブログで、3年前に、「過去に大地震を二回当てた」。という事を書きました。夢に死んだ人が現れると、地震が起きます。東北の地震も、熊本の地震も、知人や家族が現れました。3年前の5月にやはり同じようなことが起こりました。

 さては関東大地震かな、と思い、ブログに書きました。「数日のうちに地震が来るかもしれない」。結果、震度三くらいの小さな地震は来ましたが、大地震は来ませんでした。震度三の地震はまぐれでしょう。

 つまり私の予知能力は外れたことになります。以来私は予知については一切書かないことにしました。私に予知能力はなかったと思うことにしました。たまたま当たった二つの地震の根拠を考えても、根拠などないのです。たまたまなのです。そうなると単なる思い付きになってしまいます。

 でも、本当に私に予知能力がないかどうかは分かりません。さっきの予言者の話のように、何十、何百もの予言をしたうちの一つが当たったなら、それが優れた預言者かも知れないからです。

 

 然し、結果として、当たらなかったことは私の人生にとっては幸いだったと思います。もし、私がブログで関東大震災を当てたらどうなっていたでしょう。きっと大騒ぎになったでしょう。そして、ただ当たっただけではなく、その後、予言者扱いされ、多くの人からいろいろな相談を受けることになるかも知れません。

 「そうなればなったで面白いでしょう」。と言う方もあるかも知れません。然しそれはとんでもないことで、自分の人生を鉄火場に身を置くことになります。つまり、言ってみれば自分がたまたま三つの地震を当てたと言うことで、一躍預言者になったとして、それで本当に自分に予知能力があるかどうか、そんなことは私には全くわからないのです。全く自信のない世界に踏み込んで、周囲からは、先生、先生とおだて上げられ、いつ大外れをして、石持て追われる身分に落とされるかもしれない立場に立たされるのです。

 日本中のあちこちから、「会社の将来を占ってほしい」。だの。「選挙の当落を占ってほしい」。だの。「娘の結婚相手を誰にしていいか選んでほしい」。だの。縁もゆかりもない人たちの将来を予想しなければならない立場に立つのです。それがうまく当たるならいい人生ですが、元々、当たる根拠などどこにもないのです。そんな職業を選んで幸せと言えるでしょうか。

 芸能以上に不安定な世界に身を置いて、人の人生を左右する発言をしたら、ほとんどの確率で失敗することは見えています。多くの有名な占い師や、預言者が知らず知らずのうちに消えて行くのは、結局は当たらないからです。重大な局面で外れてしまったりすると、命まで奪われることになりかねないのです。

 自分が高名な予言者となってマスコミで騒がれる立場になったとして、ある日、ロシア政府からお呼びが来て、クレムリンに連れて行かれ、プーチンさんに会い、「ウクライナの戦いは勝利するだろうか?勝つ方法はあるか?」。と尋ねられたら何と答えますか。また、「私の寿命はあと何年あるか?何とかあと三年寿命を伸ばす方法はあるか?」。と尋ねられたら何と答えますか。

 謝礼は望み放題くれると言われても、そもそも、自分の予知能力などないに等しいのです。地震以外、何ら予知したことなどなかったのです。いわば、まぐれ当たりで、宝くじが大当たりしたようなものです。それで人生を予言者に切り替えたなら、その先は地獄行きです。

 但し、同じミステリーな人生を歩むなら、マジシャンになるよりはよほどスリリングな人生を送ることが出来るでしょう。人生丸ごと遊んでしまおうと考えるなら、こんな生き方も面白いかもしれません。

 

 かつて織田信長が、巷で、予知能力のあると言う坊さんに興味を示し、城に呼びました。坊さんは自分を大きく見せるために信長の前で大言壮語を吐きます。すると信長は、いきなり刀を抜いて、坊さんの首にぴたりと当てて、「そんなに予言が出来るならさぞや自分の未来もわかるだろう。答えろ、お前はこの先生きているのか、死ぬのか」。坊さんはガタガタ震えて声も出なかったそうです。つまり、坊さんの未来はどっちに行っても信長の手の内にあるのです。この場で神の裁可を下すのは信長なのです。信長は予言者の本質を読み取っていたのです。

続く

 

KMS・MMS合同発表会

KMS・MMS合同発表会

 

 慶応大学のマジッククラブの発表会が昨晩(8日)、赤羽会館で開催されました。前回のマジックナインの発表会と言い、このところよく赤羽に来るようになりました。

 慶応大学は高校から大学まで一貫しており、マジッククラブは高校大学と両方の学校にありますので、成績さえよければ最長7年マジック活動が出来ます。

 それが幸いしてか、安定したアマチュアマジシャンが育っています。実際、このところのコロナ騒動で、他の大学が壊滅的な打撃を受けているにも関わらず、慶応は無事に発表会が開催できています。

 今回は、高校、大学、OBと、三世代の中から優秀な人が選ばれて出演したようです。私の感想を先に言えば、いい形のアマチュアが育っている組織だと思います。以下はその感想。

 

 司会者はOBの矢野達也さん。ビジネススーツで登場。如何にもサラリーマンが司会をしている感じで、会社の新年会を見るかのよう。アマチュアの発表会としては、気負ったところがなくて、むしろ潔く、これはこれでありですね。

 

 一本目が早瀬夏子さん。学生の頃に私のところに習いに来ていました。マジック大好きのお嬢さんです。ステッキとシルクの手順をつなぎ合わせてチャーミングにに演じていました。マジック好きの女子は是非育っていただきたいものです。

 

 二本目、楠瀬弘城さん。学生の頃は何度かマジックマイスターなどに出演してもらいました。その頃は四つ玉でしたが、今回はジャグリングです。見せ方にこだわって、徹底してスタイリッシュな輪投げを見せました。上手い人だし、完成した演技です。

 

 三本目は吉岡美紀さんのベリーダンス。和服を着ながらベリーダンスを踊ります。途中衣装が変わったり、傘が出たりしました。マジック部分が所々フラッシュ(=ばれ)ています。でもまぁ、変わった芸ですから、彩としてOKでしょう。

 

 四本目は今井悠さんの煙草とボールの演技。煙草は今はなかなか見ることが無くなりましたが、かつてのナイトクラブに出演していたマジシャンは、煙草と四つ玉、カードは必須でした。懐かしい手順です。お終いが一本の煙草で終わってしまうのは地味すぎます。手順が循環して元に戻ると言う考えは、考え方としてはいいのですが、実際見る側にすれば、「夢落ち」のようで、演技の盛り上がりを削ぐように思います。

 

 5本目は内田伸哉さん。電通に勤めて、今は自分で会社を興したのでしょうか。何かと有名人です。ipadを使ったマジックで。映像からボールや、カードを抜き出したり入れたりするおなじみの映像アクトを、小さなパソコンでやろうと言う趣向です。よく考えられていて面白く、これはご当人が一番得意な分野でしょう。

 ここで10分間の休憩。

 

 二部一本目は、乃坂智之さん。ロープを使って胴体貫通などを見せ、お客様を上げてハンドカフでサムタイのような演技をします。この形式こそが最も古いサムタイの演技です。いずれも手馴れていて安定してます。

 

 二本目は有栖川大道芸団。竹本如洋、佐藤佳子、茂木和徳のお三人によるジャグリング。3本ピンから徐々に増やして行って8本までを見せますが、珍しい技があって、見飽きがしません。相当やり込んでいます。上手いし面白いと思いました。

 

 三本目は長門浩二さん。シンプルな三本リングかと思うと、「リングとシルク」の手順が入ったり、お終いは、首にかけたリングが、ハンカチで顔を覆うとリングだけが消えています。見ていてマジック好きなことがよくわかります。上手い人ですね。

 

 四本目は刀禰館愛華、伊佐山晴香のお二人による傘出し和妻。学生おなじみのパターンです。たびたび種がフラッシュしてしまいますが、綺麗な女性が演じているので、観客は喜んで見ています。演技の中に一つでも本当の「手妻」が入るといいのですが。

 これで二部が終わり、10分間の休憩。

 

 三部は、冒頭が、齋藤晢範さんのディアボロ、この人はよほど稽古をしているらしく、基本的なレベルが高く、珍しい技をいろいろ見せました。拍手もこの会一番だったと思います。どうも、マジックとジャグラーがコラボしたショウになると、受けをジャグリングにさらわれて行く傾向にあるようです。

 

 二本目は和妻で、松野正和さん。冒頭に煙管(きせる)を加えて登場。どうも最近私の煙管の演技を真似る人が増えたようです。ただ、私の場合は、煙草盆に似せた引き出しを持って、煙管を咥えて登場するから煙管に意味があるのですが、理由が欲しいところです。

 小さな白扇を出したり消したり、ハンドリングはウォンドのアクトの応用でしょう。その後、大きな白扇が出て来ますが、道具の手作りがよくわかります。もう少し奇麗な扇子だと和の文化を感じるのですが。種がチラチラフラッシュします。それでも不思議さで観客を引っ張ります。和服と帯のセンスに問題あり。全体に「粋さ」が加われば神になれます。

 

 三本目は小林遼太さん。コンテストなどでよく見ます。上手い人です。カードとCDの手順を技で見せます。立ち位置がテーブルの後ろで演技をしているのが気になります。テーブルの前に出て来て演じなければ貧弱に見えます。実際上手いのですから、後は自分のスタイルが生まれれば仲間のレベルを超えたものになるでしょう。

 

 四本目は鬼頭登さん。マスクチェンジ。何度か見ていますが、旧来のマスクとは明らかに違います。その違いが変質者の方向に行くところが個性です。今回は後半に面が増えて行ったことで、マジックらしい盛り上がりがありました。この人がどこに行こうとしているのかがまだ見えて来ません。定住の地が見つかるといいと思います。

 

 五本目は倉持信さん。学生伝統のウォンドの演技。毎度学生のウォンドを拝見しますが、ウォンドが何なのか、観客に伝えていません。ただ出て、消えます。ウォンドを手順として演じているのは日本だけです。考案者のフリップ・ハレマはさぞや草葉の陰で喜んでいるでしょう。

 縁起は綺麗にまとまっていて、巧さを感じます。もう一つ自分らしい個性が出たなら推薦したい演技です。

 

 六本目は森岡哲也さん。私のマジック教室に通っていた少年で、小学生のころからよく知っています。私にマジックの講釈を熱心に語っていました。随分森岡さんにはいろいろと教えていただきました。好きなだけあって上手い人ですし、アイディアも豊富です。どこのコンテストに出てもかなりの高得点を上げます。

 あとはあなたがお客様に愛されるかどうかです。ご自身がマジックばかりを見ていないで、お客様に目を向けて、お客様が何を求めているかを探り出すことです。ステージに上がると言うことは、社会の中で自分がどの位置に立つかを考える場なのです。そこをはっきり見極めたならば飛躍的に大きく評価され、スターになれるでしょう。

 

 結局二時間半近いショウでしたが、退屈することなく見られました。5時30分にきっちり始まったこと、司会者に無駄がなかったこと、演技にお粗末な人とがいなかったこと、半世紀と言うのは一つの歴史だと実感しました。

続く