手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

当たるも八卦 1

当たるも八卦 1

 

 当たるも八卦(はっけ)当たらぬも八卦とよく言いますが、何のことでしょう。八卦とは、占い師が持っている棒、筮竹(ぜいちく)のことで、それぞれ三種類の異なった模様が書いてあります。この棒を6本持ち、パラリと放ることで出た目を占います。全部で六十四通りあるそうです。その文様を眺めて、いろいろなことを占います。

 相撲の行司さんが立会前に、「八卦よい残った」と言いますが、八卦が良いと言うことを言って、勝負を促しているわけです。

 韓国の国旗に、真ん中の巴の周りに、何やら模様が並んでいますが、あれが八卦です。きっと縁起のいい八卦が書かれているのでしょう。

 

 ところで、占いと言うのはどこまで当たるのでしょうか。

 私が思うに、手相と人相はかなりの確率で当たると思います。トランプ占い、星占い、干支占い、名前の画数占い、これらはほとんど信憑性がないと思います。

 その理由は、人相や、手相には、既に成功した人、いい人生を経験した人などの実績をベースに因果関係を割り出しています。そこへ加えて、昔からのデーターを総合して、判断すれば、かなりの確率で当たるだろうとは思います。成功した人の人相、手相を調べて、何が凡人と違うのかを調べることで、成功を見つけ出すことが出来ます。それは、実際に成功例を見て語っているわけですから、確率は高いはずです。

 しかし、例えば、星占い、干支占いはどうでしょう。同じ日に生まれた人がみんな成功するでしょうか。スターになった人と同じ日に生まれたとしても、スターにはなれません。スターは常に少数です。そうなると、生まれた日にちで人の性格を判断するのには無理があります。

 同様に画数です。世の中に鈴木一郎と言う人は山ほどいます。然し、野球界で成功して、大きな稼ぎを上げた鈴木イチローはただ一人です。他の鈴木一郎は何をしていたのでしょうか。真面目に働いていたとは思います。然し、巨万の富は得られなかったのです。なぜかと問われても答えは出ません。

 例えば、かつて総理大臣だった、吉田茂さんと同じ名前の人はたくさんいたはずです。然し、総理大臣の吉田茂さんはただ一人です。他の吉田茂さんは何をしているのでしょうか。総理大臣になれなくても、みんな何らかの成功をして、大きく名前を上げたでしょうか。決してそうではないと思います。同じ名前であっても成功者はわずかです。

 そもそも、字画数の占いは、かなり矛盾に満ちています。と言うのも、字画と言うものを、どの時代で判断するのかが曖昧です。現代文字で数えるのか、旧字で数えるのかで画数が変わります。「花」と言う字は現代では七画ですが、戦前までは、草冠が真ん中で分かれていましたので、漢字の十と言う字を二つ並べたものが草冠でした。そうなると花は八画になります。更に昔は、艸と書きましたので、これだけで六画です。花と言う字は十画になります。七画が正しいのか、八画が正しいのか、はたまた十画が正しいのか、はっきりしません。画数が一字違えば運命が変わるのに、その画数が曖昧です。そうなら字画の占いはあまり当てにはならないと思います。

 

 そうであっても人は占いに頼ろうとします。それだけ生きて行くと言うことは雲をつかむようなもので、いくつになっても、いつまで経っても確実なものは手に入らないのです。今成功していたとしても、いついきなり落ちるかも知れません。大金を掴んでも、交通事故で命を落とすかもしれません。自分は元気でも、女房、子供が病気になることだってあります。

 何が幸せで、どうすれば幸せが長く続くかなんてさっぱりわかりません。どんなに大きな家に住んでいる人でも、立派な地位を手に入れた人でも、明日のことは誰もわからないのです。そうであるから、少しでも先のことを知って、悪い人生にならないように気を付けようとします。そのため、先が読める人、預言者をついつい信じてしまいます。でも確実に言えることは、人はどんな人でも先のことは分からないのです。

 

 先ほど、手相と人相はかなりの確率で当たると書きましたが、それでも確率の問題で、他の占いよりは、やや当たる可能性が高いと言う話です。いい人相をしていても貧しい人はいます。私の父親なんぞは、立派な福耳をしていて、布袋様のようにでっぷり太っていました。誰が見ても福相の人で、見かけは神様のような人でした。

 ところが、この神様が私の家に泊まりに来て、朝出て行く間際に「おい一万円貸してくれ」。と言って金をせびって行きました。無論、貸した金は返りません。多くは酒代や、競馬やパチンコ代に消えて行きました。

 どうせつまらなく使うに決まっていると思いながらも、一万円がないとは言いにくく、その都度貸しました。当時私は毎月、チームの従業員の給料を払わなければならず、又、建てたばかりの家のローンが重くのしかかって来ていました。私にとっては千円でも欲しいくらいだったのに、親父にかすめ取られて行く一万円は辛いものでした。

 それだけに、人相占いも、ある程度は信頼しているとは言え、世の中には、福の神の姿をした貧乏神もいることを身を以て知りました。羊の皮を着た狼とはよく聞きますが、福の神の格好をした貧乏神も確実にいるのです。他人なら追い出していますが、親父ではどうにもなりません。疫病神と諦めるほかはありません。

 と言うわけで、占いは信じることはいけないとは思いませんが、信じすぎては間違いが起こります。くれぐれも半ば遊びのつもりで、興味で占いを見たほうが良いと思います。日が悪いから今日は外出しないとか、方角が悪いからそっちには引っ越さないとか、家の方位が悪いからその家は買わないとか、余りに占いを信じ込んでことを決めると結果は人生を狭めます。何事も少し参考にする程度で、間違った方向に進んだとしても、あまり気にしないで行動する方がよいかと思います。

続く

シャッター街の商店街

シャッター街の商店街

 

  初めて私がヨーロッパを旅したのは、1979年。FISM(世界最大のマジック大会)ベルギーのブラッセルに行った時です。この時、私はマジックメーカーのトリックすとうまい関係が出来ていて、道具の販売員として連れて行ってもらいました。

 初めに着いた国がイギリスでした。この時代のイギリスは、年中ストばかりやっていて、経済は停滞し、斜陽の国と言われていました。方や日本は、毎年毎年GDPがアップして、アジアの中では日本人だけが例外的に好景気な国でした。

 そんな時代にイギリスに行ったので、さぞやイギリスと言うのは老朽化した、寂れた国なんだろう。と思っていました。然し、実際、街中を歩いて見ると、街は活気がありましたし、そもそも建物の造りが立派で圧倒されました。百年かかってもイギリスに追いつくことは不可能だろう。と感心しました。

 トリックスがイギリスのおもちゃ屋さんハームレィズに出店すると言う交渉で、ハームレィズの重役と赤沼社長、新城専務、それになぜか私がレストランに招待され、会食をしましたが、そのレストランの立派なこと、またイギリスは食事はまずいと言う噂でしたが、何を食べてもおいしく、デザートのケーキ迄文句ない味でした。

 わずか二日間の滞在でしたが、どこをどう見てもイギリスは超先進国でした。ところがイギリスは、当時、イギリス病ともいうべき、民主主義が陥る権利平等の行き過ぎで国の活動が停滞していたのです。自分たちの給料を上げるために、やたらとストをする、そのストのために多くの人が迷惑をし、結果、経済が日本のようにスムーズに動かなくなっていたのです。

 この時代に私がイギリスについて聞いた話ですが、イギリスの列車の中には、運転士の隣に、蒸気機関車の釜焚き夫が乗っていたそうです。蒸気機関車はとっくに廃止され、電化された列車の中に、石炭を機関車の釜にくべる労働者をそのまま居座っていました。釜焚き夫がそのまま雇用の権利を主張して、辞めさせられることなく乗っていたと言うのです。

 この人は釜のない電車の中で、石炭をくべるわけでもなく、他に用事もないまま、自分の権利を盾にして、定年になるまで運転手の脇に座っていたそうです。労働組合が強くて、企業や、政府が労働者に逆らえないのです。個人の権利が守られるのはいいことですが、個人が余りに強くなれば、世の中が停滞すると言うお手本となる話です。

 極端な民主主義が、不景気な産業で、合理化をしようとしても、労働者が反対して、労働者をやめさせることが出来なくなります。人員整理をすれば十分生き延びられる企業でも、合理化できないために赤字を垂れ流し、やがて倒産してしまいます。

 そんなイギリスの姿を見ていると、「日本でもいつか権利ばかり主張して、国や企業が動きがとれない国になるのではないだろうか」。と考えさせられました。

 しかしそんな国でありながら、当時のイギリスは普通に活気がありましたし、日本よりもはるかに豊かな生活をしています。それがなぜなのか。と、訝しく思っていると。ものの本に、「イギリスは金融で大きな利益を上げていて、その利益は日本人が自動車や。家電を作って売り上げる利益の何倍もの利益を出している」。と言うことを知りました。

 世界中に大きな資本を持っていて、そこから上がってくる利益が巨大なため、自動車産業が斜陽でも、繊維産業が日本に圧されていても、少しも国自体は困窮することがなかったのです。

 実際、本当の金持ちと言うのは、いろいろな産業を手掛け、そこで上がった利益を金融に回すことでさらに利益を上げて行くものです。日本でも金持ちと称する人たちは、室町時代の昔から、金が金を生んで金を貸すことで財産を作って行ったのです。世界に冠たる大英帝国が、金融の利息だけで十分生きて行けるのは当然のことです。

 

 そして今の日本です。私が20代半ばで見てきたイギリスとまったく同じことが日本でも起こっています。バブル以降、この30数年間は経済が停滞し、一人一人の給料が少しも伸びず、周辺のアジア諸国にまでGDPで追い抜かれ、イギリス病とまではいかずとも、何となくこの先、日本は斜陽になって行く国のように思われています。

 然し、そんな風に経済誌に書かれていても、実際の日本は政治も経済も安定していますし、何より国全体が豊かです。それがどうしてなのかと言う答えは簡単で、企業が資産を持っているからです。日本の企業や個人など全体で、海外の資産が400兆円あると言います。その資産と言うのは、不動産収入であるとか、人を現地で雇って収入を上げているとか、特許を持っていて、特許使用料が入って来るとか、株とか、あらゆるものがあって、その収入が少なく見積もっても総資産の2割、80兆円あると言われています。毎年80兆の純利益を上げている国と言うのは、世界を見渡しても、10カ国ないでしょう。その中に日本がいるわけで、少々品物の売り上げが悪くても、びくともしないのは資産があるからです。

 つまり半世紀たって日本は、かつて私が見たイギリスのような国になって行ったのです。勿論それはいいことです。それが証拠に、イギリスは、その後サッチャーさんが現れて、イギリス病と言う、個人の主張ばかりを優先する労働組合と戦って、国を維持するために個人の権利平等を改めています。結果として今もイギリスは、沈むことなく、主要先進国として活動を続けています。

 日本も今のままでいいとは思いませんが、そうは言っても周辺の国々が煽るような斜陽な国ではありませんので、余り心配する必要はないと思います。むしろ、少しぐらいは権利主張をして、今より給料を上げるように活動してもいいと思います。

 

 実際この30数年は余りに産業が停滞していました。そのため、地方都市の商店街や、個人の家は空き家が目立っています。

 人が年を取って、仕事からリタイヤして行くのは普通のことです。その時に次に若い人が新たな仕事をして行けば町の活気は消えません。商店街に空き店が増えてしまうのは、次に何をやって行ったらいいかが決まらないか、あるいは新しい活動を何らかの理由で阻害しているからです。仕事をしたいと言う人になるべく安価に平等に、チャンスを作ってやりさえすれば、シャッター街など生まれないのです。

 せっかく安定して、豊かさを手に入れた日本が勿体ないことだと思います。力を失って行く人たちを助けることも大切ですが、新しい事業をする人を後押しすることはもっと大切です。そこを間違えると本当に斜陽な国になってしまいます。店が開いているなら、若い人たちに思いっきり安価でスペースを提供しては如何でしょう。日本を停滞させているのは、既得権を持った人を守り過ぎているからです。

です。

続く

新年会

新年会

 

 昨日(4日)は、自宅で新年会をしました。昼過ぎから始めて、終了は成り行きで、夜9時くらいまで続きました。私のアトリエは、目いっぱい人が入って10人ほどですので、ほとんど声掛けをしないで、弟子と、少しのマジシャンだけでパーティーをしました

 コロナの前までは前に借りていた事務所に集まっていましたので、50人くらいのお客様ががとっかえひっかえ訪ねて来て、寿司も二度、三度注文しなければ間に合わないほどでしたが、今年はぐっと小さな新年会になりました。

 今までは常に、私がたこ焼きを作ったり、うどんを作ったり、ほとんど休むまもなく作業をししなければなりませんでしたが、今回は作るものがなく、並べた食事ですべてが賄え、時折ホットプレートで、焼売や、餃子を焼く程度で、作業が簡単でした。

 何と言っても、大変なのは、たこ焼きでした。下ごしらえに時間がかかります。まず、生地を作るのが一仕事です。50人前のたこ焼きの生地は大きなボウル一杯必要です。そして、細かな具を用意するのが大変、そしてタコを細かく切っておく作業に時間がかかります。たこ焼き一つで下ごしらえが1時間はかかります。

 そこで、今年はたこ焼きを諦めました。そのお陰で下ごしらえが少なくて済み、出来上がりの食材で、温めて食べる程度の簡単なものにしました。お陰で、私の体の負担が楽でした。

 考えて見ると、こうした一連の作業は、猿ヶ京の合宿で毎回繰り返されて来たことでした。みんなでこしらえた料理を食べるのは格別に楽しいものです。特に、囲炉裏で鮎(あゆ)を焼く作業は、囲炉裏の弱い火で温めるため、とても時間がかかります。

 長箸に突きに立てた鮎を火の回りに立てて並べて、三時間ほど時間をかけて焼いて行くと、鮎は、頭から骨まですべて食べられるほどに骨が柔らかくなります。これを頭からかぶり付くのですが、どんな鮎の料理よりもこのやり方で食べる鮎が一番うまいと思います。東京では部屋の中で囲炉裏で食事をすることなどありませんが、炭火で鍋を煮て、アユを焼いて食べる作業は最高のご馳走です。

 さてその猿ヶ京ですが、結局、昨年は出かけることが出来ませんでした。残念です。今年こそ何とか4月あたりに春合宿をしたいと考えています。合宿人数が、2,3人では寂しく、と言って、10人を超えると食事の手配に苦労します。7,8人くらいがちょうどいいのですが、4月に人が集まるでしょうか。

 

 昨日は1時に大樹が来ました。何とか仕事が少ない仲を無事に活動しているようです。海外の仕事が増えて来ると、元の活動に戻るでしょう。一旦消えた海外とのつながりがうまく戻ればいいと思います。

 高校生の朗磨君と入谷君も来ました。彼らは毎月、自宅のある群馬から手妻を習いに来ています。マジシャンの新年会は初めての体験でしょう。然し猿ヶ京で合宿もしていますので慣れています。朗磨君は昨年推薦で日大芸術学部に入学しました。すばらしいことです。二人ともマジシャンになりたいらしいのですが、その夢がうまく実現して行くといいと思います。

 

 石井裕と和田奈月も日頃は、なかなか会う機会がなく、正月に合って話を聞くくらいしか話す機会がありません。もっともっと私が大きな一座で活動をしていたらいいのですが、今年はそうした機会が来るかどうか。何かとてつもない大仕事が来たならいいと思います。

 

 カズカタヤマさんも来てくれました。今年はジャパンカップのマジックオブザイヤーに選ばれています。私が賞状を読み上げるコメンテーターになるのでしょう。カタヤマさんはマジックオブザイヤーは二回目です。長くマジック活動を続けて来たからこその二度目の受賞です。

 60歳を過ぎての受賞は重みがあります。この先良いことがいくつも出て来るといいと思います。学生のころからカタヤマさんを見ていますが、マジック好きな学生が、紆余曲折あっても、こうしてマジック活動を続けて生きて行くんだ、と改めて眺めてみると、感慨深いものがあります。なかなか簡単にこの道で40年は生きては行けないのです。

 

 夕方5時半を過ぎて、NHK古谷敏郎アナウンサーが来ました。古谷さんは、昨年のカナダで開催されたFISMを番組に取り上げるためにプロデュースした人です。番組中にも司会で活躍されていました。子供のころからのマジック愛好家で、実際番組の中でも、四つ玉を演じていました。45㎜の三瓶クラフトの四つ玉を今も大事に持っていて、その技を披露してくれました。

 長年の夢がかなって、FISMの番組を作ったことは大きく、多くのマジック愛好家は「これでまた、NHKでFISMが見られるようになる」。と、ほのかな期待が生まれたことと思います。このところのマジック番組は、番組の都合上か、際物的な、如何わしい番組が幾つかありますが、暮れのFISMの特集だけは真面目にマジックの面白さが伝えられていて、いい番組でした。ああした番組をこの先も作っていただきたいと思います。

 

 若手の中で、日向大祐、ザッキー、早稲田康平の三人が来てくれました。日向さんはアゴラカフェで、毎月芝居仕立てのマジックショウを公演しています。今月は15日に12時から公演します。日向さんの公演は、全くマジックをしない若い親子連れが大勢来ます。どこからそうしたお客様を引っ張って来るのかわかりませんが、一番理想的な観客層を持っています。良いことです、マジックが好きな人がマジックをする必要はありません。マジックを見ることを愉しみとするお客様が増えることが一番大切なのです。日向さんの表現する世界観も独自です。一度ご覧になっては如何でしょう。

 

 ザッキーさんは今月28日、夜7時からアゴラカフェで公演をします。看板に峯村健二さんを据え、藤山大成とともにザッキーのショウをします。じっくり演技時間を取って、これまでの自身のマジックを大きくまとめてゆく考えです。

 ザッキーさんの性格上、これまではショウの中で、調整役のような役割で、司会をしたり、間、間にマジックを見せたりと、細切れにマジックをして来たのですが、ここらで、自分の芸を一つにまとめてみるのはいいことです。年明け早々、いいチャンスだと思います。

続く   

春の海

春の海

 

 毎年お正月になると商店街でも喫茶店でもこの「春の海」が聞こえて来ます。初めのワンフレーズが流れて来ると、もう「あっ春の海だ」、と気付きます。これは実は大変なことで、例えば、クラシックを知らない人でもベートーベンの交響曲5番を聴けば、「あっ、運命だ」、と、すぐに気偉大なことなのです。

 実際に筝曲(そうきょく=琴の音楽)と言うのは、長い歴史があり、多くの作品が残されていますが、お正月に流れて来るのは、春の海か、六段くらいで、一般の素人に筝曲で曲名が分かるのはこの二曲でしょう。

 六段は、八橋検校(やつはしけんぎょう=検校と言うのは、盲人で、筝曲演奏家の最高位)が作った作品で、江戸時代のものです。筝曲には、山田流と生田流の二つの大きな派があり、八橋検校は山田流。春の海を作った宮城道夫は生田流になります。

 もっとも、生田検校は、八橋検校の孫弟子になる人ですから、近世の大きな琴の流派は八橋検校から発生していると言っても間違いはないでしょう。

 八橋検校と言う人は亡くなってから京都の聖護院に埋葬され、その墓には琴を愛する人々が死後もたくさん押しかけました。余りに八橋検校を慕う人が多いために、寺の近くの菓子屋で、八ッ橋と言う、琴の形を真似た小さな、薄焼きの瓦煎餅を出したところ、これがまた評判になり、あの、反り返ったチュ-インガムのような形状の煎餅は、今も京都の名物で売られています。

 八橋と言う人は江戸初期(1650年代)寛永時代の人ですが、宮城道夫と言う人は、明治27年の生まれです。神戸に生まれ、幼くして失明し、その時代の流れとして、失明した人は、按摩になるか、音楽の演奏家になるかの道を選び、宮城は筝曲を選びます。

 幼いころからよほど音感がよかったらしく、神戸の蓄音機屋の前で、宣伝にかけていたSPレコード音楽を一日中聞いていたと言います。その後一家は朝鮮に渡り、宮城は10代の初めで、朝鮮在住の日本人の子女相手に琴の指導をして家計を助けます。

 朝鮮で、庶民が川辺で洗濯する際に、砧と言う棒を使い、布地をたたきながら洗濯するさまが宮城には珍しかったらしく、何十人もの女性が砧をたたく音に興味を持ち、後に「砧」と言う曲を作ります。何を隠そう、私が、20代の頃、手妻に使わせていただいたBGMで、調子の良いリズムに平易なメロディーが乗っているのが面白くて、随分使わせていただきました。

 日本国内に戻ってからに宮城はもう押しも押されもせぬ偉大な演奏家になり、音楽大学(今の芸大)の教授になり、NHKなどにも頻繁に出演してその名は日本中に知られました。昭和4年に春の海を作曲。事と尺八のシンプルな曲ですが、当時の反応はあまり芳しいものではなかったようです。然し、たまたま来日中の、フランス人の女流ヴァイオリニスト、シュメールがこの曲を気に入り、尺八の部分をヴァイオリンで演奏して、レコードにして吹き込むと、国内だけでなく海外でもヒットし、一躍宮城の名前は世界中に知られるようになりました。

 琴とヴァイオリンと言う取り合わせが異色で、筝曲の中でも異例な取り合わせなため、春の海は独自な発展を遂げて、後にフルートと琴、などと言う演奏も出て来ます。いずれにしても琴の世界では最もポピュラーな曲として今も演奏され続けています。ある意味、異端と思われていた音楽が、琴を代表する音楽になってしまったのですから皮肉です。

 実際、生田流は、数々の宮城道夫の作品によって、多くの生徒を増やし、その後大発展をしています。方や山田流は、伝統的な筝曲を守ってきたことで生き延びてきたのですが、宮城道夫の出現によって、安閑としてはいられず(多分そう思ったのでしょう)、中能島欣一と言う人が現れて、しきりに新しい筝曲を作っています。大正、昭和初期は筝曲の創作の華やかな時期だったのでしょう。

 この宮城道夫と中能島欣一の音楽が、今も現代邦楽(?)などと呼ばれ、わずかながらもレコードとなって残っています。20代の頃の私は、この二人のレコードを買い求め、随分手妻のBGMとして使わせていただきました。お二人に共通しているのは、ともに西洋音楽の形式を取り入れ、変奏曲や、トリオ形式などを駆使して音楽を作り上げていることで、ある種、邦楽と言う考えからかなり離れた作品になっています。

 それだけに、洋楽に馴染んでしまった現代人には入りやすく、今では抵抗感なく聴けます。宮城道夫の桜変奏曲には、さくらさくらをワルツで演奏したりしています。

 当時の筝曲演奏家にすれば明らかな邪道だったと思いますが、昭和の初年。親に隠れて桜変奏曲を弾く子女が結構いたのではないかと思います。何にしても、お二人に共通して言えることはテンポがいいことです。中能島欣一の曲などは、とっとこ、とっとこと、馬に乗って走っているかのように軽快で、どれも耳に入りやすい曲です。

 宮城道夫の曲を面白いと思う人があるなら、中能島欣一は絶対に面白いと思いますが、多勢に無勢。衆寡敵ぜずか、毎年春の海は嫌と言うほど聞きますが、中能島のさらし幻想曲は先ず聴きません。残念です。せめて私が手妻でBGMとして使わせていただき、普及の一助となるべく広めています。機会がありましたら、私の演技のBGMに耳を傾けてお聞きください。

続く

 

初音ミケⅡ 4

初音ミケⅡ 4

 

 今日あたりミケがやって来るのではないかと思って、一階アトリエの、ドアの通風窓を開けて手妻の稽古をしていました。すると、予想通り、11時にミケがやって来ました。

 「やっぱり来たんだね。今日は大工さんも正月で休みだし、辺りは静かだから、きっと来るんじゃないかと思っていたよ」。「感がいいわね。この間話していた若トラも連れて来たの」。「へぇ、どこにいるんだい」。「向うの道の角に座っているわ」。

 ドアを開けて覗いてみると、突き当りの角に大きなトラ猫が座っています。「へぇ、あれかぁ、大きいね」。「えぇ、大きいだけ、からっきし度胸がなくて嫌になっちゃうわよ」。「いいじゃないか、若くて毛並みもよくて、おとなしそうな顔をしているよ。育ちが良さそうな猫だなぁ」。「それが取り得よ。性格は良くて、甘えん坊なのよ」。

 「そう言や、前に付き合っていたオクゲもあんな感じの猫だったね」。「よく覚えているわね、猫の前の夫のことを知っているなんて先生くらいよ。あれも頼りない猫だったわ」。「姉御肌のミケとすればちょうどいい相手じゃないか」。

 「まぁね。でもねぇ、今日は、トラ猫を紹介するために来たんじゃないの。もっと大事な用事があるの。裏のアパートを乗っ取ろうとするやつが出て来たのよ」。

 「へぇ、誰だい?」。「あたしの知らないうちに黒白のニケ猫が裏のアパートを縄張りにしているらしいのよ」。「黒白なら見たことがあるよ。私はてっきり、もうミケは来ないものと思っていたから、縄張りをニケ猫に譲ったのかと思っていたよ」。

 「とんでもないわよ。ここは私の代々の親が治めていた場所よ。そう簡単に譲るわけがないでしょ」。「そうなのか。あのニケ猫はどこの猫なんだい?」。「最近この辺りに越してきた野良猫よ。体の大きな雌猫でさ。近所のオス野良と見境なくつるんでいるの。放っておいたら子供をたくさん作るわよ。子供が出来るたびに子供の毛色が違うんだから、全く変態よ」。「猫にも変態があるんだ」。

 「とにかくね。今日は、屋根に隠れて見張っていて、ニケ猫を見つけたら襲い掛かって追い出してやるの」。

 「へーぇ。そのためにトラ猫まで連れて来たのか」。「あいつは使えないわ。でも、見張りくらいは出来るから、角に立たせているの。ニケ猫が来たら知らせてくれるように言ってあるのよ」。そう言って、ミケは裏のアパートに行ってしまいました。これは正月早々、ひと悶着ありそうです。ミケはアパートの庇の裏に隠れます。そのままじっとして動かなくなりました。

 「ははぁ、これは、前に黒猫を撃退したときと同じ戦法だな」。ニケ猫が屋根の上に上がって来て、寝そべってくつろいでいる時に飛び出して、噛みついて屋根から落とす考えのようです。しばらくすると、向こうの角にいたトラ猫がアパートの前までやって来て、おとなしくお座りをします。見張りの合図をする段どりのようです。

 

 私は、先週ミケにあって以来、ミケが「私に特殊な才能があると言ったことがずっと気になっていました。確かに私はミケの言うことはよくわかります。ただ、なぜわかるのかがわかりません。ミケの気持ちはよくわかりますが、他の猫や動物の気持ちは全くわからないのです。

 以前に座敷で犬を飼っていました。一匹目はマルチーズで、二匹目はトイプードルでした。二匹とも十年以上生きました。その犬とは随分会話をしましたが、犬は一度もミケのようにはっきりした自分の考えは言いませんでした。何を考えているのかはある程度は分かりましたが、細かな考えはさっぱりわかりませんでした。

 いや、それが普通だと思います。決して人と犬とが深い話はしないのです。それがどうして、ミケとミケの親に限って、話が出来るのかが不思議です。いまだに他の猫とは話が出来ません。「これで、普通に猫と会話が出来るなら、それは特殊技能だから、猫との会話術、などと言って会話方法を指導する映像を作って配信すれば、猫ファンから絶大な支持を得られるけども、ミケだけとなると難しいなぁ。第一、私がなぜ話が出来るのか、その根本がわからない」。

 試しにアパートの前に座っているトラ猫に猫シンパシィを送って見ましたが、トラは全く反応を示しません。見るからに人慣れした猫ですから、警戒はしていないのですが、私には興味がないようです。時々、私を気にしてはいますが、愛想よく私を眺めているだけです。

 私は昼食をとろうと三階に上がりました。女房は、食事中も箱根駅伝に夢中で、ほとんど会話もしません。女房は、今年は青山学園が少し不調だ、とか、中央がいいとか、ごちゃごちゃ言いながら見ています。

 

 食後、お茶を飲みながら、暮れに頂いた虎屋の羊羹を食べようかと思っていると、裏のアパートでいきなりものすごい音がして、猫の悲鳴が聞こえました。

 「始まったな」。窓を開けると、ミケが屋根の上にいて、下を眺めています。既に勝負はついたようです。どうやら、ニケ猫が屋根の上でくつろいでいるところを、突然ミケが庇から飛び出して、首筋を噛みつき、背負い投げをして屋根からニケ猫を落としたのでしょう。これはミケの得意技です。

 ニケ猫は一瞬「キャッ」と悲鳴を上げましたが、その後は、下に落ちて、反撃もせずにすぐに走って逃げたようです。私は一階に降りてみました。そこにはトラがいて、屋根の上にいるミケの姿をじっと見詰めています。トラは明らかにミケを尊敬の眼差しで見ています。屋根から落ちたニケ猫を取り押さえて噛みつくこともしなかったようです。どうにも頼りない雄猫です。

 ミケは私の家に立ち寄ることもなく、夫婦揃って帰って行きました。正月早々大立ち回りを見ました。ミケは元気です。以前にも増して喧嘩が強くなっています。高円寺猫同士会理事長の貫禄はあります。恐らく高円寺中野界隈でミケを超える力のある猫はいないでしょう。今日はろくろく話も出来ませんでしたが、また来週やって来たなら、私とミケとの会話術の根本を質問してみようと思います。

続く

令和5年、2023年

令和5年、2023年

 

 令和5年が始まりました。令和と言う年号に全く馴染みがないまま、もう5年が経ってしまいました。正直に言うと、平成と言う年号にも実感がありませんでした。私の頭の中ではずっと昭和が続いていました。人との話の中で、平成10年とか、平成15年とか言われると、「あぁ、昭和73年か」、と、年号を置き換えて理解していました。

 それが令和となると一層複雑です。もう昭和を起点に時間を考えることは出来ません。さりとて、頭の中で計算する基準が見つかりません。漠然と時間が経ってしまったことだけを自分に言い聞かせているだけです。

 私が20代の頃は、老人たちの噺の中で、「こないだの戦争」。と言う話が出て来ると、第二次世界大戦のことでした。第二次世界大戦を老人は、支那事変と呼び、その後を太平洋戦争と呼びました。それら全てがこないだの戦争でした。

 私はそれを聞いて「随分古い話をするなぁ」。と思っていました。然し、昭和40年代に当時の老人が、支那事変の話をすることは、令和5年に平成10年の話をすることと同じです。私にとって平成10年は過去ではありません。平成10年と言う時代はつい昨日の話です。そう気が付いたとき、昭和の老人は過去の話をしていたのではなくて、昨日の話をしていたのだと諒解できました。

 

 令和5年を迎えて、今年はどう活動して行こうか、と考えました。特別今までのことから離れた活動はしません。いくつか主宰しているマジックショウを充実させること、私自身のマジックのグレードを上げること、若い人を指導すること。この三本の柱が主であることは変わりません。特に、私の手順を作ることは大きな目的です。いろいろな点で私のショウは、マイナーチェンジが必要になってきています。

 手妻と言うのは古典奇術のことですが、古典だからと言って、何も変えずに昔の儘に生きて行くことは出来ません。少しずつ今の時代に合わせて行かなければ生き残れません。それは時代が動いていますし、人の興味が移って来ていますので、そこに合わせるのは当然のことなのです。

 古さを守りつつ、新しい考え方を提案して行かなければ、古典は残らないのです。但し、このところ新しいアイディアは余り生まれて来ていません。今年はもっとたくさんアイディアを出そうと考えています。

 

 ところで、旧年末に、パソコンの修理をして、一階のアトリエは電波が通りにくいと分かったため、二階の大成の使っていたデスクにパソコンを移しました。二階は事務所ですが、私は今まで二階に自分のデスクを置いたことがありません。事務所のことは弟子と女房任せです。

 常に一階の奥の小部屋が私の書斎でした。一階は約半分がアトリエで、残りが倉庫で、倉庫の一角の一番奥の部屋が書斎です。広さは3畳ほどでしょうか。書棚がびっしり並んでいますので、私が居住するスペースは畳一畳ほどです。極小の書斎です。然しこれがいいのです。

 何を取るのも座ったままで出来ます。手を伸ばせば、マジックの小物でも、本でも、書類でもすぐ取れます。部屋の奥だから暗いのかと思われますが、実は、ここには南向きの窓が取れていて、かなり長時間日が差します。冬でも暖かいのです。

 書き物をしていても、半日作業に没頭できます。「そもプロ」も、「手妻のはなし」も、「たけちゃん金返せ」も、すべてここで書いたものです。私にとってはここにいる時間が最も充実します。

 それが二階に移ると、隣が女房のデスクですので、時々女房が来て、デスクワークをします。電話がよくかかって来ます。人も訪ねて来ます。集中と言う点ではあまりいい場所ではありません。然し、デスクの右手には水道が通っていますので、コーヒーや、お茶を飲んだりが自由にできます。更に、隣にトイレがありますので、昼のデスクワークには最も適した場所だと今になって知りました。この家に住んで34年、初めて二階の事務所の価値を知りました。

 大晦日、元旦は、二階の事務所で整理をしていました。朝から半日、ずっと静かで、日も差して来て、ここの事務所は快適です。「あぁ、もっとこの部屋を生かして行かなければいけないなぁ」。と実感しました。

 但し、二階にばかりいると一階の仕事がおろそかになります。今日はこれから、一階で道具の修理をしようかと思います。7日の博覧会のショウで使う道具をチェックします。直す部分も結構ありますし、依頼されて作った道具もあります。最終チェックをこれからします。

 多分私が作業しているときに、初音ミケがやって来ると思います。かつて、毎週月曜日の午前11時ころにミケは来ました。ミケはかなり正確に私のアトリエの前に来るのです。ところが、この半年は、隣に家が建つために大工が出入りしてやかましいためか、ミケは来なくなりました。今日は正月で、大工も休みです。久々来るのではないかと思います。そうなら、風を入れるドアの窓を開けて待っていようと思います。

続く