手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

何も解決しない

何も解決しない

 

 テレビのワイドショウを見ていると、次から次と事件を扱い、話は次々と発展して行きますが、だからどうなったのか、と言うと何もどうもなってはおらず、ただ目の前に起こったことをけしからんと騒いでいるだけ。何だこりゃ、とばかばかしくなります。

 

 話の始まりは安倍元首相が選挙の応援演説中に狙撃され、命を落とすところから始まります。傷ましい事故であり、暴力に訴えることなく物事を解決をするために選挙があるのに、その選挙のさ中に狙撃されると言うのは民主主義の否定であり、今の日本の民主主義がこうも簡単に崩れ去ることが驚きです。

 この安倍元首相の話題で、テレビ局は一週間大騒ぎし、そこから話は数々枝分かれを始めます。

 

 先ず、安倍元首相の生前の功績をたたえて、国葬にしようと岸田首相が提案します。安倍元首相は外交において様々に優れた活動を果たしました。中国の海洋進出に対して、アメリカ、日本、オーストリアの三国にインドを加えたクアッドを形にして、中国に対する大きな牽制が形作られました。その牽引役を担ったのが安倍首相の成果です。フットワークが軽く海外の首脳と気軽に話し合い、彼らと人間的な交友を結びました。日本の政治家で最も信頼の厚い人です。

 国内では憲法改正自衛隊の拡充を早くから唱え、右翼だ、軍国主義だと言われつつも、いざロシアがウクライナを侵略している姿を見れば、多くの日本人は、「もっと防衛に力を注がなければ」。と急に国防の頼りなさに慌てだします。つまり今になって見れば、安倍さんの言った通りの世界が現実のものとなったのです。

 

 安倍さんの家系は常に裏街道と表街道があざなえる縄のごとく現れます。それを知って、安倍さんの有能な部分にのみスポットを当てて評価するか、森、かけ、桜にこだわって人をくさすかは、人を使う側の度量です。水清ければ魚染まず。世界の国家元首を見れば胡散臭い人ばかりです。プーチンさんも、習近平さんも、妖しい顔をしています。それから見たなら安倍さんは随分ましに見えます。

 

 国葬はしかるべきかと思われますが、その狙撃犯が、統一教会の信者二世であることが分かり、統一教会は依然として教会内部で信者を圧迫して財産を要求したり、退会を妨げ、自由を奪ったり、様々な問題があることが表に出てきました。ここでテレビは安倍さんの銃撃を忘れて、統一教会内部告発に乗り出して大騒ぎを始めます。

 そして狙撃犯が協会信者二世であって、いかに協会によって苦しめられてきたかを綿々と語り、(いくら語っても、当人は首相を狙撃した犯人です。許される話ではないはずです)。話は統一教会批判に終始します。

 

 更には、安倍元首相が統一教会の支持者であることが分かり、そればかりか、自民党中の政治家で統一教会の支援で選挙を助けけてもらっている政治家がかなり数多くいることが分かり、今度はテレビは政治家に対して「けしからん」。と大上段に構えて政治家の批判を始めます。

 すると政治家もだらしなく、統一教会からの支援を隠し始めます。おかしな話です。票をくれる組織ならどんな組織でも挨拶に出かけて、町内の神社の祭りにでも顔出しをして、みこしの片棒も担ぐのが政治家です。それが統一教会に散々世話になっておきながら、「自分は教会とは関係ない」、と言い出します。

 すると、マスコミや週刊誌は個々の議員が協会の集会に何回顔出ししたかを細かく調べてあぶりだします。政治家は、その都度歯切れの悪い対応をして、とぼけます。

 へんですねぇ。「統一教会さんには選挙でお世話になっています」。と素直に言えばよい話で、さらに「教会内部には色々問題があるようです。それは国会で問題をあぶり出して法案を作って対処します」。と言えばこの話は先には進みません。元々法の不備から統一教会のようなおかしな新興宗教が出てきたわけで、一人一人の政治家を責め立てても解決できる問題ではないのです。

 

 それが内閣改造が進み、岸田首相が、統一教会とかかわりを持つ政治家は内閣に入ることは遠慮してもらう。と言ったがために、次から次と統一教会の指示を受けていた政治家が現れ、その都度弁明をさせられます。テレビが閣僚に向かって大上段に構えて「何をしているんだ」。と正義をかざして大声で叱っていますが、一体何が言いたいのでしょうか。マスコミもマスコミなら政治家も政治家です。

 中にはどっぷり教会に浸かって、丸々選挙で世話になった政治家が、「教会との関係を断つ」、なんて宣言をします。そんなことできますか。もし関係を絶ったなら、この政治家は影も形もなくなってしまいます。世話になったなら世話になったと言うべきですし、自身の立ち位置を忘れてはいけません。

 

 そうこうするうちに「国葬は間違いではないか」。と言い出す人が現れます。「国民の了解もなく国葬にするのはおかしい」。と言い出します。国葬にするかしないかは内閣の決めることで、総理大臣が内閣に計って国葬を決め、告知したことは法を守って決めたとです、国葬にするかしないかを国民一人一人に尋ねる必要はないのです。いくら野党が反対しようと、テレビが文句を言おうと、安定過半数を維持している自民党が、選挙中に命を落とした安倍元首相を国葬にするのは当然のことなのです。

 他のどこの国の総理が無くなっても、世界中で安倍元総理ほどに、国家元首が集まって来ることはないでしょう。そのことを日本人なら誇りに思うべきですし、そもそも冠婚葬祭にケチを付けるのは社会人として恥ずべき行為です。

 ところでこうして世間に騒ぎのネタを供給して、マスコミは一体何が言いたいのでしょうか。言った結果に何があったのでしょうか。何も話が進まず、何も解決せず、ただストレス解消の如くにコメンテーターが騒いでいます。あぁ、ばかばかしい。

続く 

大谷選手快進撃

大谷選手快進撃

 

 最近は明日に何が起こるかわからないような、不安定な日々が続いています。ウクライナの戦争は一向に終結せず、コロナも下火になったかと思えば再発し、不景気風は収まらず。台風も、大雨も頻繁にやって来て、生活を破綻させて去って行きます。何をどうしていいものか、途方に暮れてしまいます。

 

 そんな中で、エンジェルスの大谷選手は、多くのファンの期待を一身に集めながら、確実に毎週ホームランを飛ばしています。一昨日(9月1日)はヤンキースを相手に30号3ランホームランを達成しています。バッターとして30本のホームラン。ピッチャーとしては11勝を挙げています。今やベーブルースの記録を超えたアメリカ野球界の大スターです。

 これほどの実力を持っていながら、いつでもさわやかで、にこにこしています。野球ファンの少年たちが憧れるのも当然です。いや、少年どころか、大谷の活動はアメリカ国民の多くが注視していて、毎日スポーツニュースで大谷選手の活躍を必ずチェックする人によって視聴率が急上昇しています。今やアメリカ人に最も愛されている日本人と言っても過言ではないでしょう。ものすごい人と私たちは同じ時代を生きているのです。但し、無理が祟って怪我をしないことを祈ります。

 

 昨日(2日)は月に一回の糖尿病の検査でした。朝からしとしとと小雨が降っていました。湿度が高く鬱陶しい一日でした。午前中に病院に行き、血液を取って数値を確かめます。このところ数値はかなり良くて、大きな問題はありません。穀類を控えていること、酒を週に一回程度に抑えていることで安定しているのでしょう。要は、暴飲暴食を控えて、つつましく生きていれば糖尿病は恐れる病気ではないのです。

 然し、あれは食べられない、飲めないと言うのは、何とも地味でさえない毎日です。食べたいものを食べて、飲みたいだけ飲んで、ばかばかしい話をしてパーッと派手に遊びたいものです。それを我慢して長生きを目指すことが本当に幸せなことなのか。もう後先のこと考えずにやりたいことをして生きようかな。と誘惑にかられます。

 

 昼をどこかで食べようと、数か月前に行った三軒茶屋のレストラン通りを歩いてみました。その時、ここは面白そうだなと思った店で、プントと言う小さな店に入って見ました。地下鉄の駅から徒歩三分くらいですが、道が細くてわかりにくいかもしれません。外装は奇麗に作ってあります。イタリアンです。ランチはパスタが中心です。見るとナポリタンがあります。長いこと食べていませんので頼んでみました。

 ナポリタンとはなんと懐かしい言葉でしょう。私が子供の頃はスパゲティーと言えばナポリタンが当たり前で、麺にケチャップをかけて、ピーマンと玉ねぎとハムを細く切って一緒に炒めたものがナポリタンでした。子供のころ初めて母親に作ってもらって食べたときには、世の中にこれほどうまい食べ物があるのかと思うほどに感動しましたが、今ではパスタは数々あっても、イタリアンレストランで、ナポリタンは先ずメニューに出て来ません。

 そもそも、イタリアに行ってもアメリカに行っても、ナポリに行ってもナポリタンと言う名前のスパゲティー料理はありません。なぜケチャップで炒めたスパゲティーナポリタンなのかもわかりませんが、あの甘酸っぱいケチャップ味で炒めた麺にハムやピーマンの入ったスパゲティーが妙に懐かしく今でも時々食べたくなります。

 と言うわけで注文しました。先ずサラダが出ました。そしてパスタです。色は昔食べたナポリタンと同じです。ケチャップの味は市販のケチャップよりも少し高級な香りがしました。ウインナーソーセージが切って入っています。

 麺は堅めです。この茹で方は現代のレストランの触感です。付け合わせにパンを頼みました。パンはスライスしたものを少し温めてあります。ちぎって、オリーブオイルをつけて食べます。パンはほの甘く、オリーブオイルと合わせると口の中でパンの香りが立っていい味わいです。「あぁ、パンを頼んでよかった」。と納得。但し一枚だけです。

 仕上げにアイスティーが出ました。雨模様のせいかお客様も少なく、ゆっくり食事を楽しめました。全部頼んで1050円。格安です。いい雰囲気の店でした。今度もう一度行って違うパスタと、肉料理を頼んでみようと思いました。

 

 テレビでは香川照之さんのホステスとの騒動が盛んにネタになっていました。銀座のクラブでホステスのおっぱいを揉んだ云々。一度は示談金を支払って収まった話を、週刊誌が嗅ぎつけて再燃したとか。示談金を支払ったことなら何も大騒ぎをしなくても、と思うのですが、そうではないようです。

 香川さんと言う人は生まれながらにストレスの塊のような人です。先代市川猿之助(猿翁)さんの実子で、母親は女優の浜木綿子さん。先代が浮気をしたことで夫婦は離婚。その時、学生だった香川さんが母親側について、先代を罵ったことから親子の関係は悪化。

 その後、大学を卒業した香川さんは就職、しかし、役者の血がふつふつと沸いて来て、劇団に入団。マスコミなどで売れるも、芝居そのものに悩みを抱え、思い切って歌舞伎座に出かけ、先代に謝り、歌舞伎の入門を申し出ます。

 この時の様子を私の友人は一部始終を見ていました。歌舞伎座の楽屋の入り口に土下座をして、頭をこすり付けて、父親に謝り、入門を乞うたそうです。然し、先代は一瞥もくれず。確執の深さをまざまざと見せつけたと聞きました。

 その後、香川さんは一念発起して現代劇に没頭、人気爆発。結婚し、男子を儲けます。するとその子を歌舞伎に入れたくなります。ちょうど澤瀉屋(おもだかや=市川猿之助一門)には跡継ぎの男子が一人もいないため、今のままでは100人の座員と、澤瀉屋流の芝居が絶えてしまいます。先代もそのことを憂慮してか香川さんを許します。晴れて香川さんは澤瀉屋一門に入り、市川中車と言う大きな名跡を継承します。

 しかし50歳近くになって全く歌舞伎を経験したことのない香川さんが、歌舞伎をするのは、いかな猛優であっても簡単ではなく、閉鎖的な歌舞伎の世界は冷淡で、嘲笑と失笑の嵐です。そもそも、香川さんは先代の実子でありながら、歌舞伎の発声、所作が全くできません。

 それでも子供のためにとカオスな人生を自ら正して、身を犠牲にして、日々頑張っている姿は賞賛に値します。しかし世間の目は厳しく、ドラマや昆虫の番組の間に歌舞伎に出演して、へたをさらし、冷遇される日々は針の筵でしょう。

 わかります分かります。そんな時に、たまの息抜きのホステスのおっぱいを揉んだことが今は命取りになりました。いっそカマキリの着ぐるみを着てホステスのおっぱいを揉んだならまだ愛嬌があって許されたのかも知れません。カマキリのしたことですからと大目に見てもらえたかもしれません。

 香川さんは抜群の知名度と、俳優としての才能を高く評価されつつも、生涯抱えきれないストレスを背負い続けて、生きなければならない人なのでしょう。簡単に言いますが、これほどつらい人生があるでしょうか。

続く

マジシャンレース 3

マジシャンレース 3

 

 マリックさんが超魔術に至るまで、彼はありとあらゆるマジックをしていました。初めは何がしたいのか、自分がどうなりたいのかもわからなかったのでしょう。思えばマリックさんもひたすら何かを掴みたくて必死だったのだと思います。

 結果を言うなら、この時、マリックさんが苦しんだことは大きな成功を生み出しました。実際、日本のマジックの世界は、ミスターマリック以前と以降で大きく流れが変わって行きました。

 戦後(1945年)、たくさんのマジシャンが生まれて来ました。アダチ竜光、引田天功島田晴夫ゼンジー北京マギー司郎、ナポレオン、そうしたマジシャンは、いずれも過去のマジシャンの流れを継承して存在しています。

 しかし、マリックは違います。今までにない形のマジシャンとして出てきたのです。マリックさんが売り出す少し前、昭和63年。私はマリックさんと喫茶店で話をしていました。するとやおら、「今やっていることが当たったら、きっと大きな成功を手にれる」。と言い出しました。一体何のことなのかは言いません。噂ではこのころ、大阪のホテルでクロースアップのテーブルホップをしているとは仲間から聞いていました。

 その時、私は、クロースアップには懐疑的でした。まだこの時代、日本では、クロースアップで生活しているマジシャンはいなかったのです。テーブルホップと言う言葉自体馴染みのないものでした。昭和63年では、前田知洋も、ヒロサカイも大学を出たばかりです。クロースアップマジックと言うのは、海外ではしきりに演じられていましたが、実際プロとしてあまりいい仕事にありついているマジシャンを見なかったのです。まだまだアマチュアの趣味に過ぎないものでした。

 マリックさんがそこに目を付けたと言うのは先見の目を持っていると言えます可能性を見出していたのです。それが500円玉にたばこを通すマジックだったとは後で知りました。

 

 11PMと言う深夜番組で、マリックさんが「超魔術」と名乗って、シガースルーコインで出て来た時は正直驚きました。何に驚いたか、「このマジックはマジックショップで売られているではないか。これで超魔術と宣言して、果たしてこの先生きて行けるのか」。

 実際視聴者はマリックさんを超能力者であると言う目で見ています。余りにうまく嵌り込んだために、視聴者は超魔術と言う言葉の意味が理解できていません。超魔術イコール超能力と信じているのです。

 マジックであるなら超能力ではないはずですし、超能力であるなら一切マジックの匂いがしてはいけないはずです。そこの間の現象なんて存在するわけがないのです。

 正直私はマリックさんの活躍を見ていて、「危ないことをしているなぁ」。と思いました。500円玉にたばこを通して世間の人から超能力者と騒がれたのなら、日本に同じことをするマジシャンは数百人、いや、数千人存在します、彼らはすぐにまねしてシガースルーコインを演じるでしょう。いとも簡単に超能力者になれるのです。今すぐ演じて見せればすぐに仕事になったでしょう。実際その後、次から次と超魔術師は乱造されるようになります。

 マリックさんは新しいマジックの世界を作り上げたと言っても過言ではありません。何が革新的だったのか、それはクロースアップをどう見せるかと言う、マジシャンの立ち位置をはっきり示したことです。それ以前のクロースアップマジシャンで、誰一人として、マリックさんのように、堂々と、小さな現象をとてつもなく大きな不思議として表現して見せた人はいなかったのです。

 それまでたまにテレビに出て来るクロースアップマジシャンは、カード捌きを小器用に見せながら、使い古された冗談を言い、引いたカードを当ててめでたしめでたしと言うような平和な演技をしていました。巧くはあっても、見たすぐ後に現象を忘れてしまうようなマジックばかりだったのです。

 なぜ効果が薄いのかと言う問題に対して、「使う道具が小さいから」。「現象が地味だから」。と道具にせいにして諦めていたのでしょう。

 マリックさんはそうしたクロースアップマジシャンの、見すぎ世過ぎの世慣れた演じ方を排除しました。先ず、冗談をやめ、言葉はゆっくり、重たく(昔からマリックさんは喋り方が重たかったのです)。現象のみに重きを置いて、マジックを娯楽として見せることすら否定して見せたのです。およそショウマンシップなど無縁の世界でした。

 そのため、最もクロースアップマジックらしい、カードマジックは演じなかったのです。フラリッシュも見せず、手慣れた仕草も見せません。預言であるとか、5択であるとか、超能力に見えるような現象ばかりをセレクトしてショウを組みました。それを超魔術を名付けました。それが当たったのです。

 この時、マリックさんの成功を見て、多くのクロースアップマニアたちは、クロースアップマジックをどう見せたら観客が食いついて来るのか、どうしたらクロースアップで生きて行けるのかを始めて知ったのです。それまでアマチュアの趣味にすぎなかったクロースアップマジックが、いきなりマジックの世界の主流に躍り出てきたのです。

 その後、超魔術の成功は人に真似され、たくさんの超魔術師を生みます。しかも、元々マジックショップで入手可能なマジックを素材にして超魔術を演じて来たため、タネの暴露合戦に発展して行きます。現象のみに焦点を当て、不思議ばかりを強調すれば、種明かしに発展することは見えています。

 余りに大きな成功を手に入れたことが、数年後にその揺り返しがやって来ます。マリックさんと言う人がこれほど波乱万丈の人生を送るとは私は予想していませんでした。

 但し、長いマジックの歴史から眺めてみると、マリックさんはクロースアップの時代を切り開いた人です。始めは超魔術でしたが、やがて演じている内容がマジックであることは観客に徐々に分かって来ます。そうなると、クロースアップと言うものの面白味が観客にわかって来るのです。マリックがいなければ、その先の、前田知洋ふじいあきらも出てこなかったでしょう。そうした点でマリックさんはマジック界に大きな足跡を残したと言えます。

続く

 

マジシャンレース 2

マジシャンレース 2

 

 周囲の仲間がどんどん売れだし、私自身は一体何をどうしたらいいのか、内心焦っていました。それが、自主公演が評価され、芸術祭賞の受賞をしました。昭和63年、私は33歳でした。

 私はついぞ、今に至るまで、テレビで知名度を上げることは出来ませんでした。20代から今日まで、テレビは時々出演する程度で、レギュラー番組などは頂いたことはなく、何とかテレビで認知されたいとずっと考えていました。マギーさんや、ナポレオンさんと比べると、私はどこかとっつきにくい顔をしていたのでしょうか。

 内心、舞台人として成功しないのではないかと言う不安が常に付きまとっていました。一方、そうした思いとは逆に、舞台活動は忙しく、収入にも恵まれていました。然し、仕事は浮気ですから、いつ飽きられるかわかりません。生きて行く上で何か確証が欲しい。何とも不安定な状況で日々を送っていました。

 そんな時の受賞で、ようやく生きて行く方向を見つけた思いがしました。ショウの内容は、トークマジック、スライハンド、イリュージョン、手妻、お終いは水芸を、生演奏で、新曲発表しました。今考えるとやり過ぎなくらい、目いっぱい詰め込んだショウでした。

 直接の受賞は、矢張り、手妻を残そうとして、これまで、装置を作ったり、演出を加えたり、音楽の作曲依頼をしたり、と、地道に投資してきたことが評価されたのだと思います。

 昭和63年の芸術祭参加公演は、8月に昭和天皇が倒れられて、日本国内は陛下のために祝い事を自粛をして、夏からずっと、ショウの依頼がパッタリ絶え、ホテルのパーティーの依頼が一切来なくなり、スケジュールが来年まで真っ白な状態でした。当時私は東京イリュージョンと言うイリュージョンチームを持ち、アシスタント4人を抱え、道具方一人を雇い、全てに給料を支払っていました。

 それが全く。先の仕事が見えなくなったのですから、不安でした。ちょうど今のコロナ騒動と同じような状態が約半年続いたのです。そんな中での自主公演でしたので、本来公演をできる状態ではなかったのです。受賞したことは何倍も嬉しいことでした。

 

 この受賞で私は自分の役割と言うものをうっすらと理解しました。いずれにしても私のやっているマジックは、マスコミに乗りにくい内容です。人それぞれの人生があって、タレントになって知名度を上げる人、ひたすら技を磨いて一芸の名人になる人、稼いで収入を上げる人。いろいろなマジシャンが存在します。どういう生き方が成功なのかは一概には言えないのです。

 私の場合は手妻を発展継承して行って、後世に残して行くことが大きな仕事の柱であると理解しました。理解はしましたが、この先手妻を維持することは簡単ではありませんでした。特に、平成5年にバブルが破綻してからは、頼みの綱のイリュージョンの仕事がパッタリなくなり、チームそのものが維持できなくなり、えらい苦労をすることになります。

 

 話は前後しますが、平成になるとすぐに、ミスターマリックが超魔術で売り出しました。マリックさんのことは良く知っています。スライハンドをさせたらとにかく巧くて、四つ玉でも、鳩でも、ダンシングケーンでも、何でも出来る人でした。

 負けず嫌いな人で、自身が背が低いことに強いコンプレックスを持っていました。その反動で、フラフープのリンキングリングをはしごの上に乗って演じて見せると言うような、変わった演出をしていました。当人は「体が小さくても、舞台を大きく見せることが出来る」。と言っていました。

 とにかくいろいろなことをする人で、胴切りを蒲鉾の板をかぶせないで布を覆っただけで胴を切って見せたり、常に工夫をしていました。今考えると、あらゆるマジックを手掛けて、何とかなりたい一心だったのだと思います。

 若いころからキャバレー出演などしていて活動していたようですが、仕事に恵まれなかったのか、デパートのマジック売り場のディーラーをするようになり、その後はマジックショップを経営していました。舞台はその合間に出ていたようです。

 私はマリックさんとは10代の頃から、何度も合って話をしました、店でも、喫茶店でも、話の内容は、マジックのアイディアの話が多く、自身が見つけてきた新しいアイディアの作品を見せてくれることも多く、勉強熱心な人だと思いました。

 ただ、マジックと言うものを種仕掛けでしか捉えていなくて、マジシャンの持つ魅力とか、話の面白さなどと言うものは話の中から一切出てこない人でした、そうした点、私より4つ年上の人ではありますが、何となく「アマチュアなんだなぁ」。と言う印象は強く感じました。

 舞台でもクロースアップでも、当時のマリックさんの演技は、とにかく、目の前に起こった不思議が全て、と言う人でした。次から次へと不思議を見せること、それがマジックショウだと信じているようでした。私は「それではお客様が疲れてしまう」。マジシャンなら不思議を見せることは当然ですが、「まずお客様に好かれなければどうにもならないだろう」。と思っていました。この辺りが、私とマリックさんの生き方は方向が違う。と思った理由かと思います。

 しかも、この頃のマリックさんは舞台に恵まれていなかったのか、舞台で活躍するマジシャンを目の敵にしていました。喫茶店で話をすると、初めにマジックの種仕掛けの話になり、お終いは日本のマジシャンの悪口になって終わります。独特の岐阜弁で陰気臭く先輩たちを一人一人こき下ろすマリックさんは、私から見たなら病気にしか見えませんでした。人を批判しても自分が一本の仕事が増えるわけでもないのに、なぜこの人は若い物を前に自ら墓穴を掘るようなことをするのだろう。不思議に思いました。

 この時私は、マリックさんは、マジックショップの親父であって、生涯アマチュアの心で生きて行く人で、決してマスコミで大きく売れる人ではないと思っていました。その思いはほぼ確信に近く、アマチュアの行きつく先の人だと思っていました。

 ところが、その私の判断は大きく崩れました。平成になって超魔術師となって突然売れ出したのです。まさに青天の霹靂(へきれき)でした。

続く

 

マジシャンレース 1

マジシャンレース 1

 

 昭和40年代当時、10代末から20代くらいで、実際マジシャンになった人は何人くらいいたでしょうか。日本全体で言うなら100人くらいはいたと思います。

 多くの場合、始めはわずかな伝手(つて)を頼って舞台に出始めます。1年2年と活動してゆくうちに、徐々に仕事の数が減って行き、うまく生活して行けなくなってきます。「生活なんてできなくても自分の夢が実現できるならそれで満足だ」。そう思って続けているとやがて、結婚する、子供が出来る。あるいは病気になるなどして現実に収入がなければどうにもならないところに追い込まれて来ます。

 演劇であれ、歌手であれ、バンドであれ、みんな生きて行かなければならないと言う現実の前に自身の夢が潰えて行きます。

 

 ミュージカルの「ラマンチャの男」。と言う演劇は、中世の騎士道に憧れた近世の貴族が、当時としても既に時代遅れの重たい鉄の鎧(よろい)を着こみ、ロバにまたがり、余り頭のよくない家来を連れて、毎日街を彷徨します。町の住民は誰も相手にしません。「またバカ殿が来た」。と言う目で眺めいます。

 ある日、主人公は敵を発見します。それは人ではなく、町はずれにある風車でした。然し、主人公はそれを敵と妄信します。そして決闘を申し込みます。主人公は長い槍を持ち、正々堂々と敵である風車に突っ込んで行きます。

 結果は大けがをして自分の城に運ばれます。然し、自分自身は大きな敵を前に一つもひるまず戦ったことに満足をしています。然し、主人公の親や家族は主人公を諭します。いくら言われても主人公は考えを改めません。そこである時、家族みんなが鏡を持ってきて、主人公に鏡を見せます。この鏡攻撃は覿面(てきめん)で、主人公はあまりのショックで寝付いてしまいます。

 鏡に映った自分は、美しい古(いにしえ)の若々しい騎士ではなく、醜くやつれて疲労した老人の姿だったのです。

 それからしばらくは城の中で人とも会わずに失意のうちに暮らします。然し、主人公は自身に問い、世間に問います。「自分が騎士道に憧れて何が悪いんだ。勇敢で、敵を尊重し、しかも気高く、誇りを持って生きて行く騎士がなぜいけないのか」。そして、有名な「見果てぬ夢」と言う歌を歌い、やがて息絶えて行きます。

 松本白鴎(前松本幸四郎)さんの当たり役のミュージカルです。私はこの芝居を見るたびに、「マジシャンとは何だろうか」。と自問自答します。

 

 私がマジックを始めたころには、100人くらいの若いマジシャンがいて、それらが実に生き生きとして活動していました。然し、年を追うごとに一人減り二人減り、マジシャンの道を諦めて行きます。ある人は自ら限界を知って辞めて行きます。またある人は、世間に冷遇され、全く舞台のチャンスが無くて辞めざるを得なくなって行きます。又ある人は舞台を諦めて、指導を始めたり、ディーラーとなって活動を始めます。自身が願っていた舞台の出演チャンスは巡って来ず、方向を変えて生きて行きます。

 

 私事で言うなら、スライハンドの技術に限界を感じていた私は、イリュージョンに乗り出します。幸いにバブル景気が始まって、大きなマジックショウは当たりました。いきなり収入に恵まれて、生きて行けるマジシャンになりました。然しこれが生涯かけてやりたかったマジシャンの姿なのかと言うと自信がありません。内心はまだ自分がどうしていいのかわからなかったのです。

 

 そんな中で、仲間が一人二人、キヤキヤとマスコミに出演するようになり、時代を掴んで売れて来ます。そうなるとなおさら自分自身の心は焦ります。何とか売れなければ、何とかチャンスを掴まなければ。と気ばかり焦ります。

 このころ、マギー司郎がテレビのお笑いスター誕生と言う番組に出て、人気が出て来ました。マギーさんとしては、この頃既に30代半ばです。10代20代の若手の登竜門の番組に出て若手と競うなんて言うことは内心恥ずかしかったでしょう。うまく当たればいいが、こけたらもう先がありません。背水の陣で挑んだテレビ出演だったと思います。結果は幸いしてマギーさんはテレビで知名度を獲得します。

 10代の頃から仲間だったマギーさんが売れ出したことは私にとってはショックでした。一緒に新宿のアシベ会館を借りて勉強会をしていた仲間でした。それが売れ出したのですから唖然としました。

 更にそれから二年くらいして、今度はナポレオンズ花王名人劇場に出演するようになり、知名度を上げて来ます。これも私にとっては大ショックです。アシベの仲間だったものがどんどん先を越されてしまいます。

 

 イリュージョンは収入にはなりましたが、どうにも知名度が上がりません。仕事は忙しいのですが、内心はどうにかしなければいけないと悩みまくります。

 しかし、いくら焦ってもどうになるものではありません。同じことをしても成功するわけではありません。人は人、自分は自分です。人と違うことをしなければ成功しないのです。でも、どうやって違う道を見つけなければいけないかが分からないのです。

 誰しもそうでしょうが、20代末から30代と言うのはとにかく苦しい毎日の連続です。私に取っての成功は、「手妻」を見直すことでした。伝統的な日本のマジック、手妻を復活上演したり、改案したり、20代から自主公演をして手妻を演じ続けて来ました。これはイリュージョンの活動をしつつ、同時に行ってきたことです。かなり地味な、目立たない活動をずっと続けてきたことが結果として私の成功につながったのです。昭和63年の公演が評価され文化庁の芸術祭賞受賞につながりました。

 そこから多くの仕事が来るようになり、活動の場が広がりました。私はおよそテレビで活躍するマジシャンではありませんでしたが、それなりの評価を受けて安定した舞台活動が約束されました。この時期になって自分自身が何をしなければならないかが初めて分かり。「これで、マジック界で自分の居場所が出来た」。と、実感しました。

 さらに平成になった途端に、ミスターマリックが出て来ます。その出方がセンセーショナルで、マスコミで大変な人気を獲得しました。マリックさんは昔からよく知っている人です。あの人があんな形で人気を勝ち取るとは予想もしなかったのです。

続く

マインドコントロール

マインドコントロール

 

 統一教会の問題が連日取りざたされています。知らずに見ていると、安易に友人に勧められて、いつの間にか宗教に嵌り、気が付いたら貯金も、不動産も全て神様に捧げて無一文になってしまった人の話が証言として次々に出て来ます。

 知らずに見ているものには「なんであんなことで簡単に宗教を信じてしまうのだろう」。と、不思議でなりませんが、でもそんなことは日常幾らでもあるように思います。心に悩みがあって、人に打ち明けられないような人が、ある時、親切に接してくる人がいて、親身になって相談に乗ってくれると、救われた思いがするのでしょう。

 その上で、日々どう生きるか、どう人と接するか、などと人生の処し方を教えてもらううちにすっかり相手を信じてしまって、身も心も捧げてもいいと思うほどに傾倒して行きます。然しこれは危険なことで、およそ人のすることで100%信じ切ることほど危険なことはありません。

 特に、相手が人を嵌めようと考えているときにはよほどに気を付けないと、すっかり相手の策に嵌ってしまいます。これは詐欺と同じです。詐欺より始末が悪いのは、宗教を振りかざして、神の名のもとに正義でもって金品を奪うことです。

 一度嵌ってしまえばなかなか抜け出せません。教祖の言うことは絶対になります。「そんなことはおかしい、簡単に騙される方が悪い」。と言う人があります。然し、人は簡単に騙されます。

 私の家にはよく物売りの電話がかかって来ます。又訪問販売と言う、押し売りがやって来ます。彼らを撃退することは簡単なことです。「要りません」。とはっきり言えばいいのです。するとあっさりと相手は引き下がります。

 ところが、世の中には断れない人がいます。例えば年寄りの一人住まいであったりすると、誰も尋ねて来る人がなく、日々寂しい思いをしている老人のところに、孫のような若いセールスマンが来ると、ついつい話を聞き、相手が販売に苦労している姿を見ると、孫が苦労しているように錯覚して、老婆心で物を買ってしまいます。

 売り手にすれば読み込み済みのことで、そのために若い不慣れな社員を営業に回らせているのです。売り手も、見るからにセールスの才能があって、雄弁に語って、商品の性能を立て板に水のごとく語るような社員はほとんどいません。そうした人はむしろ成功しないのです。

 如何にも新入社員のような若者で、販売が不慣れで、一向に目の出ないような若者をセールスに歩かせると、案外多くの注文を取って来ます。

 私の死んだ母親なども、日ごろは無駄遣いを一切しないで、つましく生きているのに、時々意味不明な商品が家にあったりします。何かと思うと、セールスのお兄さんが余りに純朴なのでついつい買ってしまったと言います。何でもないことですが、危険信号の始まりです。私は母親とそう遠くないところに暮らしていたので、何かあればすぐに出かけて行けますが、家族と離れて暮らしている年寄りなどはついつい尋ねて来る縁もゆかりもないセールスマンを信じてしまうのです。そこが売り手の狙いなのです。

 セールスマンも、会社で社員教育を受けた時のセリフをそのままに、全く自分で物事を咀嚼しないまま、受け売りを滔々と話します。この人もまた、会社に洗脳されて、製品の絶対を信じて売り歩くのです。

 それが健康器具や、薬なら、すぐに怪しいと気付きますが、一流企業の乗用車や、携帯電話の会社までもが社員を洗脳してセールスをします。必死に売り込む若い社員を見て、私は、「あぁ、気の毒に、マインドコントロールをされているなぁ」。と思いますが、相手は真剣そのものです。

 そうした行為と、統一教会の入信は同じ線上の行為です。特別騙されやすい人たちではなく、自分自身に考えを持たず、それでいて寂しい人たちなのです。年寄りならば、少しばかりの寄付をするくらい何でもないと思っているのです。それが高じて印鑑を買ったり、壺を買ったりするようになります。

 何をして生きて行ったらいいか、どうして人と接したらいいかが不安な人たちが世の中にはたくさんいます。そうした人たちに目的を与えて、それが正しい道だと教えれば、人はいくらでも寄付をするようになります。

 いつしか神の言うことは絶対だと信じるようになり、ある時、神様が、「今度の参議院選挙にはこの人に入れなさい」。と神のお告げを伝えれば、信者は迷うことなく見たこともない候補に一票を投じます。

 政治家にとってはこの票は救いの一票です。毎日街頭演説をしていても、通行人はどれだけ候補者の言葉を聞いてくれているのか、まるで砂に水を撒くような思いで、効果の見えない演説を繰り返しています。そうした活動からするなら、宗教がらみの票は、絶対です。教団が、1万票を差し上げましょう、と言えば確実に1万票入って来ます。その一万票のお陰で、当落すれすれの候補者が当選できるのだとしたなら、まさに宗教は神様そのもです。

 

 しかし、そうであるなら、その政治家にとって、その宗教はまさに救いの神のはずです。そうなら、なぜ宗教との関係を問われて、「自分はあの宗教に入信していない」とか、「私とあの宗教は直接関係ない」。などと言えるのでしょうか。神様に散々世話になって、議員にまでしてもらったなら、知らぬ、関係ないは言えないでしょう。

 「あの神様のお陰で今日自分がある」。となぜ感謝をしないのか。何かをしてもらったなら、礼を言うのは当然ですし、議員にしてもらったなら恩人ではありませんか。その恩人が如何わしい商品を売っていようと、やくざであろうと、恩人は恩人です。

 堂々と感謝を言ってこそ恩に報いるはずです。今になって「統一教会とは知らなかった」。などと言っても誰も信用しません。清濁併せ呑むのが政治なら、濁った部分とうまく付き合うのも政治の手段でしょう。「票も金もくれるいい神様です」。と素直におっしゃい。ごちゃごちゃ言い訳を繰り返すことの方が政治家が小さく見えます。そんな政治家はむしろ誰からも信用されないでしょう。

続く。