手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マインドコントロール

マインドコントロール

 

 統一教会の問題が連日取りざたされています。知らずに見ていると、安易に友人に勧められて、いつの間にか宗教に嵌り、気が付いたら貯金も、不動産も全て神様に捧げて無一文になってしまった人の話が証言として次々に出て来ます。

 知らずに見ているものには「なんであんなことで簡単に宗教を信じてしまうのだろう」。と、不思議でなりませんが、でもそんなことは日常幾らでもあるように思います。心に悩みがあって、人に打ち明けられないような人が、ある時、親切に接してくる人がいて、親身になって相談に乗ってくれると、救われた思いがするのでしょう。

 その上で、日々どう生きるか、どう人と接するか、などと人生の処し方を教えてもらううちにすっかり相手を信じてしまって、身も心も捧げてもいいと思うほどに傾倒して行きます。然しこれは危険なことで、およそ人のすることで100%信じ切ることほど危険なことはありません。

 特に、相手が人を嵌めようと考えているときにはよほどに気を付けないと、すっかり相手の策に嵌ってしまいます。これは詐欺と同じです。詐欺より始末が悪いのは、宗教を振りかざして、神の名のもとに正義でもって金品を奪うことです。

 一度嵌ってしまえばなかなか抜け出せません。教祖の言うことは絶対になります。「そんなことはおかしい、簡単に騙される方が悪い」。と言う人があります。然し、人は簡単に騙されます。

 私の家にはよく物売りの電話がかかって来ます。又訪問販売と言う、押し売りがやって来ます。彼らを撃退することは簡単なことです。「要りません」。とはっきり言えばいいのです。するとあっさりと相手は引き下がります。

 ところが、世の中には断れない人がいます。例えば年寄りの一人住まいであったりすると、誰も尋ねて来る人がなく、日々寂しい思いをしている老人のところに、孫のような若いセールスマンが来ると、ついつい話を聞き、相手が販売に苦労している姿を見ると、孫が苦労しているように錯覚して、老婆心で物を買ってしまいます。

 売り手にすれば読み込み済みのことで、そのために若い不慣れな社員を営業に回らせているのです。売り手も、見るからにセールスの才能があって、雄弁に語って、商品の性能を立て板に水のごとく語るような社員はほとんどいません。そうした人はむしろ成功しないのです。

 如何にも新入社員のような若者で、販売が不慣れで、一向に目の出ないような若者をセールスに歩かせると、案外多くの注文を取って来ます。

 私の死んだ母親なども、日ごろは無駄遣いを一切しないで、つましく生きているのに、時々意味不明な商品が家にあったりします。何かと思うと、セールスのお兄さんが余りに純朴なのでついつい買ってしまったと言います。何でもないことですが、危険信号の始まりです。私は母親とそう遠くないところに暮らしていたので、何かあればすぐに出かけて行けますが、家族と離れて暮らしている年寄りなどはついつい尋ねて来る縁もゆかりもないセールスマンを信じてしまうのです。そこが売り手の狙いなのです。

 セールスマンも、会社で社員教育を受けた時のセリフをそのままに、全く自分で物事を咀嚼しないまま、受け売りを滔々と話します。この人もまた、会社に洗脳されて、製品の絶対を信じて売り歩くのです。

 それが健康器具や、薬なら、すぐに怪しいと気付きますが、一流企業の乗用車や、携帯電話の会社までもが社員を洗脳してセールスをします。必死に売り込む若い社員を見て、私は、「あぁ、気の毒に、マインドコントロールをされているなぁ」。と思いますが、相手は真剣そのものです。

 そうした行為と、統一教会の入信は同じ線上の行為です。特別騙されやすい人たちではなく、自分自身に考えを持たず、それでいて寂しい人たちなのです。年寄りならば、少しばかりの寄付をするくらい何でもないと思っているのです。それが高じて印鑑を買ったり、壺を買ったりするようになります。

 何をして生きて行ったらいいか、どうして人と接したらいいかが不安な人たちが世の中にはたくさんいます。そうした人たちに目的を与えて、それが正しい道だと教えれば、人はいくらでも寄付をするようになります。

 いつしか神の言うことは絶対だと信じるようになり、ある時、神様が、「今度の参議院選挙にはこの人に入れなさい」。と神のお告げを伝えれば、信者は迷うことなく見たこともない候補に一票を投じます。

 政治家にとってはこの票は救いの一票です。毎日街頭演説をしていても、通行人はどれだけ候補者の言葉を聞いてくれているのか、まるで砂に水を撒くような思いで、効果の見えない演説を繰り返しています。そうした活動からするなら、宗教がらみの票は、絶対です。教団が、1万票を差し上げましょう、と言えば確実に1万票入って来ます。その一万票のお陰で、当落すれすれの候補者が当選できるのだとしたなら、まさに宗教は神様そのもです。

 

 しかし、そうであるなら、その政治家にとって、その宗教はまさに救いの神のはずです。そうなら、なぜ宗教との関係を問われて、「自分はあの宗教に入信していない」とか、「私とあの宗教は直接関係ない」。などと言えるのでしょうか。神様に散々世話になって、議員にまでしてもらったなら、知らぬ、関係ないは言えないでしょう。

 「あの神様のお陰で今日自分がある」。となぜ感謝をしないのか。何かをしてもらったなら、礼を言うのは当然ですし、議員にしてもらったなら恩人ではありませんか。その恩人が如何わしい商品を売っていようと、やくざであろうと、恩人は恩人です。

 堂々と感謝を言ってこそ恩に報いるはずです。今になって「統一教会とは知らなかった」。などと言っても誰も信用しません。清濁併せ呑むのが政治なら、濁った部分とうまく付き合うのも政治の手段でしょう。「票も金もくれるいい神様です」。と素直におっしゃい。ごちゃごちゃ言い訳を繰り返すことの方が政治家が小さく見えます。そんな政治家はむしろ誰からも信用されないでしょう。

続く。